第十五節 無垢なる願い

 それは間違いなく、完璧なタイミングだったと言えるだろう。

 そして魔導書を手にした今のアーデルハイトのディヴァイン・パージは、セレスティアルの障壁すらも貫通する破壊力を秘めているはずだった。

 それでも、倒れない。

 しかし、それを放った当の本人の声色はさほど悔しげでもなかった。

『ようやく、本気を出したわね』

「はぁ。これが本気と言うのかはわたくし自身理解していませんが、そうですね」

 光の帯が舞う。

 それまで竜の腕による徒手空拳だけで戦っていた魂魄のイグナシオが、ようやく背負っていただけのセレスティアルを動かしていた。

 神の極光が、太陽の光を透かして更に輝きを強める。

 彼女の美しい容姿と相まったそれは、まさに天女か女神と言った様相をしている。

「ここからが本番なのは間違いないかと。それでは、楽しみましょう」

『カナタ、弾いて!』

 言われるままに、セレスティアルの出力を上げる。

 横殴りに薙ぎ払われた光の帯を、巨大化した剣で弾き飛ばす。

 その隙に目の前に魔法陣が出現、そこから放たれた無数の稲妻が空中で軌道を変えてイグナシオへと襲い掛かる。

 それと同時に、カナタも地を蹴って飛翔した。

 稲妻を次々と撃ち落とすその光の帯の間隙を縫って、上空から一気に体重を乗せた一太刀を振り下ろす。

「これはこれは」

 竜の右腕がそれを止めた。

 左右から迫る光の帯に対して、すぐさまそこから飛び退く。

 追撃を仕掛けようとしたイグナシオを、アーデルハイトの放つ魔法によって生み出された氷柱がその場に繋ぎ止めた。

 氷は一瞬で砕かれて、イグナシオが目の前に迫る。しかし、その隙にカナタも態勢を立て直している。

 竜の拳を、セレスティアルの盾が止める。

 稲妻の槍がイグナシオの胸を貫き、その表情が僅かに歪んだ。

『今!』

「うん!」

 光の剣が、その身を護ろうと周囲に広がった光の帯を切り裂いて、その身体に迫る。

 後少しでその身に触れると言うところで、イグナシオは左手でその光の剣を掴み取る。

「嘘っ!」

 掴んだ掌から血を流しながらも、イグナシオはその手を離さない。

『不味い……! 防御強化!』

 アーデルハイトが何か魔法を使った気配がする。

 幾重にも重なった結界が、カナタの腹の辺りに現れる。それだけでなく、カナタの着ているローブも魔力によって防御力が底上げされている様子だった。

 そこに、衝撃が来た。

 驚きの余り光の剣を消して逃げなかったことが災いしてか、握られた竜の拳がカナタの腹に突き刺さっている。

 紙屑のように身体が吹き飛んで、石床を無様に転がる。

『カナタ、まだ……!』

「やれる!」

 そう答えて、弾かれるように立ち上がる。

 ローブから取り出した小瓶を一気に呷る。そこに込められた回復魔法によって、身体の傷が癒されて痛みが薄れていった。

「流石ですね、カナタさん」

 両手を合わせて、イグナシオはにこにことこちらを見ていた。

 その表情に一切の緊迫感はなく、これだけの戦いをしてもなお、彼女にとっては闘争にすらなっていないように見える。

「お見事です。ですが、お友達の方はそろそろ厳しくなってきたのではないでしょうか?」

「……どういうこと?」

 薄っすらと見える、アーデルハイトに視線を向ける。

 表面上は何も変わった様子はないが、よく聞けば確かに荒い息遣いが聞こえてくる。

「わたくし、魔法に関しては無知なものですが、長生きだけはしているものでして、何度か聞いたことがあるのです」

 視線が、半透明のアーデルハイトを見やる。

 その口元に浮かんだ笑みは、好奇心と嗜虐心を織り交ぜたような悪趣味なものだった。

「精神を遠くに飛ばす魔法。それだけならばまだしもその状態での高位魔法の連続使用が、身体に何の負担も与えないとは思えません。ましてや、精神移送は儀式を必要とするほどに強力な魔法と聞いていますので」

「……アーデルハイト……?」

『ええ、そうね。隠しても無駄だから言うけど、身体中から血はダラダラで足元が真っ赤よ。眩暈もするし、立っているのも辛いわ。でもそれがどうかした?』

「だって、そんなの……!」

『今戦ってるあなたの方が、余程辛いでしょう。今度は最後まで一緒に戦う、何が何でも貴方達に付いて行くって決めてやっているのよ。反論はある? なければ続けましょう』

 その声から伝わってくる覚悟が相当なものだと、すぐに理解できた。

 彼女がそこまで言ってくれるのなら、カナタがこれ以上言うことは何もない。

 あるとすればただ一つ。

「アーデルハイト、勝とう。一緒に帰って、お祝いしよう」

『ええ、そうね。美味しい料理を沢山作るから、期待しててね』

「うん、ボクも手伝うよ」

 光の剣を両手で構える。

 その色はいつの間にか、蒼碧へと変わっていた。

 神から直接賜った、真のセレスティアル。

 もうこの世界でカナタしか使うことができない神の極光が、その心に応えるようにして本当の力を発揮する。

「まあ」

 ぱん、と。

 イグナシオが両手を合わせた。

「素晴らしい友情ですね。本当に、羨ましい」

「羨ましい?」

「はい。わたくし生まれてこの方、友達と言うものがいなかったものですから。別段それで不足を感じたこともありませんでしたが、改めてその様子を目の当たりにすると、やはり胸の辺りが温かくなるものですね」

『ここにもぼっちがいたのね……』

 何故かしみじみと、アーデルハイトがそんなことを口にする。

「ぼっち?」

 イグナシオが聞き覚えのない言葉に首を傾げる。

『気にしなくていいわ。それよりほら』

「アーデルハイトは、作戦は?」

『ないわよ、そんなもの。正面突破!』

「……だと思った」

 思わず苦笑する。

 不思議と不安はそれほどない。手に持った光の温かさと、耳元で囁くような友達の声がそうさせてくれていた。

「次の一撃で決める。多分」

 アーデルハイトの負担を考えれば、これ以上戦いを長引かせることはできない。

 それは彼女に限った話ではなく、カナタもこれ以上の戦いに耐えられるとは思えなかった。

 だから、次の一撃に全てを賭ける。

 そう決めて、蒼碧の光を構えた。

「名残惜しいですが、楽しい時間もいずれは終わるもの。それでは、これにて終幕と致しましょう」

 光の帯がまるで蝶の羽のように広がって行く。

 その数は到底一目で数え切れるものではない。百を優に超えていた。

 臆することはない。地面を蹴って、背中に光の翼を広げて飛翔する。

 迫りくる光の帯を、可能な限り盾で防ぎながら、イグナシオへと距離を詰める。

「……避けられない!」

『大丈夫! 軌道を修正するわ、姿勢の制御はそっちで!』

 魔法の光が爆ぜて、カナタの身体を至近距離で衝撃が叩く。

 それにより逸れた身体を、翼を動かして修正する。

 アーデルハイトは次々と魔法によってカナタの身体を吹き飛ばし、セレスティアルが生み出す揚力によって態勢を立て直す。

 乱暴だが、その動きはまるで本当に飛んでいるかのようだった。

 いや、多少の怪我を覚悟で高速で向きを変えるために、普通に飛ぶよりもなおのことその動きは捉え辛い。

 それは百本を超える光の帯とて同様で、大半はカナタの身体を捉えることができずに空振りし、直撃する数本は光の盾によって弾かれていく。

 そして、上空からカナタがイグナシオに迫る。

 彼女もまた光の帯による撃ち落としを諦めて、半身を後ろに引いて迎撃態勢を取った。

「例えわたくしのセレスティアルを交わせたとしても、この竜の拳はカナタさんを一撃で砕くに足る威力を秘めていることをお忘れですか?」

『そっちこそ、わたしが何のためにいるのかもう忘れたの?』

 イグナシオは自分でそう判断していた。

 アーデルハイトはもう限界が近いと。

 だから、大きな魔法が来るはずがないと踏んでいたのだろう。完全に警戒を解いていた。

『ディヴァイン・パージ!』

 本日二発目の、必殺の魔法が炸裂する。

 カナタの目の前に広がった白い魔法陣から、巨大な閃光が放たれてイグナシオの身体を包みこんだ。

 今度は先程とは違う。セレスティアルを前面に展開しての防御は間に合わない。

 数本の光の帯を纏めて薙ぎ払い、彼女の竜の腕すらも炭のようにぼろぼろにしてしまった。

 だが、当然それで倒れる相手ではない。

 竜の片翼が広がる。

 それは予想外の一撃で機嫌を悪くした彼女の感情を現しているかのようだった。

「これでええぇぇぇぇぇぇぇ!」

 光の剣と竜の腕が交差する。

 それを砕くまでには至らなかったものの、カナタの光の剣はイグナシオの竜の腕を弾き飛ばし、その防御を解かせることに成功していた。

「お見事」

 イグナシオが笑う。

 左腕が伸びて、その身体を庇った。

 セレスティアルを纏った左腕は、カナタの蒼碧の極光には対抗できなかったものの、その動きを僅かに留めることには成功していた。

 切断された左腕が空を舞う。

 だが、カナタの攻撃はそこまでだった。

 ほんの僅かな時間を稼がれた。イグナシオが犠牲にしたその左腕が、彼女の勝利を確信させる。

『カナタ、避けて……!』

 悲鳴のような声が響く。

 それがカナタが意識を失う前に聞こえた、最後の言葉だった。

 半分砕けながらも、未だ健在な竜の腕が振りかぶられて、上から下に叩きつけられる。

 直撃こそ避けたものの、光の盾を貫いたその一撃による衝撃は、カナタにもう立てないほどの苦痛を与えるには充分過ぎる威力を秘めていた。


 ▽


 全ては終わった。

 世界の修復は完了した。

 暗い闇の淵から浮上したヨハンは、夜空の下に広がる花畑の中心に立っていた。

 そこに、ヨハンだけでなくもう一人、

 子供のように後をついて来た彼女に対して、呆れたように声を掛ける。

「それで、これ以上なんの用だ?」

「いえ、特には。ですが、そうですね」

 魂魄のイグナシオ。

 彼女がここに残したその心の欠片が、自分の頬を撫でながら思案する。

 銀色の髪がさらりと揺れて、一瞬目の前の女が狂気の塊であることを忘れそうになる。

 紫色の瞳がヨハンを見つめる。

 そこに込められた感情が何であるかを判断できるほど、ヨハンは目の前の女に対して詳しくはない。

「言葉にできないのです。不思議と、何故か。どうしてでしょうか? わたくしと貴方は敵同士で、きっとヨハン様は怒っていらっしゃるでしょう? それが判っていて、とても嬉しいのに離れがたいのです」

「……寂しいとでも言うつもりか?」

「……寂しい?」

 その目が、大きき見開かれる。

 聞いたことのない言葉かのように、ヨハンが適当に言った言葉を反芻する。

「寂しい、ですか」

 紫色の瞳が揺れる。

 そして、彼女は合点がいったとでも言わんばかりに両掌をぱん、と合わせた。

「そうなのかも知れません」

「だとしたらふざけけた話だ。お前は何者にも興味が持てなかったんだろう。それが今更……」

 言いかけて言葉が止まる。

 その可能性には思い至らなかった。

 イグナシオを知る誰もが、彼女の行動には疑問を呈して、そして狂気であると判断して思考を投げ捨てていた。

 それは間違いではない。その行いは到底許されるものではなかったし、敵対する者の心を察したところで意味はないのだから。

 だが、ヨハンはその可能性に至ってしまった。

 誰もが思い浮かばなかった、何ともつまらない結末。

 紅い月が照らす大地に残された彼女が、何を思ったのか。

 聖女と呼ばれ、人々から持て囃されて、そしてその果てにその手の中に何も残らなかった魂魄のイグナシオが抱き、その行いを悪に走らせた感情が何であったのか。

「……まさか本当に、寂しかったからこれだけのことをしでかしたのか?」

「もし、今この胸の中にある感情が寂しいと言うものなのでしたら、そうなのでしょう。誰も彼もが、わたくしを置いていってしまったのです。誰もが、わたくしに何かを教えてくれることはなかったのです」

 彼女は聖女と呼ばれた。

 父に学び、母に愛された。

 何物にも関心を持たないその精神性は一種のカリスマのようなもので、他者からは完璧な姿にも見えたのだろう。

 万に一つの可能性がある。

 考えてはならない、もしもの世界だ。

 人に奉仕し、その在り方を正しいと信じる。

 他者からの感謝の言葉を正義だと判断して、そのまま突き進んだ姿。

 それはまるで、心を殺して他者のために尽くした英雄の在り方に酷似している。

 そして、彼女はやりなおした。

 生まれ変わった世界で、その思い上がりを正された。

 だが、その可能性がなかった目の前の女はどうだろうか。

 他者に興味を持たない超然的な在り方。

 それが美しいものだと誰もが思った。

 素晴らしい精神だと誰もが讃えた。

 心を捻じ曲げることで悲劇の英雄になったカナタとは違い、生まれついて人を導く素質を持った者。他の誰かの言葉や身勝手な心を内包し、それでも壊れない器を持った、正真正銘の聖者。

 それが、目の前の女なのだとしたら――。

「――嗚呼、そのお顔。どうして悲しい顔をするのです? わたくしを憎むのでもなく、怒るのでもなく」

 誰かが、それを咎めていれば。

 その生き方が誤ったものであると、無理矢理にでも道を正していれば。

 目の前の女は、こうして対峙することもなかったかも知れないのに――。

 誰かが気付くべきだった、妹にすら興味を示さないその生き方に。

 不幸があるとすれば、ウァラゼルが異常であると判断して、それに対して愛情を見せなかったイグナシオを正常であると誰もが見做してしまったことだ。

 そして、虚界の襲来と言う時代が彼女を創り上げた。

 結局、これはツケの問題だ。

 力ある誰かに頼り、自ら立ち上がり道を示そうとしなかった誰かの負債を、今こうして払わされているだけの話だ。

「そうですか」

 イグナシオが修道服の胸の辺りに手を当てる。

 彼女が誰かを欲して、無茶苦茶な暴力を振るうのもそれが理由だった。

「わたくしは、寂しかったのですね」

「そして誰かに構ってほしかったと」

「構って……? ええ、そうかも知れません」

 何でもないことのように、彼女は納得して見せた。

 怒りも同情も最早ない。いや、厳密にはそれを思ったところでもう遅いのだ。

 イグナシオは現にこうなってしまったし、修復を終えた今ヨハンができることは余りにも少ない。

「ふざけた話だ。それに振り回されるこっちの身にもなってみろ」

「ですが、わたくしは楽しかったですよ。そして今も、カナタさんとの死闘は非常に心躍ります。勿論、貴方のお友達のイブキさんとの戦いも」

 彼女を許すことはできない。

 例えそれが他者の過ちから生まれたものだとしても、イグナシオは壊すことと殺すことを楽しんでいた。

 現に、それを知った今でさえ、自分がやってきたこと、そしてこれからやろうとしていることに何の疑問も罪悪感も抱いてはいない。

「ヨハン様、ひょっとしてお怒りですか?」

「ああ、そうだな」

 厳密には、苛立っていると言った方が正しいだろうか。

 それはイグナシオに対してではなく、カナタが戦っているのに駆けつけてやれない自分に対しての苛立ちだ。

「一つ、提案があるのです」

「なんだ?」

 若干、語気を強めて答える。

 目の前の女が無害であると知っていても、元凶に傍に居られて平常でいられるかはまた別の話だ。

「もしその苛立ちがわたくしを由来するものなのだとしたら、一度わたくしを叱って見せては貰えませんか?」

「叱るだと?」

「はい。ヨハン様にとってわたくしが間違ったことをしていたというならば、その理由は充分にあるかと」

「それこそふざけた話だ。お前の罪状は上げればキリがない。いちいちあげるのも面倒になって、拳骨でも落として終わりにするのがオチだぞ」

「でしたらそれで」

 そこで初めて、ヨハンはイグナシオの顔をしっかりと見た。

 その表情はいつもの柔和な、何処か他人事のような笑みではなく、真剣そのものだった。

「わたくしに拳骨をください。父のように、叱って見せてくださいませんか?」

 今目の前にいるのは、イグナシオであってイグナシオではない。

 神の座に至った際に、彼女がここに置いてきた記憶の欠片、精神の一部に過ぎない。

 本物のイグナシオはカナタと今も戦っている。ヨハンがここで彼女に何かをしても、影響があるとは思えない。

 しかし、同時に考える。

 彼女は何故、ここにそれを残したのだろうかと。

 そしてその精神の一部は表にいある彼女よりも饒舌に、胸の内を語るのだろうかと。

 至る答えは、決して多くはない。

 彼女は咎人だ。例えそこにどんな理由があろうと、やってきたことを許すことはできない。

 それでも、真剣に自分を見上げるその姿は知らないものを見た子供のようで。

 その余りにも小さすぎる願いを拒否することもまた、ヨハンにはできそうになかった。

 握った拳を、痛くない程度に振り下ろす。「あう」、と間抜けな声がして、銀色の髪が揺れる。

 叩かれた場所をさすりながら、イグナシオは笑顔だった。

 そしてそのまま、何も言わずにヨハンの目の前から消えていく。

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