第十節 救いの声

 数多の奇跡が絡み合い、今戦場には多くの戦士達が集っている。

 オルタリアの王であるゲオルクと、その友であるバルハレイアの王ベルセルラーデ。

 何処からか駆けつけてくれたエトランゼ達に、エレオノーラの声に導かれて力を貸してくれる聖別騎士団。

 彼等は戦場で武器を振るい、異形の群れを押し留める。

 自らの命が尽きることすらも厭わずに、ただこの大地を護るために力を貸してくれていた。

妄執を経て、今だけは思想を捨てて人々は一つになっている。

 千年前は決して成しえなかった理想が、ここに築かれた。

 だが、それを以てしても終末は止まらない。

 虚界の樹は鳴動し、その動き一つで数多の命を容易く奪い去る。

 罅割れた境界からは絶え間なく、まるでその樹に呼び寄せられるように異形の軍勢が沸き出ている。

 魔人の一撃が纏めて数百を吹き飛ばしても、失った分の戦力はあっという間に補填されてしまっていた。

 何よりも、時折そうして地上を援護しているが、魔人アルスノヴァは虚界の樹を相手にするので精一杯だった。しかし、彼女の援護がなければ地上の軍もすぐに突破されて内側から食い破られてしまうだろう。

 当然のことだが、戦力が足りなかった。

 それは始める前から判っていたことだ。相手は無限に現れる虚無の軍勢、人間にできるのはそのちっぽけな力で精々足掻いて、死んでいくことだけ。

 そのはずなのに、希望を見出してしまった。

 幾つかの奇跡を目の当たりにして、人々はまだ自分達が生き残れるのではないかと思ってしまった。

 エレオノーラも例外ではなく、同時に最も早くその思い違いに気付いてしまった。

 いや、今上空から大軍を薙ぎ払った魔人も、恐らくは理解しているのだろう。

 ここで幾ら戦っても、意味がない。世界の終末を人の手で止めることなど不可能なのではないかと。

 しかし、彼女は諦めていない。その理由はエレオノーラには判らないが、その奮闘は寸でのところでエレオノーラの心が折れないように支えてくれた。

 それでも、エレオノーラは彼女とは違う。

 力もない、千年を生きた知恵もない。

 縋るものなくては立ち上がれないほどに弱くて脆い女に過ぎない。

 だから、両手を組んで祈った。

 神無き大地で、果たしてその祈りは誰に対してのものか、それはもうエレオノーラ自身にも判っていない。

 ただ、そうしていたかった。

 そうやって目を背け続けなければ、諦めてしまうから。

 これ以上苦しむ必要はないと言ってしまいそうになるのを押し込めるのに必死だった。

 そんなことを言うわけには行かない。

 例えどれだけ苦しみ抜いた死が待っていようとも、エレオノーラはそれを避けることは許されない。

 全ては、自分が始めたことだ。

 エレオノーラの声によって始まったこの戦いで、最初に諦めることなどできるはずがない。

「……ヨハン殿」

 その名を呼ぶ。

 今はここにいない男の名を。

 彼が今何処で何をしているかは、エレオノーラには判らない。その事情を知っているであろうアルスノヴァ達は、説明する間もなく戦線に加わってしまったのだから。

「エレオノーラ」

 耳を打つその低い声に、エレオノーラの中での時間が止まったような気がした。

 いや、気の所為ではない。辺りの空間が、まるでその部分だけ切り取られた絵画のように静止している。

 組んでいた指を恐る恐る解いて顔を上げる。

 目の前に、今一番会いたかった男の姿があった。

 彼はエレオノーラの目の前、半壊したイシュトナル要塞の縁の部分の外側に浮かんでいた。

 いつも通りの姿で、見たところ大きな怪我を負った様子はない。

 それでも何処か不安に見えてしまうのは、その表情だろうか。

 妙に穏やかで落ち着いたその顔は、見ていて心配になってくる。

「ヨハン殿……そなたは今何処にいるのだ?」

「神の座、世界の頂。この世の理を管理する場所だ。時間がないから、手早く用件を言うぞ」

「用件……?」

「少しばかり世界の力の流れをいじった。その辺りを中心として、魔力の流れを中心にな。普通の魔導師にはあまり恩恵はないかも知れないが、純魔力に似た力を使うエトランゼの能力は増大するはずだ」

「そんなことができるのか!?」

「仮にも、神の座だからな。だが、そこまでしても虚界を押し留めるには足りないかも知れない。その辺りはまぁ、こっちに任せておいてほしい」

「任せてって……。ヨハン何処は今、何をしようとしている? どうしてそなたが神の座などと言う場所にいるのだ?」

「イグナシオが破壊した世界の境界を修復する。そうすれば外側からの力の供給を断たれた虚界は消滅するはずだ。神の座にいる理由は……成り行きだな」

「成り行きって……。そんな理由で世界を救うつもりか!」

「エレオノーラと出会ったのも成り行きだからな。その先の結末としては妥当だろう」

 そう言われてしまっては返す言葉もない。

 続いて、エレオノーラは最も重要なことを尋ねる。

「どうしてそなたは妾と交信を? 魔人殿のように、事情が判っている者達の方がよかったのではないか?」

「これは誰とでもできるわけじゃない」

「それはつまり、妾とそなたの心が通じ合っているから……」

「いや、ギフトによるものだな。そのギフトは恐らく、遠くにいる者達と交信する類の力なのだろう。その第一段階として、他者に声を伝える力が発現したと言うわけだ」

「……うむ、そうか」

 少しばかり残念そうに、エレオノーラは頷いた。今まで人の声を聞いたことはなかったが、訓練すればそう言った使い方ができるのかも知れない。

「それから、少しだけ個人的な事情もな」

「個人的な?」

「ああ」

 背中を向けて、ヨハンは止まったままの戦場を一望する。

 数々の命の輝きがそこにはあった。

 それらは全て、これまでの日々が創り上げてきたものだ。エレオノーラとヨハンの出会いから動きだした歴史の結果だった。

 改めて、ヨハンはエレオノーラの方を振り返る。

「最初にお前の声が聞けてよかった」

 そうだ。

 他ならぬ彼自身すらも、エレオノーラの声によって立ち上がった一人に過ぎない。

 それは、何処かで誰かが言った言葉を、偶然なぞっただけに過ぎなかったのかも知れない。

 それでも、その時に発したエレオノーラの言葉は本心だった。決して嘘偽りなく、他者を想ってのものであったのは間違いない。

 彼はそれによって動かされた。

 ある意味では、全ての始まり。

 それこそが、エレオノーラの発した声。

 闇の中で助けを求めるようなか細いその声が、彼を動かした。

「だから、生き延びてくれ。お前にはこれから先の世界を見届ける義務がある。……それが言いたかっただけだ」

「ヨハン殿」

 その名を呼ぶ。

 もう一つ聞きたいことができた。

 嫌な予感が、胸の中で膨らんでいく。

 そんな言葉は、直接会って言えばいいではないか。世界を救ってから、何度でも言ってくれればいい。

 そんなことが判らない人ではなかった。むしろ、それができるなら面倒くさがって今わざわざ言いに来るような性格ではなかった。

 それが意味することは。

「そなたは、帰ってこられるのか?」

「判らない。境界の修復が終わると同時に、神の座は世界より切り離される。そこからこの世界を再び見つけるのは、広い海の中で何の目印もなしに小島を探すようなものだ。帰れても、それがどれだけ先の話になるか」

「そんな……!」

 彼は全て判っていた。

 それを理解したうえで、世界を救おうとしているのだ。

 エレオノーラに、それを止める権利はない。

 思わず伸ばした手が、空を切る。

 目の前に浮かぶヨハンの身体には実体はない。最後に手を握ることも抱きしめることもできはしない。

 今できることは一つ、言葉を伝えることだけ。

「ヨハン殿、そなたに願ってもいいか?」

「……叶えられるかはまた別の話になるぞ」

「それでもいい。……この世界に還って来てくれ。どれだけ時間が経っていても構わない。そなたが護ったこの世界を、その目で見て、その足で歩いてほしい」

「まだ護りきれると決まった話ではないがな」

「そう言う意地悪を言うな。きっと何とかして見せる。さっきまでは諦めかけていたが、今はもう違う。そなたの声が聞けた、妾に言葉をくれた。それだけで、希望が湧いてきたのだ」

 例えもう会えなかったとしても、涙は見せない。

 それができる程度には、エレオノーラは強く成長していた。

 彼は自ら選んだ。もう帰れないこと知りながら、その旅路を歩もうとしている。

 その最初の一歩に、余計な遺恨を残すことはできない。

「――ああ、判った。絶対にこの世界に還ってくる」

「約束だぞ。妾もずっと待っている。そなたが道に迷わぬように、声を発し続けるからな」

「それなら、思ったよりは早く帰れそうだな。……そろそろ時間だ」

「ヨハン殿!」

 その名を呼ぶ。

 今まで幾度となく口にした、愛しい名前。

 かつての大魔導師から受け継いだ、名無しの仮の名前は、最早その本当の名前を思い出す必要もないほどにしっくりくる。

「妾はそなたを……!」

 言葉はそこまでだった。

 止まっていた時間が戻って、エレオノーラが発した最後のその一言は、戦いの音の中に掻き消されて消えていく。

「エレオノーラ様! ギフトが!」

 後ろで、アルスノヴァから託されたラニーニャにどうにかギフトを使おうと苦心していたサアヤが歓喜の声を上げた。

 振り向けば彼女の翳した手には新緑の光が戻っている。それだけでなく、今まで以上に眩い輝きは、倒れているラニーニャの傷を瞬く間に癒していった。

「力が戻っただけじゃなくて、なんか……。凄く溢れてくるような……。まるで誰かから力を貰ってるみたいで……、エレオノーラ様?」

 言葉にならない報告をしていたサアヤは、エレオノーラの顔を覗き込む。

 その瞳から落ちた涙が頬を伝い、要塞の屋上へと落ちた。

「いや、何でもないんだ。すまぬ」

 ドレスの袖で、目に溜まった涙を無理矢理に拭う。

「奇跡が起きたのだろう。妾の起こした紛い物ではなく、神が人に与える救いの奇跡が」

 その波紋は、サアヤだけではなく、戦場にも広がって行く。

 エレオノーラは高くからその様子を、睨むように見届ける。

 迫る終末は、いつの間にかもう目の前にある。

 その挙動の一つとて、エレオノーラを消し飛ばすには充分すぎる力を持っていることだろう。

 しかし、もう逃げることも、目を背けることもしない。

 この大地の未来を見届ける義務を、彼に託されたのだから。

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