第七節 ようこそ、彼方へ
確かに、奇跡起きた。
エレオノーラのギフトはその声を多く人に届け、それは戦いを目の前にして二の足を踏んでいた者達の背中を押すことに成功していた。
戦場には多くの戦士が集った。
この戦いに関係のないものなど本来いない。彼等は死力を振り絞り、自らの明日を護り、戦うことを決めた。
それは人々にとって、喜ばしい一歩だったのだろう。
他者が命を賭けることを決して見捨てず、並び立ち武器を振るう。
この大地を御使いから取り戻す、最後の大舞台に相応しい行いをした。
だが、それだけだった。
次々と数を増やす虚界を押し返すことはできず、いつの間にか天空を覆うほどに聳える虚界の樹は目の前にまで迫っている。
それはまさに、世界の終末。
この大地を喰らう災厄そのもの。千年前、多くの人の命を奪った地獄の悪魔。
神によって滅ぼされたと神話に謳われるそれを目の前にして、今エレオノーラ達の下に神の加護はない。
あるのは人の力だけ。
そして、目の前に立つそれに対して人間の力をどれだけ集めようと、簡単に届くものではなかった。
足元に生える巨大な触手が戦場を踏み荒らすだけで、数百人の兵士が一度に死んでいく。
巨人の手の如き腕の一振りが、どんな防壁をも簡単に砕いていく。
こちらから放たれるギフトや魔法の光はその身体に小さな傷をつけたとしても、瞬く間に再生されていしまって速度を落とすことすらできそうにはない。
虚界の樹が笑う。
その中心部分に浮かび、楽しそうに戦場を見下ろす少女の声が、辺りに響く。
『うふふっ。楽しいわ! まるで千年前みたいに! ウァラゼルね、本当はずっとこうしたかったのかも知れない! お人形さん達を踏み潰して、沢山遊んで、その果てに救いを与えてあげたかったのかも知れないわ!』
触手の一本が撓る。
まるで足で蹴り上げるようなその一撃は、大勢の兵士や彼女にとっての味方である虚界すらも巻き込んで、それらを大空へと吹き飛ばした。
成す術なく叩き落されたそれらはそのまま命を落とし、当然ウァラゼルはそんなことを気にせずに自らの手足となった虚界の樹の一部を伸ばす。
上から下へと鈍器のように振り下ろされた一撃が、イシュトナル要塞の半壊させる。
バルハレイアからの攻撃を防ぐために建造されたその要塞は、たった一撃でその機能をほぼ停止するほどに破壊された。
同時に、エレオノーラからすれば自らの古巣を壊されたことを意味する。
たった一年程度ではあるが、そこで過ごした時間は濃密なものだった。
今は感傷に浸っている時ではない。
エレオノーラは、イシュトナルの屋上にいたのだ。
偶然にも狙いを逸れて、それは要塞の右半分を破壊しただけに過ぎないが、視界を横にずらせば足場は崩れて最早見る影もない。
『ねえ、貴方』
虚界の樹の前に浮かぶ、ウァラゼルの紫色の目が、エレオノーラを見る。
負けじとそれを見返すが、虚界の樹を目の前にしては小さな抵抗にもならないような行為だろう。
『貴方の声、ウァラゼルにも届いたわ。素敵な声ね。でもね、許せないことがあるの』
こちらの返答など聞いてはいない。
ウァラゼルは勝手に言葉を続ける。
『人間は、お人形さん達は弱くて脆いの、哀れなのよ。心臓をナイフで一突きされれば死んでしまう、そんな生き物。そんな人達を苦しませて何になるの? それは大勢を不幸にする行いよ。ウァラゼルはそうじゃない。こうして楽にしてあげているの。お人形さん達の弱い心と身体では、生きて行くのはきっと辛いだろうから』
「……何故、苦しむかか」
『うふふっ、答えてくれた』
ぞろりと、その身体にこびり付いた肉が蠢く。
先程要塞を破壊したのと同規模の触手が伸びて、天を突いていた。
後はそれを振り下ろせば、一撃でエレオノーラの命を奪うことができるだろう。
だが、それを目の前にしてもエレオノーラは逃げることはない。
一度だけ、横に立つサアヤに視線を送る。
彼女は何も言わず頷いた。そのまま、エレオノーラの想いをぶつけることがせめてもの抵抗になると信じて。
「言っただろう。明日が欲しいからだ。妾はそなたの理には従えぬ。そなたが言う通りに弱い命でも、明日を欲する権利は誰にでもあるだろう」
『……そうね。あるかも知れないわ。でも、それは苦しいだけよ』
「上等だ。それに立ち向かうのが人間だろう」
『無駄なのに。どちらにしてもウァラゼルは貴方の殺すわ。沢山殺して、沢山の人を救って、お姉様に褒めてもらうの。ずっと、ずぅーっとお姉様はウァラゼルを褒めてくれなかった。でも、今度こそ褒めてくれるわよね? きっとそうよ! だからウァラゼルを蘇らせてくれたんだもの!』
触手が振り下ろされる。
結局、エレオノーラの言葉によって稼がれた時間はどれぐらいのものだったのだろうか。
丸一日もその進撃を防ぐことはできなかった。
時間にして精々、一時間にも満たない。人間達の結束など、その程度の力しか生まないのかも知れない。
しかし。
重要なのは、たったそれだけの時間だった。
その程度、だっとしてもそれは紛れもなく奇跡の時間。
目の前の空間が歪む。
錯覚かとも思えるような出来事の直後、エレオノーラが声を上げる間もなく、そこに人影が現れていた。
黒いドレス風のローブを纏った、金色の髪を持つ女。
片腕に誰かを抱えたその名は、魔人アルスノヴァ。
紛れもなく、今人間達に協力してくれる中で最強と呼べる戦力の内の一人だった。
歪む。
振り下ろされた触手の、身体に接続されている根元の辺りから一気に捻れ、ぶちぶちと嫌な音を立てて捩じ切れた。
彼女が再度手を翳して、それを圧縮する。
巨大な肉の塊は、掌に収まる程度の大きさにまで縮められて、地面へと転がって行く。
ウァラゼルの目が動き、エレオノーラではなく彼女を睨む。
その前に、アルスノヴァは腕に抱えていた誰かを放り投げる。
浅葱色の髪をした少女はゆっくりと落ちてきて、サアヤの足元にその身体を横たえた。
「ラニーニャさん!」
「治療しておいて。現状、一番使える戦力だから。もう少し働かせる必要があるわ」
「……いえ、あの……。もうギフトが使えないんですけど」
「……なんですって? まあいいわ」
それきり、特にサアヤを責めるようなこともしなかった。
聡明な彼女のことだから、ここでどれだけの戦いがあったかぐらいは理解しているのだろう。
「それに、遅れた私にも原因はあるようだし」
『アルスノヴァ! 魔人! やっぱり来てくれた、ウァラゼル、ずっと貴方を待っていたのよ!』
「そう。私は貴方の顔は見たくなかったけれどね」
『今度は遊べるでしょう? 千年前とは違って、お姉様もウァラゼルを止めないもの! 全力で、貴方と遊んでいいって! 貴方はそう簡単には壊れない! 貴方は可哀想な人ではない! 貴方には救済は要らないもの!』
「キンキンと煩いわね。貴方に余所見をしている暇はないわよ」
『えっ?』
ズド、と。
鈍い音が戦場に鳴り響いた。
虚界の樹の背後から、巨大な鋼の槍がその胴体部分を貫いている。
緑や紫の混じった血が溢れ、地面を濡らしていく。
そして彼女が呆気に取られている次の瞬間には、鋼の巨人達が次々と出現してその巨体を抑え込んでいく。
それだけではない。
アルゴータ渓谷方面から、地鳴りのような音と共に大声が響いてくる。
それらは、自らを鼓舞する勇者達の咆哮。
「……兄上……!」
思わず、目尻に涙が浮かんだ。
彼等はオーゼムに向かっていた連合軍。
決して短期間では戻れるはずがないのに、それが何故かこの場に現れていた。
その先頭を走るのは、オルタリアの王ゲオルク。
そして新たにバルハレイアの王となった、ベルセルラーデ。
二人の王に率いられた軍団は、恐れることなく虚界達に喰らいつき次々と屠って行く。
そして大規模な増援を得て勇気を得た者達もまた、自らを鼓舞し立ち上がる。
「あれだけの数を転移させるのは、少しばかり骨が折れたわ。時間が掛かってしまったのもそれが原因、ごめんなさいね」
全く悪びれもせず、そう言ってアルスノヴァはウァラゼルに向かいあう。
そこに、横合いから箒に跨った小さな影が割り込んだ。
「これでいいわね? それじゃあ、わたしはわたしで勝手にやるから」
「ええ、アーデルハイト」
「なによ?」
エレオノーラに会釈だけをしてその場から去って行こうとするアーデルハイトを、アルスノヴァが一度だけ呼び止める。
隣に並んでみれば、体系こそ違うがこの二人はよく似ていた。親子と言うには年が近いが、それこそ姉妹と呼ばれても全く違和感がないほどに。
「無茶はしないようにね」
「嫌よ。誰もが無茶をしているのだもの。わたしもするわ」
「あ、そう。なら別に止めないけれど」
「貴方こそ、わたしの邪魔はさせないように」
何処までも憎まれ口を叩いてから、アーデルハイトはふよふよと要塞の後ろ側へと飛んでいってしまった。
「オルタリアの王女、一つ言っておくわ」
上空に浮かび、ウァラゼルを睨みつけたまま、アルスノヴァがそう言った。
「私はオルタリアの治世には興味がないわ。これからこの大地がどうなっていくかなんてのもね。でも、二つだけ協力する理由がある。逆に言えば、それはたった二つだけよ。だから、勘違いはしないように」
「……魔人殿……」
「カナタに道を示してくれてありがとう。それから、私の不手際の後始末をさせてしまって、悪かったわね」
それは恐らく、彼女が生み出した赤い月のことを言っているのだろう。
多くのエトランゼを転生させ、この大地に再び呼び戻した。
しかし、それは彼等に再び生の苦しみを味合わせることになるかも知れなかったが、エレオノーラの行いによって救われた者達がいる。
その事実が彼女の胸の中にあった重りを多少は取り除けたのだろうかと、エレオノーラは思う。
その答えを、魔人は語らない。
ただ、目の前に虚界の樹に対して視線を向けるだけ。
数多の奇跡が積み上がり、こうして舞台は整った。
これより始まるのは、最後の大舞台。
人と御使いではない。
滅ぼす者と、生きようとする者達。
この大地に生きる者達の、全てを賭けた戦いが始まろうとしていた。
▽
階段を登り切った先は、白い世界だった。
純白の、石のような物質でできたその地面に足を付けると、これまでと同じように硬い感触と音が返ってくる。
一歩、その世界に足を踏み入れる。
この場所は太陽に近いのか、そこから発せられる光に照らされて、空の青すらも白一色に見えてしまう。
しばらく進んで行くと、やがて白い石の大地が終わる。
その先に広がっている光景を見て、ヨハンは思わず立ち止まってしまう。
本当に、そこに足を踏み入れていいものかと。そう思ってしまうほどに、荘厳な世界が広がっていた。
緑の香りがする。
新緑の草原が広がり、その中心に円を描くように広がる花畑。
色とりどりに咲き誇る花から漂ってくる甘い香りに、眩暈を起こしそうになった。
そこに足を踏みれる。
感触は間違いなく、草のもの。
作り物ではない、幻覚の類でもない。
そして、その世界は無限に広がっている。
そこに踏み入れた瞬間、白い光が消えた。
代わりに空に浮かぶのは、一面の星空。
まるで夜になってしまったかのようでもあったが、月と星の輝きが絶えず照らすおかげで、全く暗くは感じられない。
更に進むと、その花畑の中心に何かがあるのを発見した。
何のことはない、椅子が一つ置いてあるだけ。
そしてそこに座り、背もたれに身体を預ける一人の人物がいた。
その姿を見て、ヨハンは息を呑む。
その顔はよく知っている。
「やあ」
気だるげに発せられた声にも、聞き御覚えがある。
紛れもなく、それは自分自身のものだ。
かつて自分が身体を貸していた、誰かのものだった。
ざあ、と。
風が世界を撫でる。
果たしてそれがこの世界に吹く風なのか、それとも目の前の誰かが起こした現象なのかは判断できない。
ただ、懐かしかった。
ここは夢で見た場所だ。
そして、今なら理解できる。
夢だけではない。
ヨハンは確かに、この場所にいた。ヨハンと言う名を貰うその前に。
今はもう掠れて、とっくに失われてしまった『誰か』である時に、この場所に招待されたのだ。
そして、目の前の男と取引をした。
その肉体を貸し与えること。その代償として、神の現身を与えられた。
だから、つまり。
目の前にいる人物は当のその本人。
かつてこの世界を創り、エトランゼを呼び寄せ、最初の失敗としてヨハンの命を無残に奪わせたもの。
神と呼ばれる、この世界の創造主。
「君をずっと待っていた」
男が告げる。
ヨハンの顔と、その声で。
この肉体が現身として分け与えられたものなのならば、エトランゼとしてこの世界に来る前の自分の本当の身体は、目の前にいるそれなのだろう。
「君と話がしたかったんだ」
「話?」
「そうとも。私の現身、神の力の断片を持ったエトランゼ。そう言う意味では、君と彼女こそが本当の御使いと言っても過言ではない。嬉しくはないかな?」
冗談めかしてそう言って、男は笑った。
「話をしよう。世界に降りて、君は何を見た? 何を経験し、そして今、どんな答えを出す?」
再度、ヨハンの目を見て男は続ける。
あくまでも、穏やかな声で。
何処か消え去ってしまいそうな、儚げな喋り方で。
「ようこそ、彼方の大地へ。さあ、君の話を聞かせておくれ、エトランゼ」
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