リスタート(4)

「うがああああああああ————————っっ!!!」


 猛獣のような雄叫びが、クラブハウスの食堂に木霊する。


「ちょちょ、香苗落ち着いて! 皆んな見てる、野獣が出ちゃってるから!」


 突然立ち上がり、古き悪き頑固オヤジのようにちゃぶ台を返さんばかりの勢いで、香苗が吠えたのも無理はない。


「では今日の反省会をします」


 中央に立つ真賀田コーチは、ホワイトボードに書き込みを始めた。


「前半開始早々——」


 そう言って、番号のふられたマグネットに線が引かれる。それは今日の練習試合で失点した場面の筋だ。隣では宮瀬コーチがその場面の試合映像を出した。


 結果から言うと、0-7。俺たちは格下の三部所属であるチームに大敗をきっしたのだった。


 ちなみにであるが、俺たちが今年戦うのは二部リーグだ。


 俺から見ても、その試合は実に退屈極まりなかった。香苗頼みの単調なプレーの連続。その香苗も不調らしくチームは機能せず。


「最初の失点から守備はバラバラ。立て直す前に失点。そこから立て続け。はっきり言って」


 そう言葉を切った真賀田コーチはすぅと息を吸い込むと、


「うがああああああああ————————っっ!!!」


 同じように吠えたのだった。


「真賀田コーチ、皆んな見てるから。驚きすぎて、尻餅ついちゃってる子もいるから。てか真賀田さん、そう言うキャラなの?」


 真賀田は少し頬を染め、「こほん」と咳払い一つ。


「取り乱しました、すみません。でも流石にこの負けは想定外というか、やられすぎです」


「そう? 俺はこんなもんだと思うけど」


 呟いた時、選手たちの険しい視線が一手に集まった。


「そりゃそうやろな!」声をあげたのは杏奈だった。「ウチら、練習しすぎでボロボロのズタボロで、全然足は動かへんし、なんや監督、試したい子がいるとか言って、言いたかないけど、ユースでもサブに甘んじてた子ばかりつこてたもんな! てかウチがその一人やけど!」


 俺としてはただの練習試合だとの意識が強かった。

 勝ち負けとか正直どうでも良い。生で見なければわからないことも多い。今は何よりも早く現状を把握することが先決だ。


 けれどそれは監督の立場であって、多分俺が選手の立場だったら、同じように欲求不満フラストレーションが爆発していただろう。


「まあ、現在地確認ができてよかったんじゃない? つまり俺たちの実力は三部チームでも下位争いに食い込めばいい方。下手すりゃ、四部かあるいは社会人チームとも勝負になるかどうか微妙なライン。あー多分、弱小公立高校くらいじゃない?」


「さすがにそれはあんまりやろ!? ウチら一応プロやで!? 子供の時から地元じゃぶいぶい言わせた神童サッカー女子やってんで!?」


「過去の栄光は捨てろ。俺たちがいるのは今現在だ。そして0-7。この事実は変わらない」


 監督、と吉村香苗が射抜くような視線を向けてくる。


「どうした香苗?」


「監督が一番偉いってのはわかります。ウチみたいな経営難でユース上がりしかいない弱小チームの監督をやってくれて、感謝もしてます」


「グサリっ——」部屋の隅にいた佐竹マネが胸抑えていた。


 香苗は意思表示を続ける。


「だから今日まで、方針に従ってきました。でも私たちにだってプライドがあります。私たちは十年近く、一緒にやってきた仲間です。こんなもんじゃありません」


 香苗のギラつく目は、闘争心を燃やしたスポーツ選手のそれ。


 彼女は深呼吸をして落ち着けると、長い体を二つに折って頭を下げたのだった。


「お願いします。本当の私たちを一度でいいから見てください」


 どうやら、俺の言い方が悪かったらしい。彼女たちにあまり興味がないと取られたようだ。


 真賀田コーチに視線を向けると、彼女は肩をすくめた。


「よし、いいだろう香苗。次の練習試合は君たちの実力を見せてくれ」


「ありがとうございます」


 顔を上げた香苗の瞳はすでに戦闘態勢だった。彼女は、選手全員を集めてミーティングを始めた。




 夜、事務所で選手のデータとユース時代の試合映像を見返していると、佐竹が「うにゅう」なんて抜けた声をあげて背伸びをした。


「さあ、帰りましょうか」


 そう言ってバッグを持ち上げる佐竹。


 事務所を閉め、俺と佐竹は車に乗った。


 ここ最近——というか佐竹が部屋に転がり込んでからずっと俺と彼女の同棲生活は続いており、車で同伴する日々だった。もちろんチームの誰にも言っていないし、フロント陣も知らない。彼女は毎食、低カロリー高タンパクかつ野菜中心の食事を用意してくれ、さらには身の回りの世話も熱心にやってくれていた。


「ふふ、次の試合楽しみですね」


 佐竹はハンドルを握りながら無邪気に笑みを零す。


「蓋を開けて見ないことにはなんとも」


「あの子たちには、他のチームにないものがあります」


 赤信号で止まった時、佐竹はまっすぐ目を向けた。


「仲間意識か」


 連帯意識とも言い換えられる。


「はい。ずっとユースで一緒だったから、それぞれのことを本当によく知っています。幸いなことに彼女たちの中からチームを去る子はいませんでした。だからあの子たちの連携は素晴らしいと、素人目にも思うんです」


 その中心にいるのは。


「香苗か」


「ええ、彼女は支えとしてこれまでチームを引っ張ってきました。真面目な性格で、責任感が強く、そして何よりも皆を思う気持ちが人一倍強いんです」


 精神的支柱。

 キャプテン。


 その重圧は、外から見るよりも何十倍ものプレッシャーになる。


 俺は一度もキャプテンをしたことがないから本当のところはわからないが、昔、上手いなあと思っていた選手が大胆さを失って、平凡な選手になっていったことを何度か目の当たりにした。


 チームバランス。チーム事情。監督からの指示をいち早く理解し、ポジションやシステムの浸透に寄与しなければならない。それから試合中の選手たちのメンタル部分。あるいは試合以外での人間関係などなど、キャプテンが受信しなければならない情報量は膨大だ。それゆえ目の前の試合自体に集中しきれないこともままある。


 その存在が絶対的であればあるほど、チームはより強い根を張ろうとする。

 しかし逆に、ポッキリと大黒柱が折れてしまった時ほどもろいものはない。


 前だけを向いている時はいい。


 しかしこの世界には往々にして途方もなく越え難き壁が立ちはだかることがある。その時人は必ず後ろを振り返る。自分の歩んできた道が正しかったのかと。


 俺のように。


 選手を逃げ出し、次の道を模索し、俺の歩き始めている道は果たして正解なのだろうかと。


 そんな不安が時々襲いかかる。


「そんな怖い顔されると、襲われるんじゃないかって不安になります」


「そんな顔してた?」


「はい、それはもう。眉間を引っ付けて、『ふへへこの女を食ってやろうか』とか言う声が聞こえてきました」


「全然的外れなんだけど。てゆかそういう風に思うんだったら、危険から去るべきでは?」


 すると佐竹はため息をつく。


「あのね、月見さん。人間は不完全な生き物だと私は思うんです。どんな人でも弱い部分がある。そして必ずしも人は困難に直面し、迷ってしまう生き物です。もっと前に進もうとしたり、逃げ出したりすることに正解不正解はありません。ですが、不安な時こそ誰かを頼って見ることも一つの道だと思うんです」


 佐竹が言わんとすることは漠然ばくぜんとして意図を捉えかねた。


「これは私の想像ですが〝王様〟って孤独だったんだと思います。孤独な王様は自分で何もかもをやろうとして、やがて意固地になっていった。童話とかおとぎ話ではよくある話です。そうして王様はいつしか〝暴君〟と呼ばれるようになっていった。でも私は、そんな話を聞くたびにいつも思うんです。『もしそばに信頼できる優秀な人がいたのなら、暴君は賢君けんくんになっていたんじゃないか』。だから私は、月見さんの右腕になろうと思ったんです。私はサッカーに関して専門的な知識を持ち合わせません。せめて自分にできることをしてあげたいと思ったんです」


「どうしてそこまで……? 俺と佐竹さんは昨日今日会ったような関係だ」


「月見さんはそうかもしれませんが、私はずっと月見さんを見ていました」


 おそらく海外中継でも見ていたのだろう。


「テレビの中の俺は良いところだけを切り取った存在だ。実物の俺は、結構ナイーブ」


「ええ、知ってます。家に帰れば借りてきたような猫みたいにちょこんと部屋の隅にいますもんね」


「いやそれは、絶対に負けられない戦いがあるからなんだけど」


 日に日に佐竹が可愛く見えてしまう。


 とは言えなかった。

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