1章

リスタート(1)

「うげぇぇぇぇ」


 俺は胃の中のムカつきを吐き出した。


 胃液とアルコール交じりの液体を、東京の片隅にぶちける。酒で最高に気分のハイになった俺は「よっしゃ、もう一軒行くか! キャバクラ行っちゃう!? 夜のオウンゴール決めちゃう?」なんてひとりごちる。


 けれど足はふらふら。まるで地面は土砂降り後のコートのように柔らかくなった気がして、千鳥足の俺はゴミ箱に突っ込んだ。


「おい、そこの人、俺が誰だかわかるか? 俺はぁ、あの月見健吾つきみけんごだぁぞぉ? どうだ、すごいだろ?」


 通りを過ぎ行く他人に声をかけた。

 しかし男は迷惑そうに顔をしかめると足早に去って行く。


「いずれ日本に金ピカのさかずきを持ち帰る男なんだ! どうだ参ったか!?」


 アルコールに参って、二度目の吐瀉としゃ。「うげえぇ」


 壁に背を預け、しばし息を整えていると酔いも覚め始めてきた。


「俺は日本代表に選ばれる選手になるはずだったんだ」


 今はただの酔いどれ。


 俺のサッカー人生は一瞬の輝きだけを最後に虚しい結末で幕を閉じた。怪我に泣いて、おめおめと日本に帰ってきた俺は、過去の栄光をもみ消すかのように散財の日々。酒に溺れる日々だった。


 化石と化した膝を抱えて涙ぐむ。


「……チクショウ」


 とはいえ、無残にも裂けてしまった靭帯じんたいは手術で治っていたし、怪我を抱えていないサッカープレイヤーなんてこの世に存在しない。


 怪我から挫折なんてのは、これまたよくある話。


 悲劇でもなんでもない。


 怪我をした後も数試合出場したが、どうにも俺はサッカーの神様から見放されたらしい。以前ほどのは戻らなかった。もっとも、身体を作り直せば動き自体は戻るかもしれなかったが、俺の想像的センスは失せてしまっていた。


 復帰後、ロンドンダービーで見たあの魔法のような時間が訪れることはなかった。


 いや、単純に怖かったのだ。自分より遥かにデカく、狩人のような目をしたサッカー選手達が近づいてくるたびに、俺は縮み上がったのだ。


 ──また膝をやられるかもしれない。


 そんな恐怖が俺の想像力を根こそぎ奪ってしまった。ピッチに立つことに恐怖を覚えた。俺は恐怖から逃げた。


 気分直しにもう一軒行こう。

 記憶が飛ぶほど飲みまくろう。


 そう思って立ち上がろうとしたが、足は言うことを聞かなかった。


 今日はここで眠ろう。何もかもがどうでもいい。


「ダメですよ、こんなところで眠ったら。凍え死にます」


 女性の声がして、俺は顔をあげた。


 若い女性はほほに日の丸をペイントし、サムライブルーのユニフォームを着ていた。細身で、サラサラのストレートヘアに整った顔立ち。慈悲深そうな垂れ目の瞳に、桜色の唇。歳の頃は同じくらいか。


 女性は手を伸ばして、俺を担ぎ上げた。


「お酒くさ! ダメじゃないですか、そんなになるまで飲んだら」


 路地裏で酔っ払いに声をかけるなんて、相当勇気があるか馬鹿としか言いようがなかった。


「それ……」


 俺の視線に気づいた女性はユニフォームを摘み上げ、にこりとした。


「今日、日本代表の試合だったんです。こう見えて私、大のサッカーファンでして」


 サッカーユニフォームを着た人間が、どこからどう見てサッカーファン以外に見えるのだろう。


 さては馬鹿なのか?


「けど、今日の試合は最悪です。なんですかあのやる気のないパス回しは。あの程度なら、ウチの子達を入れた方がまだマシです」


 子持ちなのだろうか。


 すると女性は少し目を伏せて、呟いた。


「最後の場面、〝三日月クレッセントターン〟が炸裂さくれつしていたら、きっと点を取り返せたはずです」


 俺は眉根を寄せた。


 そのターンは、月見健吾の代名詞だった。足裏で背中越しにボールを転がし、逆の足で素早く反転する技は、フィジカルの強い海外選手を翻弄ほんろうするために編み出したもの。三日月のような軌道を描くことからそう名付けられた。


 そして女性は、日本代表に存在するはずもない『二八番』を背負っていた。


「君は一体……?」


 女性は微笑んだ。


「おかえりなさい、月見選手」


 俺は目を開いた。


 日本に帰って、誰からも言われることのなかったその言葉に、胸の奥を抉られるような気にさせられた。俺を知る人物は、誰しも俺の逃亡に哀れみと呆れ顔を見せた。サッカーを辞めた俺に価値はないと示す視線だ。

 しかし彼女は本当に帰りを待っていたかのように優しく微笑んだのだった。


「……俺はもう選手じゃない」


「じゃあ、監督やります?」


「はい?」


「月見選手は現役時代から無口でしたし、コメンテーターや解説ってがらでもないでしょ? それに本当はピッチに戻りたいって思ってるんじゃないですか? だったらやりましょうよ。監督を」


「そんな突然……。しかもやりたいと言ってやらせてくれるもんでも——」


「そんなあなたに、ピッタリなチームがあるんです。実は私、とあるサッカークラブのマネージャー的なこともやっていまして、そこの監督が先日夜逃げをしちゃったんです」


 すると女性はパッと正面に立って、手を合わせながら頭を下げた。


「お願いします、月見さん。私たちを助けてください」


「いや俺、監督とかズブの素人だし」


「大丈夫です。私も素人です」


 それはそれで問題な気も。


 すると女性はりんとした眼差しをまっすぐ向けた。


「私はあなたの見せる魔法の時間をもう一度見たいと思います。選手でなくとも監督で、きっとあなたはもう一度あの素晴らしい世界を見せてくれると私は信じてます。月見さんにやって欲しいんです」


 不意にオットン・ハイマー監督の言葉がよみがえる。


『君も監督になったらわかるさ』


 今日の日本代表戦は俺もこっそりスポーツパブで見ていた。


 本当に退屈でつまらないサッカーをしていた。プログラミング通りの試合運び。それじゃあ読まれて当然だ、と何回も悪態あくたいをついた。


「月見選手の遺伝子を、我がチームにもたらしてください。そして我々が見た夢の続きを、もう一度あなたの手で見せてください」


 その言葉に俺は胸を打たれた。


 サッカー選手も普通の人間だ。深々と頭を下げられたら、協力したいと思う。いや——。俺はサッカー中毒者だ。コートの外に居場所はない。


 戻ることを体が望んでいた。


「後悔するなよ?」


 彼女は爛漫らんまんな笑顔を見せた。


「この契約は、佐竹夏希さたけなつきが起こした最大の奇跡と、のちに言われることでしょう。よろしくお願いします、月見監督」


 そうして俺と佐竹は握手を交わした。


「うげぇぇ——」


「きゃあ!? 嘔吐おうと握手ってほんと月見さんて、意想外ファンタジスタ!」


「契約金には何よりもまず水を……」


 そんな新年の出会い。


 ——この出会いはのちに俺の運命を大きく変えて行くことになる。

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