第十九節 そして、彼方の大地へと
手を伸ばしたまま、銀の少女の身体が停止する。
四方から伸びていた光の帯が粒子となって消えて、彼女自身も同じように戦うことをやめて空中で制止した。
その様子に奇妙なものを感じたアルスノヴァもまた、警戒は解かないものの、戦うことをやめてウァラゼルの様子を伺った。
少女が笑う。
満ち足りたような笑みで、世界を見渡していた。
「……お姉様、駄目だったんだ」
小さな指先が、まるで砕けた石膏のように崩れた。
崩壊はそこだけではなく、爪先やもう片方の手など、身体の隅から次第に彼女の中心へと広がって行く。
「駄目だったけど、よかったね。お姉様が嬉しいなら、ウァラゼルも嬉しいもの」
そこにいない誰かに向けての声を発し続ける。
彼女の目には、誰かが見えているのだろう。それはウァラゼルの狂気によるものか、それとも本当に何かが起こっているのか、アルスノヴァには判断できなかった。
異変はそれだけではない。
地上から驚きの声が上がる。
隣で戦っていたラニーニャもまた、その方向を見て表情を緩めていた。
「虚界が、崩れていく……」
それは世界の修復を意味する。
世界の外側から流れ込んできていた力を失って、虚界がこの世界で存在を維持できなくなっていったのだ。
それは千年前、王と呼ばれる大型の虚界を全て失った時と同じように。
地に溶けて、その肉体は神殺しの黒い金属へ、その魔力は神の光を溶かす琥珀金へと変わって行く。
「終わったのね」
それを見て、アルスノヴァはそう確信して息を吐いた。
何もかもが、千年前によく似ていた。彼等は消え去り、世界に一度の静寂が訪れる。
「……悪性のウァラゼル」
御使いが消える際のあの金色の光とは違う。
彼女は今度こそ、怪物として消えていくしかないようだった。
己が内にある狂気のままに破壊を振り撒き、そして誰からも愛されることなくこの世界を去る少女は果たして何を思うのだろうか。
アルスノヴァにはそれは理解できそうにはないが、少なくとも今わの際のその表情が穏やかなことだけが救いなのだろう。
「お姉様。ウァラゼルね、一つだけ駄目なことをしたの。虚界が持っている、この世界の人間を怯えさせる力。あれ、使わなかったの」
言われてみれば、虚界にはその力があったはずだった。
この戦いにおいてそれが発動していなかったのは、あれが王によってもたらされる現象だと、アルスノヴァは勝手に結論付けていたのだが、どうやらそう言う訳ではないらしかった。
「――ごめんね。でも、怖がられたくなかったから。大切な者を護るために必死になってウァラゼルに向かってくるお人形さん達の心を殺すのは、嫌だったの。だって、必死になってウァラゼルを殺そうとしてくれて、嬉しかったんだもの」
誰もが彼女から逃げて、その目を逸らし続けていた。
でも今だけは違う。大切な者を護るために、この大地を護るために必死で立ち向かっていった。
そんな歪んだ状況ですらも、彼女の寂しさを埋められてしまった。そう思えるほどに、彼女は何かに飢えていた。
誰からも理解されない怪物の少女は、ひょっとしたら受け止めてくれる人を求めていたのかも知れない。
イグナシオにそれができなかったから、或いは他の誰かがその役割を担っていれば……。
そこまで考えて、アルスノヴァは思考をやめた。
それは考えても栓無きことだ。少なくとも、その原因を他の誰かに押し付けることなどは絶対にやってはならない。
今、彼女は消えようとしている。そして理解しがたいことだが、その最期に悔いはないらしい。
それだけが判っていれば充分なことだ。そんな悲しい考証は置いておけばいい。例外中の例外、戒めにもならない辛いだけの記憶を、もうこれ以上掘り下げることもない。
「サヨナラ、アルスノヴァ。あっちの魔人さんにも、よろしくね。生まれ変わることがあったら、違う遊びを教えてくれると嬉しいな」
それが彼女の最期の言葉だった。
ウァラゼル自身が生を手放したのか、そこから急速に崩壊が進んで行く。
何の余韻もなく、砂のように崩れてい消える。
それを見届けてから、アルスノヴァはようやく睨んでいた顔を背けた。
そして同じようにウァラゼルと対峙していたラニーニャの方を見れば、彼女は今空を眺めていた。
二人が消えていったであろう、空の彼方。当然、そこから降りてくる影は一つもない。
「戻って来ませんね、二人とも」
その一言には、何処か諦めと確信のようなものが含まれていた。
元々それは、帰ってこれる可能性の方が低い旅だ。イグナシオは倒せたのであろうが、二人が無事である保証は何処にもない。
「聞いて来ましょうか」
「……誰にですか?」
「その辺りも含めて後で説明してあげるから、貴方はお友達のところにでも行ってらっしゃい」
そう言われて、ラニーニャはギフトを解いてすぐに地面へと降りていく。
そのまま先程まで戦っていたとは思えないほどに元気な足取りで、要塞の向こうへと走り去っていった。
一命をとりとめたあの金髪の友人も、きっとそろそろを目を覚ますことだろう。受けた傷は深いが、彼女達の強さならきっと大丈夫だと、そう思えた。
そうしてアルスノヴァもまた、戦いの勝利に沸く戦場を尻目に、要塞の裏側へと飛び去って行く。
千年前によく似ているが、違う勝利だった。
あの時は、こんな大勢の声などしなかった。あるのは満身創痍で疲れ果てたエトランゼ達の、これ以上は何も起こらないでくれと必死願うか細い声や、仲間の死を悼む嗚咽だけ。
「あの質問は、またの機会ね」
きっと、今度は彼女はまた違う答えを用意してくれるだろう。
勿論、それを聞けるほどにお互いに仲良くなっているのが条件ではあるが。
要塞の裏側、小さな一軒の建物の前にアルスノヴァは降り立つ。
周囲は先日の戦いですっかり廃墟になってしまっているが、辛うじてこの家屋だけは無事だった。ここはオルタリアの魔導師達が勤めていた小さな研究施設で、地下には儀式用の魔方陣や道具も一通り揃っている。
壊れてなくなった扉を潜り、物が散乱する一階を通り抜けて地下へと進んで行く。
石造りの階段を一歩一歩降りていき、やがてアルスノヴァはその部屋の前に到着した。
無断での立ち入りを禁じるための魔法による施錠が施されていた木製の扉は、もうそれを解除されているためなんの防犯能力も持たない。
手を掛けて、ゆっくりと押し開くだけで簡単に侵入者を中へと招き入れてしまう。
薄暗い部屋の中では、幾つかの灯りを燈したその中心に、一人の少女が立っていた。
彼女の足元には今も淡く輝く魔方陣が描かれており、その上にぶちまけられるように赤い血が滴っている。
背中を向けて直立する少女の手には、小瓶が握られていた。砕けたその中に納められているのは、小さな苗が一つ。
「随分と無茶をしたわね」
少女は答えない。
答えられないわけではない。先程から鼻を啜る音が何度も聞こえてきている。
「あの子は、何て?」
「……絶対に、連れて帰ってくるって。そう約束させた」
涙声でそう答える。
彼女が泣いているのは、痛みからではないだろう。魔法を使った代償は大きかったが、そんなことは問題ではない。
大切な友人と、好きになった人と、もう会えなくなるのが辛くて、そしてそれを見送らなければならなかった自分の無力が悔しくて泣いているのだ。
彼女がもう片方の手に握っていた魔導書が床に落ちる。
血ですっかり汚れてしまったそれを拾い上げて、アルスノヴァは掌の中で圧縮する。
「もうこれは必要ないわね。こんなズルをしないで、これからは自分達で開拓していかないと」
「……そうね。わたしも、もっと色々なことを学ぶわ。それで、彼等がちゃんと帰ってこれるようにする。だから、その」
アーデルハイトが言い淀む。
その続きを無理に促しはせずに、彼女自身の言葉を待った。そう言うことを自分から言えるようになるのが大事なのだ。勿論、自分のことは棚に上げたうえでの話だが。
「色々と教えてほしいわ。アリス、さん」
「気安く呼ぶわね」
「いいでしょう、別に。肉親の事を恥ずかしいあだ名で呼ぶ方が問題よ」
「……確かに」
それは全くその通りだ。
この世界で二人目に名前を呼んでくれた記念と言う訳ではないが、アルスノヴァは手を伸ばして背後から彼女の小さな身体を抱きすくめる。
「……何よ」
「必ず二人には戻ってきてもらいましょう。だから、泣かなくても大丈夫よ」
「……泣いてない」
意地っ張りなところは本当に、自分とよく似ている。
そんな姿すらも今は少しだけ可愛らしい。
そう思えるようになったのは、アルスノヴァ自身もようやく全てのしがらみから解き放たれたからだろうか。
赤い月は後二年もすれば完全に消えて、この世界でアルスノヴァが成したことは全てなかったことになる。
ようやく、肩の荷が全て降りると言う訳だ。これまでのことに対して全くの責任がないと言う訳ではないだろうが。
そんなものを取るつもりはないし、彼女にそれを押し付ける者もまたいないだろう。
それら全ての清算が終わったとしたら、魔人の名前を捨ててもいいかも知れない。
ただのアリスとして、この世界を歩んでいくのも悪くはない。
そんなことを考えながら、胸の中の少女が泣き止むまで、その身体を優しく抱きしめ続けていた。
▽
ざあ、と。
風が吹く音がした。
甘い香りと共に白、桃色、薄青色の花弁が舞う。
視界に映るのは、眩いばかりの星空。
その輝き一つ一つが大きくて、まるで手を伸ばせばその中に掴んでしまえそうなほどに近くにある。
目が眩みそうになるほどの輝きが降り注ぐその大地に、気付けばカナタは寝転んでいた。
身体中を蝕んでいた痛みはもうない。疲れも、不思議と消えていた。
再び風が吹く。
草花がそれによって揺れる音が心地よくて、再び目を閉じてしまいそうになる。
しかし、どうやら再び眠る必要はなさそうだった。
輝きの下で、手が伸ばされる。大きなその掌は、これまでずっとカナタを引っ張って来てくれた人のものだと、すぐに判った。
「無茶をする」
呆れたような、しかしそこに僅かばかりの嬉しさを滲ませたその声にも、よく聞きおぼえがある。
彼の中にあるそんな微弱な感情を読み取れるのも、付き合いの深さと言うものだろう。
「お互い様だよ」
その手を握って、その場から引っ張り起こされる。
改めて自分が立っている場所を見渡して、歓声を上げてしまいそうになる。
見渡す限りの、花の大地だった。
夜の空の下に、降り注ぐ星々の煌めきに負けないほどの量の花々が咲き誇り、その美しさを競うように揺れている。
それだけではない。辺りには生き物の気配もある。それらは互いを喰いあい縄張りを奪うわけでもなく、ただそこに穏やかに存在しているだけ。
「ここ、どういう場所なの?」
「判らん。世界を隔てる境界の外側と言うことだけしかな」
ヨハンが視線を向けた先には、ぼろぼろになって崩れそうな椅子が一つ残されていた。
「そっか」
ここは世界の境界の外側。
生命の範疇を超えた者達が時に渡り、時に暮らす決して人の理の及ばぬ場所。
硝子一枚で隔てられた、生命達が暮らす場所が、世界となる。そこで人は生まれ、育まれて死んでいく。
今、カナタ達はその外側に立っていた。
何処までも続く大地が広がっている。その先に何が通じているのかは、誰にも判らない。或いは、その何処かにカナタ達が最初に暮らしていた世界もあるのだろう。
でも、今目指すべきはそこではない。
帰りたい場所、帰らなければならない場所がある。
まずは一歩を踏み出す。
そして、後ろに向けて手を差し出した。
「行こう」
「方向も判らないのにか?」
「大丈夫。判るよ、そのうち」
「……そうだな」
小さな手に、大きな手が重なる。
それは予感だった。
あの世界に残してきた人達が待っている限り、きっと帰ることができる。きっとみんなは、カナタ達の名前を呼び続けてそこで待っていてくれる。
そのことが何よりも嬉しくて、絶望はない。むしろ未知のものに対する希望がその胸の中には芽生えていた。
「長い旅になるな」
「楽しみだね」
「前向きで何よりだ」
言葉は少ない。
無理に会話をする必要はない。一言一言に込められた万感の思いが、何の苦も無く伝わるようだった。
隣にヨハンが並ぶ。
ようやく、こうして並び立つことができた。
後は、同時に足を踏み出すだけ。
二つの足音が、同時に草を踏みしめる。
その瞬間、再び風が世界を薙いだ。
花弁が舞い上がり、星へと吸い込まれるように空へと消えていく。
その中を、二人は歩んでいく。
これからどれだけの長い旅になるかも、その道のりに、何が待っているかも判らない。
それでも、止まる気はない。
例え全てが終わっても、前に進むことをやめはしない。
足音は続いていく。
カナタの大好きな人と一緒に歩むたびは、これから始まって行く。
誰かが彼方の大地と呼んだ、その場所を目指して。
その場所に辿り付ける、その日まで。
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