「ガストン」と「マリエス」
重い足を引き摺って、エリスはようやく一階に辿り着いた。
決して大きいとは言えないこの家の階段は、やはり決して長いとは言えない。しかし今日、彼女にとっては非常に長く感じたのは間違いない事だった。
それは明らかに、先程受けた衝撃を完全に処理しきれなかったからに他ならなかった。
心の中に未だ渦巻く驚きや怒り、憎しみや悲しみと言った感情を、彼女がこの僅かな時間で制御しきるなど、十五歳の少女に出来る筈が無かったのだ。
それでも泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりし続ける事を考えれば称賛に値する自制心と言える。
それは彼女の性格に寄る処だろうか。
エリスは本来、普段から感情豊かに表情がコロコロと変わる愛らしい少女だ。そして負の感情をいつまでも持ち続けるというような、所謂「根に持つタイプ」でも無い。
流石に自分の愛すべき人達を死地に追いやった“張本人”だと彼女が思い込んでいる聖霊に対して、その想いを無かった事にする等不可能だが、そう言った彼女の性格が負の感情に支配され続ける事を少なからず軽減したのは間違いなかった。
ただ問題が大きすぎて、軽減していると言っても気持ちを切り替えるまでには至らなかった様であり、彼女の足取りが重いのもそこに起因していたのだった。
更にこれから行う事を考えると、気が重くなる問題が増えたと自覚せざるを得なかった。それは彼女を大切に育ててくれている祖父母に、聖霊が顕現した事を伝えると言う事だった。
エリス自身にすれば両親を奪った「聖霊」と言う存在であり、祖父母にとっても自分達の息子夫婦を奪った「聖霊」である。
それが孫にまで顕現したのだ。この事実を告げた時に受ける祖父母のショックはどれ程の事かと考えると、エリスの気は重くなるばかりだった。
しかしいつまでも隠し通す事等出来ない。
聖霊は総じて妖精の姿をしている。元来本物の妖精は悪戯好きで好奇心が旺盛な空想上の生き物なのだが、聖霊もその姿に相応しく同じ様な性格をしているのが通説だ。その聖霊が、じっと隠れて大人しくしている等とは考えられない。
それに聖霊の出現は、どの様な方法なのかは分からないものの王都に本拠を置く“バレンティア”に把握されている。聖霊が顕現した者は、数日のうちに王都へ出頭しなければならない決まりとなっているのだ。そう考えると、出来るだけ早くこの事を祖父母に伝える必要があった。
伝えたくないが、伝えなければならない。この相反する二つの事が、エリスの動きを鈍らせていたのだった。
階段を下りきった先、短い廊下の正面には玄関のドアが、そして右手にはキッチンへと続く入り口がある。エリスはキッチン入り口の物陰からそっと中を覗き見た。
祖父のガストンはすでに居らず、恐らくすでに家畜の世話と畑の手入れに向かったのだろう。祖母のマリエスは朝食の用意を始める所だった。
いつもなら彼女と朝の挨拶を済ませ、ガストンがいる畜舎か畑へ走って向かう所だが、今日はそう出来ないでいた。
エリスとしては、出来るならば決心が付くまで聖霊の事は秘密にしておきたかった。しかし聖霊が見られてしまえば同じ事であり、エリスには祖父母にこの事を隠し通す自信は無く、それならば話すのは早い方が良いと決断していた。
彼女は意を決してマリエスがいるキッチンの部屋へと足を踏み入れた。彼女は流しで野菜を洗っており、入って来たエリスに背を向けている。
「おはよう、エリス」
それでも人の気配を感じたのだろう、彼女は振り向く事無くエリスに朝の挨拶を投げ掛けた。
普段よりも下りて来る時間がかなり遅くなっているにも拘らず、それを咎める事も疑問に思う事も無い様な、本当にいつもと同じ穏やかな声音。その声にエリスは、ホッと安堵を覚えると同時に心苦しくも感じていた。
マリエスの声はエリスに安心と安らぎを与えてくれるのだが、それも聖霊を見ればどう豹変するのか分からないのだ。
「お、おはよう……お祖母ちゃん」
その感情が声に含まれてしまい、エリスはいつもの朝とかけ離れたテンションで返事をしてしまった。それはマリエスに違和感を持たせるのに十分な事であり、彼女は水作業の手を休めユックリとエリスの方に振り返った。
優しい笑みが湛えられた顔がエリスの方を向く。平静に保っているつもりだろうエリスの表情は、人生経験豊かな祖母に何かあったのだとアッサリ見破られてしまっていた。
マリエスはエリスにいつもの様子と変わらない仕草を取りながら、不自然でない動きで彼女の周囲に眼をやった。そしてある一点に達した彼女の瞳が一瞬、カッと見開こうとした。エリスの傍らに小さな人の形をした、まるで妖精の様な生き物が飛んでいるのを確認したからだった。
だがマリエスはそれの衝動をグッと押さえつけて、エリスがその事を悟らない様にした。エリスが不安げな表情を湛えている理由はこの妖精に、聖霊に間違いないと即座に理解したからだ。
「おや……そちらの妖精さんは……聖霊様かの?」
聖霊を見ながら、マリエスはエリスに尋ねた。
“聖霊様”と言う呼び方はこの世界一般に使われている物だ。子供が読む絵本にさえ記されている様に、魔属との戦いで劣勢だった状況を一変させたのは、間違いなく聖霊の出現に寄る所だからだ。
聖霊がその力を発揮するまでに戦士達が幾人も犠牲になっているが、もし聖霊がこの世界に顕現していなければそれ以上の犠牲が出ていただろう。今もまだ魔界との戦いは継続中だが、二百体からの聖霊を引き連れた二百人の勇者達によって平和と呼べる状態が
この世界に生きる全ての人属にとって聖霊は天属がもたらした神の奇跡であり、崇め感謝を送る対象なのだ。“聖霊様”と呼ぶ者が殆どなのも頷ける事だった。
そして聖霊に選ばれ“勇者”となる事はこの上ない名誉な事とされている。
何よりも、わずか二百体しかいない聖霊に選ばれるのだ。とんでもなく低い確率であるし、その力を持ってこの世界の平和を維持し、魔属を退ける為に戦うのであればそう考えられるのも頷ける事だった。
世界中の、特に若者を中心として、聖霊に選ばれる事を願い夢見る者は非常に多かった。選ばれるだけで英雄視され、憧れの対象ともなった。
しかしそれも、見る方向が変わると必ずしもそうとは言えない。
数百年前の戦乱時ならば、誰の隣にも常に死が寄り添っていた。死を受け入れる事は当たり前の事であり、それは何も戦場で戦う戦士だけとは限らなかった。
数多の戦士達を宿主にした聖霊が経験を蓄積していく事に期待や希望を掛ける声が多くとも、その踏み台となった戦士達に悲嘆の言葉を掛ける者は居なかった。
人は死を迎える事で、今までに蓄積した力や経験を無に帰してしまう。そしてそうした所謂「経験」を積むには、多くの時間と努力が必要となる。
だが魔属の脅威に晒され蹂躙されていた状態では、それ程悠長に人の「成長」を待つ事など出来なかった。滅亡してしまっては「成長」も何もあったものでは無いのだから。
そこに現れたのが天界に住む天属から齎された「聖霊」と言う存在であった。
聖霊は勇者と行動を共にし、勇者が得て行く経験を余すところなくその身に蓄積させて行く。そしてその勇者が力尽きた時、蓄えた経験を以て次の勇者へと顕現するのだった。
新たな勇者は、前任者が得た「力」を聖霊より与えられ、その瞬間から「力」を行使する事が可能となるのだ。
このシステムにより人族は「力」を得るまでの時間を大幅に短縮させ、尚且つこれから得る「力」を上乗せしてゆく事が可能となったのだ。
戦乱の最中、戦場で戦う戦士達は遅かれ早かれ死に直面していた事に間違いはない。
むしろ聖霊に宿主とされ力尽きていく事は、真に無駄死にでは無かったと思わせたのだ。少なくとも自分の経験が後の者に活かされるのだから。
しかし時は流れ、魔属との戦いは小康状態となり、目に見えて大きな戦いは無くなっている。死の臭いが遠ざかれば生への渇望が強くなり、それは聖霊を得た勇者達よりもその家族達に強く現れて来るのだ。
魔属との大きな戦いが影を潜めたとはいえ小規模な戦闘は散発的に発生しており、その中で命を落とす者が居る事もまた事実だった。それは聖霊が再出現する事からも容易に知る事が出来る。
聖霊の数は今まで総勢二百体と一定である。
倒れた勇者を踏み台に、聖霊は新たな宿主の元へと顕現する事に変わりも無く、それはつまり前任者が戦闘で倒れた事を意味するのだ。そのサイクルは格段に緩やかとなっているのは、勇者全てが最前線に立つ事が無くなったからに他ならない。
勇者となった者の生存率はその配属先が大きく影響し、王都に近い後方勤務ならば生存率は高くなり、ここ二百五十年は退役まで生きている勇者が何人もいる事で実証していた。
だが配属先が“ゲート”に近くなるか魔界内での活動となると、その生存率は一気に下がる。サイクルが緩やかになったとはいえ、やはり勇者の死亡による聖霊の転生は行われているのだ。
そして現在では、後方勤務とならず戦いで命を落とした勇者の遺族にとって、その事は遺恨となる。
未だ戦中である事を考えれば、その思いを声高に叫ぶ事等出来ないものの、配属を決めた王都と軍、そして聖霊に恨みの矛先が向くのは自然な事であった。
しかし聖霊が居なければ今の平和を維持する事も儘ならない。
今この世界に住む人々は、聖霊に恨みを抱きながらそれを抑え付けて生きている。聖霊が顕現して勇者となり息子や娘が王都に向かった家族へ配慮して、戦死者を出した家族でも恨み辛みは口にしないでいたのだ。
誰が禁止や規制をした訳でも無く、隣人への思いやりからこの世界の人々はそれを実行しており、当然マリエスもそれに倣っている。
聖霊の顕現によって戦場に赴いた息子夫婦が戦死した彼女にとって“聖霊様”と呼ぶのは決して彼を敬っての事では無い。この村の住人、この国に住む国民全てに気をかけての言葉なのだ。
「う……うん……今朝……顕現したみたいなの……」
マリエスの心情を察しての事だけでは無く、自分に聖霊が顕現してしまった申し訳なさから、エリスの返事も言い淀んだものとなった。
「そうかそうか……それはめでたい事だねぇ」
どこか申し訳なさそうにそう呟いたエリスへ、マリエスはにこやかな笑みを浮かべてそう言った。だがエリスには祖母がどういう心境でそう言ったのか、全てを理解しきる事が出来なかった。
理解出来ない訳では無い。到底その心境に至る事が出来なかったと言う事だ。
息子夫婦に続き孫にまで聖霊が顕現し、勇者として魔属との戦いに身を投じなければならない。そしてその先に待つものは……死だ。
必ずそうなるとは限らないが、ただ魔属との戦いを生き残った者はそう多い訳ではなく、配属にもよるが確率的には楽観出来ないのである。
老いた自分達よりも息子が、娘が、更には孫までが戦場に駆り立てられ死へと向かうと言う想いを、残される祖父母がどう考え、感じ、そしてそれらを抑え込んで祝福の言葉を投げ掛けるか等、今のエリスに推し量れる訳は無かった。
「うんっ! ありがとう、お祖母ちゃんっ! 私、頑張るからねっ!」
だからエリスには、空元気でも満面の笑みを浮かべてこう答えるしかなかった。
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