episode13 「聖地へ」
何が起きているのか。思考が追いつかない。
キースがそこにいて、ロズという少年が地面にうつ伏せになって倒れていた。
本人の意思ではない。
キースの手から発せられる何かの『力』が、少年を拘束していた。
ロズの様子から見ると、キースの『力』はとても不安定で、強くなったり弱くなったりを繰り返しているようだ。
「まいったな」
ロズが言った。
立ち上がろうとするが、すぐに見えない力で押さえ込まれる。
どう対処していいか分からない。
アーマンたちはすぐそばで、何もできず、ただじっとキースとロズの様子を傍観していた。
三才の小さな子が、あんな『力』を出せるものなのか。
人とプレ・ナの血を引く特異な子。
プレ・ナと違い、魔力を持たずに産まれてきたので、人に近いのだと勝手に思い込んでいた。
もっと注意深く見ていればよかった。そうすれば対処法もあったかもしれない。
カサロフは悔しさをぐっと噛み締める。
「大丈夫なのですか?」
キースを見て、メラスが問う。
「あれが大丈夫に見えますか」
いつも冷静なカサロフが感情的になっていた。
「あんな小さな身体では『力』に耐えられません。放っておけば命にかかわります」
「では、止めさせないと・・・」
「私たちだけで少年に対抗できますか?」
メラスは言葉を返せない。
「それに、キース様を止めることはできません」
メラスもファウザも、カサロフを見た。
「感情の変化で発動したあの『力』は、キース様の意思と関係なく、暴走を始めています」
なんと・・・
「くそう!」
メラスは地面を思いっきり蹴った。
キースのすぐそばに立つアーマン。近づくことも離れることもできず、今頼れる者はひとりしかいなかった。
「少年は私が何とかする。キースを助けてやってくれ」
アーマンが言った。
カサロフは顔を上げて目を閉じた。
深呼吸をする。
パパスが書き上げた魔法書を、隅々まで思い出す。
「取り込み中、悪いんだけどさ・・・」
ロズの声。
地面にうつ伏せのまま。
「この子、自滅するようだし、なんか白けちゃったから、僕はこれで失礼するよ。主の伝言は伝えたから、あとは君たちで勝手にやって」
少年の輪郭がぼやけてくる。
どういう術か、ロズの身体は消えようとしていた。
「キース、だったよね」
無理やり身体を起こして、キースに目をやる。
「もし生きていたら、僕は君と再戦したい。生きていると信じて、五年、いや十年後、準備して待っているからね」
君とはたぶん、再会する日が来ると思う
ロズの笑顔が風に舞った。
少年の身体は煙のように淡い形となって、大気と同化した。
一難は去ったが、まだ一難が残っていた。
アーマンは刀を鞘に収め、キースを抱きかかえた。
不思議な『力』の放出は止まったが、小さな身体の中で何か異変が起きているのは明白だった。
アーマンを囲むように、カサロフやメラス、ファウザも集まってくる。
キースの顔色が悪い。
アーマンが呼びかけても反応がない。
高熱を出したように身体を震わせ、意識もはっきりしていない。
白い肌が、内出血したように黒くなっていく。
それが何の症状なのか。
無理やり『力』を押さえ込んだ代償だと、カサロフは思った。
キースの身体からあふれ出る『力』を止めれば、助けられるかもしれない。それには強力な術式魔法が必要だ。
ふと、パパスの魔法書が思い浮かんだ。
アーマンと目が合う。
「何かあるのか?」
カサロフは返事をしなかった。
じっと、弱っていくキースを見つめた。
迷っている時間はない。
「パパスの魔法書に、私の知る限り最強の術式魔法が書かれています。
全員がカサロフに目をやった。
「ただし、この魔法は人に使うものではありません。魔物や霊体など、人知を超えた存在を封印するための術式です。これなら『力』を止められると思いますが、身体にどんな影響があるか分かりません」
うなずくアーマン。
「キースなら大丈夫だ。やってくれ」
確信は無い。
だが、カサロフもキースなら大丈夫だと思った。
彼女をずっと見てきて、普通の子とは違うと感じていた。多分それはアーマンもメラスたちも同じはずだ。
三才とは思えない運動能力、洞察力。一度教えれば、大抵の事はできてしまう理解力。
今、目の前で見た不思議な『力』。
何もかもが常識を超えていた。
・・・大丈夫。
キースならきっと耐えられる。
カサロフは覚悟を決めた。
「メラス、ファウザ。手伝ってください」
指示を出す。
アーマンの腕からキースを預かり、メラスはキースの服を脱がせた。
ファウザと二人でキースを支え、カサロフに背中を向けて立たせる。カサロフはメラスの腰元から短刀を抜き、キースのすぐ後ろに膝をついて座った。
「いいですか。キース様がどんなに暴れても、その手を離してはいけません」
「分かりました」
メラスとファウザは目を見てうなずき合う。
痛々しいキースの背中。白い肌が黒ずみ、呼吸も弱っている。自身の動揺は消せないが、絶対成功させる。カサロフは頭の中で術式を反復する。
短刀の刃先を指先に。
呪文を唱えながら、傷から溢れる血を見る。
血と魔力と呪文。
カサロフはキースの背中に指を這わせ、自分の血で魔法陣を描き始めた。
「・・・カサロフ?」
キースの声で、カサロフは現在に引き戻される。
北の村、リノーズ。
スレイとラザンを見送った後、彼女たちはある場所に向かっていた。
村の最北。一軒だけ小屋が建っていた。そこに「聖地」へ行くために必要な人物がいるという。
その道すがら、急にカサロフが足を止めたので、キースが声をかけたのだ。
「どうかしたの、カサロフ?」
もう一度声をかけるキース。
カサロフはキースを見て微笑んだ。その意味が分からず、困惑するキース。
「あの小屋に『案内人』が住んでいます」
カサロフの顔つきが変わる。
キース、クラナ、ナック。全員を見回す。
「『聖地』へ行くためには、地理や方角の知識があってもたどり着けません。プレ・ナに『聖地』へ入ることを許可された者、またはその者に入ることを許された者だけが行くことができます。あそこにはプレ・ナに認められた『案内人』が住んでいます。彼らを説得して案内をしてもらわないと、『聖地』へは行けません」
「彼ら、ってことは、ひとりじゃないってこと?」
クラナが問う。
「はい。『案内人』は二人でひと組。地形と天文の知識を持った道案内役と、旅の護衛役です」
「護衛役・・・」
ナックはキースを見る。
彼女がいれば護衛役はいらないのでは、と思った。
「ひとつ言い忘れていましたが、ここより北に行くと、『聖地』に着くまで魔法は一切使えません。つまり、クラナさんもナックさんも役には立たない、ということです」
初耳だった。
魔法が使えない場所があるなんて。
何の影響なのか定かではないが、百年前から急にそうなったため、北の民族が住んでいた土地が影響している、という説があるそうだ。
さらに。
「ここより北の土地の寒さは、想像を絶する寒さです。足元も滑りやすく、吐く息も凍るなかで、キース様のような剣士はなかなか実力を発揮できません。寒さに強いハイオカやほかのノマと対峙した時、苦戦するのは間違いありません。そんな時に必要なのが護衛役の案内人です。彼は狩人であり、悪天候や色々な環境での狩猟技術に優れています。ですから、『聖地』に行くためには、道案内と護衛が必要となるわけです」
カサロフの説明に納得するキースたち。
「ただ、問題がいくつかあります」
そう言って小屋に目をやるカサロフ。
「今の案内人は変わり者で頑固。交渉が上手くいかなければ、案内を引き受けてくれるかどうか・・・」
振り向いてキースを見る。
「そして、コンサリをとても憎んでいる・・・」
何かを言いかけて止めるカサロフ。
キースたちの知らない事情があるようだ。
小屋に近づくと、生活感のある匂いと、外で作業している男が見えてきた。男は獣の皮で作った防寒服で、白い息を吐きながらこちらを向いた。
「カサロフ・・・さん」
「お久しぶりです、トロエ」
カサロフの後ろにいる三人に目を向ける。ローブを着ているので顔は見えない。
「今朝早くから、パパスさんが来ていたので、もしやと思っていましたが・・・」
トロエは、カサロフと会えたことを喜んでいるようだった。
コンサリを憎んでいるなら、彼女とも会いたくないのでは?
『案内人』は二人組。
憎んでいるのは、もう一人のほうかもしれない。
「仕事の依頼で来ました。彼らを『聖地』まで案内して下さい」
目線をまたカサロフの後ろに戻すトロエ。
風貌から三人の素性を計ろうとする。
「許可証はお持ちですか?・・・カサロフさんも知っての通り、この村も今はゴルゴルの勢力圏内です。国王様の許可証がないと、私たちは案内できません」
カサロフが後ろを向いた。ローブを着た者のひとりがうなずいたように見えた。
振り返ってトロエを見るカサロフ。
なぜか笑みを浮かべていた。
「問題ありません。ゴルゴルという国は、近いうちに無くなります」
ゴルゴルが無くなる?
意味が分からない。
「ヴァサンは家の中ですか?」
「ええ。パパスさんといますが・・・」
三人を連れて小屋に向かおうとするカサロフ。
トロエは慌てた。
「今日はやめたほうがいいですよ。何だか朝から機嫌が悪くて。カサロフさんの顔を見たら、暴れだすかもしれません」
カサロフは足を止めて振り返る。
「それは好都合。これまでの蟠(わだかま)りが、今日で全て解けるかもしれません」
益々意味が分からない。
カサロフの自信はどこから来るのか。
トロエの前をローブ姿の三人が通る。若い女性。多分魔法使い。異国の顔をした男。はるか東の国の出身か。
最後のひとり。
小柄な女性。顔は・・・・!!
トロエは卒倒しそうになった。
「コ・・・コンサリ・・・?」
すぐに自分の考えを否定する。
カサロフが目の前にいるのに、コンサリがいるはずがない。
小柄な女性は、トロエの前で立ち止まり、頭のフードを下ろした。信じられないくらいコンサリと似ていた。
「私はキースと言います。その、コンサリという女性の娘、なのだそうです」
自分の母親なのに他人事のようだ。
「では、あの剣士の・・・」
トロエはカサロフを見る。
彼はカサロフの事を昔から知っていて、深い部分まで理解していた。だから、彼女の心情を思うと、とても複雑な気持ちだった。
カサロフは微笑む。
「私のことはお構いなく。ヴァサンは必ず説得しますので、旅の準備をお願いします」
返事を待たず、小屋に向かうカサロフたち。
あと数歩。
申し合わせたかのようなタイミングで、入り口のドアが開いた。
長身ではないが、体格の良い男が現れた。殺気のこもった怒りの形相。睨まれると、思わず足がすくんだ。
「お久しぶりです、ヴァサン」
カサロフが言った。
ヴァサンが放つ威圧感に、動じた様子は無い。
「お前、よく俺のところへ・・・」
言葉が切れた。
ヴァサンの目線はカサロフの後ろに向いていた。
フードを下ろしたキースと目が合った。
一瞬だけ驚いた顔をしたが、またすぐ眉間にしわを寄せた。
ヴァサンは聞き取れないほど小さな声で、何かをつぶやいた。目線と態度から、カサロフに対してだと思われる。
同じ村にいながら、もう何年も会っていないカサロフとヴァサンたち。間にある確執は一体何か。
「ヴァサン、彼女たちを『聖地』まで案内して下さい」
カサロフが言った。
ヴァサンは白い息を吐いた。
「俺が案内すると思うか?」
フードを下ろしたキースを見る。
クラナとナックもフードを下ろした。
「アイツの子なら、尚更だ。もう関わりたくない」
何処かへ出かける準備を始める。
開いたままのドアから、小動物が現れる。猫の姿をしたプレ・ナのパパスだ。彼はカサロフたちを見て、一声鳴いた。
「私では役不足のようだ。彼の説得は失敗したよ」
表情の変化は分からないが、残念そうな気持ちが伝わってくる。
顔を見合わせるナックとクラナ。
猫がしゃべっている。
頭では理解しているつもりだが、猫がプレ・ナだという事実を、なかなか受け入れられない。どうしても顔が強張ってしまう。
「大丈夫、問題ありません」
カサロフがきっぱりと言った。
彼女は作業中のヴァサンに近づいた。
「では、あなた流の方法で決めるのはどうでしょう」
手が止まる。
「キース様と勝負して下さい」
ヴァサンは身体を起こし、彼女を見た。
コンサリと同じ顔。
だが、まだ幼い。
「まだ子供じゃないか。俺に勝てるわけが・・・」
カサロフの顔を見て、言葉を止める。
「キース様は五才から、ガガル様のもとで修行していました。剣技を見た感じでは、アーマン様やガガル様を越えるのもそう遠くないと思われます」
ヴァサンは顔をしかめる。
ローブを着ていても分かる細身の身体。背も高くない。仮に、小さな身体を活かして、素早い動きと剣速が武器だとしても、重みのない軽い剣だと思われる。
経験と体格の差から考えて、キースに負ける要素がない。
なのに、何故カサロフは自信たっぷりなのか。
閉ざしていた感情が、ゆっくり解け始めていた。
「面白い。いいだろう、勝負してやる」
ヴァサンが言った。
え?、とトロエが目を見開く。
意外な返答に、思わず声を出してしまった。
「ヴァサンは、ガガル様の弟子でした」
カサロフが言った。
「そのまま学んでいれば、アーマン様をしのぐ程の実力者でしたが、素行があまりに悪く、二年で破門されたそうです」
原因は酒と女だと聞いたが、定かではない。
ヴァサンは破門されてから、あてのない旅を続け、最後にたどり着いたのがこの村、リノーズ。
当時の案内人にその腕を買われ、護衛役を引き継ぎ、現在に至る。
ローブを脱いで、ドレイドの民族衣装をあらわにするキース。
腕や脚が冷気にさらされ、少し赤みを帯びている。
カサロフはキースに歩み寄った。
「彼はアーマン様と同じ技を会得しています」
彼女が小声で言う。
ガガルはその技を『瞬動』と呼んでいた。
魔力の全てを動力に注いで、目の前から消えたように移動する技だ。全盛期のガガルは、その瞬動と人知を超えた剣速で、全戦無敗を誇っていた。
キースは魔力が無いので、その技は学ばなかった。
対峙するキースとヴァサン。
カサロフたちは少し離れた小屋の前で二人を見守る。
「剣士が剣を使わないなんて・・・」
不安そうなトロエ。
彼の目線の先には、キースの刀を持ったクラナがいる。
キースは勝負の方法をヴァサンに一任した。
地面に背中をつけたほうが負け
それが勝敗の決め手。
しかも、武器は使わず素手だけで。
消えたように移動できるヴァサンなら、相手の背後を取るのは容易いだろう。男女の差、体格の差から考えても、キースが力でヴァサンに勝てるとは思えない。
勝敗はすでに決まっているようなものだ。
なのに、なぜカサロフたちは落ち着いている?
トロエには理解できなかった。
「俺はいつでもいいぞ。それとも、お前は受け身の戦い方か?」
笑みを浮かべるヴァサン。
拳に布を巻き、左手の手のひらに、右の拳を何度も打ち付ける。体格からしても、腕力には自信がありそうだ。
キースくらいなら、片手で持ち上げられそうなほどの腕の太さ。平手で叩かれても失神しそうだ。
身体を左右に揺らしながら、ゆっくりとヴァサンに近づくキース。
右足の蹴り。
無駄は無いが早い動きではない。
片腕で受ける。思っていたより強い蹴りだが、驚くほどではない。
その場で軽く足踏みをして、もう一度右足の蹴り。
ヴァサンは同じように片腕で受ける。
身体全体が横にずれて、受けた腕の骨がきしんだ。
全く同じに見えたキースの蹴りは、全く別物だった。
何が違った?
蹴る速度が速かったか。いや、変わらなかった気がする。
ヴァサンはキースと距離をとった。
呼吸を整える。
さっさと終わらせよう。
ヴァサンは魔力を身体全体に注いだ。筋力は常人をはるかに超え、五感は刃のごとく研ぎ澄まされた。
キースが何の警戒もなく迫った。
目の前のヴァサンが消えた。
キースの左側、少し離れた場所に突然現れる。
彼女の父アーマンと同じ技。ガガルより学んだ『瞬動』だ。常人の目では追いつけない速さで移動する。
念のため様子を見たが、彼女には『瞬動』が見えていないと確信した。
次の移動で決める。
接近して地面に投げつける。
キースが動く前に動いた。
時間の差が生じるせいで、ヴァサンから見るキースの動きは、とてもゆっくりに見える。彼女は何かをしようとしていた。別のほうを向き、腰を低く構えようとしていた。
偶然か必然か。
キースの目線は、ヴァサンが行こうとする方向に向いていた。
とっさに両腕を身体の前で交差させた。
足が浮き上がる程の強い蹴りを食らった。腕の骨が砕けたかと感じるくらいの衝撃と痛み。
キースはその場で素早く回転。
まわし蹴り。
ヴァサンの足がまた浮いた。
小柄なキースが、蹴りだけで体格の良いヴァサンを吹き飛ばした。
着地点に向かって走るキース。
腕を伸ばしたが、ヴァサンは目の前から消えた。
二歩進んで姿勢を低くした。
突然現れたヴァサンの腕は空振り。避ける間もなく、キースの手が彼の胸元に。
生気を吸い取られたような感覚が、ヴァサンを襲った。力が抜けて、立っていられなくなった。
膝をついたヴァサンの肩を押すキース。
彼はそのまま倒れてしまった。
「これで決まりですね」
カサロフが言った。
その横で、倒れたヴァサンを呆然と見つめるトロエ。
「信じられない。彼が負けるなんて・・・」
現実を受け入れることができない。
彼女の蹴りの強さも脅威だが、何より、ヴァサンの『瞬動』を見切っていたことが驚きだ。加えて、ヴァサンを止めたあの力。
容姿が似ているだけはないようだ。
何が起きたのか、すぐに理解出来なかった。
キースを下から見上げている自分がいた。
「俺は、倒されたのか」
自覚なくつぶやくヴァサン。
キースはヴァサンのすぐ横にしゃがんだ。
彼は目を細める。
本当にコンサリと同じ顔。まさか彼女の娘と対戦することになるとは。
「あなたは大切な案内人。怪我をさせるわけにはいきませんので、少し卑怯な方法をとらせて頂きました」
キースが言った。
苦笑するヴァサン。
「いや、構わんよ。俺の『瞬動』だって卑怯な技だ。・・・まあ、あんたには通用しなかったが」
ゆっくり身体を起こすヴァサン。
カサロフと目が会った。
彼女とは長い付き合いだ。言葉を交わさなくても、お互いの言いたい事は分かる。
立ち上がるヴァサン。
「約束は守る。必ずお前たちを『聖地』へ連れて行く」
キースを避けるように小屋の方へ歩き出す。
「トロエ、旅の準備だ」
名前を呼んだが目も合わせず、ヴァサンは小屋の横にある作業場へ向かった。早速準備を始める。
カサロフに一礼して、トロエも作業場へ。
決着のあっけなさに呆然としていると、目の前にキースが立っていた。大事に抱えていた二本の刀を渡すクラナ。
「勝てるとは思っていたけど、よくあの素早い移動に付いて行けたよね」
クラナが言った。
「子供の頃、一度見たことがある」
だからといって、移動先が読めるのか。
いや、とクラナは思い直す。
キースなら、一度見れば対抗策を実践できるかもしれない。実際にそうしているわけだし。
「ところでさ、何で軽く触れただけで、あの人倒れたの?」
問うクラナ。
それは、と横から声が。
ナックだ。
「『気』だよ。相手の『気』を操作したんだ」
思考、行動、反射。無意識にしている呼吸さえ『気』を使っているという。
キースの手から『気』が送られ、ヴァサンの『気』を乱した。結果、手足の感覚が無くなり、意識が飛んでしまったそうだ。
ナックが生まれた国イナハンでは、戦闘だけでなく、『気』を使った治療術まであるらしい。
クラナは見ていないが、キースがルコスでザギと対戦した時、これと同じ力を使っていた。初めて披露したわけではない。
刀を両腰に収めて、ローブを着るキース。
冷え切った身体を抱きしめて暖めてあげたい。クラナがそんな事を考えていると、カサロフが作業場の方へ向かっていた。
「三日だ」
ヴァサンの声がした。
「三日で準備する。それまでに身支度をしておけ」
顔も上げず、ひたすら作業を続けている。
軽くうなずくカサロフ。
「分かりました。では、三日後に」
振り返って、キースたちに目配せする。
歩き出す一行。
それを見て、トロエだけが顔を上げ彼女たちに一礼した。
来た道を戻る。
色々聞きたい事があったが、カサロフの家に着くまで誰も喋らなかった。
・・・・少し時間を遡る。
どこまでも続く白い大地。真上から降りそそぐ太陽の熱射。吐く息も凍るこの世界では、何層にも重なった氷の大地を溶かすことはできない。
突然現れる氷の壁。
はるか昔の変動で、隆起した氷の大地。登るには険しく高い。まるで世界と異界の境目のようだ。
その壁の上に動く影。
人ではない。四足の銀色の毛で覆われた獣。空を見上げて何かを待っている様子。
小さな額が妖しく光る。
何か文字のようなものが浮かび上がる。『参』という漢字に似た文字。
鋭い牙を持った口が開いた。
「ロズが殺られた」
獣の口から声が聞こえた。
一匹しかいないが、誰かに話しかけているようだ。
『・・・そのようね』
頭の中に響く女の声。
感情は無く、ただ事実を受け入れただけの声音。
『次は、あなたの番よ』
「分かっている」
銀毛の獣が答える。
「しかし信じられん。あのロズが倒されるとはな」
彼の実力は熟知している。
魔法も剣術も、この大陸で敵う者などいないと思っていた。その絶対がひとりの少女に覆された。
『それだけ私たちの認識が甘かったってことよ』
返す言葉が無い。
『まあ、あなたなりに頑張りなさい』
銀毛の獣が笑ったように見えた。
「お前は大丈夫なのか?」
問う銀毛の獣。
姿は見えないが、女が笑みを浮かべた気がした。
『あの男の弟子が抵抗しているけど、こちらには強い味方がいるしね。大丈夫よ、誰も海を渡らせないわ』
自信に満ちた声。
愚問だったと後悔する。
女の実力は知っている。殺傷能力だけなら三人の中では抜きん出ている。あの少女がいかに強くとも、女に勝つことは無いだろう。
急に何かが変わった。
女の声を押しのけて、別の者が割り込んできた。そんな感覚。
『・・・彼が話したいそうよ。ちょっと替わるわ』
女の気配が消えた。
『君は君の役目を果たせばいい』
別の声が頭の中に響く。
威厳のある声ではないが、逆らえる相手ではない。
「分かっている」
張り詰めた声。
獣にとって彼は主であり、この世に人格を繋ぎ止めるため、魔力を提供してくれている命の源。
彼の命令は絶対だ。
十年間、獣は主のため『聖地』に滞在し、任務を遂行している。結果をなかなか報告できないのは、働きが悪いのではなく、それだけ慎重で、緻密な作業だからだ。
進行具合を聞かれる。
「順調だ」
答えはいつも同じ。嘘ではない。少しずつだが確実に進んでいる。
『君からの報告を楽しみに待っているよ』
穏やかな口調だが、別の意味が含まれている気がする。
さすがに十年は待たせ過ぎだという自覚はある。しかし、初めての事をするには必要な年月だ。
失敗は許されないのだから。
『あ、それから、キースがそっちに行くみたい。ロズが色々と喋ったから、多分母親の身体を取り返すつもりだよ。サロワなら大丈夫だと思うけど、くれぐれも気を抜かないようにね』
すぐに返事がない。
全く、ロズがいなくなった事で、こっちにしわ寄せが来たか。そんな事に関わっていたら、私の作業が遅れるじゃないか。
嘆息する獣、サロワ。
『じゃあ頼んだよ、サロワ』
それだけ伝えて消える。
女の気配もしない。
見えない相手との会話は終わったようだ。
銀毛の獣は立ち上がり、きびすを返した。ロズを倒した相手に、どれだけ抵抗できるか分からないが、準備だけはしておこう。
銀毛の獣、サロワは何処かへ向けて走り出した。
同じ頃、大陸の東側。
海に面した大国、イナハン。そのある場所で、空を見上げるひとりの女。
真っ白で長い髪。魅惑的な身体の線に沿った民族衣装。金や銀の糸で紡がれた刺繍は、この国で魔除けとされる伝説上の獣。
気配に気づいて振り返る。
美しい顔。血のように赤い唇。最も目を引くのは、額に浮かんだ文字のようなもの。漢字の『威』に似た形。
近づく人影に、女が笑ったように見えた。
「ロズが殺られたわ」
女が言った。
人影は、女の横で立ち止まった。
若い青年。そうか、と一言。彼もまた、女と同じく見慣れぬ民族衣装。腰にある武器は、反りのある細身の剣。おそらくは刀と呼ばれるもの。
青年の顔に表情はなく、女の額から消えてゆく文字のようなものを、じっと見つめていた。
「ガガルは、自身の剣術も優れていたが、師としての才能も並みではなかった。キースも父親同様、よく学んだのだろう」
青年が言った。
「対戦してみたい?」
女は笑みを浮かべる。
「いいや。この身体になったとはいえ、剣術では敵うまい。私の専門は戦術や戦略を思案することだからな」
女から目線を外し遠くを見る。
「だが、人とプレ・ナの血を分けた者がどれ程のものか、この目で確かめてみたいとも思う」
「『聖地』に行く、ってことは、父親同様あの女を取り返しに動くってことでしょ。だったらいずれこの国にも来るんじゃない?」
女の様子を見て、眉間にしわを寄せる青年。
「・・・・嬉しそうだな、イリリ」
「フフ。殺しがいのあるくらい成長してくれればいいのだけど。期待して待つことにするわ」
苦笑する青年。
そこへ、また別の人影がやって来た。
武装した兵士がひとり。二人と少し離れた場所でひざまずき、頭を下げる。
「イリリ様、コルバン様。そろそろお時間です」
兵士が言った。
「分かった。すぐ行く」
青年、コルバンが言った。
二人は西の空に別れを告げ、兵士と共に何処かへ向かった。
潮の香り。
ちょうど海からの風が吹き始めたところだった。
第二部 完
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