不幸な男
その男は、ビルの屋上の手すりの縁をつかんで立っていた。
手すりを左足でまたぎ、下を見下ろす。
はるか下に、豆粒のような人の群れが見えた。風が強い。尻込みしてしまいそうだ。
いや、これ以上生きていても、意味がないのだ。私は不幸な男だから。
男は非常に不幸な男だった。
努力すればする程、偶然でおきた事件でその努力は無駄となった。
重要な会社の企画書類を徹夜でやっと完成させると、会社に運ぶ途中に、交通事故に遭い、データは壊れ、家は放火に襲われた。
結婚寸前までいった恋人もいたが、事故で彼女は死んでしまった。一度たりとも幸運と呼べる出来事に遭ったことがなかった。
「これで苦しみから解放される」
「ちょっとお待ち下さい」
男は後ろを振り向いた。そこにはセールスマン風の男が立っていた。
「私になんか用ですか?今、死のうとしているのですが」
「もったいないですね」
「私は不幸な男なんだ。今まで幸運というものにあったことがない」
「だから、もったいないんです。そんなに不幸をためているなら、私の会社の幸運器を使えば、ためた分の不幸を幸運に還元できますよ。人生は山あり谷あり。あなたは、たまたま谷が多かっただけなのです」
「いくらなんですか?」
「大金です。しかし、その後の幸運の事を考えるとたいしたお金ではありません」
男はいぶかしんだ。しかし、死ぬのは痛そうだった。
どうせ死ぬのだから、お金はいらない。その機械を試してから死んでも、いいのではないか。だめでもともとなのだから。
「では買おう。もう、失う物はなにもないんだ」
男はポケットからカードを取り出した。相手はそのカードを受け取り、読取り機に通してから、男に腕時計のような物を渡した。
「つねにこれを身につけて下さい。あなたの本来もっているはずの幸運をそれが呼び寄せてくれます。不満があるときは、その腕時計に向かって呼び掛けて下さい。すぐにあなたのところへ飛んでいきます。では」
相手は小走りに走り去っていった。
「なんだったんだろう」
男は腕にはめた怪しげな腕時計を眺めた。
「だめもとなんだ。一週間様子を見よう」
一週間後、男は金持ちになっていた。
試しに馬券を買ったところ、大当たりしたのだ。たまたま、そこに居合わせた美人に一目惚れされ、結婚を前提につきあっている。
会社では取引先と親しくなり、業績も伸びた。男は自殺など考えもせず、腕時計を片時も離すことがなくなっていった。
一ヶ月、一年経つうちに、男の強運ぶりは世間の注目の的になっていた。男が買った宝くじは、三等以下になったことが無かった。
地震が起きても、他の家が全壊する中、男の家や財産は無事だった。不幸なできごとといったものに出会うことは無くなった。
「この時計はすごい効き目だ。あの時に自殺なんてしなくて良かった」
会社をやめて投資事業を起こした。投資したところは、必ず成功した。結婚をして子宝にも恵まれた。
十年経っても、幸運器の効き目は途切れることが無く、幸せな日々が続いた。
『私は、人生の前半で、不幸を体験し尽くしてしまったのだ』という名言が、新聞や雑誌に掲載された。人々は男の強運にあやかろうと、こぞって男のやることを真似した。
そんなある日。
男は自然あふれる郊外の大豪邸で、朝食をメイドに持ってこさせていた。
メイドはトレーにコーヒーを持ってきた。メイドはよろけ、コーヒーを男にぶちまけた。
「なっ!」
「すいませんでした!」
男はびっくりした。コーヒーをかけられてびっくりしたのでは無い。不幸な出来事に遭ったのでびっくりしたのだった。ここ十年間で、不幸にあったことは一度も無い。男は腕時計に向かって言った。
「おいっ。ちょっと来てくれ」
しばらくすると、家のチャイムがなり、あの男が部屋に入ってきた。
「どうしたのです?」
相手はニコニコして聞く。
「なぜ私に不幸なことが起きるんだ?」
「簡単なことでございます」
「は?」
「あなたは、不幸だった分を使い切り、あなたの人生の幸運をすべて使い切ったのです」
男が驚愕していると、あたりの地面が揺れ出した。
「あなたと一緒にいると、不幸になりますから、私はもう帰らせていただきます」
「お、おい!」
建設者が手抜きをしたコンクリートが、たまたま男の頭に降り注いだ。
---------------------------
7/17/2000
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます