月の上から見上げて

 真っ黒な空を見上げると、宇宙服越しにとても大きな赤い星が見えた。火星だ。無数の星々の中に宝石のように浮かんでいる。


 あたしはかろやかな足取りで月面を駆けた。きっともうすぐ見えるはずだったから。


「お嬢様、もう少しゆっくり歩いてはもらえませんか?」

 無線が耳に入る。あたしは後ろを振り向いた。あたしのたった一人の友達のネメシス君が、でこぼこした月の斜面を付属のローラーで一生懸命上がっている。


「や。君が遅いんだよ。もっと急がないと、地平線越えて先行っちゃうからね」

 あたしの友達はロボットだ。円筒形の身体に花束みたいにくっついている二つの腕。腕は無数に枝分かれしている為にあたしにできない様々な細かいことができるけど、移動するのにその腕はいらない。あたしの方が速く走れる。


 あたしは腕時計を見た。一日が終わるのにはまだ十五分ほどある。


 今日はバレンタインデーだ。


 愛する人にチョコレートをあげる日だと三日前ネメシス君から聞いた。「人なんて月面にあたししかいないじゃない」と言ったら、ネメシス君は「別に人でなくても愛していれば何にでもあげていいそうですよ、お嬢様」と言った。


 だからあたしは宇宙服の不器用な手にチョコレートをしっかりと握っている。徹夜して作ったけれど、形はちょっと歪んでいる。


 あたしが住んでいる場所からは地球が見えない。大きくて赤い火星しか見えなかった。


 あたしが愛しているのは、地球だ。


 一度も行ったことがないけれど、それでも地球はあたしのふるさとだ。何年も前に「私が地球を見た時は、青くて丸くて光っていて、それはそれは綺麗でしたよ、お嬢様」とネメシス君が言って以来、あたしは地球にものすごく興味を持っていた。家にあるあらゆる地球の映像は全部見た。どれも綺麗だった。ネメシス君は危ないからと言ってあたしを家から出してくれなかった。だから今まで本物を見ることができなかった。


 今日は、何故か、ネメシス君は外に出ることを許してくれた。


 土を蹴ってあたしは後ろ向きに走る。地面にくっきりと足跡が残っていく。その足跡を辿るようにネメシス君がローラーを転がして追っかけてくる。ネメシス君の煙突状の排気口からは、氷の結晶が煙のように立ち上り、きらきらと光っている。


 好きな人なんてできるはずがない。男の子の全部は青い地球にいるのだから。特定の誰かを好きになることなんてできない。あたしは地球の上にあるものすべてが好きだから。


 あたしはクレーターの縁に立った。


 下には、明暗のくっきりと分かれた景色が広がっている。


「お嬢様、速いですよ」

 ネメシス君がふらふらとクレーターの縁に立った。あたしは空を見上げる。


 ちっちゃな星がたくさん転がっている。その中の一番光の強い星が太陽。強さが違うだけで、星も太陽もおんなじだ。


 あたしが住んでいる場所は月の裏側だとネメシス君から聞いたことがある。月はいつも地球に同じ面を向けているから、月の裏側からじゃ絶対に地球は見えないらしい。


 なぜあたしは月にいるんだろう、と考えたこともある。なぜあたしだけが月にいるんだろう、とも当然考えたことがある。けれどネメシス君に聞いてもネメシス君は答えてくれなかった。


 空を見上げながら、あたしはチョコレートを持った右手を大きく挙げた。


 あちこち見ても、青くて丸い星は見あたらない。見つけたらそこに向かってチョコレートを投げるつもりだったのに。


「ねえ、地球って、どれ? 青い地球はどこに見えるの? すごく小さく見えるの? ねえ、ネメシス君、どれか指さしてよ」

 星の海の中に浮かぶ地球しか見たことがなかったから、実際に見える大きさなんてあたしは知らない。


 ネメシス君がごちゃごちゃとした腕を持ち上げる。器用に腕の形を変えて一本の棒に変化させる。


「あの、実はあれです、お嬢様」

 あたしはネメシス君が指で示した方向を見た。


 大きな赤い星があった。


「申し訳ございません、お嬢様」

 ネメシス君が言う。あたしには意味がわからなかった。ここからじゃ見えないということなのかもしれない。ネメシス君だって間違うことはある。あたしは地面をつま先で叩く。


「見えるところまで行こうよ。あたしまだ元気だよ」

「申し訳ございません、お嬢様」

 ネメシス君がまた同じ事を言う。


「なに? 何を君は謝ってるの?」

「あの赤い星が地球です、お嬢様。火星ではありません。今まで黙っていたのですが……」

 赤い星があたしを見ている。あたしも赤い星を見つめ返す。


 手の力が抜ける。チョコレートがゆっくりと落ちる。


 地面に落ちて、赤い地球の大きな傷痕にそっくりなひびが入った。




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2/15/2003

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