第六節 銀の御使い
夜明けの時間は過ぎて、青空には太陽が昇っていた。
カナタとヨハンはお互い横に並びながら、空へと螺旋状に続く階段を昇り続けている。
もう長い間歩き続けたはずなのに、不思議と汗は搔かず、疲れもない。
ここに来るまでの間、色々なことを話しながら進んできた。
この世界に来る前に、カナタが過ごしてきた日々のこと。
出会ったから幾つもあった、楽しかったことや辛かったこと。
下ではまだみんなが戦っているというのに、こんなことを話すのは少しだけ悪いような気がしたが、だからと言って黙っていることもできなかった。
その理由の一つには、恐怖もある。
ここから先に何があるかはもう誰にも判らない。
前人未到の世界を今二人は進んでいた。
「あのさ」
不意に、二人の会話が途切れたその時に、カナタがそう切りだす。
一歩上の階段を歩いていたヨハンは足を止めて、カナタの方へと顔を向ける。
「もう一回、手、握ってもいいかな?」
その顔を見上げながら、カナタがそう尋ねた。
階段を昇る際に掴んだ手は、長い道のりでいつの間にか離れていた。カナタのものより幾分大きな頼れるその手に、今一度触れたいと思った。
次第に大きくなる身体の震えを抑え、少しでも勇気を奮い立たせるために。
「いいぞ」
左手が差し出される。
カナタはそれを自分の右手で握って、彼と同じ高さにまで登って行く。
それから二人は同時に並んで、階段を昇り始めた。
先程まで喧しいばかりに話しかけていた言葉は消えて、静寂の中に二人の足音だけが響き渡る。
白い光の柱の中、空へと続く階段、その幻想的な光景の中を無言で歩み続けた。
なんとなく、終わりが来ることを察していた。
今からもう話し始めても、その話題が終わる前にそこに辿り付いてしまう。
なんだかそれが勿体なくて、カナタはこれ以上何かを言うのをやめていた。
今は、握った手から伝わる熱がある。
言葉がなくても、それはもっと色々なものをカナタへと伝えてくれた。
無言のまま、どれほどの距離を登っただろうか。
眼下にはもう、雲しか見えない。ひょっとしたら宇宙にまで届いてしまうのではないかと思うほどの高さに、二人は立っていた。
所々に浮かぶ小さな雲と、何処までも突き抜けるような青空。
その奥に、その場所はあった。
階段の途中に、これまでとは違う広い空間が出来上がっている。
白い石のようなものでできた陸地が広がっている。
何を言うまでもなく、一度だけ顔を見合わせてから二人が同時にそこに足を踏み入れた。
その場所は、ほとんど何もない、寂しい場所だった。
石造りの浮かぶ台座に、周囲にも小さな地面が飛び地のように幾つか浮遊している。
円状のその台座の中心には何か絵画のようなものが描かれているが、それが何であるかまでは判らない。
奥の方を見れば、そこから更に上に向かう階段が伸びている。
そして、その前に立つ人物を見つけて、カナタは無意識に握った手に力を込めていた。
ヨハンもそれに気付いたのか、二人は早足でその方向へと歩いていく。
ぼうっと景色を見て立ち尽くしていたその人物は、二人の姿を視界に捉えると、待ち合わせに来た友人を見つけたかのように楽しげに微笑んだ。
「あらあら、お二人で手を繋いで、仲睦まじいことで。見ているこちらまで微笑ましい気持ちになってしまいますね」
「イグナシオ……!」
忌々しげに、ヨハンがその名を呼ぶ。
魂魄のイグナシオ。様々な偶然が重なり、最後に立ちはだかる敵。
ヨハンは握っていた手を離して、懐から拳銃を取り出す。
その銃口を迷わずに、イグナシオの顔に向けて突き付けた。
「今更お前の目的を確認するまでもない。道を開けろ」
そこに一切の躊躇いはない。恐らく、イグナシオが拒否すればヨハンは迷わずに引き金を引くだろう。
「はい、どうぞ」
そう言って、呆気にとられる二人を余所にイグナシオは素直に道を譲る。
「どういうつもりだ?」
「ここから先は神の住まう座、世界の頂。誰もが立ち入ることのできないその領域でヨハン様が何を見て、何を知り、何を決断するのか、それに興味があるのです」
「お前はこの先に行ったんだろう?」
「はい、一足先に参りました。そこでこの世界の境界を破壊することで、今この大地は滅びの危機に瀕しております」
彼女がそう言うのと同時に、周囲の空間が明滅した。
それは一瞬で収まったが、まるで空間が歪んで硝子のように割れそうになるその現象は、見ているだけで不安を掻きたてられる。
「神の現身、ヨハン様。貴方がこの先で導き出すその結論を、わたくしは知りたいのです」
「今更そんな言葉に騙されるとでも?」
「あら、そう言われてしまうととても悲しいのですが、これはお互いにとっても決して悪い話ではないと思いますよ」
銃口を向けられようと、どれだけの敵意に晒されようと彼女のその温和な態度に変化はない。
それが更にイグナシオと言う女の不気味さを際立たせている。
「境界が完全に破壊されるまで、もうそれほど時間は残っていません。わたくしが座にて境界を歪めた他に、地上でウァラゼルが暴れれば暴れるほどに、時空の歪みは大きくなり、この世界に更なる数の虚界が現れるのは早まるでしょう」
一転して、挑戦的な表情になって、イグナシオは二人を見た。
「お二人でわたくしと戦うのも結構ですが、それまでの時間を稼ぐのは、わたくしにとっても決して難しいことではないかと」
それが嘘か真か、聞いている分には全く判らない。
彼女の言葉は全て嘘で、世界の崩壊などは訪れないかも知れないし、或いはヨハンとカナタの二人掛かりならばあっさりと倒せてしまうかも知れない。
だが、それはどちらも希望的観測に過ぎない。そしてイグナシオと言う女がそんなつまらないブラフを使うとは、どうしても思えなかった。
「ヨハンさん」
ヨハンに先んじて、カナタは結論を出す。
元より、このためにここについて来たのだ。今更躊躇う理由もなかった。
「先に行って。ここはボクが引き受けるから」
「……しかし、カナタ」
「イグナシオの言ってること、悔しいけど正しいよ。ボク達二人で戦っても多分、間に合わない。それこそずっと逃げ回られでもしたら、絶対に」
なら、先にヨハンをその神の座と言う場所に向かわせて世界の滅びを食い止めさせる。そしてそれから改めて、二人でイグナシオと戦う。
それが一番の得策だと、カナタの中では結論が出ていた。
「罠の可能性もある。そうなることが判って、黙って行かせてくれるような女か?」
「……どうだろう。多分だけど、そう言う人だと思うよ」
何故か、そう答えてた。
明確な理由があるわけでもなく、イグナシオは勝利や敗北とは関係なしにその状況になるのを望んでいる。
結果的に自分が不利になったとしても関係ない。そう考えているようにカナタには思えた。
「まあ。カナタさんはわたくしのことをよく理解しておいでで。とても光栄です」
「判ってるよ。イグナシオが、ロクなことをしないってことぐらいは」
「うふふっ」
両手を合わせて、イグナシオは笑う。
彼女の目的と行動はいつだってそうだった。決して合理的ではない。特には敗北する危険すらも厭わずにその時に思った行動を取る。
その後先の考え無さは、ある意味ではカナタとよく似ているのかも知れない。
「カナタ、お守りだ」
ヨハンが拳銃を差し出す。
頷いてそれを受け取ってから、お揃いのローブの中にしまい込んだ。
「頼んだ。……死ぬな、一緒に帰るぞ」
「うん、ヨハンさんも気を付けて。絶対、一緒に帰ろう」
イグナシオの横を擦り抜けて、ヨハンは階段を登って行く。
宣言した通り、イグナシオはそれに目をくれることはない。むしろ黙ってそれを見送ってから、その姿が見えなくなってから改めてカナタへと振り返った。
「嗚呼、わたくしは楽しみです。その先であの方が出会い、そして何を決断するのかが」
「……何を見たのかは知らないけど、イグナシオが思っている通りにはならないと思うよ」
「うふふっ、それはそうでしょうとも。そうでなくては困るのです」
「どういうこと?」
「……別に答えを惜しんでいるわけでもないのですが、ここでこうして立ち話と言うのも何ですし」
嫌な予感が一気に膨れ上がる。
咄嗟にその場から飛び退くと、その直後にカナタが立っていた場所に、光の帯が叩きつけられて、砕けた石の欠片が飛散した。
修道服を着た、波打つ銀色の髪の女。
まるで女神と見紛うほどの美貌を持つ彼女は今、その背に幾重にも重なりあった羽衣ような光の帯を背負っている。
眩い輝きを放つそれは、彼女と全く同質のものだ。
妖艶で、吸い寄せられそうな美しさとは裏腹に、その一挙一動が容易く人の命を引き千切る凶器でもある。
「少し運動でもしながら、と言うのは如何でしょうか?」
「別に立ち話でもボクは全く問題ないんだけど」
「わたくしに問題があるのです。恥ずかしながら、退屈と言うのが苦手でして。それに」
めきめきと、肉が裂けて骨が砕ける音がする。
彼女の右肩が盛り上がり、そこから骨のようになった竜の翼が広がった。
同時に、人間のものだったその片腕も禍々しく変貌を遂げる。
死して腐りかけの竜の腕を取り付けたようなその腕は、伸びた五本の指を刃のように尖らせてカナタに向けられていた。
「わたくしの中にいるイブキさんも、カナタさんと遊びたかっている様子ですので」
その一言に、心臓が高鳴る。
殆ど喋ったことのない、エトランゼの希望と呼ばれた女性。
ヨハンと一緒に旅をして、色々なものを見て、そして旅の終わりを迎えた人。
彼女は紛れもなく、ヨハンにとっての希望の象徴だった。その魂を玩ぶ目の前の女は、決して許しておけない。
躊躇いなく、両手を握る。
そこに発生した極光の剣を見て、イグナシオは楽しげに唇を歪めた。
「それでこそです、カナタさん」
「……イグナシオ……!」
カナタが床を蹴り、イグナシオが背中から伸びる光の帯を操る。
二つの極光がぶつかり合い、天上に眩い輝きを散らせた。
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