第十八節 無垢なる聖女には花束を

 もう力が使えなくなってもいい。

 もう、神の光は要らない。

 だから、全てを絞り出せと心の内で叫ぶ。

 蒼碧の輝きが剣となって、イグナシオの竜の拳を受け止める。

 彼女もまたその一撃に賭ける力は並ではない。セレスティアルを纏った竜の力は、この世界に於いて前代未聞の破壊力を秘めている。

 それを受け止めて、じりじりと押し返す。

 イグナシオもまた力を込めて無理矢理にその光の剣を砕いて突破しようと試みる。

「そんな……!」

 光の剣に罅が入る。

 そのまま罅割れは刀身を浸蝕し、硝子が砕けるように神の極光は砕け散った。

「あは」

 イグナシオが笑った。


 ▽


 ――勝った。

 生まれて初めて、こんなに喜ばしい気持ちになった。父と母に誕生日を祝われた時も、周りがそうするから笑っていただけ、ウァラゼルが生まれた時も、周りに合わせていただけ。

 その自分の心が、空っぽの器がこんなにも喜んでいる、楽しんでいる。


 ▽


「まだ、負けてない!」

 懐に手を入れる。

 そこから取り出したのは、ヨハンからお護り代わりに譲り受けた拳銃。

 狙いを定めることもなく、引き金を引き続ける。

 発射されたエレクトラムの弾丸が、その拳に纏ったセレスティアルを浸蝕し、溶解した。

「それがどうしたというのです! 例えセレスティアルがなくても、このわたくしの竜の拳は!」

「イア!」

 尻餅をついた姿勢で、カナタがそう叫んだ。

 胸の中に潜めていたイアが急速に成長し、その蔦を伸ばしてイグナシオの持つ竜の拳へと絡みつかせた。

「だから!」

 苛立った声を、女が発する。


 ▽


 ――どうして足掻く?

 そんなものが何になる?

 わたしは今、喜んでいるのだ。この瞬間が何よりも楽しくて仕方がないのだから、塵芥にも等しい分際で、邪魔をするな。

 ――それとも、まだ何かあるというのだろうか? だとしたら――。


 ▽


 イアの拘束は容易く引き千切られて、未だ起き上がることのできないカナタの目の前に、イグナシオが立っていた。

「……その程度の抵抗が、何になると言うのですか?」

 その表情に、これまでと違う陰りがあった。

 苛立ちと、恐怖。抵抗をやめないカナタに対して、そしてこれから何かが起こってしまうのではないかと言う漠然とした不安に対して。

 彼女は、確かにそんな感情を抱いていた。

 今もなお、その目はイグナシオを睨み続けている。

 対する彼女はその一瞬の感情を押し込めて、勝ち誇ったような顔で、カナタを見下ろしていた。


 ▽


 ――それはとても、怖い。

 芽生えてしまったこの感情、喜びが奪われてしまうことは、何よりも恐ろしい。

 そうしてしまえば、もう二度とこの光を見ることができなくなるかも知れない。また、空の器に戻るのは嫌だ。

 だから、死んでくれ。抵抗をやめてくれ。これ以上わたしを怖がらせないでくれ。この気持ちは嫌いだ、胸の中がざわざわして、掻き毟りたくなる!

 ――どうして――。


 ▽


「この感情が、喜びですか。ある意味では貴方とわたくしは同じものであったのかも知れません。それを葬れることが、こんなにも嬉しい」

「悪いけど、ボクとイグナシオは全然違うよ。ボクは、イグナシオほど強くないから」

「……でしょうね」

 その喜びを胸に讃えたまま、竜の拳が振りかぶられる。

 次の一撃でカナタの粉々にして、彼女は今度こそ勝利の喜びを深く味わうつもりなのだろう。

 だが、それはならない。

 その感情は流転する。

 喜びから、驚愕へと。

「でも、ボクは一人じゃない」

 振り下ろされる拳を、黙って見つめていた。

 厳密には、カナタはそれを見ていたわけではない。

 その先にいる、誰かを見ていた。

「なにをっ……!」

「その腕は、その魂は……。その力を持っているのは――」


 ▽


「これは、お前の力じゃない!」

 誰かがそう言った。

 頭の中に、そんな声が響いた。

 聞き覚えのあるその女の叫びは、忌まわしくもあり、懐かしいもの。

 なんて強い気持ちなのだろうか。

 決してイグナシオが抱くことができず、知ることができなかったその全てがそこには含まれている。

 イグナシオに立ち向かい、哀れにも潰された竜のエトランゼ。

 その魂から発せられる咆哮が、イグナシオの身体の中を反響していた。


 ▽


 拳の軌道が急激に変化した。

 肘から先が不自然に曲がり、自分の左胸を目がけて突き進む。

 肉が裂ける嫌な音と共に、倒れたカナタに対して大量の血が降り注ぐ。

 開かれた竜の拳は真っ直ぐにその胸に突き入れられ、イグナシオの心臓を握る。

「……ぅあ」

 ごぼ、と。

 口から赤い血が流れる。

 一歩、二歩とイグナシオの身体が後退していく。

「……そんな……?」

 その中で彼女は、信じられないものを見るような目で、カナタを睨みつけている。

「……まさか、貴方は……?」

 彼女はそこにいた。

 この時代にエトランゼの英雄と呼ばれた少女は、イグナシオにギフトを奪われながらもその中で僅かに残った魂の欠片を震わせていた。

 それが魂に干渉するイアの力を受けて、活性化したのだろう。

 絶対に許せない女を、この手で倒すために。

 かつて自分が愛した誰かの手助けになるために。

「イブキ、さん……?」

 血の塊と共にその名を吐きだす。

 拳に力が籠る。

 嫌な音が響いて、イグナシオの心臓が握り潰された。

 真っ赤な血が噴き出すように飛び散り、白い床を深紅に染めていく。

 再びよろよろと勝手に足は動き、イグナシオの身体はいつの間にか足場の端にまで到達していた。

「まさか、貴方に……、してやられるとは……。嗚呼、でも」

 イグナシオが、笑う。

 何故、最期に見せた表情がそれだったのかは、カナタには判らないが。

 不思議と安らいだような、そんな顔をしていた。


 ▽


 ――答えが出た。

 きっと、自分は間違っていたのだ。

 魂魄のイグナシオは、イグナシオと呼ばれた空の器は、やはり肯定されるべき生命ではなかったのだろう。

 例えそれが、不幸な偶然の積み重ね、間違った奇跡の産物だったとしても。

 犯してきた罪は消えず、こうしてその報いを受けることになる。

 何よりも、イグナシオはもう理解してしまった。

 こんな強い感情が胸の中にあったのならば、全てが納得がいく。むしろよくこれを制御して生きられるものだと、感心すら覚えた。

 喜びも、怒りも、悲しみも、寂しさも、心が覚えてしまった。その魂魄に刻みつけられてしまった。

 だからもう、抗えない。

 この最期に異論を抱くこともできない。

 これだけ大事なものを踏み躙った自分はやはり、罰されるべきなのだろうから。

「……ウァラ、ゼル……」

 彼女の狂気を救ってあげられなかったことだけが、心残りだった。

 もし、最初から自分がこれらのものを持って生まれて来ていれば。

 それは魂魄のイグナシオではなかったのかも知れないが、それでも妹だけを救ってやることはできたのかも知れないと言うのに。


 ▽


「こんな結末も、いいかも……知れません。……ウァラゼルには、謝らないといけませんね。……もし、生まれ変われたら……あの子を、愛してあげないと……」

 譫言のような言葉と共に、イグナシオの身体が揺らぐ。

 そのまま仰向けに、空の彼方へと落ちていった。

『カナタ!』

 急激に頭の傍で、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「アーデルハイト! よかった、無事だったんだ!」

『ええ、少し気を失っていたの……。イグナシオは?』

 視線を、彼女が落ちていった場所に向ける。

 そこに残された点々とした血痕から、アーデルハイトはすぐに理解したようだった。

『そう。よく倒せたわね。武勇伝を聞きたいところだけど、もう時間がないみたい。修復を終えた影響かは知らないけれど、神の座への道が閉じていくの』

 見れば、他の足場も崩れては空に呑まれて行っている。

 急いで来た階段を降りようと探していると、カナタはあることに気が付いた。

「ヨハンさんは?」

 彼が昇って行った階段に目を向ける。

 既に足場とは離れたところに浮かぶそれは、罅が入って次第に崩れようとしていた。

『……それは……』

 アーデルハイトが言葉を濁す。

 彼女はひょっとしたら、何処かでそれを察してしまっていたのかも知れない。

 その上で、ヨハンならばカナタが無事に戻って来ることを願うと思って、こうして無茶をし続けてくれた。

 その気持ちは、とても嬉しかった。

「アーデルハイト。ちょっと預かっておいて欲しいものがあるんだけど」

『何?』

「このイアの苗木。そっちに送ったりできないかな? 戻る途中に落としちゃうといけないから」

『そのぐらいなら』

 胸元から取り出して掌の上に置いた、蓋の開いた瓶に入ったままのイアの姿が消える。

 きっと無事に、アーデルハイトの下に行けただろう。

「後、ごめんね」

 先に謝っておく。

 カナタは嘘を吐いた。戻る途中は、多分存在しない。

 アーデルハイトが何かを言う前に、限界まで力を引き出す。

 セレスティアルの羽を広げて、足場を蹴って、今も崩れそうになる昇りの階段へと飛び乗った。

『カナタ!』

 アーデルハイトの声が遠い。

 どうやら、彼女が言葉を飛ばせるのもこの辺りが限界のようだった。

「ヨハンさんを一人にはできないから、迎えに行ってくる」

『迎えって……』

「頑張って連れてくるよ、多分だけど!」

『そんなの、駄目よ……!』

 声が大きくなる。

 それは、アーデルハイトが最後に伝えてくれる言葉だった。

 彼女とカナタは友達同士だ。出会ってからの時間は短いが、心は通じ合っている。

 だからこそ、彼女が次に言ってくれるであろうことは予想出来ていた。

『絶対よ! 絶対に、連れて帰って来なさい!』

「……うん!」

 強く頷く。

 それきり、アーデルハイトの声は聞こえなくなった。

 最後に地上を見降ろす。

 雲の下に、緑の大地が広がっている。

 彼方の大地に別れを告げて、天を見上げた。

 まだ止まる時ではない。

 今はまだ、前へ。

 崩れかける階段を急いで上へと上がって行く。

 身体は傷だらけで、体力も限界だった。視界が揺らぎ、気を緩めればその場に倒れてしまいそうだ。

 それでも、止まりはしない。

 背後で聞こえる、階段が崩れて虚空に消える音を無視しながら、ひたすらに上へと駆けあがって行く。

 後、少しでそこに辿り付く。

 白い光が見えて、その向こう側に花畑が見えた。

 そして、そこに一人の男性が佇んでいる。

 その表情を見ることはできないが、きっとこちらを見ているのだろう。先程のカナタと同じように、自分が護ったその大地を。

 その手を掴んで、引っ張って、そしたら元の場所に戻ろう。

 その時まで進み続ける。

 少女は階段を駆け上がる。

 その果てに見えた光に手を伸ばし、大きく跳躍する。

 光の中に、少女の姿が溶けて消えていった。

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