エピローグ その三
エイスナハル発祥の地、エイス・ディオテミス。
石造りの建物が並ぶ清澄な街並に、男達の怒声が響き渡っていた。
その喧嘩の内容は大したことではなく、肩がぶつかっただとか、その程度のことだ。しかし、今のエイス・ディオテミスではそれが日常茶飯事となっている。
道行く人々は彼等から目を逸らし、巻き込まれないようにそそくさとそこを去って行く。
言い合いは次第にエスカレートして、片方の男が遂に力を誇示しようと片腕を振り上げる。
その間に、静かだが力のある声が割って入った。
修道服を身に纏い、加齢により白く染まった髪をしたその女性は、よく通るその一声で二人の喧嘩を収めると、お互いの言い分をよく聞いて気を落ち着けるように説得する。
法王イザベル・メル・バルテル。
彼女の言葉により男達は落ち着きを取り戻して、何度も何度も頭を下げてはその場を後にしていく。
深い皺の刻まれた顔に、慈愛を笑みを浮かべながら彼女はその全てを許し、彼等の姿を見送った。
その彼女の背後から、武装した一人の小柄な少年が歩みでてくる。
アストリット・ワーグナー。最年少の聖騎士であり、今はイザベルの身辺警護を主な任務としている。
彼等がもしイザベルに手を出せば、アストリットはすぐにでも斬り捨てるつもりだった。そうならなかったのは、お互いの幸運でもあっただろう。
人々の注目を集めながら、二人はエイス・ディオテミスの街並みをゆっくりと進んで行く。
多くの人に助言や救いの言葉を求められ、それらの相手をしながらイザベルは真っ直ぐに大聖堂を目指す。
やがて建物が途切れ、その先に大聖堂に向かう山道が見え始めたところで、アストリットは隣に歩くイザベルを見上げて言葉を発した。
「……やっぱり、未だに不安の種は尽きないようですね」
エイス・ディオテミスでは小さなことを発端とした揉め事が頻発している。これは聖都であるこの場所だけでなく、エイスナハルの教えが行き届いていた大陸中で、似たようなことが起こっていた。
「彼等は信じていたものに裏切られてしまったのですから、その不安は私達の思い至るよりも遥かに深いものでしょう」
「……御使い」
エイスナハルの使徒、御使い。
彼等は絶対ではない。むしろ、有り余る力を傲慢に振るって人々に仇なすものですらあった。
その事実が、エイスナハルの信者に与えた影響は大きかった。それすらも、この二年間のイザベルの尽力により相当改善されたものだ。
幸いだったのは、大きな反乱のようなことが起きなかったことだろうか。大方の人々はその元気すらも失ってしまったというのが正しいが。
「……彼等は、何処までも人間でした。所詮、人間でしかありませんでした。アストリット達と同じ」
「……ええ、そうね。きっと世の中には、絶対なる救世などと言うものは存在しないのでしょう」
神すらも、この世界を救えない。
山の向こうに見える太陽を見上げながら、アストリットはそう思う。
結局のところ、人間は自分達の力で強くなって、困難を跳ねのけるしかないのだ。誰かに縋ったところで、本当の救済などありはしない。
彼等のように、自分の足で立って歩いていく必要がある。
「でもね、アストリット。それでも私は、教えは必要だと思うの」
「……それは、そうでしょうが」
「どれだけ必死になっても、自分の全てを使っても立ち上がれない人もいる。……貴方にも、それは判るでしょう?」
「……はい」
こくりと頷く。
両親があのテオフィルに殺された時のアストリットは、まさにそれだった。
自分では何をすることもできない。ただ、死ぬことを待つだけの日々。
そんな彼を救ったのもまた、エイスナハルの教えだ。
「ですが、アストリットには判りません。それが、アストリットへの救済となったのかは」
「……救済ではないかも知れないわね」
今ならば言える。あれはただの逃避だった。現実から目を背けて、他者へ剣を振るうことで誤魔化していただけのことだ。
でも、だからと言って。
それが間違っているかどうかを判断することは、アストリットにはできそうにない。
「でもね、アストリット。貴方は確かに神に救われた。それは救済ではなかったかも知れないけど、神の教えは貴方に寄り添い、立ち上がる手伝いをしてくれたでしょう?」
「……手伝いを?」
ぽかんと口を開けて、イザベルを見上げる。
イザベルは自らの孫にそうするように、優しくアストリットの頭を撫でてくれた。
「そう。貴方のように、世界には光を閉ざされてしまった人がいる。立ち上がる足を失ってしまった人もいるかも知れない。私が考えるエイスナハルの教えは、そんな彼等に寄り添って、自らの道を――幸福を見つけるための手伝いをすることだと思うの」
それは優しくも、残酷なことなのかも知れない。
そうまでしても、誰もが自分の足で立ち上がることはできはしないだろう。或いは、希望を失ってしまう者もあるかも知れない。
それでも、彼女は成そうとしている。
自らが考えるエイスナハルの教えを広め、人々が自らの幸せへと自らの足で歩めるように。
「私は、ひょっとしたらエイスナハルを破綻させたものとして、歴史に名を残すかもしれないわね」
「……そんなことは……!」
「いいのよ。それが私の望み、法王としての最初で最後の仕事だもの。私がそれを果たしたら、貴方達が見届けてちょうだい。その後のこの大地が、幸福に包まれているかを」
一度目を伏せてから、アストリットは山の先を見る。
そして力強く、頷いた。
「そう言えば、今日は色々と騒がしい日みたいだけれど、貴方はいいの?」
今日という日に、何かが起こる。
誰が大声で語ったわけでもないが、彼等に関わった人ならばそれを理解していた。
アストリットもその情報は聞いていたし、イザベルは自分の情報網を使って知ったのだろう。
本音を言えば、彼等に会いに行きたい。そして色々と言葉を交わして、共に時間を過ごしたい。
「……アストリットは、まだ未熟です。今まで目を背けていた分、やらなければならないことが沢山あります」
それを聞いて、イザベルはそれ以上問いかけることはしなかった。
今はまだ、その資格はない。
アストリットはそう考える。
だが、イザベルの教えに従い、多くの人の幸福に寄り添い、その後ならば。
「胸を張って彼等に会える。そんな人になりたいです」
「なれるわ、貴方なら」
躊躇いもなく、イザベルはそう答えた。
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