第4話 budding

……チッチッチッチッチッ……


規則性が。


……チッチッチッチッチッ……


恒常性が。


……チッチッチッチッチッ……


喪失感が…。


…………ゴオオオオオオオン………


 耳元であまりにも不快な程に巨大な打鐘音を知覚し、私は覚醒した。ベッドの脇に設置された柱時計が9時を示している。しかし私に時刻が必要なのだろうか。時刻に縛られるような用事も、時限性の習慣も、時に関わるあらゆる活動が私の脳髄からすっきり脱落している。私がこの無機質で閉鎖的な部屋のベッドで、就寝あるいは昏睡するよりも前の記憶とともに。

 覚醒した私は、しばしの間微動だにせず思案していた。氏名…。年齢…。国籍…。居住地…。家族構成…。所属…。記憶…。何も思い出せないと結論づけそうになった時、脳髄の中であるインパルスが生成された。

「……エスエス……おん………下層…………せんだり………………わか」

 この文字列だけが判明すると同時に、私は見当を失いそうになる。動いてもいないのに目が回り、嘔気が発現しつつある。これでは何も思い出せないのと同じだ。私は何を目標に生きていたんだ。その目標を達成する意気を亢進させる何か、いや誰かはいたのか。その誰かは私を覚えているのか。私に目標を思い出させてくれるのか。そもそもその何か、誰かはこの世界に存在するのか。

 嘔気が嘔吐に変わった。胃袋が狂ったように痙攣し、その内容物を口腔に追いやる。その勢いのまま私は吐しゃ物を飛散させ、ほとんど意識を失いながら床に脱力した。だが胃袋の痙攣は続き、断続的な腹痛が私を支配している。意識を失うことが許されず何度も嘔吐し、部屋中に酸臭と発酵臭が満ちる。

 もう耐えられない。狂いそうだ。記憶を持たない獣の方がましだ。

 私の記憶が生理現象的に消失したのか、または誰かが超常の力で奪ったのかわからない。だが私は自然と仮想敵を作り上げ、それに向かって怨嗟の声を上げていた。私自身の耳でさえ壊れかねない程の声量で、仮想敵に何度も叫声を散らした。そうでもしなければ、狂ってしまうと脳髄で直感していたから。

 しかし狂うことに対する私の抵抗は部屋の扉の異変と共に中断された。カチャ、という開錠の音とともに扉が解放され、老婆が入ってきた。老婆の顔つきは険しく、私に目を合わせようとしない。突然の闖入者に私の抵抗を妨げられ気分を害したが、同時に、無礼にも許可なくこの部屋に闖入したあたり、この老婆と私は相応に面識があり、多少の無礼は許される間柄だったのかもしれない。ともすれば私の記憶に関わる何かを呼び起こしてくれるかもしれない。そのように期待したが、老婆は扉の横に起立したままその後何らの活動も起こさない。私の方から声をかけるべきか決めあぐねていると、部屋の外から足音が近づき、扉の向こうに第二の闖入者が現れた。その大男は白衣を着用していたが、その上からでも察せられるほど筋骨逞しく、眼鏡をかけた知性的なサトゥルヌスが現出したかのようであった。


「まずは自己紹介から。吾輩は山極誠やまぎわまことだ。こちらの婦人はメイドの駒形照こまがたてる。君は?」


「………」 


「やはり見当を失っているのだね。いや、それも素晴らしいことだよ、君。というのもだ、これから吾輩は君に、生涯をかけてきた大研究の実証を恩賜するのだ」


「………」


「この大研究は失見当の君にでないと実証が成立しない。わかるかね?君は我が大研究の目的で、陥るべくして失見当に陥っているのだ。だが心配はいらない。大研究の実証が済めば、いや、実証の期間にでもあるいは全ての記憶を回復し得る。約束しよう」


「わたしは」


「ああ」


「私は何者なんです?」


「この大研究における神、兼被験者である。研究系をその一意に操作してもよろしい。そして研究の成功をその一身に浴び、更新された人生を持ってここを去るのだ」


「ですが」


「ああ、ああ、承知している。大研究の期間、君を名無しの何某と呼ぶつもりは毛頭ない。仮名以外にも、大研究上アノマリーを孕まない情報も恩賜する。君の仮名は病際魔異やまぎわまことだ。これからは魔異君と呼称する。年齢は16歳。国籍は旧日本。居住地は…まあここ、連合医術大学病院研究棟6階6021病室でいいだろう。所属は連合医術大学医学部医学科山極研究室。家族構成は非常に多大なアノマリーを孕むため、1点のみを伝える。君は本来双子であったが、相方の、言わば妹の方は奇形嚢腫のため、産まれてくることが叶わなかった。以上である」


「妹…」


 妹、という単語が私の琴線に触れた。妹のことを忘れてはならない。脳髄でそう感じるのは私の記憶と何らかの関わりがあるからだろうか。だが何らの記憶が浮かび上がってくることはない。このサトゥルヌスが行おうとしている大研究というものに参加をすれば記憶が回復するそうだが、まだ信用できない。そもそも今言っていた私に関する情報の真偽も定かでない。いや、それを言ってしまえば私に関して真なる情報など、この場には一つもない。なぜこのサトゥルヌスは自分のことを山極誠だと、老婆のことを駒形照だと知っている?なぜここが病院だと知っている?ゲシュタルト崩壊に陥りかけ、再度嘔気の波が立とうとしていると知ってか知らずか、サトゥルヌスが口を開いた。


「本大研究の実証を魔異君に恩賜するにあたって、まず実行して欲しいことがある。なに、大それたことではない。大研究には、言わば参加の諸注意なるものが存在していて、それを破ってしまうと多大な不利益が魔異君自身のみならず、この病院、ひいてはこの大学全体に降り注ぐのだ。死者が出るに留まらず、文字通り大学が爆散する可能性もある。従って、参加の諸注意を記した文書を魔異君に読んでもらいたい。それが最初のステップだ」


 数枚の文書が差し出される。文書の頭には、「性病紀行」の4文字が付されていた。仕方なくそれを読み進め始めた私であったが、その時サトゥルヌスが不穏な行動を取っていることに気づかないでいた。サトゥルヌスは私の吐しゃ物から何かを拾い上げ、ピルケースに恭しくしまい、白衣のポケットにねじ込んでいたのだった。後に判明するその拾得物は溶けかけのカプセルであった。

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