episode22 「彩都」
ここは楽園なのか?
日が暮れているのに、街は昼間のように明るい。道の両脇には屋台が隙間なく並び、香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。
食べ物の屋台ばかり。見ているだけでお腹いっぱいになりそうだ。
活気が凄い。大声が、休みなく飛び交う。
調理も客寄せの演出。火柱が鍋から上がり、歓声が沸く。食材を刻んでいるだけなのに、その正確さと速さに人が集まる。
みんな笑っている。
辛いことも悲しいことも、ここでは消し去ってくれる。
ほんの一時であっても。
一軒の屋台に決めて座る。大通りから外れた店。
注文を終えたロズが対面に座った。
「大丈夫?」
問う。
「街の雰囲気に酔いそう」
クラナが言った。
彼女が産まれ育ったルコスも、中心地は賑わっていたが、ここのは種類が違う。なんと言うか、気迫がこもっているような、喧嘩しているような。
心地よさを通り越して、怖いくらい。
それがこの都市の当たり前。
日暮れ前。クラナとロズは、イナハン南部のワトシに着いた。検問は問題なく通過。宿に馬を置いて街に出た。
来る者拒まず。
かといって、治安は悪くない。
警備兵と呼ばれる兵士が、毎日巡回して安全を守っている。
食の都市、ワトシ。
イリリたちの勢力がまだ届いていない都市だ。
大きな深皿に、魚の切り身と野菜の入ったスープ。香辛料の香りが食欲をそそる。小皿にとって、まずはスープから。辛味で少し舌が痺れるが、味は美味しい。
この細長い野菜は何だろう。
ひとつ口に入れてみる。
「あっ」
とロズがひと言。
咀嚼する顎が止まり、一点を見つめたまま動かなくなった。手で口を押さえる。全身が小刻みに震えだす。
「おじさんおじさん、甘い飲み物ちょーだい!」
慌ててロズが注文する。
意識が飛びそうになるクラナの口に、果実の絞り汁を流し込むロズ。
目の焦点が合い、呼吸を始める。
「おかえりー」
ロズが言った。
「な、なんなの。何これ、舌の感覚がないんだけど!」
想像を絶する辛さに、怒りがこみ上げる。
「ごめんごめん。最初に言えばよかったね」
地元の人は笑顔で食べる。
唐辛子、という野菜らしい。
熱くても辛くても、空腹には逆らえない。
額に汗を滲ませながら料理を食べる。慣れてくると、今度は美味しくて止まらなくなる。
癖になる味。
少し落ち着いてきたので、ロズに話しかける。
「で、どうやって二人を見つけるの?」
問うクラナ。
メラスとファウザのことだ。
「あてもなく動いても、疲れるだけ。僕の子供達《《》》に任せておけば大丈夫」
椅子に座り、届かぬ足を揺らすロズ。
宿からこの通りに来る道中、裏路地に入った。ロズが呪文のような短い言葉を、何度か繰り返した。
何処からか、野良の小動物が集まってきた。犬や猫に似た生き物。
「メラスとファウザを探してきて」
ロズが見た二人の顔や姿が、小動物たちの記憶に入る。
それぞれが来た方向に消えた。
ロズの新しい能力。
人や生き物に暗示をかけ、命令に従わせることが出来る。 スレイたちの前に現れた獣も、彼の能力を利用したものだ。
「見つかるまでゆっくり観光でもすればいいよ」
ロズが言った。
目線だけ彼に送り、皿の料理を頬張るクラナ。
不思議な感じ。敵同士だったものが、知らない土地で仲良く座っている。こんな事になると誰が予想しただろうか。
ロズがテーブルに肘をついて、顔を近づけた。
「な、なによ?」
問うクラナ。
「ここにはね、漢方ていう薬があって、なかには精力増進の薬もあるよ」
笑顔で言う。
「精力・・・増進・・・」
「キースと朝まで、そう、朝まで楽しい時間を過ごせるかもよ」
一瞬動きが止まり、遠くを見つめる。何を想像しているかは、表情を見れば分かる。
「へぇー、そ、そうなんだ、へぇー。まあ、それほど興味ないけど、教えたければ教えてくれてもいいけど」
興味津々だ。
分かりやすくて面白い。
食事を終えた後、二人が向かった場所は言うまでもない。
地形を把握していれば、万が一戦闘になった時、『魔瞬動』で移動出来る。
次の日はワトシの都市を歩き回った。
東側は港街。
クラナは海を初めて見た。これが海。これが潮風。舐めると本当にしょっぱい。
日焼けした体格の良い男がたくさんいる。女も同じ。元気で全体的に大きい。
ルコスで世話になったエマ、リノーズの酒場の女。あの種類の女性ばかり。
苦手だ。
目を合わせないように歩くクラナ。
港には大小様々な船が停留していた。
「別にチセンまで行かなくても、ここから海に出れるんじゃない?」
クラナが問う。
「ラズのいる島に行くには、大型船じゃないと無理だね」
ロズが言った。
大型船の造船技術は、チセンが独占している。設備も船大工も同様。
そして、チセンはコルバン、イリリがほとんどの決定権を持っている。
行くしかない。
中心地は昼間もにぎやかだ。
夜と変わらず屋台があるが、料理の種類が違う。すぐに食べれて、調理も簡単なものが多い。衣類や装飾品など、食べ物以外の店もある。
建物は木造が主だ。壁や屋根は原色の派手な色。信仰神を模した装飾絵が、至るところに飾られている。それがいっそう街の雰囲気を鮮やかに演出していた。
中心地を外れた西側は緑豊かな山々が広がる。山頂近くに見える古い建物は、武術の鍛練場で、何百年の歴史あるもの。
メラスとファウザがいるとしたら、おそらくそこだとロズが言った。
ただ、百棟近くあるので、特定するのは困難だ。
日暮れ前。早めに宿に帰る。
クラナは歩き疲れてベッドの上でうとうとしている。ロズは窓枠に座り外を見ている。
顔だけ出して屋根上を見る。
一匹の猫に似た動物が、ロズに近づいてきた。その場に座り、彼と目を合わせる。
動物が見聞きした情報がロズに伝わる。
「そう」
とひと言。
表情は変わらない。
ロズは呪文を唱える。猫似の動物は、何もなかったように走り去った。
ワトシに来て三日目。
検問所近くでキースを待つクラナとロズ。宿の名前と道のりは教えてある。いつ着くかも分からないのに、クラナが待ちきれずここにいる。
日陰にいても汗が滲む。
ロズは身体が人とは違うので、暑さを感じない。紅髪が目立つのでローブを着ている。
人や馬車などの出入りが多く、そのため検問所周辺は広場になっている。混雑はない。
キース到着を知らせる犬似の動物。ほとんど同時にクラナが立ち上がった。
魔法ではない、精神的な心の繋がり。
馬から降りたキースが手を振っている。
抱きつくクラナ。ゆっくりとロズが近づく。
「二人を見つけたよ」
ロズが言った。
方角と場所。多数ある山の鍛練場は、独自の家紋があり、それを説明する。
うなずくキース。
「じゃ、僕はここで」
背中を向けて歩き出す。
ドガイからイナハン。メラスとファウザの所在。キースとクラナが合流するまで。同行の条件は全て済ませた。
ロズは本来の目的のため、キースたちとは別でチセンに向かう。
あっ。
最後にひとつだけ。
振り返るロズ。
「前にさ、君はイリリに敵わないって言ったけど、訂正するよ」
可能性はある。
「ま、僕が倒しちゃうけどね」
また背中を向ける。
「チセンでまた会おう」
キースが言った。
返事はない。
そのまま人混みに消えた。
正直、半分以上信用していなかった。剣を交えた仲だといっても、元は魔法使いたちの仲間だ。警戒するのが当たり前。提示した条件を全て満たしてくれるとは思っていなかった。
驚きだ。
クラナは抱きついたまま。
ローブの中に顔を入れて、全力でキースの体臭を吸い込む。
「そろそろ離れて。動けないよ」
キースが言った。
困っているが、嫌な感じはしない。
こんな時、クラナに調教されていると感じる。
「色々話したいことがある。宿に行かせて」
キースが言った。
ローブの中から顔を出すクラナ。
キース不足が解消して、表情が明るい。
「準備は万全。じゃ、案内する。行こう!」
馬を連れて行こうとする。手綱を引いたが、馬が動かず尻餅をつく。
微笑むキース。
動物とは相性が悪いようだ。
気がつくと、薄暗い路地に独り立っていた。
見覚えがある。
ここは、ドレイド北部の街。
すぐに夢だと理解したが、自分の行動を止められない。さらに奥へと進む。この先に何があるのか知っている。灯りのついた家が見えてきた。壁全体が蔓草で覆われている。
ノックもせず中に入る。正面に老齢の女性が座っていた。お香の煙が充満しているが、懐かしい香りは感じなかった。
「・・・ラマジャ」
彼女の名前を呼ぶ。
「来たか。まぁ、ここにお座り」
正面の椅子を薦められる。
夢だが数年ぶりの再会。彼女の目の前の椅子に座る。
「お前に言い忘れた事があってね」
間が開いた。
「伝えておかないと気持ち悪くてさ。あっち《《》》でゆっくりできやしない」
ドレイドにいた頃、カサロフの封印術を一部解放してしまい、ラマジャを頼った。付加された術が、今度は『死印』に変わった。『死印』は術者の命を贄として発動する強力な拘束術。解放条件は、その術者によって決定される。
「あたしの術の解放が迫っている。お前が成人になった時だ。」
成人は十七才。
『聖地』でプレ・ナに言われたことを思い出す。
「カサロフは、お前の『力』を封印した。だけど完全には抑えられなかった。あたしは、お前の『力』の解放を遅くした。せめて身体が成熟するまで。それが精一杯だった」
テーブルに置いた両手を握るラマジャ。
温もりは感じないが、彼女の想いが伝わってきた。
悲しいような、応援されているような。とても不思議な感覚だ。
「いいかい、キース。あとはお前が何とかするしかない。『力』に正面から向き合い、仲良くするんだ」
大丈夫、お前なら出来る。
ガガルもあたしも、見守っているからね。
ラマジャの優しい笑顔。
黒ずんだ板張りの天井。
境目なく現実に戻った。
ここはイナハン南部、ワトシの宿屋。
記憶ははっきり残っている。やはり夢の出来事だったが、まだ感覚が残っている。
ラマジャが手を握ってくれた。優しい笑顔。温かい感情。
人が死んで、魂が何処に行くのか知らないが、言い残した事を伝えるために、会いに来てくれたのなら嬉しいことだ。
キースはベッドから起き上がろうとして止めた。クラナが抱きついたまま寝ている。夜明けはまだだ。もう少し寝るか。
身体を戻す。
クラナが上に乗ってきた。両手を押さえつけられ、胸元に顔をうずめた。
起きているのか?
多分寝言を言っている。顔を胸につけているので、何を言っているのか分からない。その様子を見て、昨夜の行為を思い出す。
クラナがしたこと。自分の反応。
恥ずかしくなって、身体を横向きにしたいが、クラナに拘束されて動けない。
だんだんお腹の下辺りが熱くなってきた。
もっと恥ずかしくなって、顔が熱くなった。
どうしても行きたい場所があった。
中心地の一角にある小さな店。そこは、身体に刺繍を彫ってくれる店。
キースと同じものを身体に刻みたかった。
二人にしか分からない場所に彫りたかったが、それはつまり、彫り師も見る、ということで、やむなく左肩に決まった。
何千何万という人の身体を彫った男でさえ、キースの美しさに震え、肌に傷をつけることをためらった。
一番怖かったのは、隣りで睨むクラナの殺気。恐怖が命の危険を知らせる。
包帯を巻かれ塗り薬をもらった。数日はこのままで、痛みがひどくなったら薬を塗る。仕上がるまで、何を彫ったかキースには内緒にしている。
彫り師の店から宿に戻り、馬で向かう。山道の勾配は緩やかだが、蛇のようにうねっていた。クラナは馬上で酔ってしまい、気分が悪そうな顔。
馬に乗ったまま通れる木造の門。
ロズに聞いた家紋がある。
少し待ったが、誰も出てこないし、馬を繋げる場所もない。
馬を降りて門をくぐる。
石畳の広い空間。その奥に鮮やかな朱色の建物がある。右手に馬小屋があったので、そこに馬を繋げる。
水筒の水を飲んで、少し顔色が良くなるクラナ。辺りを見回すキース。
人の気配を感じない。かと言って、廃墟とは思われない。石の床も建物も、人の手がないとこれ程の清潔さは保てない。
もう大丈夫。
クラナの合図。
建物に向かって進む。
中央に丸い柱に支えられた、屋根が突き出たところがある。そこが通路になっていて、さらに奥へ進めるようだ。
石の階段を数段登る。通路を越えてさらに階段がある。そこに降りてくる人がひとり。ゆったりした白服。髪の毛は見事なほど綺麗に刈られている。年齢はキースたちと同じくらいだろうか。
二人の前まで来ると、両手を身体の前で合わせて一礼する。
「おはようございます、旅人様」
この国のあいさつの形。
「何か御用でしょうか?」
問う青年。
「私は西のドレイドという国から来たキースといいます。こちらに、メラスとファウザがいると聞いて来ました」
青年の表情が変わった。
「あなたが、キース様・・・」
動揺した自分に気づいて、元の顔に戻す。
「ご案内します」
一礼して振り返る。
青年に合わせてキースとクラナも歩き出す。
朱色の建物を抜けると、屋根のある階段が続いていた。かなり長い。
クラナを見るキース。
「待っていてもいいよ」
首を振る。
「キースの大切な人なんでしょ。ちゃんとあいさつしないと」
無理をしている。分かっているが、クラナの意思を尊重した。
青年と離れたが、クラナに合わせて登る。
街の建物が霞むくらい。ようやく着いたようだ。
かなり古そうな建物。板張りの壁、屋根材の色褪せ具合は歴史を感じさせる。
青年が出入口らしい場所の前に立っていた。
「これより先は、武器、武具の携帯を控えて頂きます」
籠が用意されていた。
素直に従う。
この国のしきたりは分からないが、ここが神聖な場所だと雰囲気で理解している。
履き物を脱いで木造の階段を数段登る。
広い部屋。中央に祭壇。その両側にも小さな祭壇がある。信仰神の像が祀られている。
大陸の南に、人が神として崇められている国がある。同じ信仰神だと思われる。
「主を呼んできますので、ここでお待ち下さい」
一礼して立ち去る青年。
緊張より疲労が勝った。その場に座り込むクラナ。キースに笑顔は向けている。深刻なほどではない様子だ。
辺りを見回すキース。
屋根を支える大きな丸い柱。木材の変色は年月の積み重ね。
全てが浄化されるような空間。
ここでは時間の流れ、大気までもが神聖に感じる。
なのに、この不安な気持ちは何だろう。
あの青年の反応。
それを見た時、すでに理解してしまった。でも、どうしても否定したい思いが、彼女を不安にさせていた。
右手の通路から老齢の男が現れた。佇まい、服装から、先程の青年とは明らかに身分が違う。
中央の祭壇を背に、床に座る。正座と呼ばれる座りかた。
老人はあいさつをして名を名乗る。キースの様子を感じ取り、両手を合わせて一礼する。
「私が知っている限りの事をお話します」
そう言って、老人はゆっくり話し始めた。
七年前、海を渡って難破したこと。主のアーマンは行方不明、生き残ったのはメラスとファウザのみ。
コガのユジンという医師に助けられ回復。彼の力も借りて、アーマンを捜索。
イリリとロズ登場。ユジン一家、門下生全滅。帰宅した二人が追いかけるが、返り討ちに合い、負傷。
ワトシのこの地で療養して、再戦のため鍛練を続ける。
「三年前でした」
老人が言った。
「今までの傷が原因なのか、心労なのか、定かではありません。いつもの時間に起きていこられないので、下の者が見に行きましたら、ファウザ様が亡くなられておりました」
ファウザを見つめるメラス。
突然過ぎて、現実を受け入れられない。
それでも、強い精神力で立ち直り、鍛練を再会。コガにいる同士達と、チセン侵攻の計画を練っていた。
その矢先だった。
ファウザが死んでひと月。
後を追うように、メラスも死んだ。
クラナは驚き過ぎて言葉が出ない。
キースにとって家族も同然の存在。再会出来るのが当たり前だと思っていた。
突然死なんて・・・
老人が隅に控えている少年に合図する。少年は足早に近寄って、老人の前に二つの陶器を置く。
「こちらの宗教の習わしに従い、ご遺体は火葬して魂を聖なる地へ導きました」
骨壺がふたつ。
向かって右の壷がメラス、左がファウザ。
キースは歩み寄り、壷の前でゆっくりと座った。感情が欠落した表情。
「十数年ぶりの再会です。積もる話もあるでしょう。部屋を用意しますので、今日はこちらにお泊まり下さい」
一礼して立ち上がる。
老人と少年は広間から静かに去った。
キースの横に座るクラナ。言葉をかけたいが、何も出てこない。
震えている。
キースも気持ちの整理が出来ていない。
クラナは何も言わず優しく抱きしめた。
二日経った。
キースは部屋に籠ったままだが、今日は少しだけ食事に手をつけた。
気持ちは落ち着いているが、感情の制御が定まらず、急に泣き出したり、無表情で外を眺めたりしていた。
受け入れるしかない。分かっている。どうにもならない。何かできたかもしれない。
自問自答を繰り返す。
ここには五十人近くの人がいた。『僧侶』という役職に就くため、日々修行に励んでいる。夜明けから日没まで、休む間もなく働いている。
その過程で、心身を鍛えるために武術の訓練もしていた。剣術、棒術、体術など。特に体術は、技や型が豊富だった。
最初に会った青年の横で、武術の訓練を見ているクラナ。
「・・・はぁ~」
何度もため息ばかり。
キースのことが気になっている。
クラナを見て苦笑する青年。
「キース様なら大丈夫です」
断言した。
「あの方の強さは並みではありません。少し時間はかかるかもしれませんが、必ず元気になられますよ」
出会った瞬間、彼はキースの強さを感じ取っていた。
「クラナ様も分かっていらっしゃるはず。今は待つしかありません」
泣きそうになる。
先日の甘い夜が遠い昔の事に感じる。
修行者たちの活気あふれた武術訓練。力のこもったかけ声。機敏な動き。剣の交わる金属音。
正門前の石畳の広場。
ただ呆然と彼らを眺めるクラナ。視界の隅に入っても、すぐに気づかなかった。
「クラナ様」
青年の呼び掛け。
そこにキースが立っていた。
クラナは立ち上がり、走る。何度もこけそうになるが、踏みとどまる。
人がいてもお構い無し。クラナはキースに抱きついた。
・・・十三年前。
北の地、リノーズ。
コンサリはプレ・ナのなかでも特別だった。本来プレ・ナやそれに近い体質の者は、魔法、魔力に特化した分、肉体は脆く、大陸のような魔力濃度の低い地域では、短命であったり、身体に障害が出たりする。
数百年ぶりに魔法樹から生まれたコンサリは、精神を人と共有できる能力と、『聖地』外でも平気な身体を持っていた。
ただし、リノーズより南へは行けない。
何故か?
そして、精神を共有できる相手はカサロフだけ。
何故カサロフなのか?
案内人の仕事を終えて、久々に帰宅したヴァサンたち。 ジバは今日も元気だ。まだ走り足らなそうに鳴いている。
トロエは早速荷物の片付けを始める。
ヴァサンは・・・
彼はジバを巧みに操って、家の周りを走り回っている。
笑っている。
楽しそうだ。
しかも、誰かと二人で乗っている。
緑色の髪の美しい女性。
彼女は走り回るジバの上で立ち上がり飛び降りた。
「あ、こら!」
ジバを止めるヴァサン。
「危ないだろ」
怒る彼に笑顔で振り返る女。
「だって、ヴァサンが意地悪するから」
この世にこんな美しい女性がいるだろうか。
大きな瞳。形の良い鼻梁。程よい肉付きの唇。全ての部品が美しい。
彼女の笑顔は旅の疲れを吹き飛ばす。
「村の人たちにあいさつしてくるね」
手を振って走り出す。
「おい、コンサリ。夕方までには帰ってこいよ」
ヴァサンが言った。
多分聞いていない。
リノーズで彼女は人気者だ。村人が簡単には帰さない。
ジバを操り家に戻る。
「トロエ、後でコンサリを迎えに行ってくれ」
ヴァサンが言った。
嘆息するトロエ。
「自分で行けばいいじゃないですか」
「村の者に会いたくない。よろしく頼む」
片付けを始めるヴァサン。
苦笑するトロエ。
本心は少し違う。
村人に会いたくないのではなく、村人と仲良く話すコンサリを見たくないだけ。
嫉妬だ。
ヴァサンは昔からコンサリのことが好きだった。加えて、独占欲が強い。
旅の戦士、アーマンの子供を産んでも、コンサリの態度は以前と変わらず。ヴァサンといる時のほうが楽しそうなのに、何故アーマンを選んだのか。
いまだに疑問だ。
「しかし、いいんですか、またコンサリさんを連れ出して」
作業しながら トロエが言う。
特別な体質とはいえ、彼女はプレ・ナだ。何度も『聖地』から出て良いとは思えない。
「俺が連れ出したわけじゃない。コンサリが行きたいと言うから、連れてきた」
間違ってはいないが・・・
一年に数回。『聖地』への案内の仕事がある。その度に壁の通路からコンサリが現れて、リノーズに連れて行く。
次の案内の時に『聖地』に帰る。
カサロフがアーマンの従者として村を出てからは、数年この繰り返しだ。
それまでは精神だけ入れ替わって、カサロフの姿をしたコンサリが村に来ていた。
本人が来るのは、年一回程度。
この仕事が辛いわけではないが、コンサリと一緒にいると、心も身体も癒される。
無口で無愛想なヴァサンも、彼女といると明るい。
こんな生活が永遠に続けばいいのに。
トロエはいつも思う。
コンサリの居場所は分かっている。
トロエは酒場のドアを開けた。
村中の男たちが集まっていると思うくらい、酒場は満席だった。中心にいるのはもちろんコンサリ。みんな彼女に酒を注いで欲しくて。
みんな、彼女と話をしたくて。
「コンサリちゃんに注いでもらうと、酒が格段に美味いなぁ」
「コンサリちゃん、俺も注いでくれよ」
「バカ野郎、俺が先だぞ!」
取り合いだ。
「なんだい、なんだい」
厨房から酒場の女将が出てきた。
「いい大人が鼻の下伸ばして。コンサリには旦那がいるんだよ!」
酒の入った大きな水差しをテーブルに置く。
片手に空のジョッキを持ったまま、コンサリに抱きつく。
「女同士なら関係ないだろ」
ジョッキを差し出す。
女将もコンサリが目当てだ。
笑うコンサリ。
彼女の笑顔を見て、みんなが笑う。
トロエも笑ってしまう。
トロエに気づいて、手を振るコンサリ。
それだけで幸せな気持ちになる。
結局、いつもこんな時間になる。
男たちは酔い潰れ、女将の抱擁と熱いキスを受けてから酒場を出る。
「また怒られるな」
トロエの独り言。
「一緒に謝るから、大丈夫だよ」
前を歩くコンサリ。
星明かりでも輝いて見える。
前から聞きたいことがあった。今なら聞いてもいいかと思った。
「コンサリさんは、ヴァサンのこと、どう思ってます?」
振り返って微笑むコンサリ。
いつもと違う笑みだ。
聞くべきじゃなかった。すぐに後悔する。
「大好きだよ」
コンサリが言った。
一緒にいると、落ち着く。
友達の『好き』じゃない。
「じゃあ、何であの剣士なんですか?」
命を助けてもらったから?
四、五年前、魔法使いがやって来て、コンサリを連れ去ろうとした。その時、偶然居合わせたアーマンが、魔法使いを倒して阻止した。
ヴァサンは止められなかった。
「私は、自分の気持ちより、この世界の未来を優先した。それだけだよ」
「世界の・・・未来?」
よく分からない。
目の前にコンサリがいた。
慌てて立ち止まる。
「好きってこと、ヴァサンには内緒だからね」
そんな顔で見つめないで欲しい。
動揺を必死で隠し、うなずくトロエ。
笑顔を残してまた歩き出すコンサリ。
彼女には未来の事が分かるのだろうか。プレ・ナならば、人と違う能力があっても不思議じゃないが・・・
一時の感情で選んだのではない。
それだけは分かった。
トロエは村に買い出しに行っていた。
外にはコンサリしかいないはず。彼女が誰かと話をしていた。
村の者がここに来た?
あり得ないが、コンサリ目当てなら可能性はある。
追い払うか。
ヴァサンは家の扉を開けた。
「こんにちは」
そこには死んだはずの魔法使いがいた。
「お前・・・何で?」
魔法使いは笑った。
「僕は魔法使いだからね。そう簡単には死なないよ」
目線は外さず、壁にかけた剣を取る。
「僕を殺した剣士は遠くに いるようだから。コンサリを連れて行くなら今だなと思って、迎えに来たよ」
ヴァサンはコンサリの前に立つ。鞘を投げ捨て剣を構える。
「家に入っていろ」
ヴァサンが言った。
「駄目だよ、危ないよ」
コンサリがヴァサンの服を掴む。
二度目の対峙。
前回は全く歯が立たず、死にかけた。
同じ魔法使いなら敵わない。
「君も懲りないね」
笑う魔法使い。
片手を上げた。
・・・今だ!!
消えるヴァサン。
魔法使いの背後にいた。
剣を振り抜いたが感触がない。
すぐに消える。
右手側。
腕を狙ったが、やはり剣が身体をすり抜ける。
コンサリの前に現れる。
「その技は前に見たからね。もう効かないよ」
ヴァサンを指差す。
身体が動かなくなった。
魔法使いは、見慣れない刺繍の入った服の懐から、何かを取り出した。手のひらぐらいの大きさの紙の板。絵札のようなもの。
強い魔力を感じる。
「じゃあ、コンサリ。一緒に来てもらおうか」
呪文を唱え始める。
声が小さくて聞き取れないが、大陸の魔法ではない。
「ヴァサン、大丈夫? ・・・ねえ、ヴァサン?」
呼び掛けるが返事がない。
ヴァサンは 身体が動かないし、声も出せなかった。
魔法使いは、絵札を顔の前に掲げた。
「我の
コンサリ。
名前を呼んだ瞬間、何かが通り過ぎて行った気がした。
後ろで音がする。
振り返れないが、コンサリが倒れたのだと感じる。
「よし、成功だ」
魔法使いが言った。
「用事は済んだから失礼するよ」
あ、そうそう。
と、ヴァサンを見る。
「君にお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
すぐ目の前まで来ているのに、何も出来ない。
どうすれば、動ける?
思考をめぐらせるヴァサン。
「コンサリの中身《《》》を抜き取ったから、そこの身体を『聖地』まで運んでくれないかなぁ」
中身を抜き取った?
こいつは何を言っている。
「僕の予想だと、数日で肉体が腐ってしまうと思う。万が一のために、身体は残しておきたいからさ」
じゃ、頼んだよ。
魔法使いの身体が段々かすんできた。最後は黒い煙となり、やがて不自然に消えた。
呪縛が解けた。
振り返ると、コンサリが倒れていた。
剣を捨てて抱き抱える。
名前を呼ぶが反応がない。
気を失っているのか。いや、違う。何か違う。魔法使いが言ったように、身体の中身が無くなっているのかもしれない。
このままでは危険だと直感した。
トロエが帰宅すると、ヴァサンが旅の準備をしていた。
「どうしました、ヴァサン?」
返事がない。
様子がおかしい。
厚手の毛布に巻かれた荷物は何だろう。
コンサリだ!
驚くトロエ。
「これは、一体・・・?」
大股で近づいて、掴みかかるヴァサン。
「詳しい話は後だ。これからコンサリを『聖地』に連れて行く!」
息が出来ないほど襟首を絞められる。
「今からだと、西寄りの道が安全だ。俺は何とか三日で行く。ジバが駄目になるだろうから、後から来てくれ!」
咳き込んでいるうちに、ヴァサンは走り去っていた。
「三日、だって?!」
そんなの無理だ。
でも、ヴァサンが行くと決めたら、行くかもしれない。
状況は分からないが、コンサリに何かあったのは確かだ。
トロエは急いで準備を始めた。
・・・数年後。
ヴァサンは薪割りを止めない。殴りかかりたい気持ちを斧にぶつける。
連れている二人は従者か。あいつも弟子を持つようになったのか。
全身真っ黒な武装の三人。
アーマンと従者のメラスとファウザ。
トロエが近づいてきた。
「アーマンさん達が『聖地』まで案内して欲しいそうですが・・・」
トロエ同様、アーマンたちもヴァサンの様子を伺う。
「断る」
ひと言。
ああ、やっぱり。
トロエがそういう顔をしている。
「久しぶりだな、ヴァサン」
アーマンが言った。
この世で一番会いたくない男。
「コンサリが世話になったようだ。ありがとう。すまなかったな」
淡々と薪を割り続けるヴァサン。
「あの魔法使いの痕跡を辿りながら旅をしているのだが、カサロフの体調が悪くてな。ここで療養させようと思って立ち寄った」
海を渡ることになるかもしれない。しばらく大陸に戻れないかもしれないから、コンサリに会っておこうかと思っている。
「案内してくれないか?」
ヴァサンの手が止まった。
「子供はどうした?」
問う。
「長旅は大変だし、危険も多い。師匠に預けてきた」
確か、子供は五歳ぐらいか。
置いてきたのか。
「そうか・・・」
アーマンのほうを向く。
「もう一度言う。案内は断る」
メラスとファウザがやって来る。
「お前が行っても何も変わらん。そんな暇があったら、さっさと取り返してこい」
「貴様、なんという・・・」
アーマンに止められるメラス。
沈黙。
ヴァサンは、また薪割りを始めた。
アーマンは、彼をじっと見つめ、顔を伏せた。
「確かに、お前の言う通りだ。彼女に会いにいったところで、何も解決しない。気休め、ただの自己満足だ」
アーマンは一礼する。
「カサロフのこと、よろしく頼む」
振り返って歩き出す。
「アーマン様、我々だけで『聖地』に行けば・・・?」
「駄目だ。案内人の経験と知識がないと、絶対に辿り着けない」
「では、もう一人の男だけでも連れて行けばよいのでは?」
「案内人は二人でひと組。ひとりだけでは無理だ」
必死に食いつく従者。
アーマンはどんどん村の中心部へ向かう。
「いいんですか、帰らせてしまって」
トロエも作業の続きを始める。
「あの男は、何も分かっていない」
ささやくような声。
「コンサリの気持ちを、何も分かっていない」
ヴァサンを見る。
目に涙を浮かべていた。
慌てて横を向き、見てない振りをする。
ジバはよく頑張ってくれた。
運良く嵐にもノマにも会わなかった。不眠不休で三日。目の前には頂上の見えないロカの壁がある。
コンサリを降ろすのと、ジバが倒れるのとが、ほとんど同時だった。大事な仲間に酷いことをしてしまった。すまない。本当に申し訳ない。
ゆっくり休んでくれ。
今はそれしか言えない。
自分の身体すら支えられない足で、コンサリを抱えながら、壁にゆっくり近づく。
疲労と睡魔。
震える腕に力を込めて、静かに置く。
巻き付けた紐をほどく。毛布がはだけた。
眠っているようにしか見えない。結構無茶をしたが、大丈夫、どこも傷ついていない。
問題はここからだ。
ヴァサンは『聖地』の中には入れない。呼びかけて、プレ・ナに訴える方法も知らない。
後は任せるしかない。
立っている力も残っていない。コンサリの横に倒れる。
彼女をじっと見つめながら、俺も駄目かもしれないな、などと考える。
ジバの負担を少しでも減らすために、夜営の道具や食料も、全て捨ててきた。
懐に干し肉が少しあるだけ。
ああ、駄目だ。
眠くて眠くて仕方がない。
このまま寝れば凍死だ。
お願いだ。
俺の命はくれてやる。
だが、コンサリは助けてくれ。きっとあの男が取り返す。帰ってきて身体が無いなんて可哀想だ。
それに、子供がいるんだ。
見たことはないが、きっとコンサリに似た可愛い子供だ。母親の愛情がまだまだ必要な小さい子。
知らない土地で、迎えに来るのを待っている。
頼む。
俺の命だけでは足りないかもしれないが、とにかくコンサリを助けて欲しい。
コンサリの顔を見ながら、だんだん意識が遠くなる。
何も見えない。
何も聞こえない。
誰かの手が頬に触れた。とても温かい。体温だけでない、もっと大事な温かさ。
ありがとう、ヴァサン。
誰かの声が聞こえる。
カサロフを頼みます。
この声は知っている。
あの子も、私の子どもを助けてあげて。
俺にそんな力はない。
それに、俺はもう駄目だ。
大丈夫、私が守るから。
彼女が身体に寄り添った感覚。
また意識が遠くなった。
誰かに呼ばれた。
何が起きている。俺は、何故呼ばれている?
目を開けると、そこにはトロエがいた。
「聞こえますか、ヴァサン!」
泣きそうな顔をしている。
起き上がろうとするが、身体に力が入らない。
「お、俺は・・・どうなって・・・?」
口がうまく動かない。
「信じられない。こんな状態で何日も経っているのに」
トロエが必死に話しかける。
・・・そうか、俺はコンサリを助けるために、『聖地』に向かったのか。
トロエはすぐに俺の後を追って、来てくれたのか。・・・七日。あれから七日経っているのか。よく七日でここまで来れたな。
俺は、三日で壁まで来た。それから四日。
四日もここで寝ていたのか?
俺は、何故生きている?
薄曇りの空を見ながら、何故かコンサリの笑顔が浮かんだ。
三人目までは、勢い盛んに立ち上がり、対戦意欲をむき出しにしていた。
女だから遠慮しているのではないか。そう思う者もいた。
四人、五人、あいつまで。
強者たちが倒されて、ようやく目の前の事実を受け入れる。
石畳の広場にキースが立っている。刀を持たず、武具も着けていない。着物のような生地の民族衣装のみ。
間隔を開けて、円を描くように控えるのは、ここの修行者たち。あの青年が呼びかけるが、なかなか挑む者が一歩前に出ない。
彼が試合を始める前に言った。
彼女に勝てる者は、ここにはひとりもいない。
鼻で笑う者がいたが、今は誰ひとり笑っていない。
嘆息する。
「仕方ない。では、私が挑戦する」
ざわつく。
青年の実力は、ここにいる誰もが認めている。彼なら打ち負かすことが出来るのではないか。そう思った。
彼は棒を手に取った。
キースと対面する。
「よろしくお願いします」
一礼する青年。
腰を落として棒を低く構える。
キースは両手を自然に下げた状態。ある程度の実力がある者なら分かる。
ただ立っているようで、全く隙がない。どの角度から攻撃しても、棒が当たる気がしない。
「参ります」
青年が言った。
自分を鼓舞するための言葉。
片足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり突き出す。
身体を横に向けてかわす。
棒を引く。頭上で回転、足を狙う。後ろに下がり届かない。
素手で戦う間合いでなない。
キースが踏み出す。
消えた。
とっさに棒を前に出す。
下から蹴り上げられた。勢いを殺しつつ、足を踏ん張る。
振り下ろす。
キースは背中を向けたまま横移動。棒が激しく石床を叩く。
一気に引いて突く。
片手をついて後転。また距離を取った。
青年は軸足に力を込めて、滑るように前に飛ぶ。
二回、三回、後転が止まった時が狙い目だ。
棒を横に振る。
キースがいない。
両足が床に付くくらいの、見事な開脚。そこから腕の力で身体を持ち上げる。
逆立ちからの蹴り。
青年は横向きに転がった。
同じ足さばき。キースも床を滑るように飛ぶ。
助走を加えた蹴り。
棒で防いだが、勢いは止められない。足が浮く程の衝撃。
キースが迫っているのが見えたが、何も出来なかった。彼女の拳が胸元に触れる。
軽く押しただけ。
青年は吹き飛んだ。
周りにいる修行者がいるところまで飛ばされる。受け止めた数人の者まで倒れる。
おおぉ。
どよめきが起こる。
彼でも敵わないのか。
青年は棒を石床に置き正座する。
「参りました」
一礼。
キースが片手を差し出す。
青年がその手を握り立ち上がる。
「私もまだ修行が足りないようです」
微笑む。
「もしよろしければ、剣術の型を披露して欲しいのですが、いかがでしょうか?」
問う青年。
彼は、キースが毎朝行っている鍛練を知っていた。
クラナに目をやるキース。
そこに二本の刀がある。サバサンから借りている脇差しだ。
クラナは嫌な顔をしたが、刀を持ってやって来た。
「言っとくけど、感動して泣いちゃうからね」
不機嫌そうに言って去っていく。
キースに男たちの視線が集まっている。それが気に入らないだけ。
「この刀は、あまり慣れていないのだけど・・・」
腰帯に刀を収める。
何だろう。帯刀しただけなのに、その立ち姿に見惚れてしまう。
右腰の鞘を持ち、ゆっくり抜刀する。横に縦に、軽く振る。
鞘に戻す。
今度は左腰の刀。同じく数回振る。
キースは左右どちらの腕でも刀の扱いに差がない。
鞘に戻す。
目を閉じて深呼吸。
頬に当たる風。
気のせいか、キースに向かって風が吹いているようだ。
両手を身体の前で交差して柄を掴む。
開眼と同時に抜刀。
風なのか殺気なのか。
正面に立っていた修行者が数人尻餅をついた。
見えない敵を斬る。
刀を振るたびに身体がのけ反ってしまう。
なんという剣圧。
なんという美しさ。
舞いを踊っているかのような優雅さと、仮想の敵を確実に捉える剣速。
キースから目が離せない。
あの刀に斬られてみたい。勝手に踏み出る足を慌てて止める。
頬を伝う涙。自分の感情が制御出来ない。
刀身が少し短い分、扱いが軽やかだ。指を器用に動かして、逆手に持って振る。
これが彼女本来の実力。
何年修行しても、到達できない領域。
誰もがそう思った。
右手の刀で突き。暫く静止。
大きく息を吐いて、ゆっくりと刀を鞘に収める。
終わったようだ。
「こんな大勢の前だと、ちょっと恥ずかしい」
照れくさそうに笑う。
心臓を鷲掴みにされたような痛み。
剣士として素晴らしい。その感動を超えるもの。
女性として可愛らしく美しい。
あの笑顔は罪だ。
クラナが走る。
キースの前に立って、修行者たちを睨みつける。
「あげないからね。変な想像しても駄目だからね」
苦笑する修行者たち。
彼女がいる限り、キースには近づけないようだ。
祭壇のある広間。
主とキース、クラナがいる。広間の隅には青年が控えている。
「明日の朝、ここを出ます。お世話になりました」
キースが言った。
破顔する主。
「元気になられて良かった。世の中、悲しい事ばかりではありません。きっとお二人が、あなた様を良い方向へ導いてくれるでしょう」
「ありがとうございます」
一礼するキース。
「骨壺と遺品はどうされますか?」
問う。
「故郷に持ち帰りたいと思っています。ですが、私はイナハンで、まだやらなければならない事があります。それが終わるまで、預かってくれませんか?」
うなずく主。
「御安い御用です。あなた様が来られるまで、大切に保管しておきます」
一礼するキースとクラナ。
「やはりチセンに行かれるのですか?」
「はい」
揺るぎ無い強い意思を感じる。
あの二人と同じもの。
主は懐から、綺麗に折り畳んだ書紙を取り出した。
「コガの街には、ユジンの意思を受け継いだ者たちがおります。彼らに、私からの手紙だと伝えれば力になってくれるでしょう」
知らない土地で、敵を警戒しながら行動するのは難だと思っていた。
「ありがとうございます。助かります」
キースが言った。
彼女の笑顔を見て、主も笑った。
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