エピローグ その二
オル・フェーズから南へと向かう街道。その途中を、一台の馬車が揺れながら走っていた。
豪華な飾りつけを施され、周囲に護衛を付けたその馬車の内部では、向かい合う席にそれぞれバルハレイアの王、ベルセルラーデと、その近衛であるトゥラベカが腰掛けている。
不規則な揺れの中、ベルセルラーデは窓に掛けられたカーテンを開いて、外から太陽の光を差し込ませる。
「今日で二年か」
「はい。おかしなことですが、まるであの戦いは夢であったのではないかと、そう思えます」
当然、そんなことはない。あの戦いで犠牲になったものは戻って来ていないし、その悲しみが癒えるには長い時間が必要なのだろう。
それでも、あの時起きた幾つもの奇跡が、まるであれが夢幻の中の出来事であったように思わせているのもまた事実だった。
「随分と弱くなったな、バルハレイアは」
あの戦いで最も被害を受けたのは、バルハレイアだ。多くの人が死に、国土は虚界の侵略により大きな被害を受けた。
突然戦争を仕掛けたという事実が、隣国に与えた不信感も相当なもので、今でも外交に影響が出ている。
紆余曲折の上にオルタリアと再度有効宣言を結ぶことには成功しているため、すぐに他国に攻め込まれるような心配はないであろうが、国力が大きく低下しているのは事実だった。
それが元の形に戻るまでには、長い時間が必要だろう。それこそ、ベルセルラーデが天寿を全うするまでに成せるかどうかも判らない。
「築くのには長い時間が必要だが、壊れるのは一瞬か。我が父も愚かなことをしてくれた」
必要な犠牲であったとは、ベルセルラーデは絶対に認めない。ベリオルカフが御使いの支配から脱するためにやったことだとしても、他にもっといい方法があっただろう。
それでも、彼がそれをしなければベルセルラーデが同じ行動に出ていたかも知れないのもまた事実だった。
その血脈故のことかは判らないが、あの時のベルセルラーデもまた自分の力に絶対の自信を持っていた。
「彼等には自分の無力さを思い知らされましたね」
奇しくも、トゥラベカは同じことを考えていたようだった。
「ほう。バルハレイア最強の武を誇り、あの戦いで百を超える虚界を屠ったお前でもか?」
「……ええ。例えどれだけの敵を倒したとしても、私はあの戦いの勝利に貢献はできませんでした。たった一人の武では成せないことがあると知ってはいましたが、それをまざまざと見せつけられた思いです」
悔しげに、トゥラベカは足元へと視線を向けている。
彼女も頭ではそれを理解していたのだろう。しかし、その強さや誇りが認めることを邪魔していた。
「私は、間違いなく未熟でした」
拳を固く握る。
「……だから、お前は今別の道を探しているのだろう?」
「そうですね。私一人の力ではなく、その力や心を多くの人に伝えるために」
今、彼女はベルセルラーデの護衛をする傍らで後進の育成に励んでいる。彼女の下には多くの人が集い、次代を担うための力を鍛え伸ばし続けていた。
もっともその教練は厳しいことで有名で、日々悲鳴を上げながらではあるが。
「……そう言えば、聞いていなかったな」
あくる日の出来事を思い返し、そう尋ねる。
その質問が何であるかもう予測ができているのか、トゥラベカは顔を上げてベルセルラーデを見ていた。
「何故、カナタに教えを説いた? お前は決して弟子を取ることはなかったはずだ」
若くして王族の護衛となった最強の戦士、トゥラベカ。
その華々しい立場に比べて、彼女の交友関係はあまり広いとは言えない。
「娘が成長していれば、あんな風になっていたのかと。一瞬でも、そう思ってしまったからでしょうか」
彼女は十年ほど前に、内乱で幼い娘を失っている。
それ以来夫とも離別し、自らを追いつめるように強さを追い求めてきた。
そしてそれが、あの戦いを経て変わった。それは小さな変化だが、彼女をよく知るベルセルラーデにとっては大きなものに感じられた。
今、彼女は多くの人に慕われている。大勢の弟子を持ち、彼等を通じて交友関係を広げていた。
「私がもし母のままで、娘があのように育ったのならば、それ以上の喜びはなかったでしょう」
口ではそう言ったが、その表情は嬉しそうで、トゥラベカがあの少女にどれだけの想いを込めていたのかがよく判る。
「お前が言うのならば、そうなのだろう」
そう言って、窓の外に視線を向ける。
街道の先、何もない草原の向こう。
そこに、一本の樹が聳えている。
それは誰かが世界樹と呼んだ、彼女がこの世界に残した生命の樹。
彼等の帰りを待ちわびる、道標。
「ラス・アルアの魂は受け継がれていく」
千年前、虚界との戦いでも燃え尽きることがなかった樹海の心は、こうして世界に広がって行く。
彼女もまた、ラス・アルアにある多くの木々と同じように大地に根を張り、多くの生命の移ろいを見ていくのだろう。
願わくばそれが、希望に満ちたものであることを。
そしてその為に、生涯尽力することをベルセルラーデは誓っている。
悲惨な戦いを終え、国は壊れかけた。
多くの人が死に、民は今も苦しい生活を強いられている。
それでも、王は希望を捨てない。
人々の先頭に立ち、道標として歩み続ける。あの世界樹が、多くの生命にとってそうであるように。
バルハレイアの国民にとっては、ベルセルラーデこそが自らの行く先を照らす、篝火なのだから。
――後の歴史書に、ベルセルラーデの名は燦々と輝いている。
子供の頃から青年期まではその生まれの特異さもあり、放蕩を続け、身勝手な生き方が目立ったが、ある日を境にそれは急変する。
オルタリアとの戦争が終わり、父の死をきっかけに、彼は歴史上稀に見る賢王としてその名を知らしめることになった。
ぼろぼろになった国を立て直し、各国との外交に励み国同士の結びつきを強めた。
子宝に恵まれつつも、後継者争いなどはなく、その長男に王位を譲り、天寿を全うする。
その名は、その偉業はバルハレイアの歴史に大いなる輝きと共に書き留められることになる。
▽
大海原を、船が行く。
最新鋭の技術を乗せた魔操船は、波を掻き分け、ぐんぐんとハーフェンの港から遠ざかって行っていた。
その甲板で、一人の女が伸びをする。
長身のその女は、名をカーラと言う。エトランゼで、この世界に来て悪党としてオルタリアにのさばっていた。
それが悪事から足を洗ったのは大凡一年ほど前。エトランゼが絡む犯罪組織の一斉検挙に巻き込まれ、組織を失った。
そしてそれを主導したのが以前何処かで出会った二人の少女なのだから、人生と言うのは何があるのか判らない。
一時は死を覚悟したカーラだったが、短期間の投獄の後に釈放。そして、その少女の一人、クラウディアによってスカウトされて、荒くれ者達を束ねる船乗りとして修業を積み続けた。
彼女が今乗っているのは魔操船、マーキス・フォルネウス二号。その下っ端たちを取りまとめる頭として、記念すべき新大陸への航海を進めている。
甲板に続く階段を、足音が上がってくる。
周囲の船員達がその方向に注目して、現れた白い髪の男に口々に労いの言葉を掛けていく。
その男はそれらに対してぶっきらぼうに返事をすると、カーラのすぐ傍まで近付いてきて、彼女が掴んでいる舵に目を向ける。
「炉に火は入れ終えた。これで、十日は航行できるだろう。舵はしっかりやってるんだろうな?」
「はいはい。やっていますよ、御使い様」
「……その呼び名はやめろ」
苦虫を噛み潰したような顔で、白い男――かつては光炎のアレクサと名乗っていた元御使いはカーラから視線を外して、水平線の彼方を見やった。
「では、アレクサ様とお呼びすればいいんですかい?」
「アレクサでいい。それから、下手な敬語はやめろ」
「あいあい。あたしとしてもそっちの方が都合がいいしね」
この船の代表者として乗り込んでいるのは、元御使いのアレクサだった。カーラには詳しいことは判らないが、彼は二年間の間で多くの人の信用を勝ち取り、未知なる大陸への橋渡しとしての役割を担うまでになっていた。
「それにしても御使い様」
「その呼び名はやめろと言ったぞ、エトランゼ」
「だったらそっちもやめておくれよ。今は、あたし達は来訪者じゃないんだろ?」
「……そうだな。それで、どうした?」
空を見ると、雲が後ろに流れていく。
遠くに見える島々は、心の奥底に眠っていた冒険心をくすぐって、目覚めさせようと音のないざわめきを響かせる。
「千年前、別の大陸に行ったことはなかったのかい?」
「少なくとも俺はないな。あの時は、虚界との戦いで精一杯だった。考えてみれば馬鹿馬鹿しい。全能を気取った御使いは、どいつもこいつもあの大陸から離れる勇気もないような連中だったんだからな」
そこには、アレクサ自身も含まれているのだろう。
御使いは世界を狭めることで、人々を管理しようとしていた。そうやって、神の威光を遍く人々に与えようとするために。
だが、今彼は違う道を選んだ。
御使いでありながら、未知へと挑む。千年前に、人から未知と言うものを取り上げた自分達に対しての裏切りとも呼べる行為だった。
「そりゃ、生き残った御使いとしての義務かい?」
「……愚問だな」
不機嫌そうに甲板を足で叩き、アレクサは不敵に唇を歪めた。
そして空の彼方を見ながら、こう口にする。
「俺自身が見たいからに決まっているだろう。そうでなければ、誰がこんな面倒な役割を負うものか」
「……ははっ、それを聞いて安心したよ」
「お前はどうなんだ? 聞けば、元は犯罪者なのだろう?」
「そっちも愚問だね。あたしは食うためにやってたに過ぎないんだ。もっと上手い飯が食える方法があれば、そっちに行くよ。それに」
アレクサと同じ方向を見る。
エトランゼと、御使い。全く異なる道を歩み、決して交わることのなかった二人の視線が、水平線の先で交差する。
「どうせ帰れないんだ。楽しいことするだけした方が得ってもんだろ」
未練がないと言えば、嘘になる。
元の世界に、元の時間に戻れるのならどんな手段を使っても帰りたい。
だが、それはきっと不可能なのだろう。なんとなく、カーラはそれを理解していた。
だからせめて、この世界で全力で生きてやろうと思う。
かつて何処かで剣を交えた少女達がそうしているように。
片手を舵に乗せたまま、もう片方の手で懐から酒瓶を取り出して器用にその蓋を開ける。
「海に出たら記念に一杯やろうと思ってたんだ。あんたもどうだい?」
「酒はやらん……が、責任者として部下の誘いは断れんな」
「……なんだい、可愛げのない」
まずは自分で一口煽る。
何処でも手に入る安酒が妙に喉に染み渡る。
胸が燃えるように熱いのは、その酒が強いからではないだろう。
未知へと至る喜びが、身体の中で燃え滾っているのだ。
そしてそれは、一つの証左でもある。
既知を捨てて、振り返らず、この世界での出会いを喜ぶ。
それこそが、エトランゼがこの世界で最初に得る心の変化。
いや、それはきっと、エトランゼだけではない。
カーラから酒瓶を受け取って同じように呷った御使いもまた、同じような情熱を胸の中に滾らせているのだろう。
そして彼等は未知へと挑む。先人達が、いついかなる世界、次代でもそうしてきたように。
無事に帰れるかも判らない航海。その旅路は未だ始まったばかり。
多くの希望を乗せて、マーキス・フォルネウスは海原を行く。
以前の主たる少女達はもうそこにはいないが、その代わりに彼女等から意志を託された者達が乗っている。
彼等の旅路に、数多くの幸あれと、多くの人が祈っている。
太陽の光を反射して輝く海原を、その船は何処までも突き進んでいった。
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