Alright then, let's go

綾の病室に居ると現実を忘れそうになるばかりであった。部屋の中に何か薬が充満していて、それだから悪い幻覚でも見ているのではないかと。綾が居なくなり、結が別人に見える。それが恐らく、草糸を狂わせ連れていく仕掛けなら、そろそろ綾の為に臓器を抜かれるのかもしれない。


 草糸は病院の外の売店で温かいココアを買った。悪い薬を喉へ押し込むようココアが流れた。白い息が吐き出され、結と少年をぼやかした。


「結、綾はそろそろ死ぬだろう」


 少年の慈悲のなさは今更であった。結に直接綾は長くないと平気で言える精神を、結も理解していて繕わせようとはしなかった。


「私がずっと見ているのに、綾にいつ毒が渡る?」

「身辺の監視や、食うもん全部先に毒味してんだろ?」


 結も買った温かいレモネードを喉に流す。


「毒味の私は死なない、なのに綾は死ぬ。やはり医者か? それとも」

「――俺かもしれないって? じょーだん、お前が虫一匹通さない網を張ってんのに通れるわけないでしょ」

「綾は茅萱さんに会いたがっている、会うまでは、死なせたくない……」

「会えば死んでいいってコト?」

「いい加減にしろ」


 結の気迫と少年の軽薄さは水と油であった、又は火に油を注ぐとも言う、何れ混ざり合って燃え上がるのではないかと、草糸は温かいココアを含んで留意するしかなかった。

 突如、ぐっと背中が引かれ草糸の手からココアが零れた、少年の強い力にコートが引っ張られ、それに伴い草糸は後ろ歩きで結から引き離された。少年と草糸は結から三メートルの距離を取る形となった、なのに――結は三メートルの距離を一瞬で超えていた。

 ちっと舌打ちした少年と草糸が結によって引き離される、草糸は尻もちをつき、少年は結に両腕を掴まれ思い切り壁に押さえつけられた。ガンっという音の後、結の左手がわざとらしく少年の右腕を引っ掻き、少年はぎゅっと目を閉じた。


「どうした? こっちにも欲しかったか?」


 逆の、綺麗なままの方の腕を結の指先が這いずる。


「いらねぇ、よ」


 結は不敵に笑いながら、最後にもう一度少年の両腕を掴み壁に叩きつけ、そうしてから踵を返した。

 草糸は慌てて少年に駆け寄った、ココアはどこかにいっていた。少年は引っ掻かれた右腕を押さえ壁を背中からずり落ちた、コートの下の、滲んだ痛みが繊維を汚していた。



 草糸は二度目になるだろうか、少年の腕に包帯を巻いていた。暖房器具の前で温風が少年の肌に当たる、疑惑を掛けられていた気がするが、それは今は持ちだすネタではないと、今回は少年の服を脱がせた。ざっくり切れた腕に指を這わせる、浮かぶ赤い線の盛り上がりがどうにも視界から離れない。

 実は草糸はそろそろ重みが欲しいのだ、この部屋に一人切りは寂しすぎる、共に住んでくれる"人"が欲しいのだ。それは、もちろん少年でもいいし、いや、少年しか嫌だと今は強く思う。


「何故弱いのにつっかかるんですか」

「うるさい」

「結さんは君より背も高いし動きも素早い、無闇に挑発するのはよくないと思いま」


 す――、と続く前に暖房器具が音を立てて悲鳴を上げた。

 頭が痛い。倒れた草糸の顔に焼けるのではないかという熱さが当たる。音を立て稼働し続ける暖房器具が横倒しになり、息が出来なくなるくらい温風を送り続けていた。早く退きたいと思っても、草糸の上から掛けられる体重により体が思うように動かない。

 耳が痛いという言葉があるが、まさに少年はそれだったようだ。草糸は伸し掛かる少年にごめんなさいと謝り、なんとか暖房器具を起こしてもらった。押し倒された体勢は戻してもらえなかった。

 少年は左腕で草糸を殴ろうとした、ので草糸は左腕を両手で受け止めた、ならばと少年は右腕を持ちだす、草糸はどうしてこうも同じ過ちを、そういうのを二の舞とか言うが、するのだろうと素直に拳を受け入れた。どちらにも、痛みが走った。


「君は乱暴ですね」

「お前も身の程知らずだ」


 少年はすんなり退いた。


「殴って満足しましたか?」

「痛い」


 珍しく本音を出してきた、草糸はなんだか嬉しくなった。


「もう暴れないで、ほら、温かいコーヒーですよ」


 草糸は頬を擦りながら少年にコーヒーを淹れ差し出した、少年は草糸が出したコーヒーを口に含む、一口飲むとことりとカップを置き、二度と口には持っていかなかった。

 少年は眠った。コーヒーに薬を入れておいたのだから人前で寝ない少年もこくんと倒れてしまったのだ。隙を見せない少年が唯一本音を吐いたが為に、こうして温かいコーヒーに引っ掛かってしまったのだ。

 草糸は支度をした、夕暮れ時には戻って来たい、少年を一人寝かせておくのは心配だ。布団の中の少年は、寝顔だけはなんとか邪悪さのない、素の顔の造りのままだった。草糸は火元を確認し、少年に行ってきますと延べ玄関を出た。



 草糸はあらかた欲しいものを手に入れると、袋を片手に持ち帰路に着くつもりだったが、一つだけ、帰路に着く前にしなければならない事があった。約束の紙を開いた、地図を丁寧に書いてくれなくても、地元だから迷う事はない。

 密会というにはそこはあまりにも普通のカフェであった、と思いきや、やはり密会であったので、カフェの裏の人気のない場所が指定位置であった。

 なんだか、夕暮れ時までには帰れない気がした。


 約束通りやってきたのは結だった。草糸が見た結は、黒とか白とかそういう問題ではなかった。だが確かに結だったので、草糸は帰宅時間を気にしながら口火を切った。


「病院でそっと紙を渡すって事は、聞かれては駄目な話なんでしょう?」


 誰にとは言わなくても分かる。


「ああ、手っ取り早く言うが、君に仕事を頼みたい」


 そうやって、結が依頼した仕事の内容は草糸を浮かれさせるものであった――。


 結が居なくなってから、依頼の内容を反復してみた、熱が溜まる、興奮が収まりきらず儚い顔の造りを崩した。

 実は袋の中に護身用具を、これでもかとたくさん買って持ってきたのだが、襲われるとか、連れ去られるとかの展開にはならず、ほっとすると同時に金を無駄にした気分になった。が、金の話をするだけ野暮だというくらい、結の依頼内容は魅力的なものであった。

 万が一にも尾行されないようにと、保険のつもりでコーヒーに薬を盛ったわけだが、草糸の誤算は、少年が人を一切信用しない、孤独な針みたいな存在だった事だ。



「で? 金で俺を売るの?」


 どうやら、一部の会話を遠くから聞かれていたようだ、結の目と耳の鋭利さが少年を敏感にさせ、近くで全て聞き取られるという事はなかったようだ。


「……」


 沈黙。


「ザンネン、君とは良い関係が結べそうだったのに」

「嘘ですね」

「即断か、何故そう思った?」


 今ここに少年が存在することが、信頼もくそも何も端から結ぶ気のなかった証だ。繊細な密会を、これからしますなんて草糸は顔に出すような方ではないので、少年は最初から草糸の事を一パーセントも信頼していなかったという事だ。コーヒーも飲んだふりで、そうして寝たふりをして、草糸を欺いたのだ。少年の生き方は孤独であったが、その鋭さが、草糸は愛しかった。

 愛しいという部分は切り取り、少年に納得させた。少年は肩をすくめた。


「俺は結が思うように犯人じゃない、今から話す事を信じる信じないはお前の勝手だ。本当の犯人は――綾だ」

「それは嘘です」

「出鼻をくじくなよ、もう少し聞かないの?」

「綾さんが自殺という事でしょう? それはないです、犯人は結さんです」

「結か」

「君は――


 綾はこの夜風みたいに右手を降っても掴めない。だから綾では確実にないのだ。


「綾は梳理茅萱くしけずりちがやが好きなんだよ」

「それも作り話です」

「作り話じゃない、綾は梳理茅萱に会いたがっている、お前が言う、揺らぎない確実と言っていいよ」

「百歩譲って、なら、茅萱さんに会いたい綾さんが何故自分の命を毒に託しますか?」

「教えて欲しい――?」


 何故かそこで微笑を持ち出した少年に、嫌に粘ついた空気が首元を這った気がしたのだが、草糸ははいと頷いた。


「今、お前死んだからな」

「何故」

「不承不承って顔いつまでもしてるなよ?」

「要領を得ない」

「しらばくれるのが得意だな」


 草糸は怪訝な顔をし、だがそれ以上少年に反論する気にはなれなかった。


「俺、お前をからかってるから」


 不意に少年が笑った気がした。


「一体どの部分で?」

「聞いたら笑えるよ」


 その笑える部分を、笑いの種にされている草糸本人は尋ねた。答えを聞くと、確かにからかわれていたと断言できた。


 少年と草糸は話し合った。明日、結に依頼された通り約束の場所に行く。犯人を剔抉しよう。

 綾に毒を盛っている奴も、少年の追いかけている奴も、草糸を殺そうとした奴も、"みんなまとめて"殺そう。

 二人して夕暮れ時を通り越した夜道を歩いた。



 少年は、草糸みたいに誤算している。

 草糸は、犯人が誰かとかより、少年の事が、ただ好きだった――。


 そこに、物事の真実なんてどうでもいい。



 帰るとやはり、玄関の鍵は開けたままになっており、泥棒がタイミングよく侵入してきたらどうしてくれるんだと草糸は少年に問い詰めた。少年はだって鍵持ってなかったし、なんて、当たり前の言い訳で草糸の目からすり抜けた。

 何日か学校に行っていない事を思い出して草糸は暫く勉強した。隣で少年が勉学を馬鹿にしてきたので、草糸は少し反論や説教をしてみた。結の依頼の日時は明日だから、明日までは少年は草糸の元から離れることはない。

 楽しかった。

 寝る前に風呂に入ろうと思った、使えるようにちゃんとなっているから。冷蔵庫は? ――大丈夫、いつでも冷えているよ。

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