Aya and Yui

信じている――。

 その言葉は、脅迫なんかよりよっぽど強迫だった。



 二人は約束通り"犯人"を襲撃しに向かった。

 初めて出会った時みたいに名前を呼ぶこともなく、横に並んで歩いた。粉雪のちらつく早朝は昼間より遥かに冷え込んでおり、草糸はコートをしっかりと留め、マフラーを口元までぎゅっと上げた。少年はタートルネックにセーター、そしてダッフルコートだったので、マフラーは必要ない。

 コンクリートの床が灰色を僅かに残し白に包まれていく、誰も除雪しない場所に向かうと、どんどん雪が面積を増していった。

 雪の上にが居た、そこに綾が待っている事は解っていた。

 犯人が"実際に"出てくると、なんだかいよいよ緊迫した空気が体を這っていた。


「よく来たな」


 綾は声色に鋭さを含み、姿は黒の結のようであった。まるで人をリンチして海に沈めやすいような、そんな倉庫の周りが約束の場所だったものだから、草糸は戦々恐々としながら綾に対峙した。胸に手を当てると、コートの下には護身用具があった、昨日買った護身用具であるが、綾の身体能力の前に、果たして繰り出すことが出来るか疑わしい。なにせ一度"殺され掛けているものだから"、気持ちの問題でも、どうにも綾に気後れしている。

 色のない空が三人を見下ろしているようだった。冷たい風が塩の匂いを運び波音がやってくる。他人の姿はない、だってきっと海に沈める為に無人の倉庫に呼び出されたのだから。

 雪に濡れるからと綾の提案で一番近い倉庫に入った。埃っぽくて薄暗い、三分の一が物置みたいに山積みのダンボールに占領され、残りは広々とした四角い空間だった。障害物はない、つまり銃撃戦にでもなれば弾は邪魔されるものなく標的にぶつかるという事だ。

 綾はコートの腰ポケットに手を入れていた、後ろを向いているので、なんだか余裕といった感じが腹立たしい。まだ手を出さないという意思表示の元、綾は振り向いて草糸を覗う。

 初めて襲われたあの日から綾はずっと草糸を狙っていた、"自分の殺そうとした人間を逃したのは初めてだったからだ"

 故に少年は草糸の周りを監視していた、こうして綾を襲う機会を虎視眈々と狙っていた。病院で荒事を起こさなかったのは、互いに牽制だけで済ませていたからのようだ。探り合っては、何れ殺すと水面下で嗤っていた。

 病院での"綾"の手の動きは、確率三の内三で当たりだったようだ。


「オレの依頼を果たしてくれるから、一緒に連れてきてくれたんだろ?」

「どうでしょう」

「依頼内容はオレ達二人を場に立ち会わせる事、つまり君は理由はどうであれ依頼を果たした事になる。一つはな」


 綾の思い通りに少年を誘き出したことは確かなので、草糸は少年に対し苦い思いで足を引いた。


「退けよ、お前はもういらない」


 少年が前に出てきて草糸を手で引き下げる。雑魚は御役御免というように視界から外され、草糸は大人しく壁際まで後退した、綾からは注意を逸らさなかった。

 綾はやはり折りたたみナイフをポケットに仕舞っているようであった、それが初日に草糸の首を切ったものかは定かではないが、嫌な冷や汗が伝った。少年は包丁を取り出した、草糸はなんて事だと頭を抑えた、あれは草糸の自宅の包丁だったからだ、もし凶器としてあれが発見されたら、出処を辿られて一発で終わるだろう。回収は必ずしようと誓った。


 少年も綾も互いに相手を殺すつもりなので会話を挟む隙もなく飛び出した。綾のナイフが切れ味良さそうな、実際ヒュンッと鳴り、空気を切って少年に降りかかる、少年はそれを躱して包丁を突き出す。作り話みたく謎の能力が出てきたり華麗に金属音を響かせたりなんて瞬間は全くなく、ただ人間の出来る範囲の身体能力で二人は刃物を振り合った。ダークネスとは言えない、だが、生々しい人間の殺し合いとなり場は殺伐としていた。血が飛び散ると、どちらのものともいえないそれが古錆びた倉庫の床に染み込んだ。


「そんなにオレが殺したいか」

「ああ、髪切られたの根に持ってるから」


 少年は後ろ髪を掻き上げ笑う、そこにはなにもない。


「オレも君が邪魔だよ、早く茅萱に会いたいよ」

「茅萱は殺人鬼なんかに会いたくないよ、"もう何人殺してきたんだ――?"」

「わからない、夢か現実かもわからない」

「どっちもだよ」


 綾は突如ふらふらし始めた、人を殺した殺人鬼という言葉が引っ掛かったのか、少年に対峙するのを止め自分の手のひらを眺めた。

 赤がついている?

 夢か現実か区別出来なくなっていると言われた通り、綾は人を何人も殺していたかもしれない、またそれは夢であり、全くの無罪だったかもしれない。どうにも頭がくらくらしてくる、夢を見ているというのなら、リアルな傷の痛みは嘘という事になる。嘘ではない。綾は何人もの人間を殺しているのだ、殺して、現場を見に戻ったのを"草糸に見られている"

 酩酊すると同時に現実が遠のいた。

 独り言が綾の口からぽろぽろとこぼれた、綾は自分が誰なのか、何をしてきたのか解らなくなった、まるで自分の行動が自分の取ったものではないような感覚がする。

 少年は今を好機とみて刺しに走った、精神を破綻させた綾は言葉を呟くだけであった。

 綾はだが、ふらふらと独り言を呟く中で少年に反応した、包丁を弾き、虚ろな目でナイフを水平に押す。少年は刃を避けようとして、体を反転させたところで綾の足に引っ掛かった、足払いは死角であった下方で華麗に少年を掬い上げていた。少年は倒れ込む、だがただでは倒れない、手を付き受け身をとると、直ぐ様起き上がり、綾の足に抱きつくように押し倒した。


「ツカマエタ、今すぐぶっ殺してやるよ」

「オレは殺人鬼なのか?」

「殺人鬼だよ、殺した数かぞえてみてよ」


 倒された綾の目は体と同じ天井に向けられていた、だが、敵であるはずの少年の動作を追おうとはしない。意識がどこかに浮遊しているように、綾という人の抜け殻が転がっていた。少年は綾の体をよじ登り手からナイフを奪った。


「お前は何人か殺している、そうやって夢の中にいるままにな」

「夢などみていないよ、私は人を殺してなんかいない」

「"私は"、じゃあ"オレ"はどこへ行った?」

「オレは、綾を守りたい」

「綾は"ここにいるよ"」

「綾――」


 綾がそこに居る――。少年に優しく手を伸ばす、少年の髪に愛おしく触れる。少年は、何の前フリもなく奪ったナイフを振り下ろす。

 だから

 ――草糸は謝った


 少年の後ろから布を口に押し当て、少年を抱きとめた――。


「いい匂いでしょう? おやすみなさい」


 ナイフが少年の手からからからと床に落ち、草糸はそれを遠くに滑らせた。


「ここへ来る前に君は僕に『信じている』と言ってくれましたね、それは全くの嘘だと、ここ何日か付き合ってきましたから、解っていました。だから僕はこういう手段に出ます」


 草糸は「ごめんなさい」と同時に少年を背中から強く抱きしめた。髪に顔を埋める、さようなら。

 少年はそれから草糸に何も言うことなく、綾の上に倒れた。


「"結さん"これでよかったんでしょう? 貴方の二つ目の依頼はこの子を始末する事、つまり、"僕に死体処理の仕事を正式に依頼するという事"」

「あぁ、そうだったかな……」

「この子は貰い受けますよ」

「ちゃんと、殺してからな……」


 草糸は躊躇って、少々時間をくってから、別れを惜しむように少年の傍から立ち上がった。黒い結はコートのポケットから拳銃を取り出した、いつでも撃つ事が出来たが、包丁に対し拳銃は卑怯であるとして取り出さなかった。笑った、そう、いつでも撃てたのだ、障害物のない倉庫で、弾は楽に少年に当たっただろう。それをわざわざしないでやった、オレは優しいと言わんばかりに結は嘲笑を讃えた。

 結は少年を自分ごと起こし、襟首を掴んで額に銃口を押し当てた。


「結さん、僕はね、死体が好きなんです、だから最近空の冷蔵庫が広すぎて、風呂に誰かが浮いていないのが寂しかった」

「よかったじゃないか」

「何がです?」

「だってこの子が次の同居人に」

「どうしてですか? どうして? 僕はこの子が好きなだけで――」


 なんにも疚しい事は考えていないんですよ。


 血飛沫が舞った。生きているうちに心臓から包丁が引き抜かれ、夥しい量の血液が噴出した。結は目を見開いていた、一度ドクンと脈打った心臓が、次の瞬間ぶち破れて結を動かなくした。引きずり出された包丁が少年の手の中にあった、結は後ろに倒れた。二度と、起き上がる事はなかった。


 終わった。

 草糸はあっけない結の死にぺたりと膝を付いた。

 時間が必要だった。少年は人を殺す前にある準備をしなければならなかった、それをしなければ人殺しとして世界から消えるからだ、準備さえすれば人殺しは可能であった、人殺しに成り下がるための準備には一つだけ重大な穴があった、それは無防備に倒れ続ける時間を、繋ぐ何かが必要である事だった。

 弱点を補ったのは、赤の他人だった。

 少年は寝たふりが、本当に得意であった。


 少年は返り血で真っ赤になる、元々赤いものがどす黒く滲んでいた。血に濡れた髪の間から真っ赤な目が覗いた、その時、笑った。

 少年は死んだ結に跨った。

 少年はもう死んでいる結に包丁を振り下ろした。

 草糸は背筋が凍りついた。少年は死体を包丁でめった刺しにしていた。その顔はまさに殺人鬼とかそういう類で、今近くに寄ったら確実に殺されるだろう事はわかった。

 草糸は尻を引きずりながら少年から離れた、まともに動けなくなっていた、けれど、体のどこかから熱が湧き出してくる、恐らくその熱は死体を陵辱する少年に対しての卑しい想いだと自覚した。

 少年の顔に飛び散った血が夥しい量になって顎から流れ落ちていた。血で手元まで染めた中には、包丁があるかなんて判別出来なくて、少年は赤い塊になった手元を、壊れた結に向かって幾度となく振り下ろした。もう死んでいる結を、少年は最後まで食い破った。

 カランと、やがて包丁が投げ捨てられた。ゆらりと立ち上がった殺人鬼は、にたぁと嗤って草糸に視線を落とした。


「どうする? 死にたい?」


 草糸はふるふると首を振った。


「殺したいなら、いつでも来いよ?」


 少年の顔なのに、少年ではないもののようなそれは、やがて怯える草糸の足の間に膝を付き、草糸に寄りかかった。そのまま、動かなくなった。




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