第九節 千の時を経た再会
ここは空の上で、人が決して届くことはない領域。
神の座、世界の頂と呼んでもいい場所だった。
そこに、何故か風が吹く。
花弁が舞い、それがヨハンと椅子に座った男を囲み、祝福するように騒めいた。
そこに座る男は、自分と同じ顔をしているはずなのに、まるで老人のように見えた。
「久しぶりだね、名無しのエトランゼ。実に、久しい。君が私の現身を持って地上に降りてからだから、もう千年以上か」
聞きたいことは幾つもある。
言ってやりたいことだってあった。
だと言うのに、不思議と言葉が出てこなかった。
「お前が、神か?」
「そうだよ。そうか、君はもうあの時の記憶はないのだったね。それは残念だ」
「残念?」
「そうだろう? 例え一方的だったとしても、私と君は友だったのだから」
「その友にした仕打ちがこれか?」
そう言われて、男は不思議そうに首を傾げた。
「私が君達に何をしたか?」
「違う。お前は、何もしなかった。身勝手でエトランゼをこの世界呼び寄せ、混乱を招き、それを解決しようともしない」
「……確かにそうかも知れないね。でも、君はもうその答えを持っているだろう?」
彼がそう言うであろうことはもう判っていた。
事実、ヨハンもまたリーヴラにそれを告げていたのだ。
今そう言ったのは、彼に対する弔いだったのだろう。もしくは、理屈では理解していても感情が納得できなかったか。
「神はそう言うものだ。私は君達に慈悲を与えない。虚界は神の敵だか、だからと言って人間を特別に愛する理由もないからね。世界に芽生える那由多の命の中の一つに過ぎない」
「……やはり、そうなのか」
「そうだよ。だからこそ、私は神なんだ。でも、勘違いはしないで欲しい。その命の中でも最も、他のあらゆる生命と天秤にかけて下に傾くのもまた、、人間なんだ。何よりも強欲で、何よりも愚かで、何よりも醜い」
唄うように、神は告げる。
それはまさに啓示と呼ぶに相応しい言葉だが、それを与えられるのは神の救いを必要とする人々ではない。
神による救いをもう諦めた、名無しのエトランゼだけがそれを聞いている。
「同時に何よりも美しく、何よりも博愛で、何よりも愛おしい」
結局、神にとっての人間などその程度のものなのだ。
愛玩動物以上の価値はない。例え虚界にこの世界が侵食されたとしても、彼は「残念だった」以上の感情を抱くことはないのだろう。
「そう怒らないでくれ。私はできの悪い神でね。一人では上手くやることができなかった。でも、君達エトランゼのおかげでこの世界は大分変わったと思うよ。例え私が力を振るい虚界を退けたとしても、この世界は私を崇めるだけのつまらない場所に成り下がっていただろうからね」
「そのシステムを、御使いを作ったのはお前だろうに」
「厳しいね。返す言葉もないよ。御使いは、多分そうだね。失敗だったんだろう。神の力を受けた人など、いるべきではなかった。彼等は私にはなれない。あくまでも、人間に過ぎなかったんだからね。彼女達は少しだけ事情が違うみたいだけど」
「彼女達? イグナシオとウァラゼルことか?」
「そう。詳細を私の口から語るのはやめておこう。と言うよりも、語れないと言った方が正しいかな。彼女達も君達と同じだから」
「どういう意味だ?」
「言っただろう。それは語らないでおくとね」
そうなっては、例え脅迫したところで彼がそれを言うことはないのだろう。
もっとも、ヨハンが知りたいことはそんなことではない。今こうしている間にも、空を見上げれば時折世界が歪み、硝子が割れるように空間が砕けて虚空へと吸い込まれていく。
それ自体はすぐに収まって治っていくが、その頻度が少しずつ上がっているような気がした。
「イグナシオがここに来たのか?」
「そうだね。少しだけ言葉を交わしてから、彼女はこの座にて世界を壊す決断をした。彼女自身の持つ力と、虚界の力、それを合わせれば、この場所から境界を破壊することは不可能ではない」
「止めなかったのか? この世界が破壊されたら、お前はどうなる?」
「消滅するよ。私は世界と繋がっているから、それは摂理だ」
「……お前にとっては、本当にこの世界はどうでもいいものなのか? 自分の命を含めて」
男は首を横に振る。
その穏やかな顔は、すべて受け入れているように見えた。
決して投げやりになったわけではなく、自分とは無関係だからと顔を背けているわけでもない。
イグナシオのその決断を受け入れて、滅びようとしていた。
「ずっとそう決めていたんだ」
「なんだと?」
「言ったろう? 私は失敗したんだ。私の創った御使いと言うシステムは結果として人々の成長の停滞を招き、虚界がこの世界に訪れた。それは紛れもなく、創造の失敗を意味している」
何故、その失敗を自らの手で拭わなかったとは、尋ねない。
その答えをヨハンは知っている。そんな気がした。
「私はこれでよかったと思っている。少なくとも今日までの日々は」
そう言うと、男の手の中に一冊の本が現れる。
装飾の施されていない簡素な本の表紙を、男は愛おしそうに撫でた。
「いい物語が出来上がった。この彼方の大地で君達が綴った物語も、これが終幕となる」
「何のためにそんなことを?」
「君達の言葉で言うならば、親心さ。この世界の人と、私が呼び寄せたエトランゼと、その二つが織りなす物語を記録しておきたい。……例え二度と読み返すことがなくても」
そう言って、男は椅子から立ち上がった。
「さあ。君にその席を譲ろう。君はこの世界で唯一、私以外にそこに座る権利を持つ者だ。神の現身たるエトランゼよ」
「ここに座れば崩壊を止めることができるのか?」
「ああ、そうだ。君は私と同等の資格を得て、世界の根幹に触れることができる。もっとも、そこまでしても君の能力はあくまでも人間の範疇だから、事態を修復するのには長い時間が掛かるだろうが」
男の視線が遠くを見る。
その先にあるのは、きっとここからも彼方にあるあの大地だった。
「ここは不安定な場所だ。神たる私が君に全てを譲り渡して消滅すれば、更に世界から離れて行くかも知れない。この意味が判るかい?」
「……もう、あの世界には戻れない?」
「何においても、代償は必要だ。それは私とて例外ではないからね」
同じ顔をした男の身体が、まるで石像のように崩れる。
それに驚いて顔を見上げると、彼は何事もないように、それまでと変わらない表情でヨハンを見ていた。
「神であることをやめた代償だ。私はこうしていることでしか生きられない。いや、厳密には生きてはいなかったのだけどね。神もまた、システムに過ぎない。私はその中でもできの悪い、欠陥だらけのものだが、だからこそ最初に君に会えたのはよかったのかも知れない」
神は、一人の青年と出会った。
単なる好奇心からその肉体を借り受けて、人の身であることを知った。
そこに宿った感情を理解することはできなかったが、それでもそれらが生み出していくものに興味を持ってしまった。
「君と出会って、気紛れにその身体を借りたその時から、私はもう神ではなかった」
システムではなくなってしまった。
人間の感情を知ってしまい、それに対して僅かでも愛情を抱いてしまったから。
「もう心ない自分がこの世界を変えることは許されないと、私は勝手に定義した。本当はずっと前から、この場所を誰かに譲りたかったんだ」
「……だが、俺は神にはなれない」
椅子の背に触れながら、そう言った。
そこに僅かに触れただけで、無数の情報が頭の中に流れ込んでくる。
咄嗟に目を背けなければ、すぐに要領を超えてしまうほどの情報の奔流がヨハンの思考を削り取った。
「そう。君はあくまでも人だ。私と同じ権限を持つことはできはしない。この彼方の大地は、神無き世界となる」
別段、それを惜しいとは思わなかった。
いずれそうしたくて、目の前の男は人に干渉することをやめてきたのだろうから。
「これより決別の時だ。私はこの世界を去り、後は全て君に託す。君達が勝てば、私のしたことは間違っていなかったことになって、世界はこれからも在り続ける。彼女達が勝てば、やはり私は間違っていたのだろう」
ヨハンとカナタ。
イグナシオとウァラゼル。
その四人を、神は裁定者として選んだ。
自らの代わりに、この世界の行く末を決めるために。
彼女等が求める滅びもまた、神とっては一つの結末として受け入れられるものなのだろう。
世界が揺れる。
その衝撃で、男の身体が更に崩れて地面に落ちた。
草花を揺らしたそれは、瞬く間に光の粒子になり消滅していく。
「彼女達も派手に戦っているね。急がないと、人間の数が持たないかも知れない」
「……一つ、質問していいか?」
「どうぞ。あまり時間はないから、手短に頼む」
「世界の修復を始める前に、その権限を別のことに利用したい。それは正しい行いか?」
「正しいも何も」
彼は思わず笑っていた。
目の前のにいるエトランゼのその気真面目さに。
「それを振るうのは君だ。好きにすればいい。例えそれが間違っていたとしても、私にはそれを止める権利も、力もない」
「そうか。なら、少しズルをさせてもらう。俺は決して公平な判断を下すためにここに来たわけではないからな」
そう言って、ヨハンは椅子に座った。
今度は先程の比ではない、この世界に付いての様々な情報が頭の中に流れ込んでくる。
それらを使うものと必要ないものに整理していく。
たったそれだけで、脳の神経が焼き切れてしまうのではないかと不安になるほどの負担が身体に襲い掛かってくる。
「……さて、もう時間だが」
片腕はもう消えていた。
残ったもう片方の手に持った本を、ヨハンに差し出してくる。
「いるかい? 私が綴った、彼方の大地の記録は」
その目を見て、ヨハンは考え込む。
神が綴ったそこには、紛れもない真実が描かれているのだろう。
千年前の戦いも、今日まであった様々な争いの根幹となった悲劇の数々に付いての真実も。
閉ざされた歴史が、そこには綴られている。
彼が彼方の大地で綴ってきた記録には、大きすぎる価値がある。
「いや、必要ない」
しかし、だからこそヨハンはそれを受け取ることを拒否した。
「俺達に必要なものは記録じゃない、記憶だ。必要なことはそれを元に、人々が紡いでいけばいい」
「……そうか。ならこれは私が持っていくとするよ」
「そうしてくれ」
本と共に、残った方の手もまた光の粒子となって消えた。
「最後に一つ、聞かせてくれないか」
「なんだ? こっちは忙しいんだ、手短にしてくれ」
「創造主にそれを言えるのは、この世界でも君だけだと思うよ」
苦笑してから、男は続ける。
「この世界に消て、よかったかい?」
その質問は、何処かで聞いた言葉によく似ている。
尋ねられたわけではないが、それを目指していた少女をヨハンは知っている。
例え彼女が掲げたそれが偽りだったとしても、その言葉の下に行った数々の冒険が人々に希望を与えたことに違いはない。
「元の世界の記憶がない俺に、それを聞くか?」
「だからこそさ」
多くのエトランゼは、今でもよかったとは言えないだろう。
決して豊かではない暮らし、元の世界に比べて文化水準が低い場所でこれからも生きていかなければならないのだから。
彼が質問しているのは、そこと比べての話ではない。
この世界は美しいのかと、彼は尋ねている。
「愚問だな」
男の瞳を見る。
もう既に、その身体は大半が消滅しかかっていた。
それでも、今もまだ彼は子供のようにヨハンの答えを待ち続けている。
「何の愛情もない世界のために、どうしてここまですると思う? 俺がここに座っていることが答えだろう」
「……ははっ」
神は笑った。
それこそ、親に褒められた子供のような屈託のない笑顔で。
多くの苦しみがあった。
悲しみに溢れる世界だった。
エトランゼと言う、彼が呼び寄せた者達は、混乱を呼び寄せた。
それでも、今がある。
決して順風ではなく、悪路を進むかの如き道程だったが、そこには悲劇と同じだけの喜びがあった。
そんな世界を、嫌いになれるわけがない。
「後を頼むよ、エトランゼ。いや、私の子供達」
その言葉が最後だった。
神の姿は完全に消滅して、もうそこには何の気配もない。
椅子に座ったまま、ヨハンは目を閉じる。
激流のようなこの世界の情報から、必要なものを選び出す。
そしてそこに手を加えていく。
全てを思い通りに操ることなどはできはしない。恐らくは、それは神であっても不可能なはずだった。
ならば、人であるヨハンができることなどたかが知れている。
それでも、神の力の一部を宿したその魂は着実に世界を造り替えていく。
人の持つ理を無視し、自らの法則で世界を造り替える。それこそがヨハンが神に持たされたギフト。
まずはやることがある。
そのために、苦痛とも呼べる世界の深層にヨハンは自らの精神を飛び込ませた。
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