See the same color
草糸はいつも通り癖毛を気にして、櫛で押さえつけて、思い通りにならずむすっとしながら、愛用の眼鏡を掛けて家を出た。
学校に着くと友達が寄ってくる、だが喧嘩をしていたあの二人組だけはもう来ない――来れっこない。
片割れが居なくなり、もう片割れも仲間の中から消えた。自然消滅した。草糸の友達だった彼は、太陽みたいに笑う彼女を失って変わってしまった。周りの仲間も触れようとしない、その話題はタブーで、忘れてしまったほうがいい思い出なのだ。だが、悲しみがひとりひとりの中に伺えた、草糸ももちろん悲しい――フリをして、内心、全く違うことを考えていた。
『彼がそばに居ない』その苦痛の方が、よっぽど抑え込むのが大変なのである。
あぁ、今日もどうにも背後の視線がむず痒い。
会いたくて、会いたくて、こうして帰ってから少女の腕を切っていなければ、草糸は思考が全て少年に持っていかれてしまいそうになる。
思考はそれでも、流石に生理現象とはおあいこで、腹が減った。解体途中の少女の肉に挟まった、刃の柄から手を引き、キッチンに向かった。今日の夕飯はビーフシチューにする事にした。白いエプロンを着け、鍋を火に掛け、材料を入れてくーるくるとおたまで混ぜて、コトコト煮込んだら味見をした。美味しければ出来上がり。とてもいい匂い。白いお皿に盛って、あっちっちと言いながらその皿を運んだ。
コトリとシチューを置く、着席してからいただきますと手を合わせる。スプーンで掬い、一口食べる。うん、美味しいと零す。目の前の彼女に視線をやる。
「とても美味しいですよ」
「いいでしょ?」と続けてからまた口に運ぶ。
笑顔の草糸の傍らには、自分の方か美味しいよ、とでもいうように、赤い肉をてらてらと光らせた、少女が横たわっていた。
草糸はゴミ出し用にビーフシチューを少し余しておいたので、それをゴミ袋に入れ、後から細かく切断し煮込んだ少女の腕も混ぜた。手をぱっぱとして、これでよしと袋をとじる。
ふぅ、と笑顔になる。作業が終わった事への喜び、そして、それがしかしだんだんと醜く歪んでいく。
だって寝台の上を見てみろ、快楽の塊はもうわずか胴だけだ。胴がなくなってしまったら、これから誰が代わりに草糸を満たしてくれるというのだ。
それは薬物が切れたみたいに、ぴったりだったお気に入りのパジャマがなくなったみたいに、この先何が自分を包んでくれるのか、わからない、不愉快な不安と、寂しさに似ていた。
――それはある日の唐突の事件だった。
居た、居てしまったのだ……"彼女"が。
それは夕暮れ時。学校帰りに草糸は一人で歩いていた。いつもの帰り道、寄り道の予定もなく、祖父母の自宅に帰宅するのみである。友達は居ない、みなそれぞれの用事で別れを告げた。だからこれから彼女を尾行しようって時に、友達が居なくてよかったと草糸は思った。学校帰りの鞄を抱いて、居るはずのない彼女の背を追った。
綾――。彼女は実在するはずのない人物。
茶髪の綾、黒い結、白い結。彼らが実在するにしても、彼女は化け物であるはずだ。綾と結に容姿の矛盾はあれど実態があったのに対し、女の綾にはまさに体がないのだ。生まれも親もいない、全くの想像上の人物。
草糸の前には黒いカーディガン、では寒いので、黒いコート、足元は黒いタイツ、可愛らしい茶色のブーツを履いた綾が居る。憂いを帯びた悲しみの顔は今は薄れているが、彼女が病院のベッドの上で見せていた、と思われる雰囲気に酷似していた。
夕暮れが彼女の髪を赤く染める、彼女の肩までに切りそろえられた髪は綺麗に梳かされていて、風が吹くとふわっと流れて夕陽に散る。
綺麗な彼女の後をつけるのは学生、そんな物語のワンシーンみたいな現実を、草糸は辿る。
ピタリと止まる。綾の足に合わせ草糸も止まる。人気のない場所とかそういうのではなくて、普通に歩道の、周りに様々な店が建ち並ぶ、人通りもちらほらとある場所の隅であったので、危ない事件の香りとかはないけれど、でも、草糸は怯えていた、いや、この怯えは恐怖から来るものではない、喜びだ。
「待った?」
「いいえ」
「じゃあ行こう」
綾と待ち合わせをしていたのが――、片思い中の好きな人だった。
こんなの、打ち震えずにどうしろというのか。
「今日も綺麗……」
頭がぽわぁとなった。草糸にとってその好きな人は、憧れで、理想で、だけど捕まえたいとか捕えたいとかの邪な感情は芽生えず、ただ見ているだけでよい存在だったのだ。その好きな人がまさか綾と知り合いで、女友達みたいに、買い物をするなんて夢にも思わなかった。
仲良く笑っている、といっても草糸の好きな人は笑わないので、綾が一方的に話題づくりをして、勝手に笑って、けれど聞いているのは悪くないというように頷く、草糸の好きな人、といった具合。
鞄に鼻を擦り付ける。好きな人の貴重な時間の過ごし方を見られた、満足して深く顔を沈めた。女性の後をつけるのは好ましくないので、そろそろ切り上げる事にした。彼女らは次はどこに行くのだろう。考えながら、草糸は鞄に埋めた顔を元に戻そうとした。
戻らない――
だって今生きてきた中で一番興奮しているかもしれない。
少年に会う口実が出来たのだから。
「で? 会いに来たわけ。皮剥がれるって言われてるの知ってる?」
「知ってる。赤の家は悪魔の城だって、近寄らない方が身のためだって、入ったら、二度と出てこられないって、みんな言ってます」
「堂々と入ってくるお前は変態だよ。そして、愚かだ」
少年は、そうして背後にあった柵に寄りかかった。
赤の家で草糸は息苦しい思いをしていた、なんてことはなく、少年に繊細な配慮の欠片もこれまた全くないのだが、まぁ話をしてやろうと、少年は赤の家に乗り込んだ草糸を少し離れた海の見える高台につれていった。
山々が背後に眺められ、柵の向こうには夕陽に染め上げられた海が広く見渡せる。夕陽にきらきらと光る水面は、もう直ぐ現れる夜空の星々と同じくらい煌々として見えた。冬の風は冷たいが、それを全く感じさせないくらい、草糸は少年との時間を美しい景色と混ぜてロマンチックに堪能した。
赤の貴族、
少年に会えるなら、会えるなら酷い目に会ってもなんでもいい。そんな思いで、乗り込んでみたが現実は何の面白みもない、普通の建築物の中に普通の人間が住んでいた。赤い髪の人がたくさん住んでいて、目の保養になったとかは――全くなくて。草糸は少年の赤にだけ、美しい宝石よりも惹きつけられる色味を感じるのだ。
さて、草糸は少年との再会にばかり感無量になっていては、少年が機嫌を悪くするのは承知済みなもので、ここらで用意してきた口実を使う事にした。
「綾さんを見ました、その、写真そのものの女性でした」
少年がその、と言われた写真に目を落とす。
赤の家から持ってきた綾の写真は、紛れもなく赤茶色の髪に黒いカーディガンを羽織った、病院に寝ていた彼女そのものの姿であった。
青年綾が生み出した実在しない女の綾、そのモデルとなった人物の写真が、今少年が目を落としている中にある。これをかつて少年は「見るか?」と草糸に聞いたが、首を振ったのでその当時はそこで終わったが、今、こうして買い物をしていた彼女と写真の彼女を比べてみても、同一人物としか思えない。
――恐ろしいのは、その写真の女性は故人であるという事実。
青年綾は死んだその女性をモデルに女の綾を作った。
「ま、生きてたってことだろうな」
「そんな簡単な事なんですか? 彼女の死は、ちゃんと確認されていたんですか?」
「知らない、失踪したから、死んだと言われていた。遺体は出ていない」
「それだから、実は生きていた、と」
「あぁ、この女は珍しく、男系とされているうちの中でも女として生まれてきた。女だから、色々あったんだろうな」
逃げ出したのかなと、草糸は思った。
「……連れ戻したりとかは、しないですよね?」
「しない、どうでもいいよそんな女の一人や二人」
あぁよかったと草糸は胸を撫で下ろした。そうしてから綾ではなく、綾の隣にいた好きな人を思い浮かべていた。その人の為に、綾には元気でいてほしい。
「で、忠告無視してまで辞柄ぶら下げて会いに来た、お前は何がしたい」
少年が下から覗き込むように屈むものだから、草糸はぐっと足を引く。一歩さがって心拍数を上げる、あぁ本当にみっともない、少年が頭を支配する、ごくんと唾を飲んでから、そんな理由は何もありやしないと伝えた。自己弁護くらいちゃんと考えてこいよ……、と少年は呆れたし、仕方ないので草糸はただその目を見たかった、その顔を、存在を傍に感じでいたかったと素直に伝えた。口実は口実でしかないと最初から少年に見透かされていたし、見透かされてしまうことをわかりきっていた草糸だけれど、名目抱えて行くくらいの常識は、あるんですよと伝えた。
少年が草糸に手を伸ばす、次は微動だにせず指先を受け入れる、逃げた世界に少年はいなかった、裏の世界に来いというのならば、上司と違い、片足以上に頭の天辺まで飲み込まれてしまおうと決めている。
「俺といると不幸になる」
「不幸になるとして、それで――?」
「言い方を変える、俺が、不幸にするよ」
どうしてか深い色をしていた。夕焼けの色が深淵の泉に映り込んだような、そんな色味を彼の瞳がしていたものだから、草糸は肺に息を吸い込み、そして吐いた。
重い、酸素が、少年の目が深い――。
そして堰をきるように溢れた。
一緒にいたい――
一緒にいたい――
例えば不幸になるとしてそれで?
草糸は恐れるものなんてなにもないんだと前に進んだ。
少年に触れた。少年はもう拒絶しなかった。闇の中の片足は深い底へと足をつけ、不幸が闇の中から現れた。
二人はそれから、同じ夕日の色を見た。
***
後日、草糸の隣には少年が居た。
華奢な体を隠すように、大きめのサイズの黒いコートを草糸が着て、少年も同じように、暗い赤のダッフルコートを着ていた。
早朝は冷え込んでいる、季節もまだまだ冬の真っ只中、空はからっと晴れていなくて、しんしんと粉雪が舞う。
祖父母の家から上司の家の前を過ぎ、雪に足跡を付けながら二人は進む。友達みたいに、休日を朝早くから二人だけの時間として使用する、こんな日常を、ずっと待っていた。
少年の欲しいものをなんでも買ってあげようと、草糸は鞄に大金を詰めていた。好きな人が綾としていたみたいに、二人で買い物したり、遊んだり出来るならさぞ楽しいだろう。少年は「俺をそんな平凡な世界につれていって、何がしたいんだ」と眉を寄せたが、怒鳴ったり怒ったりはしなかった。暖房器具が倒されたり、手を上げられるなんて事もなく、ただなんとなく甘い雰囲気が祖父母の家で、さっきまで漂っていた。
「君はどんな料理が好き?」
草糸は鞄の中の腕時計を確認する。何故腕に嵌っていないかと問われれば似合わないからの一言である。桃色の瞳は数字と少年を交互に見て、朝食に誘おうとしているわけだが、少年は好みを答える真似をしてくれるだろうか、なんて予測に反して、少年は素直に好みを話した。
「辛いもん」
「辛いものか……」
朝食にぴったりの軽食、プラス辛いもの、顎に手を当て考える仕草をしながら歩く。
「あぁじゃあ――」
二人はある喫茶店に入った。
来客用のベルがチリンと鳴り、静かな店内に可愛らしく響く。途端に、いきなりのこと、落ち着いた雰囲気の店内に亀裂が入る。
草糸は知らなかった、店内の人間の目が鋭く、険しくなった意味に。
「どうしたんでしょう……」
そわそわしながら人の目を潜りテーブルに着く、少年は向かいにどかっと座る、草糸と対象的に周りの空気をものともしていない。
「なんだか居心地が悪いですね……」
食事をする人、コーヒーを飲む人、働く人、まるで遠慮と怖れの入り混じったような、胸の悪くなる空気を放っている。お喋りを無にし、食器の重なり合う音を止め、過ごす時間すら奪われたかのように、そそくさと出て行く人を横目にする。
「お前、知らねーのな」
少年は足を組んで目を閉じる。先程からちらちらと様子を伺っていた店員がやってきて、遅疑逡巡と草糸から注文を聞く、聞き終えるとすぐに腰を低くして逃げていく。
「赤い人間とは、どこへ行ってもこうなる」
少年は目を開けて戻す。
「こんな目で見られたいか?」
草糸は耳目を少年から外す。口の端に上る赤の悪評を身近に、言葉も雑音も消えていく。恐れ、怯え、嫌悪によって日常が溶けていく。
「……怖いのか」
まるで蛇蝎だ。
ようやく気付く。少年の一族は生きたまま人の皮を剥ぐ、そんな噂が自然と浸透するくらい悪評は蔓延していた。
実際人を殺している者もいるらしい、ただの暴力的な人間ならまだしも、少年を見ていると、確かに赤い一族は恐れや怯えの象徴と感じられた。
「君のことを何も知らないなんて、可哀想ですね」
だが草糸は違った。
少年は目を見開いて、少し驚いたように止まってから、直ぐに表情を戻す。
「お前はやっぱり変だよ」
「だって僕が本家に行った時普通の人しかいなかった。普通の態度で、普通に案内してくれた、君の元に」
「一部の人間が、そういう本来の全体像を覆って、血で塗り替えているんだよ、迷惑な事だな」
事にな、と言わなかったのは、少年がその塗り替えている迷惑な側という自覚であり、草糸はそこで黙りとした。
二人で運ばれてきたホットドッグを食べた。HOTで辛いと銘打ったそのパンはお揃いだった。少年は草糸より早く食べてしまい、退屈そうにコーヒーを啜ってそっぽを向いていた。草糸が食べるのが遅いのか、少年が辛めのホットドッグを気に入ったのかは定かではないが、草糸は今がとても幸せな気持ちであると噛み締めた。
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