第十六節 彼方の大地で君と

 闇の中にあった意識が戻る。

 目を開けば、カナタは石の上にいた。

 イグナシオの一撃はそれまで足場にしていた石床を粉々に砕き、辺りにはその欠片が浮遊している。

 その中の比較的大きな、それでも僅か数歩分の距離しかない足場に、イグナシオが立ってこちらを見下ろしている。

 石床に手を突いて、身体を起こす。

 痛みの割に、不思議と傷が浅い。今の一撃を喰らった時に、もう死んだと覚悟したというのに。

 そこで、カナタは声が聞こえないことに気が付いた。

「アーデルハイト?」

「アーデルハイトさんなら、消えていかれましたよ。倒れた貴方の傷を癒すための魔法を使いながら」

 慌てて立ち上がって、イグナシオを睨む。

 いなくなったアーデルハイトの事は気になるが、恐らくは気を失った程度のものだろう。どちらにしても彼女を気にしてこの戦いを疎かにしては、きっと後でまた怒られる。

「どうして止めを刺さなかったの?」

「……さあ」

 本当に、自分でも疑問だと言う風に、イグナシオが首を傾げる。

「なにやら、胸の中に小さな棘が刺さったような痛みがあったものですから。それを取り除こうとしているのですが、上手くいきません」

 今度は、拗ねるような口調だった。

「ですので、改めて貴方を殺してからどうにかすると致しましょう」

 彼女の左腕はもうない。

 隻腕となった竜の右腕を構えて、カナタに向かいあう。

「一つ、お聞かせください」

「……なに?」

「貴方は誰かに教えられて、英雄になったのですか? そうしなさいと言われて、人を救い続けたのでしょうか?」

「……知らないよ、そんなの。ボクは英雄じゃないし、誰かを助ける理由なんて簡単じゃん」

「簡単?」

「助けたいって思うから。それだけだよ」

「そんな理由で、ここまで来たと? 多くの人の痛みや苦しみを背負って、この場所に至ったというのですか?」

「そうだよ」

 たった一言、そう返した。

 別にカナタは自分が特別だとは思っていない。

 その身に宿った極光こそが特別であって、カナタ自身は普通の女の子だと思っている。

 ここに来れたのは偶然、運がいいか悪いのかは判らないが。

 カナタである必然性はなかったと、今でもそう考えている。

「……そうですか。やはり、貴方は認めがたい」

 イグナシオは、何か言葉を飲み込んだように感じられた。

 しかし、それが何であるかを確認する間もなく、彼女が骨の翼を広げる。

 竜の拳を強く握り、次の一撃でカナタのことを完全に粉砕するつもりだった。

 立ち向かっては見たものの、こちらは満身創痍。ろくにセレスティアルを使うこともできはしない。

 もう何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を、今度こそと念押しする。

 次で、最後だ。

 この一回で全てが終わる。

 彼方の大地で歩んだ旅の終焉が、すぐ傍まで迫って来ていた。

 だから、力を振り絞る。

 絶対に後悔しないために。

 その道のりの最後の一歩を、自分の足で踏みしめるために。

「イグナシオ、ボクは勝つよ」

「……そんな傷だらけの身体で、わたくしにですか?」

「うん。ボクは一人じゃないから」

 胸の中に隠したままのイアに片手で触れる。

 アーデルハイトの残した魔法は、まだ僅かに残っている。彼女にはどれだけ感謝してもしきれない。

 ここに来るまでの道は、決して楽なものではなかった。

 何度も心が折れそうになった。時には本当に諦めてしまうこともあった。

 でもその度に誰かの声を聞いて、立ち直ることができた。色々な人との出会いが楽しくて、いつの間にかこの世界に来たことを辛いとも思わなくなっていた。

 悲しい別れも幾つもあったが、それがカナタを強くした。

 彼等を救えなかった禍根は今も痛みとして胸の中に残っている。

 彼等から学んだ全てもまた、同じようにカナタの中にある。

「イブキさん」

 イグナシオの右腕、そこに宿った小さな魂に声を掛ける。

「ボクが解放してあげるから、後少し頑張って」

 目を閉じれば大勢の人の声が蘇る。

 カナタを信じて未来を託してくれた人。

 今もその帰りを待っていてくれる人。

 そして。

「ヨハンさん」

 その先にいる人に、もう一度会いたい。

 まだ離れてから一時間程度も立っていないのに、声が聞きたくなってきた。

 前に進んで、追いついて、再会する。

 そして旅を続ける。この彼方の大地を、今度は一緒に歩む旅を。

「さよなら、カナタさん」

 銀の女神の無慈悲な拳が迫る。

 彼我の距離は、彼女の跳躍によりほぼゼロになる。

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