Could you tell me your name?

とても綺麗なものがあるとしたらこう答えるだろう

 それは君のみせる赤色――と。



 朱墨草糸しゅずみそうしは髪を整えていた。黒に近い茶髪は何度櫛を通してもくるんと流れに逆らってくる。押さえつけたりわざと癖毛を演出してみても納得出来ない。仕方ないので最後に一回だけくしけずると櫛を仕舞って鏡の前から立ち去った。撫で付けられた髪の中で癖毛がくるんと生き返った。

 手洗いから廊下に戻ると、草糸の周りには人が集まってくる。同年代の若い男女が入り乱れ、わらわらと、草糸のピンク色の瞳を覗き込む。


「草糸君遅かったね、大丈夫だった?」

「また倒れちゃったんじゃないかって、心配で」

「どんだけ心配性なんだよ」

「煩い! 草糸君は体が弱いんだからちゃんと見ててあげないと」

「トイレの中まで?」

「いかないわよ!」


 草糸に関係ないところで男子と女子の小突き合いが始まる。曰く、今言い争ってる二人は互いに互いが好きらしい、が、思いを伝えられずに無意識に喧嘩で繋がっていようとしているとか。

 草糸は直ぐに倒れてしまうんじゃないかと心配されるような儚い顔に眼鏡を掛ける。喧嘩をしている二人を宥めてみるが、騒ぎに声は掻き消され、無意味だったと周りの友達に苦笑いを送った。

 喧嘩する二人が先頭を取り、そして後続の草糸達と食堂に向かう。

 肉類は止めよう、草糸は麺類に視線を固定した。

 空席を見つけ団体はテーブルに着く。

 食事中も楽しい会話は終わらない。テーブルを囲む顔はみんな柔らかく明るい。草糸の周りはいつもこんな感じだった、窓から眺める景色は冬の真っ只中で、風が吹き、白んでいた。雪は降っていなかった。

 体が弱く休みがちだという事を除けば、草糸は頭も良いし、友達もたくさん居る、理想的な学生生活を送っていると言えた。


「草糸君気を付けて帰ってね!」

「はい、ありがとうございます、さようなら、また明日」

「さよならー! ほら、早く来い!」

「うっせー、じゃあな草糸また明日」

「うん、また明日」


 彼と彼女がいつまでも手を振っている、ぶんぶんと大きく腕を動かす彼女と、そんな彼女にまたちょっかいを掛ける彼。

 早く告白すればいいのに、草糸は思いながら踵を返した。


 自宅に鍵を挿し、回す。玄関から差し込んだ夕暮れ色に廊下が綺麗に染められて、靴を脱ぎ、オレンジ色の中を縫って自室へ向かう。

 家族はいない、訳あって一人暮らしをしている。両親は実家にて健在である、仲は良好で、たまに顔を見せに行っている。母の手料理を美味しく食べたり、父と世間話をする機会もある。草糸は両親が好きだし、ずっと長生きしてほしいし、両親も同じ気持ちだ。人当たりもよく、優秀で、とりわけ優しい息子を二人は誰よりも誇りに思っている。

 草糸は暫く勉強してから着替えと風呂用具一式を持って外に出た。草糸の自宅は亡くなった祖父母が住んでいた家で、少々古めかしい作りだし、華々しい一人暮らしに似合った物件でもないけれど、浴室がないなんて事はない。ライフラインだってしっかりしている。けれど草糸は夜の銭湯へ向かった。

 服を脱いだ草糸の体は細身ではあったが、痩せこけているということはなく、一般的な男子の体付きで、常に厚着をしているのは実は直ぐに風邪を引くからという類のものではなかった。

 一切肌を見せないような服装から現れたのは焼けていない肌、それを洗って湯船に浸かり、また服を着て銭湯を出た。

 帰り道はいつも決まっている。湯冷めしないよう厚手のコートで体を包み白い息を吐く。

 月が綺麗だと空を仰ぎながら前を見ずに歩いていたのが、果たして――たぶん悪かったのだろう。

 草糸は突然腕を掴まれ物陰に引きずり込まれた。直ぐに護身術を掛けようとしたが、相手は格闘家かとでもいう程技に掛からなかった。背後から拘束される、口を塞がれ、持っていた物は手を振り乱した時に落としてしまった。

 ピタリと、冷たい感触が喉元に当たった。

 金属のようなものが中に入ってくる。ズッ、ズッと繊維を引っ掻くように首の中を進む。

 ――こんなところで、僕は死ぬのか

 そう思った。

 体が跳ね上がる。それが、弾き飛ばされてコンクリートにぶつかった衝撃だと気付いた時、草糸の上を誰かが通り過ぎた。見上げる中には赤い髪があった、夜の中で黒とも見まごう、だが草糸には、赤だと分かった。

 草糸より年下であろう少年は格闘家か何かという相手に殴り掛かる。草糸なんていないように少年は最初から相手だけが目的だったと襲いかかる。相手は拳をさっと躱し、銀色の閃光を一振り流す。ちっと舌打ちが聞こえ、同時に草糸の顔に何かが付着した。手で撫でてみると、指には赤黒い色が引きずられていた。

 草糸は動く事も出来ず二人を見守っていた。やがて、どうやら少年のしつこさにうんざりした相手は逃げてしまったようだ。標的を取り逃がしてしまった少年の怒れる赤い目が、草糸を見下ろした。


「お前、あいつの知り合い?」

「いや、わからないです……」

「ちっ、使えねぇ」


 少年は苛立たしそうに拳を握った、切られた右腕から闇の中でもわかるくらい血が流れてコンクリートを濡らしていた。


「助けてくれてありがとう、傷の手当をするから、うちに」


 草糸は立ち上がり少年の左手を取った。少年は不愉快だというように草糸の手を振り払った。


「うぜぇんだよ、俺はあいつを殺す、役に立たねぇんならさっさと消えろ!」


 気性の荒い、尖った刃物みたいな少年は睨む。草糸はそれでも少年の言う通り立ち去ることが出来なかった。

 少年を、帰したくなかった――。


 首が痛むのを理由に屈んで見せた。少年は思惑通りいかず傷付いた草糸に見向きもしない、苛立たげに先程の人物が消えた先に視線を固定している。


「あの、僕も首が痛いので、どうせだから、一緒に手当をしましょう」


 草糸は演技は諦めた。


「何度言ったらわかる? 施しはいらねぇんだよ!」

「来て」

「離せよ!」


 少年はうんざりしたように添えられた手を振りほどいた。草糸が掴んだのは右腕だったので、血液が飛び散り、少年は思った通り腕を押さえた。

 痛いなら言うことを聞いてください、と、どうにも上から物を言うように草糸は少年の、次はちゃんと切られていない腕を両手で引っ張った。落とした荷物と一緒に、草糸は少年を連れ帰った。



 まさか死にかけるとは思わなかった、十代で通り魔に首を切られて死ぬなんて知らない人のニュースでいい。草糸は自宅の居間にこうして腰を付けていられる事に安息を感じた。草糸の隣には少年が立っている、祖父母の古臭い家が気になるのか、それとも草糸に視線を合わせたくないだけか。赤い目は、綺麗だった。


「首終わったから、次は君の手を見せてください」


 少年は暗い赤のダッフルコートを脱ぎ、同じく暗い赤のタートルネックの腕を捲くる。自宅に連れ込まれてまで抵抗しようとは考えなかったようで、望み通り赤い切り傷を晒す。


「だいぶ深くいってますね、これは、明日病院に行った方がいいかもしれません」

「……かもな」


 てっきり病院なんか行くかと怒鳴られるかと思ったがそうでもなかったようだ。取り逃がした相手との邂逅も時間が経った、冷静になってきたのかもしれない。

 草糸の目が少年の腕を上から下まで眺める。この腕に――

 草糸は少年の腕を撫でていた。


「お前、そういう趣味あんの?」

「え、いや」


 咄嗟に濁した言い方になってしまったのが、少年にその手の趣味がある、予備軍みたいな位置付けを促してしまったようだ。弥縫策すら出せなかった。

 それはさておき、傷周りを消毒し包帯を巻き、タートルネックの袖を下ろした。袖が傷に擦れるのか少年は苦い顔をするから、草糸は脱いでしまえば? と言おうとしたがそれこそ、その手の趣味があると疑われた状態で切り出すのは躊躇われた。

 寒いからね、と一人用のコンパクトな暖房器具の温度を引き上げる、少年の髪に温風が当たり、後ろは短いのに、何故か横だけ長い髪を揺らす。


「何故そんな中途半端な髪型なんですか?」

「掴まれて切られたんだよ」


 少年は実演するように草糸の後ろ側に回り髪を引っ張る。少年が背後に居るというだけでゾクゾクした、もしかしたらそのまま首を一突きにしてくるのではないかと期待じみたものが、心地よい悦楽になって体を支配する。後頭部がガクンとなり、無事髪は切れる。草糸の髪は短かったので、切られてはいなかった、実演と言う名の例えだからだ。


「だから、殺すよ」


 少年は草糸の背中をとんっと押して引き離した。草糸は背中を小突かれたって倒れたりしなかった、どうやら友達全員過剰に過保護になっているだけらしい。

 ところで、少年は"殺す"と言っただろうか、この世界で人殺しは生きてはいられない。人を殺すなんてそりゃ、簡単に口には出来るし、少年の非行な態度からも暴力的な言葉は日常茶飯事であろう事が伺えるが、何故か、草糸は本当な気がした。


「もしかして、あの格闘家が」

「誰だよ格闘家って」

「さっきの、あの人は護身術を掛けようとしても掛からなかったし、動きも洗練されていました。貴方が追い掛けてるところからして、先程の人が殺したい相手なんでしょう?」


 少年は当てられたかと眉を顰めたが、ここまで関わり合った故に草糸にその通りだと白状した。

 少年はそれから居間を出た、草糸は少年が挨拶もなしに出ていこうとするなんて予測のうちなもので、少年を引っ張り居間に連れ戻し座らせた。夜も深いので寝ていけと勧めた、少年は寝込みを襲うかもよ? と冗談めかしたが、少年が人殺しを成せる人種だと知っても狼狽えたりしなかった。不安な心の警鐘が鳴り止まないのが、寧ろ心地よくてたまらなかった。


 名前すら知らない人殺しの(成せそうな)少年を家に泊めた。同じ部屋に布団を敷いた、寝る前には色々話をした、名前を聞くのは忘れていた。



 朝、草糸が目を覚ましたら少年が枕元に膝を付いていた、そのまま顔を近付けてくる、布団の上から力強い手で抑え込まれ、金縛りにでも合ったみたいになる。


「朝になったら死んでるんじゃないかって、思わなかった?」


 寝かされた自分と、上に被さる少年の絶対関係。


「思ったけど、それより違う感情が己を支配した」

「へぇ、それはなに」

「期待」


 少年は少々面食らったように、自分の布団の方へ後退した。


「死にたい願望でもあんの?」

「それはない、けれど、君にならいいかもと思っている」

「お前、結構気持ち悪いな」

 

 噛んで吐き出すように言った少年を、草糸はやはり良く無い目で見ているかもしれなかった。例えば、少年が何も言わなくなったら、風呂場に連れていきたいとか。


 少年の野放図なその中に、自分にはないものを見た。人殺しを宣言する少年の、人を構成する、根幹的な部分が既に狂っていたから、興味が湧いた、気になった、だとか、それは、結構どうでもいい事なのだ。

 草糸は学校に行かなかった、勉学や友達より大事なものが今あるから、それを選んだだけだ。社会的体面なんか捨て去っても支障はないくらい、少年に入れ込んでいた。どうにも、運命の人だとか、一目惚れに近しい気がした。


 病院っていうのは、普通人命に対して優しい場所である筈なのだが、少年は危険だけれどついて来いと草糸を脅した。草糸ははいわかりましたと、身支度して、戸締まりして、少年を病院に送って行く事にした。

 漸く、名前を聞くのを思い出した。

 

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