元天才サッカープレイヤーの俺は監督業始めます。(改稿版)
碧咲瑠璃
第1部
キックオフ
俺は芝生の上に立っていた。
「
ボールが
——ああ、そうか。ここは
自分がコートの中に入ることを許された
俺は
つい先ほど雨が降った影響か。
少しソフトだ。濡れている。こういう時、滑りやすい。
ボールがコートに戻され、青いユニフォームと赤いユニフォームが駆け出した。イレブンに踊らされるように、ボールは目まぐるしく芝生の上を往来した。
俺は流して走りながらディフェンダーの間で回されるボールを追いかけた。
えっと、今日は何月の何週だっけ。確かリーグ終盤戦で、相手はリーグトップチーム。大事な試合だって
ダービーとは同じ地域に本拠地を構えるチーム同士の対決だ。けれど、日本から来た俺に、ロンドンの地にさして思い入れはなかった。
俺は電光掲示板に目を向ける。時計の針は三分の一を過ぎたところだった。それから、スコアボードには『0-3』という無慈悲な数字が刻まれている。俺たちは負けていた。開始十五分ですでに圧倒的な力量さを見せられたのだ。
ボールが奪われるごとにサポーターのため息が漏れ、熱度は冷めていく。
俺の、この試合に対する熱も失せ始めていた。だから、マスコミに叩かれない程度の仕事をこなす。スペースに走り込み、ボールの受け手になって、適当に散らす。
最高に気持ち悪い。
気持ち良い道筋が見えていたのに、一拍遅れたテンポにリズムが狂わされる。
俺はここ数試合、絶好調だった。体は軽く、走っても疲れを感じない。スパイクの感触がほとんど素足のように感じられ、選手たちの動きが手に取るようにわかる。
全員の呼吸や足音、風のベクトルや芝生の感触、何もかもが全身で感じられる。細胞の一つ一つが、次なる一手を教えてくれる。
なのに。
この
体はノッているのに、気持ちが入ってこなかった。
両チームにスコアほどの力差はない。今季、俺を含めて大型補強をしたこのチームには能力の高い選手が揃っていた。それを指揮する監督も、ワールドカップで弱小国をベスト4に導いた名将だ。だがそれだけ。今まではかろうじて個々の能力でやりくりして来たが、連携の悪さは絶望的。リーグ優勝が難しい状況で、選手たちは来年の契約のことにしか頭になかった。
俺が課せられた仕事はシンプルだ。左ウイングの俺は、ボールを押し込むかゴールに近い選手に合わせるか。あとはカウンターをさせないようプレッシング。
その三つ。
イングランドの大味なサッカーは、フィジカルにものを言わせた殴り合いスタイルだ。俺のプレイスタイルが活きない。
「なんでこのチームに来たんだろうな」
もういいや。
そう思った俺は、ベンチに向かい監督に交代指示を
毒気の抜けたような白髪頭に、眠るように細い目をする男は腕を組んだまま俺を見据えた。
「私も同じように思っていた。このティータイムのような
「なら、とっとと代えてくれ」
「君も監督になったらわかるさ。現代サッカーは、労働とプログラミングだということを」
監督が与えた命令に従い、その通りに試合をこなす。
能力のある監督と能力のある選手が揃えば、大抵の試合はそれで勝つ。体が強くて、走れて、ミスをしない選手が望まれる。
「
「なあ、ケンゴ・ツキミ。サッカーはもっと自由であるべきだとは思わないか? かつての名選手たちが残した軌跡は、それはもう美しいものだった。それが見られなくなった今、私はとても悲しいよ」
「何が言いたい?」
するとオットン・ハイマー監督は透き通った青い眼を開いた。
「結局、戦術をより身に染み込ませたチームが強いのだ。今のスコアは我々がシステムの成熟度が低いことを示している。システムで勝てないのならば、勝つ方法はたった一つしかない。そして私がこのチームに全く不釣り合いな君を欲した理由はそこだ」
「……好きにやっていいのか?」
「来年の契約のことなら私が口添えしてやろう」
オットンはニヒルに笑った。彼の意図を察した俺もまた苦笑を
「想像してみろ、このボロ雑巾のように空っからに絞られた試合をひっくり返せば、とても面白いことになる」
俺の中でパチリとスイッチが切り替わる音がした。ほんのり高鳴る心臓。
重い
溢れたボールを拾った。相手
芝を狩り込むスライディングタックル。
タタン、とボールを引っ掛けた。足に吸い付くボールは、数十センチも隙間のない白線上を抜けていく。相手ベンチを尻目に、シフトチェンジ。トップギアで縦を貫いた。
キックフェイント一つ、中に切り返すと見せかけて、ステップを刻む。駒のように反転した俺とボールは、相手ディフェンダーの股下をくぐり、さらにサイドを抉る。置き去りにした彼が尻餅をつくのがわかった。
ゴール前、ディフェンダーと競り合いつつ、
走り込んでいた味方の利き足にピタリ。振り抜かれたボールはキーパーの伸ばした手を超えて、ネットを揺らした。
試合再開後、相手チームは立て直そうと安全策なボール回しを始めたが、中盤で運良くパスカット。右サイドへとロングフィードが送られ、カウンター攻撃。
「な——っ!? ケンゴ、どうしてお前がここに!?」
パスカットから右へのロングボールを読んでいた俺は、逆サイドへ走り込んでいた。
面食らい、
味方
ボールは俺の頭上を越えた。ボールをコントロールする暇はない。
タタッと地面を蹴った俺はゴールを背にして宙を舞う。ボールの中心にミートした瞬間、ネットが揺れる感触がした。その光景通り、ボールの行き先はゴールの中だった。
余裕の面構えだった相手選手たちから焦りの表情が
ため息混じりだったスタジアムが『ケンゴ』コールに湧いた。
ハーフタイムの笛が鳴らされ、ベンチに戻る際、
「なあ、二八番」
俺の背番号が呼ばれ、相手一〇番を振り返る。
「どうやら君は素晴らしい選手のようだ。退屈だったこのゲームに活気を取り戻してくれた」
彼は今日の試合、いずれも得点に絡む相手の中心選手だった。代表歴三回に達する、イングランドが誇る至宝の一〇番。
俺は、彼に憧れてイングランドに来たのだ。
「私がシステムサッカーの進化の頂点に立つならば、君はそれを壊す〝暴君〟と言ったところか。今日のゲームが終わった時、どちらの遺伝子が残るかはっきりとするだろう」
存分にゲームを楽しもう、と彼は言い置いてポジションに戻った。
それから試合はシーソーゲームで展開した。
俺がドリブルで相手ディフェンスをかき乱しゴールを奪うと、相手の一〇番は美しいパスを送って味方に点を取らせた。今度は俺がノールックパスで最高のアシストを演出すると、彼はディフェンスラインの深くから一発で裏を超えるロングボールを放り込んで取り返す。
サッカーの歴史が積み上げて来たディフェンスシステムは、もはや機能をなしておらず——いや、強固な錠前をたった二人の選手がこじ開けたのだった。
俺と彼の意思に、ボールも人も動かされていた。
まるで糸で操られるマリオネットのように。
スタジアムはいつの間にか静まり返っていた。いや、観客の興奮は遠鳴りのように聞こえていたが、集中しきった俺の耳には入らなかった。
久しぶりだった。
サッカーが心から楽しいと思えた瞬間は。
あと何分だろう。この最高の時間はあとどれくらい残されているのだろう。終わりたくない。まだ続けていたい。スコアや勝利よりも、美酒に酔いしれるようなその時間にずっと
しかし終わりは突然襲いかかった。
ブチリッ——。
何かが切れる音がした。
自分がなぜコートの上で倒れているのかしばらく理解できなかった。周囲が騒然として、相手選手が俺に謝っていた。誰か負傷したのか?
ベンチから駆け込む担架が見えた。
早く試合に戻りたい。早く続きをしよう。
そう思って立ち上がろうとした時、自分の悲鳴を聞いた。膝が壊れたことを知った時、魔法の時間は終わり、そして激痛が襲いかかったのだった。
夢のひと時はそこで。
幕を下ろした。
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