Fiction

草糸は少年を抱き上げた。他人の血がだらだらと床に零れた。


 血塗れの少年を抱えて走るには自宅はあまりにも遠すぎた。事件性を露見させない為にも迅速に、自宅ではなく、草糸はバイト先の上司の家に助けを求めた。一人暮らしの彼ならいつでも受け入れてくれる、そして後始末もしてくれる。草糸は包み隠さず彼に経緯を言って聞かせた。包丁で滅多刺しにされた死体と血の証拠を消し去ってくれと、唱えた。

 掃除屋に頼めば、人の体が人生とともに丸ごと消え去るのを、草糸は知っていたが、それを何とも思うことは無かった。慣れなんてものではなく、それが本質で本性なのだ。結なんて存在しない世界で、後は少年と過ごすだけだ。

 金の相談をした、底を叩くのもお構いなしに早く倉庫の片付けをしてくれと草糸は急かした。少年は隣に寝かせた、上司は交渉が成立すると直ぐ様仲間を拾って倉庫を綺麗にすると出掛けた。

 草糸は少年の頬を撫でた、髪が血でこびり付き、よくない匂いがした。結の血なんかに塗れている少年がなんだか憎たらしくなり、洗いたくなった。死体に触れ、切り、血を抜いて洗うような、あの悦びが湧き上がってきた。

 少年はだが、まだ生きていた。


「よく、殺さずにいたな……」


 少年は草糸の手を掴んだ、草糸は止めろという意味を悟り頬から手を退かした。「おはようございます」そんな事を言ってから続けた。殺すなんてありえない、だって君が好きだから。そう言ったら、少年は引き気味に、はならず、慣れたのかいつも通りの顔で辺りを見回した。


「結さんは死にましたよ」

「そうか……」


 少年は頭痛がするのか眉を顰めた。倒れて起き上がったのだから、後遺症があるのかもしれない。


「今、病院に行っても誰もいないんですよね」

「ああ」



 祖父母の家はやっぱり落ち着いた、草糸は居間に腰を下ろした。どうやら溜まっていた疲れが表面に浮いてきたらしく、布団もないのに横になりたくなった。草糸は床に直接横になる、少年は座っていた、少年の顔を見上げた、愛しい――と感じた。


「お前、死体が好きなんだろ?」


 耳に落ちてきた言葉に、最早動揺はしない。地金が出ようとも少年は草糸を認めてくれるだろう。


「そうだね、もう隠すこともないね」

「惜しいことをしたな」

「君が信頼してくれた対価だから。信じてる――という甘い罠に、まんまと引っかかっていますよ」

「五分五分だった」

「僕が生きた君をとるか死んだ君をとるか?」

「ああ、お前は俺を殺すだろう結の依頼を受けるつもりであそこへ着いてきたのか、俺の為に一緒に行ってくれたのか」

「君は今もずるい言い方をしますね」

「……結をやる為には、時間が必要だった。お前が本物の薬を使うか、演技かは、ある意味賭けだった。薬を押し付けた後、お前は耳元に顔を寄せて言ったな、僕は生きた君が好きだから安心してくださいと」

「信用してくださいましたか。君の寝たフリも完璧でしたよ、なにせ僕が太鼓判を捺してますからね」

「もうわかってると思うが、事のからくりを最初から教えてやるよ」


 少年は草糸に視線をやった。


 ある時綾という"少年"が茅萱に引き取られた。綾は茅萱に恩を感じて育ち、生きていた今までずっと茅萱が好きだった。好きだったというのはもちろん感謝や恩義、又は優しさや父への意を込めてだ。

 少年も茅萱の元に居たので、綾は兄とも言えた。

 青年になった綾はどうやら、普通ではないらしかった。夢と現実の区別ができず、妄想と空事が絶えなくなった。居もしないものを目の前に生み出したり、自分を人殺しと思い込み、殺人犯として振る舞ったりした。

 結というのは綾が生み出した幻影だ、黒髪の鋭い結も、白髪の優雅な結も、実際は『茶髪の青年綾』の作り上げた虚構、自分の在りもしない姿だった。だから草糸には結が黒でも白でもなく茶髪に見えていたものだから、齟齬が発生し混乱した。茶髪の結とは、以前死体処理の現場ですれ違っていたものだから、尚更擾乱した。

 結として振る舞う綾は、いつしか病院に毒を盛られている哀れな自分を生み出した。それが女の綾だ。

 女の綾なんてどこにも居なかった、草糸には初めから空のベッドと、空の空間に語りかける結が居ただけだ。少年も口裏を引いていただけで、実際に綾の姿を見たことはなかっただろう。結だけが、綾の悲しみや言動を具に知る事が出来た。

 女の綾となり、綾は茅萱を待ち続けた。自ら毒を呷り、命を囮にして茅萱を待ち望んだ。茅萱はそれでも帰ってこなかった、茅萱に会いたくて綾は更に毒を飲んだ。

 殺人鬼としての綾も、結となり街を彷徨った。実際に何人か殺している、結に強い自覚はない。ふらふらと人を殺し、夢か現実かわからぬ記憶に蓋をして朝を迎えた。少年や草糸を襲ったのも、殺人鬼の結であった。


「綾は病気だったんだよ」

「そうですか……」


 綾の生み出した結と綾。少年が包丁を振り下ろす直前の結は、少年をも綾と見間違え手を伸ばした。一体自分は何だったのか、綾とは誰だったのか、交わって、死んでいった。

 そんな事に――拘る少年でも草糸でもないので、過ぎた事は過ぎた事として会話を切った。


「あぁそういえば」


 少年は思い出したように言ってから笑った。


「綾の元になった女なら居るよ、死んでるけど」


 結の作り上げた、綾の雛形の女性。


「写真ならあるよ、見る?」


 草糸は首を振った。

 恐らく、草糸の想像する通り。柔らかな女性が、微笑みながら写っているのだろうから――。


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