水 ―みず―

 二夜の風は生きる気力がなかった。

 その無気力さがある人間と一致した、ナギが落ちたその日風はナギを同一と認めた。

 ナギは二夜に落ちた日から既に異能を理解していたのだ。

 小さく微力に織り交ぜ戦闘に使ったりした、流れを無風にする事も可能で、現に何度か使用してきた。

 密かに使用していたのだから調べられない限り異能と気付かれることは無い、と思っていたがアガミは見抜いていた。アガミでなければ詮索されるところだったかもしれない。

 ナギは異能を切り札のように考えていたので、いざとなる時まで知られたくはなかった。

 今はもういいと思う。少女達に切り札を使う事はないと、己の異能を説明した。


「風と言っても俺は風使いじゃない、扇子で扇げば風を起こせる、それと同じ。空は飛べない、竜巻も起こせない、渓谷を鳴らす風を操作する事なんて俺には出来ねぇんだ」


 普段なら「俺は風を操れる」と大言壮語した筈だが、それを言わなかったのは風を使役するような超能力は身についていなくて、精々流れを左右させるのが限界だったからだ。

 つまるところ風使いではなく風に語りかけ道を変えてもらう、それがナギの異能だ。

 ナギは嘘は何も言わなかった、ただ、全ても話さなかった。


 明日はいよいよミズガレの家に帰れる日。寝坊しないようにとナギが雑談を切り上げさせ、部屋はやがてナギとウルワだけになった。

 久しぶりに二人で寝ようと思ったのでウルワの部屋にナギは残った。アガミは茶々を入れずに大人しく退散してくれた。今夜は二人で帰郷を夢見るのだと時間を許した。

 同じベッドに入る。不思議な話だが、男と女、ナギはウルワが好きでも恋愛感情は一切持たなかった。彼女は大切だった、好きというより傍に居ると安心出来た。守りたいものだった、片割れのようだった。

 広いベッドに埋もれる二人は真っ白なふわふわ、羽のような髪が流れる。

 おやすみなさい。

 夜は深くなってきた。



***


 深い夜の続きは外へ繋がる。

 二夜の上空には大きな満月が野蛮な光を放っていた。太陽の如く世界を照らそうと傲慢になっている。

 月の光の元に動く影は次々明かりに晒される、ベッドを離れたナギも同じで、ナギは血を滲ませた指先を震わせていた。


「ハアっ、ハアっ……」


 赤い色は一体誰のものか、頭かぐらつく。ナギは大切なものを食い殺してしまった……たまらなかった。

 一ヶ月に一度発症し、長い時間心身共に苦しめる症状。今回は発症の間隔が早く月に二度もこの状態になっている。喉の底から水を望み、水以外考えられなくなる。

 物を引っ掻き爪が割れ、噛み付いた時に歯茎から出血した。

 時を遡る。彼はウルワが傷付くのは嫌だし、こんな姿を見られたくなくて症状が現れたら直ぐに部屋を出ていた。ウルワの代わりに城の中を壊した、その時血が流れた。

 城を壊した後更に症状は悪化し、爪を壁に立てながら外に出た。

 月は暴力的に輝いていた、ガラスが光を反射し世界は白と青だけに見える。

 今日の二夜はおかしかった、静寂な青が傲慢な光に蹂躙されている。ナギは傲慢な光を浴びて放浪した後、ようやく苦しみから開放された。

 大量の汗を拭った。

 疲れて頭か痛い。


「カンナ」


 来てくれたらいいのに、そう思うとカンナは来てくれる。

 嬉しそうに微笑む。ナギはどれだけ疲れていても、例えば五体不満足であっても必ずカンナに微笑みかける。カンナにはそれがある種の狂気に思えた。


「ナギ、爪と歯に血を付けて、人間食べてきました! みたいな魔物になってる」

「ちょ、そりゃないよ……。でもこんな顔してるもんな、そう見えたって仕方ないか」


 カンナは魔物と例えた顔を両手で包んだ。一夜にして変わってしまった、可哀想に、若々しい少年の顔は何年分も老いたように窶れている。


「その症状は治らないの?」

「ああ、城には水も食いもんもあるのにダメなんだ……。喉が乾いて、周りのもん全部壊したくなって。外に行けば何かが助けてくれるかもって……救いを求めて、結局、最後はどうにもならない、知るんだ、思い知る、俺は……」


 ガラスの大地に座り込む、彼の声は震えていた。


「この中に飛び込みたいよ……この中に行けば楽になれる」

「――それは死にたいという事?」

「……」


 カンナは聞き返した。ガラスの下で溺れる、深く暗い水の中に。

 それは諦めたと言う事、もう疲れたと言う事。

 やめてしまいたいのかと聞く、ナギは俯いたまま生も死も認めない。力なく指先を這わせガラスを擦る。ひんやりとしていてつるつる。厚みは分からない、中に水がたっぷりと入っていてプールのよう、底が見えないから海という表現の方が適切かもしれない。

 海の中に月が沈み、空のと合わせて二つの夜。

 二夜とは何か、どうやって出来たのか。元からあったのか、何時から存在していたのか。結局別世界は未知ばかりで、最後まで明かされる事はなかった。


「二夜で、俺はいつまで生きられるんだろう。怖いよ……死ぬ時自分がどうなるのか……どうすればいいのか。分からない、怖い……」

「人を殺すのはいけない事、だけどここまで酷い仕打ちをする事はないじゃない。神は罪を許す事を断絶してしまった、後悔する意味を奪い、ただ死だけを与えた、それも……残酷なやり方で」

「帰りたい……父さんと母さんのとこに帰りたい……っ、う」


 今まで一度も弱音を吐かなかったナギが泣いた。涙は流れていなかったが、心が震えていた。彼は限界だったのかもしれない。

 飢渇を見て、自殺を目の当たりにして、明日生きられるのかも分からない世界で精神をすり減らして。

 膝を抱え丸くなった背中は小さく、子供をあやすようにカンナは背中を撫でた。

 ナギは背中を上下させやがて吐き出した。


「死んでもいいよ……もう止めたい」

「それは本音なの」

「本音だよ。怖い、食べ物も飲み物もなくなってみんな死んじゃうんだ。容易に想像出来る、未来なんてない、明日が怖い……。怖いのに耐えていくくらいなら、今……誰かに殺された方が幸せだ」


 手が止まった。ナギは、まるで誰かが背を刺してくれるのを待っているようだ。

 それが一番身近にいる愛しい人に望む願いだというのなら。

 カンナは言葉を失った。ああ、やっぱりと思うと心が傷付いた。

 ナギは行ってしまう、みんな同じ。

 距離を感じて手を退けた。次の瞬間、カンナの心臓がドクンと鳴った。波紋を放ち知らせる予知。

 一秒後世界が反転した。

 来たか――。

 カンナは予め理解していなければ動きようのない突然に対応し加護領域を放つ。

 月は魔力を発し、白と青の夜は橙と黒のネガの世界に変わる。

 体中が違和感でおかしくなりそうだ。音のない世界。止まった世界。息苦しい世界。

 無の世界。

 カンナは肩を抱いて顔を歪めた。


(まさかここ迄強いとはね)


 目を閉じ再び開いた時、ネガの世界はガラスが粉々に砕けるビジョンと共に消え去った。


「……んな、――カンナ、カンナどうしたんだよ!」


 ナギが呼んでいた。カンナはナギの顔を確認した。

 ナギは何も気付いていない、カンナだけが魂の抜けた状態になったと勘違いし肩を揺さぶっている。実際は、強すぎる力に理解もしていないのだ、自分が月の魔力に当てられていたという事に。世界の人々は知りもしない、自分が月に殺されたという事に。

 カンナは呼吸を繰り返し平常心を取り戻す。表情を変える、それは人の、笑いという仕草を模倣していた。


「終わったよ、世界は」


 体に熱を送る本、文字は刻む。

 熱が発せられるのは必ずよくない事が起こる時。ハッピーになれる予言なら、カンナはこの熱を嫌ったりはしない。


「ナギ、僕は君に嫌われる覚悟がある、それでいて僕は言う」

「何……」

「死を見ろ、大切な者の死を」


 今に限って勘が冴えた。


「まさか、ウルワ……」


 嘘だろう? さっきまで一緒に寝ていた彼女が、死ぬ?

 ナギは初めてカンナより優先するものを選択した。

 カンナを視界から外す事で見えてきたものがある、今まで全く気が付かなかった、世界は――


「なんだよこれ……!」


 ガラスが割れていた。広大なガラス一面に亀裂が入っている、遥か果ての地平線までガラスが割れている。壮観だった、溢れた水で低地は沈み跡形もない。

 ナギはある程度高地に居た為沈む事はなかった、だが城は、ウルワの居る城はもしかしたら水に飲まれてしまったかもしれない。

 無心で駆け出した、城の方へ、ただウルワの元へ。

 急がなければ! けれどナギの周りは孤島のように水に囲まれていた。


「くそッ!」


 焦る、水の中に飛び込む決意をする。死ぬ為ではない、ウルワを助けるためだ。

 いざ足を水に着けようという時。


「その水――死ぬよ」


 カンナが言った。


***


水が溢れるこの世界は、さぞ彼等の渇望を満悦するものでしょう――。

 私は世界の奴隷、権能は従い、森羅万象の隷属としてのみこの世に存在する。



 ごぼっごぼっと気泡が弾ける音がする。耳を澄ませば砂漠の中に泉が出来たのかという、不可思議な音。

 風に乗った冷気と水音が下層からやってくる。

 少女は三階から窓を開ける。

 視界を閉ざした少女は額に包帯を巻きつけ、それは瞳を覆っている。その包帯に水分が付着する、城の三階にまで水の飛沫が飛んできたのだ。

 染みた部分に指で触れる、指の湿り気を擦り合わせる。


「み、ず……」


 雨の日の臭い、窓から香る水辺の臭いに少女は涙を流しそうになった。

 思い出さねばならない。此処は二夜、二夜に雨は降らない、水もない、水源はここにはない。

 全てはまやかし。

 ならば少女は何を体感しているのだろうか、あるはずのない水の気配は何故外から溢れんばかりにやって来るのだろうか。

 開け放たれた窓の外で群衆の声がした。


「水だ……ッ、水だあぁぁ!」

「はっ、はは」


 誰でも知っている目の前の液体をわざわざ名前で呼ぶ。指差し、足を入れ、腰まである深さに驚く。空笑いの男だって無意識に笑顔が飛び出てしまう。


「完全に床上浸水してるし」


 城を振り返る者。


「飲んでも大丈夫か?」


 透明をすくい上げる手。

 ばしゃばしゃ。やがて大人達はみっともなく水に乗り込んで行く。「はしゃぎ過ぎだ」と、子供ではない事実を注意している者も隠しきれず浮かれて後に続く。着衣のまま、肌に吸い付く布すら湿って気持ちいいと、城の住人全てが水の中に体の一部を入れた。――入れた。

 少女は目が見えない為外には行かなかった。気泡が弾ける音、やがて人々の喧騒を飲み込む、少女は窓の元に膝から崩れ落ちた。


「ウルワちゃんっ!」


 アガミが部屋を訪れた時少女は、ウルワは床にへたり込んでいた。白く長い髪が水に湿って大量の蛇のように艶めいていた。


「ウルワちゃん立てるか? 上に行こう」


 事態は急速だと、アガミはウルワの手を引き立ち上がらせた。次に切迫した事態の説明をしようか迷ったが止めた。少女の様子と窓が開け放たれていた状況から既に気付いてしまっているだろうけれど、無駄な気遣いをそれでもアガミは続けた。

 月よ、何故そんなに野蛮に輝く――。

 開け放たれた窓の枠に入り切らない巨大な月、巨大質量を持ったそれは二夜に強襲しようとしているようだった。



「カンナッ、これどういう事だよっ!」


 孤島に取り残されたナギはなんとか浮き出した陸地を伝い城へと戻って来た。泥濘んだ土に転ばないように注意しながら靴底を泥だらけにした。

 戻って来て見たものは以前より小さくなった城、それがやがて水に沈んだ下部を残した上部なのだと気付いた。そして、水に浮かぶ何十という死体……。うつ伏せに、仰向けに、それは塊として無造作に浮いていた。やがてその中の一体がゆっくりと水に沈んでいく。

 凄惨な光景に思わず足が震えた。バランスが崩れ体がぐらつく、カンナが咄嗟に腕を引いたが、カンナが居なければナギは水の中に倒れていただろう。


「しっかりしなきゃ」

「な、何が起こってるんだ……」

「僕は月が怖いからあそこへは行かないよ」


 会話の流れを無視し、見当違いな返答をしたカンナは思いもよらぬ行動に出る。


「え?」


 消えた。

 あれだけナギを庇護していたのにあっさりと逃げ出した真意がナギには理解出来なかった。唖然とする。忽然と姿を消したカンナを探すように周りを見渡したが何もない。

 まるで、愛してくれていた筈の親に突然置き去りにされた子供の気持ち。愛されてなかったのか、理由があるのかもわからない。ただ、取り残された。不安だ、今のナギを満たしたのは孤独。


「カンナ、カンナ?」


 目の前に浮かぶ死体、カンナの消失、水に触れたら死ぬという恐怖……。

 不安が膨らみ、一人きりの心細さがナギを弱気にさせる。一分程泣きそうな表情をし、それからナギは頬を叩いた。心に火を灯さなければ、火で不安を焼き払え。


(ウルワは外には出てないはず、だからまだ城にいる、沈んでいく城に)


 大切な家族を守る。それだけがナギの体を動かさせる。

 ナギは水から頭を出す飛び石の陸地を、何度も躊躇ってから意を決して飛ぶ。一歩一歩がこんなに恐ろしかった事はない。

 飛び石を全て飛んだところで前のめりに倒れた、後ろを振り返ると陸地は水の中に沈んでいた。もう戻れない、例え絶海の孤島に取り残されようとその道を突き進んだ。彼はこのまま家族を守るだけだろう。



***


 奪われるだけの国、中央――。

 低地にある街は水中に沈んだ都市と成り果てていた。盆地状に窪んだ土地だった故にガラスが割れ、ヒビから水が溢れ出した次には真っ先に海底都市と成り果てていたのだ。

 住んでいた人は眠りと共に大半が死亡、野蛮な月を眺めていた者、さらに水に入ったり飲んだりしなかった者だけが高地へと向かい避難していた。

 避難している人々はわずか十人足らず、それ以外の何十という中央の住人は今さっき死んだのだ。

 鮮明すぎる記憶、ありえないような出来事が十分程の間に現実として起こったのだ。

 生き残りは恐怖した、肩を震わせ、じわりじわりと侵食してくる水から足場を奪われ逃げていた。


「い、いつまで逃げられる!?」

「もう無理だ、逃げ場なんてない!」

「やだよ」


 海面が迫り上がり大地を飲み込むように、逃れられない自然の脅威が足元に迫る。

 彼らはなだらかな山の斜面を登る、高いところへ、もっと高いところへいかなければ。


「あっ」


 生き残りの内一人が恐怖で足が絡まり転倒した。気が付いた時には斜面を転がり、やがて待ち構えていた水の中に落ちた。


「たた、た助けて、助けてッ!」


 我に返った一人は水が手足に絡みつく冷たさに恐怖し、必死の形相で助けを求めた。

 死ぬ、死にたくない! 手足をばたつかせる。水は生き物のように体に絡みつく。一人ではどうしようもない、お願い――! 手を伸ばした、懸命に叫ぶ


「たすけ、で! たすけて! がはっ、死にたくない!」


 斜面の上から見ている者は動かない。足を震わせ溺れる人物を見殺しにする。やがて溺れていた人物は手足を静止させ、底しれぬ暗い水中へ沈んで行った。

 暫くして、変わり果てた姿で浮かんできた。


「あ、あぁぁぁぁ!」


 彼等の中で恐慌状態が弾けた。死の恐怖が伝染し、彼等は叫び、走る。無我夢中でひたすら斜面を登った。



 山の上に、彼は居た。

 山の神のように土地に鎮座し、膝の上には横たわる老婆の姿。


「貴方達は……」


 パニックに陥り、命からがらといった状態で山頂に辿り着いた彼等は咳をしながら膝を落とした。山の神……いや、紳士服の人間が山の神であるはずも無く、冷静に、諦観した瞳で水の侵食を見据える姿に視線をやる。

 紳士服の人物は息を切らす彼等にもう一度問い掛けた。


「貴方達は、貴方達も逃げてきたんですね」


 彼、ミズガレは過剰に神経質になり、疲労で動けなくなった数人の人間に事情を聞いた。


「突然にしてガラスが割れ、ヒビの底から水が溢れ出し、住んでいた家や土地は水底に沈んだと」

「そ、そうだよ! 中央は沈んじまった、あぁぁ」

「私も二夜の端から来ました、どこも状況は同じのようですね」


 ミズガレは膝の上の老婆をそっと隣に寝かせて立ち上がる。山の頂から淼茫たる世界を見遥かす。

 水は山をも飲み込んだ、ここは幻想世界かという程現実離れしていた。山の頂と頂の間に湖が出来、街は沈み、人は死に、巨大な月が真昼のように白く世界を照らす。

 帽子を引く、その下から覗く切れ長の瞳は世界の終わりを見据えているように落ち着いていた。

 眺望する世界、動き出した終焉への始まり。

 ミズガレは右手を差し出し世界に問うた。


「私に死をくれるのか?」


 誰にも聞こえない声は世界に響く。


「私は水では死ねないよ」


 皮肉な世界に落胆する。

 ミズガレの周りだけ水が迫っていない。それは小魚の群れに大魚が接近した時のように。ミズガレの周りから水は引いていく。

 だからこの山は沈まないだろう、周りの人間はいつか気が付く、ミズガレがミズガレである事実に。

 死の中に彼という結界がある。不確実で見通しのない状況はやがて絶望と知るだろう。

 ミズガレはユキノを再び膝に寝かせた。

 二夜の終わり、そして私達の始まり――。



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