第十一節 虚ろの狂気は嗤う
『うふふっ、楽しい! 楽しいね、アルスノヴァ! ずっと貴方とこうして遊びたかったの! でもお姉様が駄目っていうから我慢していた、貴方は希望の一つだって言うから! 今は違うでしょう! 今、貴方はウァラゼル達の敵だもの、思いっきり遊べるわ!』
甲高い声が戦場に響く。
頭の中に直接流れ込むようなその音に顔を顰めながら、肉の柱の横から生えた複数の腕を、重力波で纏めて捩じ切った。
「子供に付き合うつもりはないわ」
『そんなこと言わないで、遊びましょう! ウァラゼルは今、とっても楽しいの! 何故だか判る?』
捩じ切れた腕が地面に落ちるや、それらは形を崩して無数の虫のような生き物へと変貌していく。
それだけではない。アルスノヴァが虚界の樹を攻撃すればするだけ、その傷跡から虚界が生まれて来ていた。
「厄介な……!」
『ウァラゼル、ずっとこうしたかったの! 他の誰かのためじゃなくて、大好きなお姉様のために!』
「……お姉様のため?」
『そう! だってお姉様はいっつも誰かのために戦い続けていたんだもの。お父様とお母様に言われてから、ずっと、ずぅーっと! でも、今は違うでしょう? ウァラゼルにはよく判らないけれど、お姉様は自分でやりたいからこの世界を壊そうとしている。ウァラゼルはそのお手伝いができて、とっても嬉しいの!』
「この世界が滅びたら、貴方もイグナシオも死ぬのよ?」
『ええ、知っているわ。それも良いでしょう。ウァラゼルはお姉様が死ねと言うのなら死ぬわ。だってウァラゼルはいらない子、おかしな子なんだもの、それをお姉様はずっと護ってくれていたのだから』
虚界の樹を操り、その前に浮かんでいる少女は果たして正常なのかそれとも狂っているのか、その判断はアルスノヴァにはできなかった。
それを健気と呼ぶか、それとも狂気と切り捨てるのか。
いちいちそんなことを考えてやれるほどに、短い人生を生きていない。邪魔だから滅ぼす、その決定に違いはない。
『もっと遊びましょう、アルスノヴァ』
めきめきと、肉が軋む音が辺りに響き渡る。
虚界の樹からは無数の触手が生えて、その先端をまるで口のように広げて四方からアルスノヴァに迫る。
迎撃のために、片腕を伸ばす。
そこから重力の波を放つよりも先に、高速で飛来した何かが触手を中ほどから切断する。
アルスノヴァに襲いくるそれを次々と斬り裂き、地面に落ちたものもまた、透き通った刃のようなものが切り刻んでいく。
「……まったく、遅いわよ」
「半死半生の人間に無理を言わないでください。それにしても、何がどうなってるんです?」
「……そんなの、こっちが聞きたいけれど」
異変があったのは、突然目覚めたラニーニャだけではない。
地上では巨大な炎が放たれて一気に無数の虚界を焼き尽くし、地上から伸びた野太い植物の蔦が目の前の虚界の樹を縛り付けてその動きを封じた。
視線を向けると、眼下には長身で怜悧な風貌の男が片腕を伸ばして立っていた。
もう一つの手を別方向に伸ばして、地上を走る虚界達を足止めしている。
「どう思う、軍師さん?」
わざわざ地上に降りて、それを聞いてみる。
尋ねられたルー・シンは、アルスノヴァの方には顔も向けずに答えた。
「判らぬ。だが、エトランゼのギフトが強力になっているようだな。手前ですらこれだけのことができるとは、なかなかに気分がいい。思わず技の名前を付けてしまうたくなるほどだ」
「話が判るじゃない。なんなら、考えておいてあげるけれど?」
「冗談だ。それより、地上はもうしばらくどうにかなりそうだが、やはりあれを何とかしないことには破滅は免れん。そちらは任せていいか、魔人アルスノヴァ殿?」
「……ええ」
不満そうな顔をしてから、アルスノヴァは再び上空へと昇って行く。
地上から伸びる水の柱を足場にしながら、ラニーニャは戻ってきたアルスノヴァに声を掛けた。
「それで、軍師殿のご意見は?」
「判らないそうよ。でも、ギフトが強化されていることに間違いはないでしょうね」
「そんな得体の知れない力、使って大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。いえ、厳密には使わないことにはあいつには勝てないと言った方が正しいわね」
虚界の樹を睨む。
既に植物による拘束を引き千切り、それを操るウァラゼルはエトランゼ達の抵抗に目を輝かせて更に暴れようとしていた。
「……確かに」
「それに心配は要らないわ。心当たりはあるから」
半分本当で、半分は嘘だ。
だが、こんなことができる人物には限りがある。可能性があるとすれば、座に至った彼ぐらいしかいない。
「そう言うことなら!」
地上から大量の水が集まり、集う。
それはラニーニャが腕を振るうのと同時に、巨大な鞭のような刃となって虚界の樹ごと戦場を一刀両断した。
血のような泥のような液体が飛び散り、眼下に集まっていた虚界達の大半がその身体を斬り裂かれて倒れて動かなくなる。
「……味方を巻き込んでない?」
「大丈夫でしょう、多分。お仲間に触れる瞬間にはただの水に戻したと思いますし」
圧倒的な規模の力でありながら、それを振るうための子細な、調整能力。
それは、彼女が他者の力を借りながらももう一つ上の段階へと進化したことを意味していた。
「そう、おめでとう。新たな魔人さん」
「えっ?」
「貴方の力の規模はもう普通のギフトを凌駕しているわ。間違いなく私と同じだけの能力、人を捨てた魔人の領域よ」
「あ、そうですか。別に嬉しくはないですけど。今は役に立ちますね」
そう言っている間にも、あらゆるところから水を集めて変幻自在に操るラニーニャ。
その姿は、アルスノヴァにとってのいつかの誰かを彷彿とさせる。
今目の前にいる少女と同じ顔の、違う人物を。
「そうね。それなら、今こそ貴方には魔人としての二つ名を与えることにするわ。魔人ラーズグリーズ。数少ない、私と肩を並べられる力の持ち主の名よ、光栄に思いなさい」
圧縮した水の塊を虚界の樹にぶつけようとしていたラニーニャが、その動きをぴたと止める。
それからゆっくりと、アルスノヴァを振り返った。その表情には、些かの呆れが窺えるのだが、アルスノヴァは彼女が言葉を発するまでそれに気付くことはなく、自分が与えた名前の素晴らしさに陶酔していた。
「いや、いりませんけど」
「なんでよ!」
「両親から貰った大事な名前がありますので。それに何です、そのラーズなんとかって……。いえ、別に響き自体がどうのってわけではないんですけど……」
「格好いいじゃない! 語呂もいいし!」
「幾ら語呂がよくても……。あっ、ラニーニャさん知ってますよ。そう言うの、チューニビョーって言うんですよね」
指摘されて、アルスノヴァは顔を背ける。
未だかつて、彼女にそれを言った者はいなかった。当たり前ではあるが。
「普通もっと早く完治しません? 千年も患ったままなんて、十四歳を何周できると思ってるんですか?」
「うるさいわね。格好いいんだから仕方ないでしょう」
喧嘩が始まりそうな二人の間を、虚界の樹から伸びた巨大な腕が、縦に引き裂くように立ち割る。
その一撃を左右に分かれて避けてから、改めて二人は顔を見合わせた。
「とにかく、自分がやることは判っているわね?」
「それはもう」
ラニーニャが片腕を高く掲げる。
地面が罅割れ、そこから無数の水の柱が上空に向けて立ち上った。
イシュトナルの下を流れる地下水脈から、無限とも呼べる量の水源が、彼女の意志に従って武器となる。
『あはっ』
少女が笑う。
虚界の樹の中心で、無邪気な笑みをラニーニャに向けた。
『貴方、あの時の魔人でしょう? 千年前は全然ウァラゼルのことを相手にしてくれなくて、寂しかったのよ。今度こそ遊んでくれるの?』
「そんな昔のことを言われても、何にも覚えていませんよ」
『ええ、ええ! 別にいいわ、大切なのは貴方がもう一度ウァラゼルの前に立ってくれたって言うことだもの! 貴方は可哀想な人じゃない、貴方に救済も慈悲もいらない、貴方はウァラゼルと遊べる人!』
「生憎ですが、遊び相手は間に合っていますので!」
突き出すような虚界の腕と、水の柱を束ねた水圧がぶつかり合う。
辺りに余波を撒き散らしながら拮抗するそれを余所に、アルスノヴァは自らの力を使ってその身体を上空へと急上昇させる。
「ラニーニャ、時間を稼ぎなさい!」
「言われなくても!」
例え名前を拒否されても、反りが合わなくても、魔人が二人になったことにより、戦力は計り知れないほどに上昇した。
魔人としてはアルスノヴァの方が先輩だが、戦う分にはラニーニャの方に才があるのか、彼女はすぐにその力を使いこなしているようだった。
まるで波に乗るように自ら操る水の上に立ち、滑るように虚界の樹の周囲を移動しながら致命傷となるほどの一撃を次々と打ち込んでいく。
しかし、普通の生物ならとうに死んでいるような攻撃を幾つ受けても、虚界の樹も止まりはしない。アルスノヴァ達が今対峙しているのは、生命の範疇を超越した怪物中の怪物だった。
「やはり、一撃で消し飛ばすしかなさそうね」
ウァラゼルの注意が逸れた隙に、アルスノヴァは両手を自らの胸の前に広げる。
そこにはまず小さな渦のようなものが出来上がり、それはやがて纏まって球体へと変化していく。
発生したその球体の色は、光すら逃さない漆黒。
時間経過と共に肥大化していくそれは、僅か数秒で両手では抱えきれないほどの大きさへと成長した。
「彼方に消えなさい!」
肥大化した黒い球体、ブラックホールとでも呼称すべきそれは、膨れ上がりながら虚界の樹へと接近する。
直撃し、膨張する瞬間それを更に操作。黒い球体は虚界の樹を包みこみ、縦に伸びる巨大な漆黒の柱へと変化した。
その範囲内にあるもの全てを削り取り、時間すらも圧縮し、消滅させる。轟音と共に地面が砕け、虚界の樹がその漆黒の中で悲鳴を上げるような声が響き渡る。
「……凄い……」
思わず、そう呟いたのはラニーニャだった。
彼女だけではなく、戦場の誰もがその一撃を見上げては呆然と眺めている。
それだけの力、研鑽し続けた魔人としての究極のギフト。
漆黒の柱は虚界の樹を飲み込み、次第に小さくなって掌程度の大きさの球体へと戻って行く。
後はそれがそのまま潰れて消滅するのを待てばいい、はずだった。
事態は、アルスノヴァの予想を超える。
例え御使いであろうと、虚界であろうとそれを受けて無事でいられるわけがない。あの時のリーヴラとは違い、彼女はエリクシルの膨大な力を手にしてはいないのだから。
そう自分に言い聞かせる希望的観測は、一瞬にして打ち破られることになった。
球体から、光が漏れる。
いつかカナタがそれをしたように、ウァラゼルの瞳と同じ紫色の光が二本、球体の内側からそれを貫くように伸びてきた。
内側から風船が破られるように、黒い球体が弾けて消える。
ブラックホールに飲み込まれ、その一点だけ何もなくなった大地のその上空に、銀色の髪に紫色の瞳をした少女は浮かんでいた。
まるで何事もなかったかのように。
「そんな……!」
「見掛け倒しの技だったんですか?」
「そんなはずはないでしょう! ……あれは、正真正銘の切り札よ」
その言葉の意味を、ラニーニャは即座に理解したようだった。
「……どういう類の化け物なんです、あれは?」
「こっちが聞きたいぐらいよ」
御使いであり、虚界。
その力を取り込んでいたとしても、果たしてそれだけの力が出せるものなのだろうか。
人間にとって未知の領域である虚界にしても、人を超えたものである御使いにしてもそれほどの力を持つ者はいなかった。
ならば、彼女はいったい何者なのか。
「くすっ」
少女が笑う。
無邪気な、楽しそうな顔で。
紫色の瞳が、アルスノヴァとラニーニャを見た。
「避けて!」
咄嗟にそう叫ぶ。
ラニーニャは水の柱の上から飛び降り、アルスノヴァもまた、重力を操作して今いる場所から自分を弾くようにして飛び出す。
二人が居た場所を、赤紫色の光が通過していく。
鞭のように伸びて空気を切り裂いたそれを、再び自らの背中に戻してから、ウァラゼルは改めて二人の魔人を見やる。
「もっと遊びましょう、魔人さん達。沢山遊んで、沢山楽しんで、沢山殺しましょう。血の河が欲しいわ、屍の山は素敵でしょう?」
唄うように、少女はそう言った。
その目に深い狂気を宿して。
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