リスタート(3)
ベッドの上で目覚めた俺は、香ばしい匂いと味噌汁の匂いを嗅ぎ取った。
監督に就任して
尿意を
「佐竹さん!?」
「あら監督、おはようございます」
「ちょっと待ってくれ。ここは俺の部屋だよな?」
契約書にサインした際、佐竹に「こちらで部屋を用意しときます」と、俺は言われるがままにマンションに荷物を運び入れた。そこまではいい。しかしこれは一体どんな魔法だ。
チャリ、とポケットから摘まみ上げられた合鍵。それから廊下に積み上げられていた段ボール箱に目がいく。
「不法侵入だからそれ。つか、ここで暮らす気なのか!?」
ベッドの下にあった寝袋。——昨日ここにいたのか?
「私のことは使用人くらいに思ってください。監督業に集中できるよう、身の回りの世話は全部私にお任せあれ」
「身の安全は保証しない」
すると、ポケットから取り出された細い機械が『身の安全は保証しない』と繰り返した。
ボイスレコーダー。
抜け目がない。
「何か問題でも?」
佐竹は目を丸くして首をかしいでいた。
「問題だらけだ」
「一石二鳥です。経費節減に、月見さんには栄養のあるご飯を作れます。あ、でも家賃は
ちゃんとするところがずれている。
そう思っていると、手早く調理された昼食がテーブルに並べられた。
「ほい、できました」
生理的な本能には抗えず、腹の虫が鳴った。
今回はありがたく頂くとするか。そう思って箸に手をつけると、
「待て。お座り。そしてお手」
無意識に反応した俺は、お手までの流れを従順にこなした。
「よし、餌を食べてよし」
「俺は犬か!?」
「さあ、監督。食べながらチームについて存分に語らいましょう。時間は有限です。今日は寝かせませんよ?」
その日、言葉通り俺は徹夜した。
もちろん、エロはなかった。
日が明けた夕方。
選手たちがクラブハウスから続々出てきて、ウォーミングアップが始められる。
プロ契約した選手たちとはいえ、十代がほとんどの彼女たちの半分は昼間学校に通っている。もう半分が卒業を控えた子たちだ。必然的に、練習量の違いからスタメン候補は決まりつつあった。
クラブの経営状況は乏しく、ゆえにスタッフは少なく、コーチ陣と佐竹を加えた俺たちはコーンを並べて準備に取り掛かっていた。
すると、遅れてやってきたツインテ女子——白鳥杏奈が俺を見つけると一目散にダッシュで飛び込んでくる。
「ていやあ!」
スライディングタックル。
ヒョイとかわす。
「なんで避けるんや!?」
「足を狙うな、反則だ。そしてなぜいきなりスライディング?」
「なんでってそりゃ決まっとるやろ! 練習前にみっちりウェイトやらされて、持久走やらされて、もうへとへとやで!」
ツンと上向いた鼻に、つり目の彼女は見た目通り、勝気で自己主張の激しい性格だ。身長はスポーツ選手として小さいほうだが、その弱点を補うスピードは天性のもの。しかしながら足元の技術は他の子達より一枚落ちる。
「その割には元気だな。まだ走るか?」
「ヒィ!?」杏奈の顔が絶望に
「な訳あるか」
「どっちの意味やねん!? べっぴんを否定されたんか!?」
とはいえこのひと月、ハイペースでウエイトとラントレをやらせていたのは事実だ。
このチームに足りないものは多すぎる。時に若さは武器になることもあるが、絶対的に他チームとの練習時間は少ない。特に基礎体力とフィジカルは途方もない差があった。
「おかげで、うちの一番の武器であるスピードが全然見せられへんやん! へとへとで全然動かれへんねんで! それやからええとこ見せられずに、先週Bチームに落ちてもうたやん! あれか、ウチが関西人やからって差別してんのか!?」
「な訳あるか。悔しかったら良いところを見せれば良い」
しかし杏奈の抱える不満は、何も彼女一人だけではないだろう。
俺は、基礎練習を始めていた選手たちに視線を向けた。皆、足が上がっておらずミスが目立つ。疲労も当然あるだろうが、厳しい練習にモチベーションの方が下がっている。
「顔が下がってる! ルックアップは常に忘れない! 苦しい時は声を掛け合う!」
真賀田コーチが活を入れる。
「ここだけの話やけど、監督はん、すでに陰口叩かれてんで」
へー、と生返事を返す。
「自分が負け組やから、腹いせにウチらを苛めてんのやって。中にはボイコットしたろか言う子もいてんねんで?」
「したけりゃすれば良いさ。本当に限界感じたなら自分の体を優先しろ。それがプロ選手だ」
杏奈は意外そうに目を丸くしていた。
「なんや監督、ただの鬼ちゃうねんな。ちょっとだけ見直したるわ。けど勘違いしーなや。ほんの一ミクロン程度やからな」
「はいはい」
来週には練習試合が始まる。その頃にはペースダウンをしようと考えていたが、彼女たちの体力を考慮して、明日からフィジカルメニューを削ろうと考え直す。
「ただな、杏奈。
「
「そう。なぜその時間に試合が動くかわかるか?」
すると杏奈は腕を組み、考え
「一番苦しい時間だからだ。九十分を走って体が限界に達し、精神的にも『もう終わる』って思ってしまう時間だ。その時間が一番、試合への意識が切れやすい。フルタイムならなおさら。俺は精神論てのが嫌いだけれど、時に精神力がモノを言う時もある」
だから、と俺は言葉を繋いで、
「最初にフィジカルトレーニングで体を空っからにする。それからボール練習をきっちり一二〇分。これがどう言う意図かわかるか?」
あ、と杏奈は思いついたように声をあげた。
「実際の試合時間を想定してやな!」
俺は笑みを零した。
「オフシーズンの期間、フルタイムで戦う習慣を君たちの身に叩き込む。それが俺の狙いだ」
「なんか監督が、すごい監督っぽいこと言うてる!」
いや俺、監督なんだけど。
杏奈は踵を返し、皆の元へ行くと「おーい、みんなみんな聞いてやあ、監督はんがな」と言いながら、俺の言ったことを全部伝えていた。
基礎メニューを終えた選手たちは水分補給を挟み、駆け足でそれぞれコーンを動かし始めた。プロの彼女たちに雑用をさせるのは忍びないが、経営事情はどうしようもない。
「あの監督、ちょっと良いですか?」
背後から声をかけられる。振り返ると佐竹と、フィジカルコーチ兼、ゴールキーパーコーチ兼、アスレチックトレーナー(負傷時の応急手当てや傷害予防担当のトレーナー)を兼任する宮瀬コーチが揃って立っていた。
「どうしたのさ、二人揃って」
宮瀬コーチは線のように細い目をしており、表情は常に朗らかだ。まるで仏のような印象である。
「佐竹さんの提案もあるんですが、せっかくこのチームに現役に近い男子プレイヤーがいるんで、ぜひキーパーの練習に付き合っていただけないかと」
二つ返事しようとした俺は、無意識に膝に視線を落とした。
「ええもちろん、月見監督の調子を一番に考慮したいと思います。聞いた話によれば、月見さんの故障は完治に近いとか。以前在籍していたメディカルスタッフにも確認しました」
宮瀬はちらりと佐竹を一瞥する。どうやら佐竹が連絡をしたようだ。
「腐らせるのは勿体無い足ですよ、月見選手の足は」
宮瀬は穏やかな表情を見せたが、少し開かれた瞼には、キラリと怪しい眼光が輝いた気がした。
そうして俺は、ゴールキーパー練習に参加することになった。
今はただ何も考えず、ただチームのためになればと言う思いで。
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