第十三節 空っぽの少女

 深い闇の中にずっと潜るような作業だった。

 幾つもの光景が浮かんで消えるその世界の中で、罅割れた境界に触れて修復していく。

 その作業を繰り返していたヨハンは、闇の中に光る何かを見つけた。

 それは映像であり、誰かの記憶であり、誰かの声。

 世界の中心とも呼べる場所に保存された、ここに至った『誰か』の疑問であり嘆きだった。

 目の前が揺らぐ。

 光が集まり、人の形を成す。

 黒い修道服、波打つような銀色の髪に紫色の瞳。

 女神のような美貌を持つその女は、ヨハンの前にその姿を現していた。

 魂魄のイグナシオ。敵であるその女に、ヨハンは警戒を見せない。この場所はそう言うところではないと、お互いに判っていたからだろうか。

 女の唇が動く。

 そこにいつものような妖艶で酷薄な笑みはない。

 何処か寂しげに、僅かに歪んでいる。

 紫色の瞳を宿した目が、見たことのない形をしている。それはまるで、世界を壊しかけた怪物ではなく、一人の女の姿だった。

「どうして、こうなったのでしょうか?」

「俺が知ったことか」

 その疑問にヨハンが答えることはない。厳密には、答えることができない。

 その御使いは、ヨハンの目から見ても行動が滅茶苦茶だった。支離滅裂で、その場の勢いで動いているようにしか思えない。

 実際、そうなのだろう。

 大義などはなく、目的もその場その場で適当に決める。

 子供が次に興味のあることを見つけると、それまで夢中だったものを投げ捨ててしまうように。

「わたくしの妹は、狂っていました。ウァラゼルは生まれつき、狂気を内包していたのです。そこに両親の落ち度はないでしょう。わたくしの落ち度も、ないでしょう」

 映像が映し出される。

 その場にいるかのように流れ込んでくるそれは、イグナシオが見聞きしてきた全てなのだろう。

 ウァラゼルの狂気は、純粋と呼んでもいい。楽にしてくれと言われたから、殺した。ただそれだけのことだ。

 彼女は死こそが救いになると考えていた。それこそが、自分の役目だと、最初に人を殺めた時に思ってしまったのだ。

「あれはわたくしに憧れていたのです。誰かの役に立ちたかったのです。でも、幼いウァラゼルにはそれができない。だから、誰にもできないその仕事に価値を見出した」

 次々と殺す。

 村の者達は目を逸らし、必要なことだからとそれを彼女に押しつける。

 銀の髪をした可憐な処刑人は、化粧の代わりに血を浴びることを覚えていた。

 果たして誰が悪かったのだろうか。

 誰もが悪くて、誰にも原因がないのだろう。

 その純粋さは、神が作ったシステムの穴を突いた。

 彼女は御使いに選ばれてしまった。

 それこそが、最大の不幸であったのかも知れない。

 力を手に入れた純粋な狂気は、取り返しのつかないほどに加速していく。

 そこに一切の悪意なく、それが姉であるイグナシオの役に立てるという善意だけで、敵も味方の無差別に殺し尽くした。

 彼女に与えられた銘は『悪性』。その存在に相応しいと言えるだろう。

「何故、誰もウァラゼルを導かなかった?」

 そう尋ねる。

 興味がないと切り捨てることもできなかった。先にこの座に来たイグナシオが、ここに残した記憶にはきっと意味があるのだろうから。

 この話には大きな違和感がある。

 悪性のウァラゼルが生まれつき狂気を孕んでいたとしよう。父も母もそれに怯え、大人達が目を背けていたとしても。

 彼女と正面から向かい合える人物が、そこにはいたはずだった。

 聖女とまで呼ばれたイグナシオが、どうしてウァラゼルの凶行を止めることができなかったのだろうか。

 肉親としての情があるのならば、尚更なことだ。

 その結果としてイグナシオも狂気に呑まれ、今の人格が出来上がってしまったのだとしたら、そんなに不幸な話はない。

 もし取り返しがつかなかったとしても、今その原因を突き止められればイグナシオを止めることができるかも知れない。

 そう期待しての疑問だった。

「――嗚呼、それはですね」

 しかし、返ってきた答えは予想を遥かに超えるもので。

 ヨハンはすぐに、全ての原因を知ることになる。

「わたくし、ウァラゼルに一切興味が持てなかったものですから」

「……どういうことだ?」

「ウァラゼルに限った話ではないのです。父にも母にも、村の人々にも、幸福にも不幸にも、誰かの生にも、死にも、興味が持てなかったのです。視界に入らなかったのです」

「だが、お前は聖女だったのだろう?」

 リーヴラは言っていた。

 イグナシオは御使いであり、人々を護るために誰よりも戦ったと。

 その生き様は聖女と呼ばれるに相応しいものなのだろう。現に、今見た記憶の中でもイグナシオは多くの人に慕われて尊敬の念を向けられている。

「ええ、結果としてそう呼ばれていました。ですが、それも所詮は他人が呼んだことでしかありません。わたくし自身、その名に何の価値も見出しませんでした」

 記憶の彼女が更に語る。

 父に言われたから、正しいことをした。

 母に言われたから、妹を護り続けた。

 そこにイグナシオを意志はない。ただ、言われたことをやっていただけ。

 それが生み出す誰かの感謝も笑顔も、自らの狂気に呑まれようとするウァラゼルの安らぎさえもイグナシオにとっては何の価値もなかったのだ。

 容易く放り投げてしまえる程度のものでしかなかった。

 そして、ヨハンは理解する。

 何処かで誰かが道を誤ったのではない。

 これは、最初からこうなる運命だったのだと。

 如何なる不運が、それともこれは奇跡と呼べばいいのだろうか。

 空っぽの器である聖女と、狂気の器である少女が同じ胎から生まれてしまった。

「ですが、ある時気付きました。両親の言う通りにずっと行動して、その果てに何も起こらなかったことに」

「何も、起こらなかった?」

「はい。虚界を滅ぼし、人々を救い、御使い同士の戦いを生き抜いて、何もない荒野で紅い月を見上げながら、わたくしはそこで生まれて初めて一人で答えを出せたような気がするのです」

 そこまで彼女が生まれてからとうに百年以上は経過しているだろう。

「なんと言いましょうか、こう……。胸の中に奇妙な違和感だけがあったのです。もやもやと、嫌な気分だと言うことだけは判りました。後に、その感情が退屈、つまらないものであるということを知ったのです」

 正しいことをしろと言われて、人形のようにそれを実行し続けた。

 その結果生まれた感情は、退屈。

 ならば、次に彼女が向かうその先は。

「そこで、わたくしは思ったのです。正しいことの結果がこれならば、次は悪いことをしてみようと」

 子供が抱くのと同じ感情。

 時折、誰かを困らせたくなる。その表情を見て、自分がちゃんと認識されていることを確認したくなる。

 それと同時に弱者を踏み躙るのは、本当的に快感を得るものだ。誰もがそれを経験して、大人になるにつれてその感情を封印していく。

 長い時を経てそれが目覚めたイグナシオには、それを封じる手段がなかった。いや、封じる必要がないと言った方が正しいだろうか。

 彼女は誰よりも強い。必要だと言われて鍛錬し続けたその肉体や、純粋な心に宿る神の極光は、他者を圧倒的に凌駕していたのだから。

 だが、彼女にとっての虫を潰すだけではつまらない。

 誰かに構ってほしいのだから。

 選ばれたのはかつて力を持っていた者達。

 エイスと呼ばれていたヨハン、アルスノヴァ、リーヴラ。

 彼女の行動に一貫性がなかったのも当然のことだ。最初から、そんなことは考えていない、目的なんてなかった。

 だから、今行っているこれすらもその延長線上に過ぎないのだろう。

 これから先にあるものが見たいという僅かな好奇心、誰かに構ってもらいたいという子供心、そしてほんの少し、誰もが心の中に持っている破壊衝動。

 それらを混ぜ合わせた原始的な感情が、世界を終わりへと導こうとしている。

「わたくしのしていることは悪いことでしょう? 大勢の人が困っているのでしょう? 今、わたくしは満たされています。その先に至る終焉に、心が躍るのです」

 最早、怒りも沸いてこない。

 ならば目の前の女は哀れで、同情を禁じ得ないのだろうかと問われればそれもまた違う。

 決して相容れることのできない怪物。姿形、生まれこそ人間だがそれとは全く異なる性質を持ってきた何かであると確信した。

 それこそ、天上から人々を見下ろす神にも似た――。

「少し黙っていろ。今、作業は佳境に入っている」

「ええ、見れば判ります。わたくしが壊した境界が、次々と修復されているのが。でも、それは同時にこの神の座が世界より切り離されることを意味しています」

「……だからどうした?」

「もう皆さんと会えなくなるのは、どのようなお気持ちですか?」

 その言葉を無視して、作業を続行する。

 そんなことはもう、覚悟の上でここに来ていると、自分に言い聞かせながら。

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