過去と未来

ミズガレの傍からウルワが居なくなって数日が過ぎた。

 家に溢れていた声が消え、家族の存在がなくなり、心に埋まっていたものがなくなった。思い出は孤独と言う名の溝になる。

 ミズガレは大切に育てていた植物を捨て鉢を割った。

 掃除を忘れ、料理を忘れ、生活を忘れ、不摂生に陥った。

 音のしない部屋にはユキノの息だけが規則正しく繰り返す。弱く脆く息は吸って吐かれる。

 ミズガレはユキノの隣に正座していた。目は開いているが脳は働いていない。見ているものを脳が認識しないので彼はユキノを見ていてもそこにはウルワを見ていた。

 彼女はいない。胸に抱く彼女の温かさは過去で、柔肌がもう手のひらに思い出せない。死ぬときは一緒と誓いあった彼女は隣の国に行ってしまった。

 腹が鳴る。腹が減っていた、いつも鳴り止まない空腹の訴えは今日も続く。何を食べよう、いや、食べる気にならない。ミズガレは顔を上げた。

 現実に戻ればウルワの体ではなくユキノの痩せこけた顔が横たわっていた。

 もしもミズガレという人格が悪を育んでいたなら年老いた死にかけの老婆等見捨てていた、断言出来る。それが出来ないからミズガレはウルワに会えずにぼーっとしている、意識が薄い。

 また思案に耽る。――死んでおけばよかった、首を絞められたあの時か、はたまたいつでも。そうすれば今という無意味な時間は世界軸から消えていた。

 ミズガレは首に手を当てる、熱い喉、締め付ける彼女の指はない。彼女がいない、彼女はいつ帰ってくる。

 迎えに行きたい、心からの願い。叶わない原因は目の前にある、ミズガレの手のひら、ホントは自分の中にある。幾度となく巡らせた思考がまた回る、二夜に死にかけの老婆を看病してくれるような優しい人間はいない。結論は一つにしか行き着かない。


「ウルワ……、待ってるから」


 男の命は少女がいなければ風化していく。



***


「ミズガレ……」


 広い部屋、大凡検討もつかぬ色の空間。か細い手を伸ばしてみても指先が壁まで届かない、暗闇の中をよちよちと歩きながら手を掻き彷徨う。四角いはずの一個室なのに空にでも投げ出されたように何もない。

 閉塞感が欲しい、見知った家族の中に安心して座っていたい。懐かしくて優しくて涙となって流れる思い、ウルワは膝を崩して床にへたり込む、こんなにも絶望的なのは部屋が広いからではないだろう。

 知らない場所で暮らすのは怖い以外のなんでもない。


「どうしたのです?」


 俯くウルワの手を掴んだのは茶髪の少女だった。料理を運んで来たら部屋を徘徊する盲目の少女を見つけた、壁を手探りする少女が諦めて膝を付いた時、茶髪の少女は手を差し伸べた。


「もう諦めちゃったんですか、健気に這い回り外に出ようと思っていたんでしょう?」

「帰りたいです、私がここに居ても何もない……。私は何をすればいいのですか。数日間私はこの部屋に入っていただけで何もしてない……、オウサマさんは私に何をさせたいんですか……」


 ウルワは茶髪の少女の手を引き尋ねる。


「帰りたいです……」

「帰れないかもです」


 ウルワの不安を少しも汲み取らず茶髪の少女は事実を告げる。


「紳士様の所に帰るのは諦めてください。だいたい貴女が彼にこなくていいと言ったのですよ? 今更強がりだったなんて泣いても無駄なのです」

「……」


 その通り、ウルワは無責任な自分の言葉を噛みしめる。


「……ミズガレは、元気ですか」

「それは私の知るところではないのです。私も二夜に居る以上殺人者なのですよ、何もかも貴女に優しいわけがないのです。でも、貴女のお世話や友達になるくらいならいいのですよ」


 友達。喜ばしい筈の関係を持ちかけられるが、ウルワにとってそれは有り得ない。そんなものが受け入れられる習慣のある二夜はもはや真っ赤な色に染まっている。人殺し同士結婚する、人殺し同士笑い合う、二夜は中々に腐っている。ウルワは思う。人を殺しておきながら愛を育み命を授かり、馴れ合い笑顔を浮かべ、だからと言ってナギやアガミを差別出来ない、ミズガレを慕う自分自身も腐っていると。

 それでもウルワは息をしたいと思う、ミズガレと居られる最後の日まで。


「あなたは誰を殺したの……」


 今、心に余裕のないウルワは不謹慎でタブーな質問でも軽惚と口にしてしまう。茶髪の少女は素直に答える。


「お父さんです。あいつは嫌な奴だったのですよ〜、私の体を触ったり、その体でお金を稼がせたり。殺してやった時は素っ裸で昇天してましたので、死体を見つけた人はもれなく阿呆な格好にお笑いものだったでしょうね〜」

「そんな、笑って言う事なんですか……?」

「面白い話の種ですよ、殺してやった時世界で一番すっきりしたのです、だから辛くなくて、むしろざまあみろです。最後に娘と思い出も作れて、奴も満足でしょう」


 茶髪の少女は袖を捲り手首を晒す。それが見えないウルワに少女は手首を差し出し触らせる。


「解ります? これはもはや黒歴史にも相当しますよ、他にも、胸にも尻にも切り傷があります、触ります?」

「いい……」


 茶髪の少女は残念がった。見せてあげようと思ったのにと勲章を自慢するように。

 茶髪の少女のざらざらした素肌には過去がこびり付いている。彼女はウルワの知らないところで過酷な人生を送っていた。当たり前の事だが、それがウルワには抜けていた。世界は一筋縄ではない、人は何万、何億といて、その人が一人一人命を持つ。百の感情があり、千の人生があり、万の選択がある。

 茶髪の少女に人生があるように他人にもウルワにも自分だけの過去がある、未来がある。

 茶髪の少女の話が省察のきっかけとなったウルワは零しかけていた涙を引っ込めた。


「オウサマさんに会わせてください……」

「帰りたいってお願いするのですか?」

「はい、座っていても何にもならないから」

「まぁ、出来る限りサポートはしてあげますよ。紳士さまの可愛い妹さんのためですからね!」


 茶髪の少女は意気込む。ウルワを助ければミズガレの好感度が大幅に上がる。考えが筒抜けの少女に、ウルワは少しだけ口元を緩めた。


「るりなさん、でしたよね」

「そうですねぇ、私はルリナですねぇ、ルナでいいですよ」

「ルリじゃなくてルナ?」

「ルナの方が至極個人的に可愛くて好きなのです」

「解りました。ルナさん、私の手を引いてオウサマさんのところに連れていってください、お願いします」

「お行儀のいい子ですね、死ねよクソ野郎と実父に吐いていた私とは大違いです。じゃあ、オウサマのところに行きますか! とその前に、一緒にご飯食べましょうよ! 腹の虫がグゥグゥ騒いでいまして。お菓子もあるのですよ?」


 ルナが皿から丸い菓子を摘むと風に乗って甘い臭いが広がった。ウルワは袖で鼻を隠す。噎せ返りそうだった、懐しい、実の家族と食べたお菓子の思い出に。



 オウサマの部屋には刃物が並んでいた。それ以外にもインテリアや物の趣味等世間並な感想があるはずだが、ナギの嗜好が悲しくも刃物に視線を定めてしまう。

 カッター、ナイフ、包丁、ハサミ、ノコギリ、薙刀、剣、鎌……名前を上げたら切りがない、ずらりと棚の上やケースに横並びにされた刃物達は、使用された痕跡を残してギラリと輝いていた。

 刃物にしか興味を示さないナギに自分と同じものを感じるオウサマは声の調子を軽くしナギを呼ぶ。

「こっちに座って」と自分は先に白いテーブルに着き、向かいの席にナギを座らせた。


「あれは私の趣味なんだ。綺麗ですよね」


 頬杖を付き刃物の棚に視線をやる。微笑みが貼り付けられている、その顔は楽しそうに綻ぶ。


「どれが好き? 私はハサミ。ハサミはね、紙を切る為の道具として済ませたら勿体無いよ、あれは手に直接肉の硬さを感じるためにあるんだ」


 えげつない内容を彷彿とさせるがナギは引かない。野菜をナイフで切る時の自分に似ていて、むしろ理解し合う事が出来るくらいに思ってしまう。


「ああそうかい。それより話ってなに、そもそも俺達をこっちに連れてきてどうすんだ、お前の人形にはならねぇし、働けっても盗みはやらねぇぞ」

「まくし立てないで、まぁ聞いてよ。少し質問をするよ、まず――華矜院かきょういんって知ってる?」


 このタイミングでの思わぬ質問に、一瞬きょとんとしてからナギは答えた。


「知ってるに決まってるだろ、華族なんて一巡じゃ有名すぎる、知らない国民が居たら笑うわ」

「じゃあ次、君は華矜院の人?」

「ちげーよ、全然知らない奴ら。俺は松籟しょうらいナギ」


 ナギは自らの姓を松籟と告げた。家族構成は両親二人にナギ、一般的な家庭環境に生まれ一般的に育てられた少年。故に華族である高貴で名高い名家、華矜院等と繋がりがあるはずもない。華矜院の会社に両親が勤めていたというわけでもない。


「ではその髪はどう説明する? 白っぽいよね」

「華矜院にしかない白い髪、だろ? それ会う人会う人言われんだよ、けど俺は華矜院じゃない」

「証明出来る? 君の両親は白い髪じゃなかった?」

「違う、俺だけがこうだった」

「なら華矜院の血の遺伝が世代を跨いで君にだけ現れたのかも、どう?」


 オウサマはしつこく白い髪を穿鑿する。ナギは意見を信じて貰えない不満と両親を思い出した事によりささくれ立った。


「あぁそうだな、確かにそうかもな。俺はじいさんばあさんを知らない、もしかしたら何処かで華矜院と繋がってたのかもな」


 オウサマは待ってましたとばかりに微笑んだ。


「そう、その証言が欲しかったよ、ありがとう!」


 暴君と呼ばれているオウサマだが今はどう見ても子供っぽい童顔な青年でしかない。無害で、暴力とは無縁の見目麗しいだけの存在。銀の髪は窓から入る太陽の光できらりと光る。


「で、俺が華矜院の血を持ってたとして、なに? 金もないし身分もないし役に立たないと思うけど」

「役には立つよ、欲しいからって言ったじゃない。お願い、少し付き合ってよ、いい結果が得られたら直ぐにあのお兄さんの所に帰してあげるから、ね? ね?」


 身を乗り出してナギの両手をぎゅっと握るオウサマ。益々子供っぽくなるオウサマの言動がナギには不気味だった。だがオウサマの言う通りにしていればミズガレの元に帰れる。頷く以外になかった。


「アガミとウルワも帰せ、それから奪われるだけの国にくるの止めろ、部下にも止めさせろ。水も食料もルールを持って分け合え、そして節約しろ。そしたら協力してやる」


 次々ナギの口から追加される要求は軟禁されている少年のものとは思えない程に高姿勢だった。オウサマはあっけらかんとして、そして冷笑した。立場の優劣を弁えない不敵な物言い。不遜な少年は暴君に対して恐縮しない今までになかったパターンをとった。何より二夜の未来に向かい合う姿勢、どの人間にもなかった。


「乱れた二夜を統率しろと? 夢物語だね、そんな事出来るわけがない」

「あんたなら出来るかもな、だってあんたはオウサマなんだろ? 荒くれ者を支配するだけの力が、異能があるはずだ、じゃなかったらあんたが王に祭り上げられてる理由がない、とっくに悪に国もあんたも蹂躙されてる」

「失礼だな。人徳の成せるわざと言ってよ!」

「ないな」

「も〜う……、確かに支持されて立ってるわけじゃないんですけどね。――支配。君にはこの意味が分かってるようだね」

「あんたの異能、教えろよ――」

「それは宣戦布告かな。いつか私を倒そうと」

「さあな」


 笑い合う。口が歪む。互いの腹を探る駆け引きは無言が延長する。


「月――、私の異能は月さ」


 長い静寂の後、口を開いたのはオウサマだった。


「月は世界の半分を支配している、分かるか? 二夜の半分は私の時間だ」


 瞳が射抜く。ぞくりとした。ナギの背中に冷たいものが走る。

 オウサマの目、二夜の泉のような目が氷に覆われている。ナギの体は全く動かない、汗が頬を伝い指が小刻みに震える。これは……、暴君に支配されているという感覚なのか。


「勝てるか? 月という女王を携えた王に」

「さあ、な……」

「いいよ、挑みたくなったら何時でも来るといい。月のない時間にでもね」


 硬直が溶ける。眼力だけで屈していた事実を誤魔化すようにナギは椅子から立ち上がった。

 椅子の影が揺れる。ナギは知った。今は夜ではない、月もなく体が動かなかったのは、オウサマという底知れぬ存在に純粋に畏怖していたからなのだと。




 ルナはウルワの手をぎゅっと握り廊下を進んだ。

 オウサマの城と言っても絵本に見るような典型的な造形の巨大な城が建っているわけではない、城というのは根城という意味合いが強い。

 それ程大きくない、しかし城というだけの広さと高さと、装飾された窓に柱に鋭い屋根をこの建築物は持っていた。

 誰か建てたか解らない年代物の城は先住民が建て直し使っていたようで、それが今となってはオウサマの城となり悪の拠点となっている。

 その悪の拠点だが、見た目は優雅な白い城なので禍々しさは全くない。内装も白と青で統一されている。

 廊下にも青い絨毯が敷いてあった。靴音は柔らかい毛に吸収されるのでウルワにとって他人の存在を探るには息遣いと気配でしか推測出来なかった。それがまた恐ろしかった。


「ルナ」

「はい?」


 廊下の向いからルナを呼び止めるのは一人の男だった。くすんだ金の髪に歴戦の傷を纏ったしなやかな肉体の男。

 ルナは男の名前を思い出そうとする、しかし目の前の顔と記憶にある数々の名前が該当しない。


「誰でしたっけ? 顔の良い殿方は覚えているはずなのですがねぇ」

「おっ、嬉しいねぇ。出来れば名前も覚えててほしかったよ、オレは俊足」

「俊足? 名前がです?」

「オレに名前はねぇさ。変わりに俊足とそう呼ばれてる」

「……ああ、最近ここに来たばかりの、足の速いあの」

「そ」


 俊足と呼ばれている男は漸くルナが自分を思い出してくれたところで本題に入った。


「オウサマはいるかい?」

「居ますよ」

「会いたいんだけど、今いい?」

「今はこの子に会う時間で取られると思うので、夜なら。私が伝えておきましょうか?」

「たのむ」


 ぴっと片手を上げて俊足はウインクをする。ルナは爽やかな俊足へのトキメキでぱあっと笑顔になった、ブレない少女である。俊足はすれ違いざまにウルワをそっと見てから廊下を下って行った。

 ルナはまた歩き出す。絨毯は突起もなく躓かないのでウルワを自分の速度に合わせて引っ張る。やがて城の上階にあるオウサマの部屋に辿り着いた。

 コンコン――。ノックの後にルナが言う。


「オウサマ〜」


 いつでも快活なルナはウルワの手を引っ張りオウサマの部屋に入った。まず目に入ったのはナイフとハサミを持ったナギとオウサマだった。


「何をしていたのです?」

「殺し合い」


 ナギは血の付いた調理ナイフを払った。


「ここから突き落とせば死ぬのかなって」


 開け放たれた窓から風が入り込みカーテンが流れる。窓は額縁となって美しい青空を映す、風の音が抜けるその先は人間では舞う事の出来ぬ無限の空。


「ルナぁ、この子が私を殺そうとするんですよ。ちょっと奪われるだけの国に血と涙をと冗談を言ったら」

「お前の命令一つで異能を持った軍隊が動くんだろ。人は何人死ぬ? お前が一人死ねば他は助かる」

「冗談なんですよ、冗談」

「……」


 ナギは黙った。これ以上踏み込むものではない、その時ではない。


 「ところでルナは何の用ですか? 恐らくそちらの娘が私に何かあるのでしょうが」


 ウルワはルナの手を離し前に出る。


「あの、うちに……帰らせてください……。何か出来る事があればします、から……」


 精一杯声を出したつもりが、オウサマという知らない人間に願いを聞き入れて貰えるか解らず徐々に小声になる。オウサマの気配がウルワに近づくとウルワは身構えた。


「君も華矜院?」

「えと、私は……華矜院ではないです」

「この子も遺伝のあれ?」


 オウサマはナギに会話を振る。ナギは知らねぇよと言いつつ理由があるんだろとあのしつこい穿鑿がウルワに向かないように操作した。


「白い髪がこんなにも傍で見られるなんて、私はついてるねぇ。しかも二人も」

「そういうあんたも銀髪だろうが」

「そうでしたね」


 白い髪も銀の髪も、何か曰くがあるように。ただそれ以上は誰も語らない。語るべき時が来るとしたら、


「朗報だよ。もう直ぐ君たちはあのお兄さんの元に帰れるかもね」

「本当ですか?」

「渡りをつけたから、安心しろウルワ」

「ナギが? ありがとうっ」


 ウルワは手を付き出して誰かを探す。誰もが分かりきっているように、ナギが進み出てウルワの手を取り胸に抱いた。

 ウルワは見えない分体で存在を確かめたがる。男性には簡単に近づかないが、ナギやミズガレには体を寄せる。


「兄妹みたいですね、違うんですか?」

「違うよ、俺達は家族」

「あれれ? 家族なら兄妹なのでは?」

「家族なんだよ」


 白い髪をした二人は家族という言葉に同じ一人の男を思い出した。男の事を考えると気持ちがとても落ち着くのを感じた。



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