あんたは「ユーキ」
「なんじゃ? 今朝はやけに賑やかじゃな」
その時この部屋の奥にある勝手口のドアが開き、祖父であるガストンがそう呟きながら入って来た。家畜の世話を終え、家の裏手にある物置で道具の手入れをしていた彼は、その作業を終えいつもの様に部屋の中へ入って来たのだ。
優しいにこやかな笑みを浮かべてエリスとマリエスを見た彼の動きが僅かに止まったのは、その視界に聖霊を視止めたからだ。だが動きを止めたのはやはりほんの一瞬であり、家族以外ならば誰もその事に気付く事は無かっただろう。
しかしエリスもマリエスもそれに気づいてしまった。家族全員、少なからず同じ気持ちなのだから気付かない訳がない。
―――『招かれざる者がやって来た』……と……。
だがやはりガストンもそんな気持ちを
「なんとまあ、聖霊様か? エリスに顕現したのかの?」
ユックリとエリスの方へ歩を進め、彼女の傍らに飛んでいる聖霊をマジマジと見つめた彼の疑問に答えたのはエリスでも聖霊でも無かった。
「ええ、あなた。今朝エリスに顕現したそうですよ。今夜はお祝いしないといけませんねえ」
優しくゆっくりとマリエスそう答えた。彼女の演技はガストンのそれに比べて上手とは言えなかったが、それでも目一杯嬉しそうにそう言い、そんな彼女にガストンも調子を併せた。
「そうじゃな。それじゃあ儂は、裏山で鳥でも獲って来ようかの」
そう言ってガストンは、壁に掛けてあった猟銃を手に取り空へ向けて構えた。
このモルグ村は主に麦の耕作を行っており、食肉用に鳥や牛を飼育している家もあるが殆どは狩猟で調達している。村のすぐ近くに小動物が多数生息している山があり、多少狩猟の心得があればすぐに狩る事が出来るからだ。
「お祖父ちゃん。今日は……付いて行って良い?」
エリスが少し遠慮がちにガストンへ尋ねた。いつもは彼の邪魔になってはいけないと思い、同行は遠慮しているのだ。
それに少なからず験担ぎもある。つまり“山の神は女性が狩猟する事を快く思わない”と言う“しきたり”を、この村でも少なからず信じられているのだ。
明確に禁止されている訳では無いものの、やはり女性が狩猟目的で山に入る事は遠慮されて来た。エリスもそれは十分に心得ており、普段はそんな事を言わなかった。
だからこれは彼女の“最後の我が儘”なのだろう。好奇心旺盛な彼女は、以前から狩猟に興味を持っていたのだ。
また、成人していない子供が一人で山に入る事も禁止されている。こちらは村の決まりとして明確に禁じられており、まだ小柄な子供が山に入れば狩りに来た者に小動物と間違えて撃たれる危険があるからだった。ただこちらは保護者が同伴し、十分に注意するという条件下であれば容認されている事ではある。
「しょうがないの。じゃが、決して儂から離れるんじゃないぞ」
いつもなら首を縦に振る等無い事だが、今度ばかりはガストンも了承した。彼女が狩猟に興味を持っていた事を、彼は薄々知っていたのだ。
「ほんとっ!? お祖父ちゃん、ありがとうっ!」
念願叶ったエリスは本当に嬉しそうであり、それを見つめるガストンとマリエスの目もどこか優しいものだった。この瞬間だけ見て取れば、本当にただの一家団欒である。
「聖霊様。城への出立は明日で宜しいですか?」
そんな団欒から蚊帳の外だった聖霊に気付いて、マリエスが声を掛けた。
「え? あ、うん。そうだね」
突然話を振られて、聖霊は当惑しながら曖昧な返事を返した。彼にそんな決定権があるのかどうか話を振ったマリエスにも分からなかったが、この世で万人に敬われている聖霊であるのだからこの場の誰よりも決定権を持っているに違いないと思ったのかも知れない。そんな聖霊の承諾を得て、マリエスもガストンも安堵の表情を作った。
「そう言えばエリス」
そこで何かを思い出したように、ガストンはエリスに尋ねる。
「聖霊様のお名前は分かっているのか? 出来れば儂達にも教えてくれないかの?」
その問いに、エリスは肝心な事を聞いていなかった事実に思い至った。
聖霊への憎しみと嫌悪感で接触は勿論、その素性や情報も一切聞き出しておらず、勿論それにはこの聖霊の名前も含まれていた。
“聖霊”とはこの妖精の呼称でしかない。ある日突然顕現して、その宿主に力を貸す存在が聖霊と呼ばれる種族であるが、当然それぞれの個体には別に名前が存在している。
聖霊は宿主を渡り歩く。宿主が力尽きる時、また一定の年齢に達した時、聖霊は宿主を離れ新たな宿主に顕現する。それまで得た経験を持って。
そして余程特殊な状況でも無ければ、一番最初に付けられた名前を聖霊達は使用していた。
“聖霊”と言う存在が初めて顕現したのは今から五百年ほど前。それから百年ほどは魔属との激しい戦いが繰り広げられていたが、三百年ほど前からは現在の拮抗した膠着状態が保たれている。それと同時に、全く新しい聖霊が顕現したと言う話はどこからも聞かれなくなった。
つまり新たに顕現した聖霊と言えども、大抵は三百年前に生まれた聖霊であり、何度かの転生 (転居?)を繰り返していると考えられるのだ。当然すでに名前も持っている筈なのだ。
しかしエリスの聖霊に対する忌避感と、今後聖霊の力を積極的に借りるつもりがない“無意識な”想いが、この聖霊の名前を聞くと言う事すら思いつかせずにいた。
「あ……そ、そう言えば……まだ……」
エリスはそんな当然の事を怠っていた羞恥と、自らの秘めた思いが予想もつかない所で露見してしまった焦りから言い淀んだ。彼女の想いを、祖父母や聖霊が気付いたかは分からないが、それでもエリスは気付かれてしまったのではと感じたのだ。
「あ……俺、まだ名前って付いてないんだった」
その時両手を頭の上に組み聖霊が思い出したように呟いた。衝撃的な内容とは裏腹に、何でもない事の様に呟く聖霊をガストンは絶句して見つめた。
「なんと……それではあなた様は新たに生まれ出た聖霊様と言うのですか?」
それは三百年前に最後の聖霊が出現してから初めての事だった。少なくともガストンの知る限りでは、それ以降新たに生まれた聖霊の話は聞いた事が無かったのだ。
勿論彼が全ての情報を把握している訳では無く、軍属でも無ければその様な事を知る機会は少ないとも言える。ただ聖霊の出現に関して言えば、決して王国の軍務に携わる者だけが知り得る情報では無いのだ。聖霊の顕現に法則性が確認されておらず、何時自分が勇者となるか分からないと言う事を考えると、国民全てが関心を持つ事でもあり自ずとその情報も万人の知れる事となるのだ。
「うん、まぁ、そう言う事になるのかな?」
だがこの聖霊に、自身が数百年ぶりに新しく顕現した聖霊であると言う自覚は低い様だった。この国の民ならば大ニュースとなる事であっても、彼にはあまり興味が無い事なのだろう。
「だからまだ名前が無いんだよ。エリス、何か良い名前付けてよ」
聖霊にとってはそんな事よりも、自分に新しく付けられる名前の方が興味を惹くようであった。
「お名前が無いと不便ですの。エリス、何か良い名前を付けて差し上げなさい」
馴れ馴れしく聖霊に話を振られややムッとしたエリスだったが、ガストンに優しく催促されれば断れる筈もない。
「う……うん」
そう答えて考える仕草を取ったエリスだったが、しかし本当の所はどうでも良かったのだ。全く興味のない事を考える事程無駄な事は無い、と言うのが本音だった。
だが“何でも良い”と言うのは実の所難しく、下手に適当な名前を付けて後で後悔するのも困りものであるし、だからと言って本格的な名前を付ける為にあれこれと調べる気など毛頭なく、出来れば今ここで済ませておきたい事だった。
そんな事を考えている内に思い至ったのは、あるお伽噺に出て来る悪戯好きの悪魔だった。
まるで妖精の様な姿をしたその悪魔は、見た目と裏腹に性悪で残酷だと描写されていた。
その悪魔の名は「幽鬼」。
コウモリを模した羽根でフワフワと彷徨い、旅人を見つけては罠に陥れ、最後には裁きにあいその身を滅ぼしてしまう小悪魔だ。正しくこの聖霊にピッタリではないかとエリスは思い至ったのだった。
「……ユーキ……」
何のひねりも無く、ただそのままの呼び名をこの聖霊へと名付けた。古い物語に登場する小悪魔の名前を知る者等そう多くいる筈もなく、他に良い名前は浮かびそうもないし考えるのもバカバカしい。こんなくだらない事にこれ以上時間を割きたくないと言うのがエリスの本音だった。
「この子の名前は今日からユーキよ」
この国の民に少なからず畏敬の念を込められている聖霊に対して、“この子”と言う呼び方も失礼に値するかもしれなかったが、そんな感情を持っていないエリスの口からは自然とそう零れたのだった。そして当の聖霊はその事を気に留めた様子は全く無い。
「おお……おおっ! 俺の名は今日からユーキかっ!」
それどころか初めてもらった名前に興奮している様子であり、周囲の反応など上の空で自分に付けられた名前を連呼していた。
「ユーキ様、どうぞエリスを宜しくお願い致します」
新たに名付けられた聖霊の名前を呼び、ガストンとマリエスは恭しく頭を下げた。初めて他人に自分の名を呼ばれたのが嬉しかったのか、ユーキはパァーッと明るい顔を彼等に向けて親指を立てた。
「ああっ! 任せてよっ! エリスは俺がバッチリと守るからさっ!」
そして満面の笑みでそう答えた。
(守るって……どの口がそう言うのかしら……)
聖霊が顕現し勇者となれば、どんな者でも戦いに身を投じなければならない。魔属と唯一戦う手段を与えられた者の、それは務めだ。
そして戦いとなれば死と隣り合わせになる。例え此方が子供だろうと少女であっても、戦った事も戦い方も知らない者だろうと、魔属は一切容赦してくれよう筈もなく、力及ばなければ死あるのみだ。
エリスにしてみれば、彼女を戦場へ誘(いざな)う死神であるにも関わらず、何をどうやって自身を守る等と言っているのだろうかと、疑問と侮蔑の念が沸き起こっても仕方が無い事であった。
そんな事を考えながら、ユーキと祖父母のやり取りを能面の様に感情がこもっていない表情でエリスは見つめていた。
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