episode22 「彩都」

 ここは楽園なのか?

 日が暮れているのに、街は昼間のように明るい。道の両脇には屋台が隙間なく並び、香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。

 食べ物の屋台ばかり。見ているだけでお腹いっぱいになりそうだ。

 活気が凄い。大声が、休みなく飛び交う。

 調理も客寄せの演出。火柱が鍋から上がり、歓声が沸く。食材を刻んでいるだけなのに、その正確さと速さに人が集まる。

 みんな笑っている。

 辛いことも悲しいことも、ここでは消し去ってくれる。

 ほんの一時であっても。


 一軒の屋台に決めて座る。大通りから外れた店。

 注文を終えたロズが対面に座った。

「大丈夫?」

 問う。

「街の雰囲気に酔いそう」

 クラナが言った。

 彼女が産まれ育ったルコスも、中心地は賑わっていたが、ここのは種類が違う。なんと言うか、気迫がこもっているような、喧嘩しているような。

 心地よさを通り越して、怖いくらい。

 それがこの都市の当たり前。


 日暮れ前。クラナとロズは、イナハン南部のワトシに着いた。検問は問題なく通過。宿に馬を置いて街に出た。

 来る者拒まず。

 かといって、治安は悪くない。

 警備兵と呼ばれる兵士が、毎日巡回して安全を守っている。

 食の都市、ワトシ。

 イリリたちの勢力がまだ届いていない都市だ。


 大きな深皿に、魚の切り身と野菜の入ったスープ。香辛料の香りが食欲をそそる。小皿にとって、まずはスープから。辛味で少し舌が痺れるが、味は美味しい。

 この細長い野菜は何だろう。

 ひとつ口に入れてみる。

「あっ」

 とロズがひと言。

 咀嚼する顎が止まり、一点を見つめたまま動かなくなった。手で口を押さえる。全身が小刻みに震えだす。

「おじさんおじさん、甘い飲み物ちょーだい!」

 慌ててロズが注文する。

 意識が飛びそうになるクラナの口に、果実の絞り汁を流し込むロズ。

 目の焦点が合い、呼吸を始める。

「おかえりー」

 ロズが言った。

「な、なんなの。何これ、舌の感覚がないんだけど!」

 想像を絶する辛さに、怒りがこみ上げる。

「ごめんごめん。最初に言えばよかったね」

 地元の人は笑顔で食べる。

 唐辛子、という野菜らしい。

 熱くても辛くても、空腹には逆らえない。

 額に汗を滲ませながら料理を食べる。慣れてくると、今度は美味しくて止まらなくなる。

 癖になる味。


 少し落ち着いてきたので、ロズに話しかける。

「で、どうやって二人を見つけるの?」

 問うクラナ。

 メラスとファウザのことだ。

「あてもなく動いても、疲れるだけ。僕の子供達《《》》に任せておけば大丈夫」

 椅子に座り、届かぬ足を揺らすロズ。


 宿からこの通りに来る道中、裏路地に入った。ロズが呪文のような短い言葉を、何度か繰り返した。

 何処からか、野良の小動物が集まってきた。犬や猫に似た生き物。

「メラスとファウザを探してきて」

 ロズが見た二人の顔や姿が、小動物たちの記憶に入る。

 それぞれが来た方向に消えた。

 ロズの新しい能力。

 人や生き物に暗示をかけ、命令に従わせることが出来る。 スレイたちの前に現れた獣も、彼の能力を利用したものだ。


「見つかるまでゆっくり観光でもすればいいよ」

 ロズが言った。

 目線だけ彼に送り、皿の料理を頬張るクラナ。

 不思議な感じ。敵同士だったものが、知らない土地で仲良く座っている。こんな事になると誰が予想しただろうか。

 ロズがテーブルに肘をついて、顔を近づけた。

「な、なによ?」

 問うクラナ。

「ここにはね、漢方ていう薬があって、なかには精力増進の薬もあるよ」

 笑顔で言う。

「精力・・・増進・・・」

「キースと朝まで、そう、朝まで楽しい時間を過ごせるかもよ」

 一瞬動きが止まり、遠くを見つめる。何を想像しているかは、表情を見れば分かる。

「へぇー、そ、そうなんだ、へぇー。まあ、それほど興味ないけど、教えたければ教えてくれてもいいけど」

 興味津々だ。

 分かりやすくて面白い。

 食事を終えた後、二人が向かった場所は言うまでもない。


 地形を把握していれば、万が一戦闘になった時、『魔瞬動』で移動出来る。

 次の日はワトシの都市を歩き回った。

 東側は港街。

 クラナは海を初めて見た。これが海。これが潮風。舐めると本当にしょっぱい。

 日焼けした体格の良い男がたくさんいる。女も同じ。元気で全体的に大きい。

 ルコスで世話になったエマ、リノーズの酒場の女。あの種類の女性ばかり。

 苦手だ。

 目を合わせないように歩くクラナ。

 港には大小様々な船が停留していた。

「別にチセンまで行かなくても、ここから海に出れるんじゃない?」

 クラナが問う。

「ラズのいる島に行くには、大型船じゃないと無理だね」 

 ロズが言った。

 大型船の造船技術は、チセンが独占している。設備も船大工も同様。

 そして、チセンはコルバン、イリリがほとんどの決定権を持っている。

 行くしかない。


 中心地は昼間もにぎやかだ。

 夜と変わらず屋台があるが、料理の種類が違う。すぐに食べれて、調理も簡単なものが多い。衣類や装飾品など、食べ物以外の店もある。

 建物は木造が主だ。壁や屋根は原色の派手な色。信仰神を模した装飾絵が、至るところに飾られている。それがいっそう街の雰囲気を鮮やかに演出していた。

 中心地を外れた西側は緑豊かな山々が広がる。山頂近くに見える古い建物は、武術の鍛練場で、何百年の歴史あるもの。

 メラスとファウザがいるとしたら、おそらくそこだとロズが言った。

 ただ、百棟近くあるので、特定するのは困難だ。


 日暮れ前。早めに宿に帰る。

 クラナは歩き疲れてベッドの上でうとうとしている。ロズは窓枠に座り外を見ている。

 顔だけ出して屋根上を見る。

 一匹の猫に似た動物が、ロズに近づいてきた。その場に座り、彼と目を合わせる。

 動物が見聞きした情報がロズに伝わる。

「そう」

 とひと言。

 表情は変わらない。

 ロズは呪文を唱える。猫似の動物は、何もなかったように走り去った。


 ワトシに来て三日目。

 検問所近くでキースを待つクラナとロズ。宿の名前と道のりは教えてある。いつ着くかも分からないのに、クラナが待ちきれずここにいる。

 日陰にいても汗が滲む。

 ロズは身体が人とは違うので、暑さを感じない。紅髪が目立つのでローブを着ている。

 人や馬車などの出入りが多く、そのため検問所周辺は広場になっている。混雑はない。

 キース到着を知らせる犬似の動物。ほとんど同時にクラナが立ち上がった。

 魔法ではない、精神的な心の繋がり。

 馬から降りたキースが手を振っている。

 抱きつくクラナ。ゆっくりとロズが近づく。

「二人を見つけたよ」

 ロズが言った。

 方角と場所。多数ある山の鍛練場は、独自の家紋があり、それを説明する。

 うなずくキース。

「じゃ、僕はここで」

 背中を向けて歩き出す。

 ドガイからイナハン。メラスとファウザの所在。キースとクラナが合流するまで。同行の条件は全て済ませた。

 ロズは本来の目的のため、キースたちとは別でチセンに向かう。

 あっ。

 最後にひとつだけ。

 振り返るロズ。

「前にさ、君はイリリに敵わないって言ったけど、訂正するよ」


 可能性はある。


「ま、僕が倒しちゃうけどね」

 また背中を向ける。

「チセンでまた会おう」

 キースが言った。

 返事はない。

 そのまま人混みに消えた。

 正直、半分以上信用していなかった。剣を交えた仲だといっても、元は魔法使いたちの仲間だ。警戒するのが当たり前。提示した条件を全て満たしてくれるとは思っていなかった。

 驚きだ。


 クラナは抱きついたまま。

 ローブの中に顔を入れて、全力でキースの体臭を吸い込む。

「そろそろ離れて。動けないよ」

 キースが言った。

 困っているが、嫌な感じはしない。

 こんな時、クラナに調教されていると感じる。

「色々話したいことがある。宿に行かせて」

 キースが言った。

 ローブの中から顔を出すクラナ。

 キース不足が解消して、表情が明るい。

「準備は万全。じゃ、案内する。行こう!」

 馬を連れて行こうとする。手綱を引いたが、馬が動かず尻餅をつく。

 微笑むキース。

 動物とは相性が悪いようだ。



 気がつくと、薄暗い路地に独り立っていた。

 見覚えがある。

 ここは、ドレイド北部の街。

 すぐに夢だと理解したが、自分の行動を止められない。さらに奥へと進む。この先に何があるのか知っている。灯りのついた家が見えてきた。壁全体が蔓草で覆われている。

 ノックもせず中に入る。正面に老齢の女性が座っていた。お香の煙が充満しているが、懐かしい香りは感じなかった。

「・・・ラマジャ」

 彼女の名前を呼ぶ。

「来たか。まぁ、ここにお座り」

 正面の椅子を薦められる。

 夢だが数年ぶりの再会。彼女の目の前の椅子に座る。

「お前に言い忘れた事があってね」

 間が開いた。

「伝えておかないと気持ち悪くてさ。あっち《《》》でゆっくりできやしない」


 ドレイドにいた頃、カサロフの封印術を一部解放してしまい、ラマジャを頼った。付加された術が、今度は『死印』に変わった。『死印』は術者の命を贄として発動する強力な拘束術。解放条件は、その術者によって決定される。


「あたしの術の解放が迫っている。お前が成人になった時だ。」

 成人は十七才。

『聖地』でプレ・ナに言われたことを思い出す。

「カサロフは、お前の『力』を封印した。だけど完全には抑えられなかった。あたしは、お前の『力』の解放を遅くした。せめて身体が成熟するまで。それが精一杯だった」

 テーブルに置いた両手を握るラマジャ。

 温もりは感じないが、彼女の想いが伝わってきた。

 悲しいような、応援されているような。とても不思議な感覚だ。

「いいかい、キース。あとはお前が何とかするしかない。『力』に正面から向き合い、仲良くするんだ」


 大丈夫、お前なら出来る。

 ガガルもあたしも、見守っているからね。


 ラマジャの優しい笑顔。

 黒ずんだ板張りの天井。

 境目なく現実に戻った。

 ここはイナハン南部、ワトシの宿屋。

 記憶ははっきり残っている。やはり夢の出来事だったが、まだ感覚が残っている。


 ラマジャが手を握ってくれた。優しい笑顔。温かい感情。


 人が死んで、魂が何処に行くのか知らないが、言い残した事を伝えるために、会いに来てくれたのなら嬉しいことだ。

 キースはベッドから起き上がろうとして止めた。クラナが抱きついたまま寝ている。夜明けはまだだ。もう少し寝るか。

 身体を戻す。

 クラナが上に乗ってきた。両手を押さえつけられ、胸元に顔をうずめた。

 起きているのか?

 多分寝言を言っている。顔を胸につけているので、何を言っているのか分からない。その様子を見て、昨夜の行為を思い出す。

 クラナがしたこと。自分の反応。

 恥ずかしくなって、身体を横向きにしたいが、クラナに拘束されて動けない。

 だんだんお腹の下辺りが熱くなってきた。

 もっと恥ずかしくなって、顔が熱くなった。


 どうしても行きたい場所があった。

 中心地の一角にある小さな店。そこは、身体に刺繍を彫ってくれる店。

 キースと同じものを身体に刻みたかった。

 二人にしか分からない場所に彫りたかったが、それはつまり、彫り師も見る、ということで、やむなく左肩に決まった。

 何千何万という人の身体を彫った男でさえ、キースの美しさに震え、肌に傷をつけることをためらった。

 一番怖かったのは、隣りで睨むクラナの殺気。恐怖が命の危険を知らせる。

 包帯を巻かれ塗り薬をもらった。数日はこのままで、痛みがひどくなったら薬を塗る。仕上がるまで、何を彫ったかキースには内緒にしている。


 彫り師の店から宿に戻り、馬で向かう。山道の勾配は緩やかだが、蛇のようにうねっていた。クラナは馬上で酔ってしまい、気分が悪そうな顔。

 馬に乗ったまま通れる木造の門。

 ロズに聞いた家紋がある。

 少し待ったが、誰も出てこないし、馬を繋げる場所もない。

 馬を降りて門をくぐる。

 石畳の広い空間。その奥に鮮やかな朱色の建物がある。右手に馬小屋があったので、そこに馬を繋げる。

 水筒の水を飲んで、少し顔色が良くなるクラナ。辺りを見回すキース。

 人の気配を感じない。かと言って、廃墟とは思われない。石の床も建物も、人の手がないとこれ程の清潔さは保てない。

 もう大丈夫。

 クラナの合図。

 建物に向かって進む。

 中央に丸い柱に支えられた、屋根が突き出たところがある。そこが通路になっていて、さらに奥へ進めるようだ。

 石の階段を数段登る。通路を越えてさらに階段がある。そこに降りてくる人がひとり。ゆったりした白服。髪の毛は見事なほど綺麗に刈られている。年齢はキースたちと同じくらいだろうか。

 二人の前まで来ると、両手を身体の前で合わせて一礼する。

「おはようございます、旅人様」

 この国のあいさつの形。

「何か御用でしょうか?」

 問う青年。

「私は西のドレイドという国から来たキースといいます。こちらに、メラスとファウザがいると聞いて来ました」

 青年の表情が変わった。

「あなたが、キース様・・・」

 動揺した自分に気づいて、元の顔に戻す。

「ご案内します」

 一礼して振り返る。

 青年に合わせてキースとクラナも歩き出す。

 朱色の建物を抜けると、屋根のある階段が続いていた。かなり長い。

 クラナを見るキース。

「待っていてもいいよ」

 首を振る。

「キースの大切な人なんでしょ。ちゃんとあいさつしないと」

 無理をしている。分かっているが、クラナの意思を尊重した。

 青年と離れたが、クラナに合わせて登る。


 街の建物が霞むくらい。ようやく着いたようだ。

 かなり古そうな建物。板張りの壁、屋根材の色褪せ具合は歴史を感じさせる。

 青年が出入口らしい場所の前に立っていた。

「これより先は、武器、武具の携帯を控えて頂きます」

 籠が用意されていた。

 素直に従う。

 この国のしきたりは分からないが、ここが神聖な場所だと雰囲気で理解している。

 履き物を脱いで木造の階段を数段登る。

 広い部屋。中央に祭壇。その両側にも小さな祭壇がある。信仰神の像が祀られている。

 大陸の南に、人が神として崇められている国がある。同じ信仰神だと思われる。

「主を呼んできますので、ここでお待ち下さい」

 一礼して立ち去る青年。

 緊張より疲労が勝った。その場に座り込むクラナ。キースに笑顔は向けている。深刻なほどではない様子だ。

 辺りを見回すキース。

 屋根を支える大きな丸い柱。木材の変色は年月の積み重ね。

 全てが浄化されるような空間。

 ここでは時間の流れ、大気までもが神聖に感じる。

 なのに、この不安な気持ちは何だろう。

 あの青年の反応。

 それを見た時、すでに理解してしまった。でも、どうしても否定したい思いが、彼女を不安にさせていた。


 右手の通路から老齢の男が現れた。佇まい、服装から、先程の青年とは明らかに身分が違う。

 中央の祭壇を背に、床に座る。正座と呼ばれる座りかた。

 老人はあいさつをして名を名乗る。キースの様子を感じ取り、両手を合わせて一礼する。

「私が知っている限りの事をお話します」

 そう言って、老人はゆっくり話し始めた。


 七年前、海を渡って難破したこと。主のアーマンは行方不明、生き残ったのはメラスとファウザのみ。


 コガのユジンという医師に助けられ回復。彼の力も借りて、アーマンを捜索。


 イリリとロズ登場。ユジン一家、門下生全滅。帰宅した二人が追いかけるが、返り討ちに合い、負傷。

 

 ワトシのこの地で療養して、再戦のため鍛練を続ける。


「三年前でした」

 老人が言った。

「今までの傷が原因なのか、心労なのか、定かではありません。いつもの時間に起きていこられないので、下の者が見に行きましたら、ファウザ様が亡くなられておりました」

 ファウザを見つめるメラス。

 突然過ぎて、現実を受け入れられない。

 それでも、強い精神力で立ち直り、鍛練を再会。コガにいる同士達と、チセン侵攻の計画を練っていた。

 その矢先だった。

 ファウザが死んでひと月。

 後を追うように、メラスも死んだ。

 クラナは驚き過ぎて言葉が出ない。

 キースにとって家族も同然の存在。再会出来るのが当たり前だと思っていた。

 突然死なんて・・・

 老人が隅に控えている少年に合図する。少年は足早に近寄って、老人の前に二つの陶器を置く。

「こちらの宗教の習わしに従い、ご遺体は火葬して魂を聖なる地へ導きました」

 骨壺がふたつ。

 向かって右の壷がメラス、左がファウザ。

 キースは歩み寄り、壷の前でゆっくりと座った。感情が欠落した表情。

「十数年ぶりの再会です。積もる話もあるでしょう。部屋を用意しますので、今日はこちらにお泊まり下さい」

 一礼して立ち上がる。

 老人と少年は広間から静かに去った。

 キースの横に座るクラナ。言葉をかけたいが、何も出てこない。

 震えている。

 キースも気持ちの整理が出来ていない。

 クラナは何も言わず優しく抱きしめた。



 二日経った。

 キースは部屋に籠ったままだが、今日は少しだけ食事に手をつけた。

 気持ちは落ち着いているが、感情の制御が定まらず、急に泣き出したり、無表情で外を眺めたりしていた。


 受け入れるしかない。分かっている。どうにもならない。何かできたかもしれない。


 自問自答を繰り返す。


 ここには五十人近くの人がいた。『僧侶』という役職に就くため、日々修行に励んでいる。夜明けから日没まで、休む間もなく働いている。

 その過程で、心身を鍛えるために武術の訓練もしていた。剣術、棒術、体術など。特に体術は、技や型が豊富だった。


 最初に会った青年の横で、武術の訓練を見ているクラナ。

「・・・はぁ~」

 何度もため息ばかり。

 キースのことが気になっている。

 クラナを見て苦笑する青年。

「キース様なら大丈夫です」

 断言した。

「あの方の強さは並みではありません。少し時間はかかるかもしれませんが、必ず元気になられますよ」

 出会った瞬間、彼はキースの強さを感じ取っていた。

「クラナ様も分かっていらっしゃるはず。今は待つしかありません」

 泣きそうになる。

 先日の甘い夜が遠い昔の事に感じる。


 修行者たちの活気あふれた武術訓練。力のこもったかけ声。機敏な動き。剣の交わる金属音。

 正門前の石畳の広場。

 ただ呆然と彼らを眺めるクラナ。視界の隅に入っても、すぐに気づかなかった。

「クラナ様」

 青年の呼び掛け。

 そこにキースが立っていた。

 クラナは立ち上がり、走る。何度もこけそうになるが、踏みとどまる。

 人がいてもお構い無し。クラナはキースに抱きついた。




 ・・・十三年前。

 北の地、リノーズ。


 コンサリはプレ・ナのなかでも特別だった。本来プレ・ナやそれに近い体質の者は、魔法、魔力に特化した分、肉体は脆く、大陸のような魔力濃度の低い地域では、短命であったり、身体に障害が出たりする。

 数百年ぶりに魔法樹から生まれたコンサリは、精神を人と共有できる能力と、『聖地』外でも平気な身体を持っていた。

 ただし、リノーズより南へは行けない。

 何故か?

 そして、精神を共有できる相手はカサロフだけ。

 何故カサロフなのか?



 案内人の仕事を終えて、久々に帰宅したヴァサンたち。 ジバは今日も元気だ。まだ走り足らなそうに鳴いている。

 トロエは早速荷物の片付けを始める。

 ヴァサンは・・・

 彼はジバを巧みに操って、家の周りを走り回っている。

 笑っている。

 楽しそうだ。

 しかも、誰かと二人で乗っている。

 緑色の髪の美しい女性。

 彼女は走り回るジバの上で立ち上がり飛び降りた。

「あ、こら!」

 ジバを止めるヴァサン。

「危ないだろ」

 怒る彼に笑顔で振り返る女。

「だって、ヴァサンが意地悪するから」

 この世にこんな美しい女性がいるだろうか。

 大きな瞳。形の良い鼻梁。程よい肉付きの唇。全ての部品が美しい。

 彼女の笑顔は旅の疲れを吹き飛ばす。

「村の人たちにあいさつしてくるね」

 手を振って走り出す。

「おい、コンサリ。夕方までには帰ってこいよ」

 ヴァサンが言った。

 多分聞いていない。

 リノーズで彼女は人気者だ。村人が簡単には帰さない。

 ジバを操り家に戻る。

「トロエ、後でコンサリを迎えに行ってくれ」

 ヴァサンが言った。

 嘆息するトロエ。

「自分で行けばいいじゃないですか」

「村の者に会いたくない。よろしく頼む」

 片付けを始めるヴァサン。

 苦笑するトロエ。

 本心は少し違う。

 村人に会いたくないのではなく、村人と仲良く話すコンサリを見たくないだけ。

 嫉妬だ。

 ヴァサンは昔からコンサリのことが好きだった。加えて、独占欲が強い。

 旅の戦士、アーマンの子供を産んでも、コンサリの態度は以前と変わらず。ヴァサンといる時のほうが楽しそうなのに、何故アーマンを選んだのか。

 いまだに疑問だ。


「しかし、いいんですか、またコンサリさんを連れ出して」

 作業しながら トロエが言う。

 特別な体質とはいえ、彼女はプレ・ナだ。何度も『聖地』から出て良いとは思えない。

「俺が連れ出したわけじゃない。コンサリが行きたいと言うから、連れてきた」

 間違ってはいないが・・・

 一年に数回。『聖地』への案内の仕事がある。その度に壁の通路からコンサリが現れて、リノーズに連れて行く。

 次の案内の時に『聖地』に帰る。


 カサロフがアーマンの従者として村を出てからは、数年この繰り返しだ。

 それまでは精神だけ入れ替わって、カサロフの姿をしたコンサリが村に来ていた。

 本人が来るのは、年一回程度。


 この仕事が辛いわけではないが、コンサリと一緒にいると、心も身体も癒される。

 無口で無愛想なヴァサンも、彼女といると明るい。

 こんな生活が永遠に続けばいいのに。

 トロエはいつも思う。


 コンサリの居場所は分かっている。

 トロエは酒場のドアを開けた。

 村中の男たちが集まっていると思うくらい、酒場は満席だった。中心にいるのはもちろんコンサリ。みんな彼女に酒を注いで欲しくて。

 みんな、彼女と話をしたくて。

「コンサリちゃんに注いでもらうと、酒が格段に美味いなぁ」

「コンサリちゃん、俺も注いでくれよ」

「バカ野郎、俺が先だぞ!」

 取り合いだ。

「なんだい、なんだい」

 厨房から酒場の女将が出てきた。

「いい大人が鼻の下伸ばして。コンサリには旦那がいるんだよ!」

 酒の入った大きな水差しをテーブルに置く。

 片手に空のジョッキを持ったまま、コンサリに抱きつく。

「女同士なら関係ないだろ」

 ジョッキを差し出す。

 女将もコンサリが目当てだ。

 笑うコンサリ。

 彼女の笑顔を見て、みんなが笑う。

 トロエも笑ってしまう。

 トロエに気づいて、手を振るコンサリ。

 それだけで幸せな気持ちになる。


 結局、いつもこんな時間になる。

 男たちは酔い潰れ、女将の抱擁と熱いキスを受けてから酒場を出る。

「また怒られるな」

 トロエの独り言。

「一緒に謝るから、大丈夫だよ」

 前を歩くコンサリ。

 星明かりでも輝いて見える。

 前から聞きたいことがあった。今なら聞いてもいいかと思った。

「コンサリさんは、ヴァサンのこと、どう思ってます?」

 振り返って微笑むコンサリ。

 いつもと違う笑みだ。

 聞くべきじゃなかった。すぐに後悔する。

「大好きだよ」

 コンサリが言った。


 一緒にいると、落ち着く。


 友達の『好き』じゃない。

「じゃあ、何であの剣士なんですか?」


 命を助けてもらったから?


 四、五年前、魔法使いがやって来て、コンサリを連れ去ろうとした。その時、偶然居合わせたアーマンが、魔法使いを倒して阻止した。

 ヴァサンは止められなかった。


「私は、自分の気持ちより、この世界の未来を優先した。それだけだよ」

「世界の・・・未来?」

 よく分からない。

 目の前にコンサリがいた。

 慌てて立ち止まる。

「好きってこと、ヴァサンには内緒だからね」

 そんな顔で見つめないで欲しい。

 動揺を必死で隠し、うなずくトロエ。

 笑顔を残してまた歩き出すコンサリ。

 彼女には未来の事が分かるのだろうか。プレ・ナならば、人と違う能力があっても不思議じゃないが・・・

 一時の感情で選んだのではない。

 それだけは分かった。



 トロエは村に買い出しに行っていた。

 外にはコンサリしかいないはず。彼女が誰かと話をしていた。

 村の者がここに来た?

 あり得ないが、コンサリ目当てなら可能性はある。

 追い払うか。

 ヴァサンは家の扉を開けた。


「こんにちは」

 そこには死んだはずの魔法使いがいた。

「お前・・・何で?」

 魔法使いは笑った。

「僕は魔法使いだからね。そう簡単には死なないよ」

 目線は外さず、壁にかけた剣を取る。

「僕を殺した剣士は遠くに いるようだから。コンサリを連れて行くなら今だなと思って、迎えに来たよ」

 ヴァサンはコンサリの前に立つ。鞘を投げ捨て剣を構える。

「家に入っていろ」

 ヴァサンが言った。

「駄目だよ、危ないよ」

 コンサリがヴァサンの服を掴む。

 二度目の対峙。

 前回は全く歯が立たず、死にかけた。

 同じ魔法使いなら敵わない。

「君も懲りないね」

 笑う魔法使い。

 片手を上げた。

 ・・・今だ!!

 消えるヴァサン。

 魔法使いの背後にいた。

 剣を振り抜いたが感触がない。

 すぐに消える。

 右手側。

 腕を狙ったが、やはり剣が身体をすり抜ける。

 コンサリの前に現れる。

「その技は前に見たからね。もう効かないよ」

 ヴァサンを指差す。

 身体が動かなくなった。

 魔法使いは、見慣れない刺繍の入った服の懐から、何かを取り出した。手のひらぐらいの大きさの紙の板。絵札のようなもの。

 強い魔力を感じる。

「じゃあ、コンサリ。一緒に来てもらおうか」

 呪文を唱え始める。

 声が小さくて聞き取れないが、大陸の魔法ではない。

「ヴァサン、大丈夫? ・・・ねえ、ヴァサン?」

 呼び掛けるが返事がない。

 ヴァサンは 身体が動かないし、声も出せなかった。

 魔法使いは、絵札を顔の前に掲げた。

「我のめいに従い、かの者を封じよ」


 コンサリ。


 名前を呼んだ瞬間、何かが通り過ぎて行った気がした。

 後ろで音がする。

 振り返れないが、コンサリが倒れたのだと感じる。

「よし、成功だ」

 魔法使いが言った。

「用事は済んだから失礼するよ」

 あ、そうそう。

 と、ヴァサンを見る。

「君にお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」

 すぐ目の前まで来ているのに、何も出来ない。

 どうすれば、動ける?

 思考をめぐらせるヴァサン。

「コンサリの中身《《》》を抜き取ったから、そこの身体を『聖地』まで運んでくれないかなぁ」

 中身を抜き取った?

 こいつは何を言っている。

「僕の予想だと、数日で肉体が腐ってしまうと思う。万が一のために、身体は残しておきたいからさ」


 じゃ、頼んだよ。


 魔法使いの身体が段々かすんできた。最後は黒い煙となり、やがて不自然に消えた。

 呪縛が解けた。

 振り返ると、コンサリが倒れていた。

 剣を捨てて抱き抱える。

 名前を呼ぶが反応がない。

 気を失っているのか。いや、違う。何か違う。魔法使いが言ったように、身体の中身が無くなっているのかもしれない。

 このままでは危険だと直感した。


 トロエが帰宅すると、ヴァサンが旅の準備をしていた。

「どうしました、ヴァサン?」

 返事がない。

 様子がおかしい。

 厚手の毛布に巻かれた荷物は何だろう。


 コンサリだ!


 驚くトロエ。

「これは、一体・・・?」

 大股で近づいて、掴みかかるヴァサン。

「詳しい話は後だ。これからコンサリを『聖地』に連れて行く!」

 息が出来ないほど襟首を絞められる。

「今からだと、西寄りの道が安全だ。俺は何とか三日で行く。ジバが駄目になるだろうから、後から来てくれ!」

 咳き込んでいるうちに、ヴァサンは走り去っていた。

「三日、だって?!」

 そんなの無理だ。

 でも、ヴァサンが行くと決めたら、行くかもしれない。

 状況は分からないが、コンサリに何かあったのは確かだ。

 トロエは急いで準備を始めた。



 ・・・数年後。


 ヴァサンは薪割りを止めない。殴りかかりたい気持ちを斧にぶつける。

 連れている二人は従者か。あいつも弟子を持つようになったのか。

 全身真っ黒な武装の三人。

 アーマンと従者のメラスとファウザ。

 トロエが近づいてきた。

「アーマンさん達が『聖地』まで案内して欲しいそうですが・・・」

 トロエ同様、アーマンたちもヴァサンの様子を伺う。


「断る」

 ひと言。

 ああ、やっぱり。

 トロエがそういう顔をしている。

「久しぶりだな、ヴァサン」

 アーマンが言った。

 この世で一番会いたくない男。

「コンサリが世話になったようだ。ありがとう。すまなかったな」

 淡々と薪を割り続けるヴァサン。

「あの魔法使いの痕跡を辿りながら旅をしているのだが、カサロフの体調が悪くてな。ここで療養させようと思って立ち寄った」


 海を渡ることになるかもしれない。しばらく大陸に戻れないかもしれないから、コンサリに会っておこうかと思っている。


「案内してくれないか?」

 ヴァサンの手が止まった。

「子供はどうした?」

 問う。

「長旅は大変だし、危険も多い。師匠に預けてきた」

 確か、子供は五歳ぐらいか。

 置いてきたのか。

「そうか・・・」

 アーマンのほうを向く。

「もう一度言う。案内は断る」

 メラスとファウザがやって来る。

「お前が行っても何も変わらん。そんな暇があったら、さっさと取り返してこい」

「貴様、なんという・・・」

 アーマンに止められるメラス。

 沈黙。

 ヴァサンは、また薪割りを始めた。

 アーマンは、彼をじっと見つめ、顔を伏せた。

「確かに、お前の言う通りだ。彼女に会いにいったところで、何も解決しない。気休め、ただの自己満足だ」

 アーマンは一礼する。

「カサロフのこと、よろしく頼む」

 振り返って歩き出す。


「アーマン様、我々だけで『聖地』に行けば・・・?」

「駄目だ。案内人の経験と知識がないと、絶対に辿り着けない」

「では、もう一人の男だけでも連れて行けばよいのでは?」

「案内人は二人でひと組。ひとりだけでは無理だ」

 必死に食いつく従者。

 アーマンはどんどん村の中心部へ向かう。


「いいんですか、帰らせてしまって」

 トロエも作業の続きを始める。

「あの男は、何も分かっていない」

 ささやくような声。

「コンサリの気持ちを、何も分かっていない」

 ヴァサンを見る。

 目に涙を浮かべていた。

 慌てて横を向き、見てない振りをする。



 ジバはよく頑張ってくれた。

 運良く嵐にもノマにも会わなかった。不眠不休で三日。目の前には頂上の見えないロカの壁がある。

 コンサリを降ろすのと、ジバが倒れるのとが、ほとんど同時だった。大事な仲間に酷いことをしてしまった。すまない。本当に申し訳ない。

 ゆっくり休んでくれ。

 今はそれしか言えない。

 自分の身体すら支えられない足で、コンサリを抱えながら、壁にゆっくり近づく。

 疲労と睡魔。

 震える腕に力を込めて、静かに置く。

 巻き付けた紐をほどく。毛布がはだけた。

 眠っているようにしか見えない。結構無茶をしたが、大丈夫、どこも傷ついていない。

 問題はここからだ。

 ヴァサンは『聖地』の中には入れない。呼びかけて、プレ・ナに訴える方法も知らない。

 後は任せるしかない。

 立っている力も残っていない。コンサリの横に倒れる。

 彼女をじっと見つめながら、俺も駄目かもしれないな、などと考える。

 ジバの負担を少しでも減らすために、夜営の道具や食料も、全て捨ててきた。

 懐に干し肉が少しあるだけ。

 ああ、駄目だ。

 眠くて眠くて仕方がない。

 このまま寝れば凍死だ。


 お願いだ。

 俺の命はくれてやる。

 だが、コンサリは助けてくれ。きっとあの男が取り返す。帰ってきて身体が無いなんて可哀想だ。

 それに、子供がいるんだ。

 見たことはないが、きっとコンサリに似た可愛い子供だ。母親の愛情がまだまだ必要な小さい子。

 知らない土地で、迎えに来るのを待っている。

 頼む。

 俺の命だけでは足りないかもしれないが、とにかくコンサリを助けて欲しい。


 コンサリの顔を見ながら、だんだん意識が遠くなる。


 何も見えない。

 何も聞こえない。

 誰かの手が頬に触れた。とても温かい。体温だけでない、もっと大事な温かさ。


 ありがとう、ヴァサン。


 誰かの声が聞こえる。


 カサロフを頼みます。


 この声は知っている。


 あの子も、私の子どもを助けてあげて。


 俺にそんな力はない。

 それに、俺はもう駄目だ。


 大丈夫、私が守るから。


 彼女が身体に寄り添った感覚。

 また意識が遠くなった。



 誰かに呼ばれた。

 何が起きている。俺は、何故呼ばれている?


 目を開けると、そこにはトロエがいた。

「聞こえますか、ヴァサン!」

 泣きそうな顔をしている。

 起き上がろうとするが、身体に力が入らない。

「お、俺は・・・どうなって・・・?」

 口がうまく動かない。

「信じられない。こんな状態で何日も経っているのに」

 トロエが必死に話しかける。


 ・・・そうか、俺はコンサリを助けるために、『聖地』に向かったのか。

 トロエはすぐに俺の後を追って、来てくれたのか。・・・七日。あれから七日経っているのか。よく七日でここまで来れたな。

 俺は、三日で壁まで来た。それから四日。

 四日もここで寝ていたのか?


 俺は、何故生きている?


 薄曇りの空を見ながら、何故かコンサリの笑顔が浮かんだ。




 三人目までは、勢い盛んに立ち上がり、対戦意欲をむき出しにしていた。

 女だから遠慮しているのではないか。そう思う者もいた。

 四人、五人、あいつまで。

 強者たちが倒されて、ようやく目の前の事実を受け入れる。


 石畳の広場にキースが立っている。刀を持たず、武具も着けていない。着物のような生地の民族衣装のみ。

 間隔を開けて、円を描くように控えるのは、ここの修行者たち。あの青年が呼びかけるが、なかなか挑む者が一歩前に出ない。

 彼が試合を始める前に言った。


 彼女に勝てる者は、ここにはひとりもいない。


 鼻で笑う者がいたが、今は誰ひとり笑っていない。

 嘆息する。

「仕方ない。では、私が挑戦する」

 ざわつく。

 青年の実力は、ここにいる誰もが認めている。彼なら打ち負かすことが出来るのではないか。そう思った。

 彼は棒を手に取った。

 キースと対面する。

「よろしくお願いします」

 一礼する青年。

 腰を落として棒を低く構える。

 キースは両手を自然に下げた状態。ある程度の実力がある者なら分かる。

 ただ立っているようで、全く隙がない。どの角度から攻撃しても、棒が当たる気がしない。

「参ります」

 青年が言った。

 自分を鼓舞するための言葉。

 片足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり突き出す。

 身体を横に向けてかわす。

 棒を引く。頭上で回転、足を狙う。後ろに下がり届かない。

 素手で戦う間合いでなない。

 キースが踏み出す。

 消えた。

 とっさに棒を前に出す。

 下から蹴り上げられた。勢いを殺しつつ、足を踏ん張る。

 振り下ろす。

 キースは背中を向けたまま横移動。棒が激しく石床を叩く。

 一気に引いて突く。

 片手をついて後転。また距離を取った。

 青年は軸足に力を込めて、滑るように前に飛ぶ。

 二回、三回、後転が止まった時が狙い目だ。

 棒を横に振る。

 キースがいない。

 両足が床に付くくらいの、見事な開脚。そこから腕の力で身体を持ち上げる。

 逆立ちからの蹴り。

 青年は横向きに転がった。

 同じ足さばき。キースも床を滑るように飛ぶ。

 助走を加えた蹴り。

 棒で防いだが、勢いは止められない。足が浮く程の衝撃。

 キースが迫っているのが見えたが、何も出来なかった。彼女の拳が胸元に触れる。

 軽く押しただけ。

 青年は吹き飛んだ。

 周りにいる修行者がいるところまで飛ばされる。受け止めた数人の者まで倒れる。

 おおぉ。

 どよめきが起こる。

 彼でも敵わないのか。

 青年は棒を石床に置き正座する。

「参りました」

 一礼。

 キースが片手を差し出す。

 青年がその手を握り立ち上がる。

「私もまだ修行が足りないようです」

 微笑む。

「もしよろしければ、剣術の型を披露して欲しいのですが、いかがでしょうか?」

 問う青年。

 彼は、キースが毎朝行っている鍛練を知っていた。

 クラナに目をやるキース。

 そこに二本の刀がある。サバサンから借りている脇差しだ。

 クラナは嫌な顔をしたが、刀を持ってやって来た。

「言っとくけど、感動して泣いちゃうからね」

 不機嫌そうに言って去っていく。

 キースに男たちの視線が集まっている。それが気に入らないだけ。

「この刀は、あまり慣れていないのだけど・・・」

 腰帯に刀を収める。

 何だろう。帯刀しただけなのに、その立ち姿に見惚れてしまう。

 右腰の鞘を持ち、ゆっくり抜刀する。横に縦に、軽く振る。

 鞘に戻す。

 今度は左腰の刀。同じく数回振る。

 キースは左右どちらの腕でも刀の扱いに差がない。

 鞘に戻す。

 目を閉じて深呼吸。

 頬に当たる風。

 気のせいか、キースに向かって風が吹いているようだ。

 両手を身体の前で交差して柄を掴む。

 開眼と同時に抜刀。

 風なのか殺気なのか。

 正面に立っていた修行者が数人尻餅をついた。

 見えない敵を斬る。

 刀を振るたびに身体がのけ反ってしまう。

 なんという剣圧。

 なんという美しさ。

 舞いを踊っているかのような優雅さと、仮想の敵を確実に捉える剣速。

 キースから目が離せない。

 あの刀に斬られてみたい。勝手に踏み出る足を慌てて止める。

 頬を伝う涙。自分の感情が制御出来ない。

 刀身が少し短い分、扱いが軽やかだ。指を器用に動かして、逆手に持って振る。

 これが彼女本来の実力。

 何年修行しても、到達できない領域。

 誰もがそう思った。

 右手の刀で突き。暫く静止。

 大きく息を吐いて、ゆっくりと刀を鞘に収める。

 終わったようだ。

「こんな大勢の前だと、ちょっと恥ずかしい」

 照れくさそうに笑う。

 心臓を鷲掴みにされたような痛み。

 剣士として素晴らしい。その感動を超えるもの。

 女性として可愛らしく美しい。

 あの笑顔は罪だ。

 クラナが走る。

 キースの前に立って、修行者たちを睨みつける。

「あげないからね。変な想像しても駄目だからね」

 苦笑する修行者たち。

 彼女がいる限り、キースには近づけないようだ。


 祭壇のある広間。

 主とキース、クラナがいる。広間の隅には青年が控えている。

「明日の朝、ここを出ます。お世話になりました」

 キースが言った。

 破顔する主。

「元気になられて良かった。世の中、悲しい事ばかりではありません。きっとお二人が、あなた様を良い方向へ導いてくれるでしょう」

「ありがとうございます」

 一礼するキース。

「骨壺と遺品はどうされますか?」

 問う。

「故郷に持ち帰りたいと思っています。ですが、私はイナハンで、まだやらなければならない事があります。それが終わるまで、預かってくれませんか?」

 うなずく主。

「御安い御用です。あなた様が来られるまで、大切に保管しておきます」

 一礼するキースとクラナ。

「やはりチセンに行かれるのですか?」

「はい」

 揺るぎ無い強い意思を感じる。

 あの二人と同じもの。

 主は懐から、綺麗に折り畳んだ書紙を取り出した。

「コガの街には、ユジンの意思を受け継いだ者たちがおります。彼らに、私からの手紙だと伝えれば力になってくれるでしょう」

 知らない土地で、敵を警戒しながら行動するのは難だと思っていた。

「ありがとうございます。助かります」

 キースが言った。

 彼女の笑顔を見て、主も笑った。


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