第八節 虚ろの聖女
「貴方はお姉さんなんだから、妹のことをしっかりと守ってあげてね」
母に言われた言葉だ。
「お前は私達の子供なのだから、正しいことをするんだ。人のために尽くし、誰かのために自らを犠牲にできるような、そんな人になれ」
父に言われた言葉だ。
ずっとそれが正しいことだと思っていた。
いや、それは恐らく本当に正しい価値観なのだろう。
だから、護り続けた。
例え彼等自身がその言葉を違えても、後に魂魄のイグナシオ呼ばれることになる一人の少女は、両親の言いつけを愚直なまでに護り続けた。
妹が悪意無き刃で人を傷つけた時も、イグナシオだけはその行いを否定することはしなかった。
ただ、肯定もしなかっただけ。
彼女の言い分にも、一定の理解を示してしまっていたから。
しかし、同時にそれが間違ったことであるということも知っていた。
だから、疑問が生まれた。
一思いに楽にした妹の行いが悪だと言うのならば、正しさとは何処にあるのだろうか。
両親が口うるさいほどに言って聞かせてくれた『正しいこと』とは、何処に転がっているのだろうか。
判らないから考え続けた。
その間も、無心で両親の言葉は護り続けた。
そこに大した意味はない。イグナシオは自分を生んで育ててくれた父と母を愛していたから、そうしたまでの話だ。
彼等が妹であるウァラゼルの凶行に対して心を閉ざしてしまっても、それが揺らぐことはなかった。
ただ、一つの乖離としてイグナシオを成長させたのは事実ではあるが。
その成長が正しかったのか間違っていたのか、恐らく今の結果を見れば誰もが過ちだったと言うだろう。
そして時は流れ、イグナシオは御使いになった。
人々のために尽くすその姿勢が他の御使い達に認められたことで、セレスティアルを与えられるに至ったのだ。
同時に、妹であるウァラゼルも。
御使いになったウァラゼルは、すぐに両親を含む共に育った人々を惨殺して見せた。
そうして、彼女は心に全くの陰りもなく、屈託なく笑ったのだ。
他の御使い達はそれに眉を顰めても、新たなる同胞との揉め事を避けるためか、特に意見することもなかった。
ただ、イグナシオにウァラゼルの監視だけはしっかりとするようにと言っただけだ。
――奇妙な話だ。
彼等は神の使徒ではなかったのだろうか。
そしてそんな彼等が咎めないのならば、やはりウァラゼルの行いは間違ってはいないのだろう。
考えて、結論を出した。
その結果として生まれる何かに価値があるのだろうと。
だからこれから先も父と母の言いつけを護ろうと、イグナシオは決めていた。
おかしな話がもう一つある。
ウァラゼルは両親をも自らの手で殺めた。
当然、彼等はイグナシオにとっても親に当たる。その日まで自分達を育ててくれて、生き方を教えてくれた尊敬すべき人達だ。
風が吹く。
血の香りが鼻の奥に届いてくる。
肉片と化した両親や、一緒に育って来た村の人々が目の間に横たわっていた。
どうしてと、彼等は口々にそう言った。
そんなことは判りきっているだろうに。
彼等がウァラゼルにしたことを思えば、そうなって当然だった。でも、ウァラゼルは彼等を一切恨んではいない。
怒りや憎しみではなく、善意から彼等を殺めた。これから来る辛い日々を生きるのは、弱いその身では難しいだろうと判断して。
それが間違っていることだとは判っていた。
歪んだ感情だと理解していた。
だと言うのに、何故だろうか。
イグナシオはそれを目の前にして、新たな疑問が自分の中に生まれるのを感じていた。
確かに両親を愛していた、その教えは正しいものだと知っている。
だから、これからもそれを護って行く。
人を護り、誰かのために尽くす。
誰かがイグナシオを聖女と呼んだ。そう呼ばれるに足る人物になれるように生きて行こうと誓った。
では、何故なのだろうか。
両親は素晴らしい人間だ。
イグナシオが疑問を抱けば、色々なことを教えてくれた。
人間の素晴らしさを説いてくれた。人々が協力し生きることの正しさを語ってくれた。
決して生活は楽ではなかった。貧しいと言ってもいいほどの暮らしだ。
それでも多くの人に慕われていた。ウァラゼルの凶行を見てもなお、その両親に対して信頼を寄せる人々が大勢いた。
でも、何故なのだろう。
全く、悲しくないのだ。
涙の一滴も流れてはいない。
胸を締め付けるような痛みもない。
誰もが感じるであろう当たり前の感情が、そこに伴っていない。
ただ、ウァラゼルの行為も当然であろう。因果応報であると、そんな他人事めいた感想が残るだけ。
判らない。
疑問だけが残った。
どうすればそれを解決出来るのかすらも、イグナシオには判らなかった。
その答えを出すことができないままに、イグナシオは両親の教えだけを護って生き続けることにした。
人々を救い、妹を護る。
ただそれだけをやり続けた。
その途中で、虚界とも戦った。
多くの死闘がイグナシオを強くした。
いつしかウァラゼルやルフニルと共に、人を護る御使いの中心として扱われることになった。
誰かが、イグナシオを聖女と呼ぶ。
その名に恥じないように、更に努力を重ねた。
戦い続けて、護り続けた。
やがて、虚界が消えた。
全ての虚界を倒したその先にあったのは、裏切りだった。
それだけで全てが終われば、イグナシオと言う女は聖女として認められていたのかも知れない。
だが、事態は捻れていた。
誰も語らない、エトランゼに対する裏切りにはその続きがあった。
それから御使いは二つに分かれた。
人々を支配しようとする御使いと、それに抗う者達に。
戦いは長い間続き、多くの御使いが倒れた。
生き残った者達も敵対者により、或いは自らの傷を癒すためにその身体を祭器へと封印して眠りについた。
御使いが消えた後の人間も酷いものだった。
結局、虚界との戦いで得たものは一つもない。
数は増えればそこに支配が生まれ、他者を屈服させるために人間同士での争いを繰り返す。
結局、世界は何も変わらない。
虚界から逃げていた時と同じように、力なき民は虐げられて強者の横暴に怯える日々を過ごすだけ。
百年経っても、何も変わらなかった。
二百年経っても、殺しあいを続けていた。
時には神の名を使い、時には自らの欲望のままに。
人間達は争うことをやめはしない。
それを監視して止めるべき御使い達もまた、この地上から姿を消していた。
いつしか、空に赤い月が昇る。
その下で、イグナシオは一人想う。
正しきことをしてきた。
その日々に間違いはない。
それでも、この結果だった。
それならばきっと、正しいことに意味などはないのだろうと。
そして疑問を抱く。
どうして自分は正しいことをし続けていたのだろうかと。
その結末を見届けた今、もうそれをする必要もなくなっていた。
誰も彼もが、イグナシオを置いて去って行ってしまった。
彼女の抱いた疑問に、答えをくれることもなくこの地上から消えた。
この胸の中に残る感情は、何なのだろうか。
両親が消えて、虚界が消えて、エトランゼが消えて。
そして、ウァラゼルが消えた。
その後には何も残っていない。聖女である彼女に対してこれから先の道を示す者も、彼女がやってきた行いに対しての言葉をくれる者もいない。
――どうして、一人になってしまったのだろうか。
疑問に答える者はいない。
だから、彼女は一人で勝手に考えて一つの結論へと辿り付いていた。
正しいことをし続けた結果がこれなのだとしたら、また異なる結果へと辿り付くために。
――今度は違うことをしよう。
彼女が胸に抱いたのは、たったそれだけだった。
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