リスタート(3)

 まぶたの上をじわりと暖かい日差しがかすめる。


 ベッドの上で目覚めた俺は、香ばしい匂いと味噌汁の匂いを嗅ぎ取った。

 監督に就任してはやひと月が過ぎようとしていた。今日はオフの日だ。


 尿意をもよおして、トイレに向かった俺はふとキッチンに立つ佐竹を二度見した。ああ夢か。そんなことを思いながらトイレを済ませ、もう一度ビデオを見直そうかとリビングに向かったところでやっぱり二度見した。


「佐竹さん!?」


「あら監督、おはようございます」


 割烹着かっぽうぎを着た佐竹は、キッチンの中で料理にいそしんでいた。


「ちょっと待ってくれ。ここは俺の部屋だよな?」


 契約書にサインした際、佐竹に「こちらで部屋を用意しときます」と、俺は言われるがままにマンションに荷物を運び入れた。そこまではいい。しかしこれは一体どんな魔法だ。


 チャリ、とポケットから摘まみ上げられた合鍵。それから廊下に積み上げられていた段ボール箱に目がいく。


「不法侵入だからそれ。つか、ここで暮らす気なのか!?」


 ベッドの下にあった寝袋。——昨日ここにいたのか?


「私のことは使用人くらいに思ってください。監督業に集中できるよう、身の回りの世話は全部私にお任せあれ」


「身の安全は保証しない」


 すると、ポケットから取り出された細い機械が『身の安全は保証しない』と繰り返した。


 ボイスレコーダー。


 抜け目がない。


「何か問題でも?」


 佐竹は目を丸くして首をかしいでいた。


「問題だらけだ」


「一石二鳥です。経費節減に、月見さんには栄養のあるご飯を作れます。あ、でも家賃は折半せっぱんでお願いします。そこのところはちゃんとしておきましょう」


 ちゃんとするところがずれている。


 そう思っていると、手早く調理された昼食がテーブルに並べられた。


「ほい、できました」


 生理的な本能には抗えず、腹の虫が鳴った。


 今回はありがたく頂くとするか。そう思って箸に手をつけると、


「待て。お座り。そしてお手」


 無意識に反応した俺は、お手までの流れを従順にこなした。


「よし、餌を食べてよし」


「俺は犬か!?」


「さあ、監督。食べながらチームについて存分に語らいましょう。時間は有限です。今日は寝かせませんよ?」


 その日、言葉通り俺は徹夜した。

 もちろん、エロはなかった。




 日が明けた夕方。

 選手たちがクラブハウスから続々出てきて、ウォーミングアップが始められる。


 プロ契約した選手たちとはいえ、十代がほとんどの彼女たちの半分は昼間学校に通っている。もう半分が卒業を控えた子たちだ。必然的に、練習量の違いからスタメン候補は決まりつつあった。


 クラブの経営状況は乏しく、ゆえにスタッフは少なく、コーチ陣と佐竹を加えた俺たちはコーンを並べて準備に取り掛かっていた。


 すると、遅れてやってきたツインテ女子——白鳥杏奈が俺を見つけると一目散にダッシュで飛び込んでくる。


「ていやあ!」


 スライディングタックル。


 ヒョイとかわす。


「なんで避けるんや!?」


「足を狙うな、反則だ。そしてなぜいきなりスライディング?」


「なんでってそりゃ決まっとるやろ! 練習前にみっちりウェイトやらされて、持久走やらされて、もうへとへとやで!」


 ツンと上向いた鼻に、つり目の彼女は見た目通り、勝気で自己主張の激しい性格だ。身長はスポーツ選手として小さいほうだが、その弱点を補うスピードは天性のもの。しかしながら足元の技術は他の子達より一枚落ちる。


「その割には元気だな。まだ走るか?」


「ヒィ!?」杏奈の顔が絶望にゆがんだ。「鬼! 悪党! この、〝暴君〟め! あれか? 可愛い子にはイタズラしたくなるゆう、お子ちゃまみたいな考えなんか? まあウチらは皆んなべっぴんさん揃いやから仕方あらへんけど」


「な訳あるか」


「どっちの意味やねん!? べっぴんを否定されたんか!?」


 とはいえこのひと月、ハイペースでウエイトとラントレをやらせていたのは事実だ。


 このチームに足りないものは多すぎる。時に若さは武器になることもあるが、絶対的に他チームとの練習時間は少ない。特に基礎体力とフィジカルは途方もない差があった。


「おかげで、うちの一番の武器であるスピードが全然見せられへんやん! へとへとで全然動かれへんねんで! それやからええとこ見せられずに、先週Bチームに落ちてもうたやん! あれか、ウチが関西人やからって差別してんのか!?」


「な訳あるか。悔しかったら良いところを見せれば良い」


 しかし杏奈の抱える不満は、何も彼女一人だけではないだろう。


 俺は、基礎練習を始めていた選手たちに視線を向けた。皆、足が上がっておらずミスが目立つ。疲労も当然あるだろうが、厳しい練習にモチベーションの方が下がっている。


「顔が下がってる! ルックアップは常に忘れない! 苦しい時は声を掛け合う!」


 真賀田コーチが活を入れる。


「ここだけの話やけど、監督はん、すでに陰口叩かれてんで」


 へー、と生返事を返す。


「自分が負け組やから、腹いせにウチらを苛めてんのやって。中にはボイコットしたろか言う子もいてんねんで?」


「したけりゃすれば良いさ。本当に限界感じたなら自分の体を優先しろ。それがプロ選手だ」


 杏奈は意外そうに目を丸くしていた。


「なんや監督、ただの鬼ちゃうねんな。ちょっとだけ見直したるわ。けど勘違いしーなや。ほんの一ミクロン程度やからな」


「はいはい」


 来週には練習試合が始まる。その頃にはペースダウンをしようと考えていたが、彼女たちの体力を考慮して、明日からフィジカルメニューを削ろうと考え直す。


「ただな、杏奈。試合ゲームで一番点が入る時間帯がいつか知ってるか?」


追 加 時 間アディショナルタイムやろ? 何を今更、そんなん常識中の常識や」


「そう。なぜその時間に試合が動くかわかるか?」


 すると杏奈は腕を組み、考えふけった様子だった。


「一番苦しい時間だからだ。九十分を走って体が限界に達し、精神的にも『もう終わる』って思ってしまう時間だ。その時間が一番、試合への意識が切れやすい。フルタイムならなおさら。俺は精神論てのが嫌いだけれど、時に精神力がモノを言う時もある」


 だから、と俺は言葉を繋いで、


「最初にフィジカルトレーニングで体を空っからにする。それからボール練習をきっちり一二〇分。これがどう言う意図かわかるか?」


 あ、と杏奈は思いついたように声をあげた。


「実際の試合時間を想定してやな!」


 俺は笑みを零した。


「オフシーズンの期間、フルタイムで戦う習慣を君たちの身に叩き込む。それが俺の狙いだ」


「なんか監督が、すごい監督っぽいこと言うてる!」


 いや俺、監督なんだけど。


 杏奈は踵を返し、皆の元へ行くと「おーい、みんなみんな聞いてやあ、監督はんがな」と言いながら、俺の言ったことを全部伝えていた。


 基礎メニューを終えた選手たちは水分補給を挟み、駆け足でそれぞれコーンを動かし始めた。プロの彼女たちに雑用をさせるのは忍びないが、経営事情はどうしようもない。


「あの監督、ちょっと良いですか?」


 背後から声をかけられる。振り返ると佐竹と、フィジカルコーチ兼、ゴールキーパーコーチ兼、アスレチックトレーナー(負傷時の応急手当てや傷害予防担当のトレーナー)を兼任する宮瀬コーチが揃って立っていた。


「どうしたのさ、二人揃って」


 宮瀬コーチは線のように細い目をしており、表情は常に朗らかだ。まるで仏のような印象である。


「佐竹さんの提案もあるんですが、せっかくこのチームに現役に近い男子プレイヤーがいるんで、ぜひキーパーの練習に付き合っていただけないかと」


 二つ返事しようとした俺は、無意識に膝に視線を落とした。


「ええもちろん、月見監督の調子を一番に考慮したいと思います。聞いた話によれば、月見さんの故障は完治に近いとか。以前在籍していたメディカルスタッフにも確認しました」


 宮瀬はちらりと佐竹を一瞥する。どうやら佐竹が連絡をしたようだ。


「腐らせるのは勿体無い足ですよ、月見の足は」


 宮瀬は穏やかな表情を見せたが、少し開かれた瞼には、キラリと怪しい眼光が輝いた気がした。


 そうして俺は、ゴールキーパー練習に参加することになった。


 今はただ何も考えず、ただチームのためになればと言う思いで。

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