第五節 明日もし世界が終わるとしても
戦いの音が、イシュトナル要塞の屋上にまで響いてくる。
黒い軍勢はオルタリア軍を押し返し、その喉元にまで迫っていた。
その背後に聳える虚界の樹、その到着を待つまでもなく、それが放った尖兵によってイシュトナルは陥落しようとしていた。
救いといえば以前はあった、こちらの世界の人間が彼等に対して抱く異常なまでの恐怖心が想起させられていないことだが、これだけの数の違いの前では大した問題ではない。
エレオノーラはその様子を、屋上で黙って見つめている。
あれが到着すれば、訪れるのは食い荒らされる惨たらしい死だけ。
千年前の人間は、果たしてどれだけの数がその恐怖と絶望を味わいながら死んでいったのだろうか。
そして自分もまたその一部となろうと言うのに、エレオノーラは意外なほどに心が落ち着いてた。
誰かが、屋上へと階段を駆け上がってくる音が響いてくる。
クルトも、他の将達も前線に掛かりきりで、エレオノーラに対して気に掛けている余裕はない。
で、あればここに来られるのは限られていた。
荒い息遣いが聞こえてきて、すぐにそれが誰であるかを理解する。間違えるわけもない、たった一年程度しか一緒にいないのに、もう十年来の親友様に感じる彼女だった。
「サアヤか」
「エレオノーラ様」
サアヤは隣に立ち、同じように地平線を見る。
積み重なる死体、破壊された建造物。
人が、そしてそれが生み出した文明が尽く無に帰されていくその光景は、人間が如何に弱いかを見せつけられているようでもあった。
「怪我人の治療はどうした?」
「……それが、どうやら使い過ぎてしまったみたいで。もう、何もできなくなっちゃいました」
ぎこちない笑顔を作って、手を翳してみる。
そこには何の光も灯っていない。
そんな事象は聞いたことはないが、ギフトとて魔力の一部と考えれば、決して不思議な話ではないだろう。
特に彼女は、バルハレイアとの戦いが始まってから下手をすれば誰よりもその力を行使し続けていた。その限界が今来たところで、何も不思議はない。
「わたしは医療の知識も技術も持ってないから、もう役に立てなくて。そしたら言われちゃいました。……エレオノーラ様を、逃がしてくれって」
「妾を逃がす?」
何処に、とは問うまい。
それはきっと、何処かの誰かの優しさと感謝の想いだ。無下に扱うことは許されない。
例え終末を目の前にしても、生きていてほしいと願ってくれる人がいる。
それだけで、これから待ち受ける現実を受け入れる勇気も多少は沸いてくる。
「サアヤ、妾は」
「判ってます。逃げませんよね、エレオノーラ様は」
逃げる場所がないから、ではない。
もう、逃げるわけには行かなかった。
これは責任だ。
ずっとエレオノーラが支払いを拒否し続けてきたそのツケが、今回ってきただけの話だった。
「妾には、力がない。どれだけの理想を掲げようと、それを成すための何もかもが足りなかった」
だから、他者の力を借りて生き延びた。
多くの犠牲の下にここまでやってきた。
そして今もなお命を賭ける者達を見捨ててここから退くなど、できるはずもなかった。
エレオノーラにできることは、もう何も残されていないのだ。生き延びたところで、何かの役に立つわけではない。
で、あればここが死地であろうと、そう考えていた。
「思えば、そなたのように人を助けられる力があればと、何度も思ってきたな。最後まで、それも叶わなかったが」
苦笑しながらそう言う。
サアヤのひたむきさ、そして誰かのために身を粉にできるその美しい心に憧れたことは、一度や二度ではない。
彼女は今、最も信頼できる友人だった。
そんなサアヤと一緒に死地に立つのならば、恐怖も半減する。
「最後に、一つ付き合ってもらってもいいか?」
「はい、何なりと」
何故か、サアヤはエレオノーラがそう言うのを判っていたような気がした。当然、それは単なる思い込みでしかないのだが。
空を見やる。
彼方に聳える終末は、容赦なく世界を飲み込む洪水のようだった。
今から行うそれが、どんな意味を持つのか、それはエレオノーラ自信にすらも判っていない。
ひょっとしたら、それは何の意味も持たない。いや、下手をすればそれができると思ったこと自体が混乱したうえでの錯覚なのかも知れない。
それでも、最期に言わなければならないことがある。
例え終末を目の前にしても、全ては終わってはいないのだから。
固く結ばれた唇が、僅かに解けた。
そこから零れた声が、大気を揺らす。
「もし、明日世界が終わるとしたら、皆は何を想うのだろうか?」
その声は小さく震えていた。
終末が迫り、その中で足掻く。
それ自体が何の意味もないのではないかと言う恐怖。
もし、来たる強大な力の前に、今の行いが果たしてどれだけの効果をもたらすだろうか。
それは、巨象に挑む蟻の足掻きに等しいのだろう。
恐怖は目を曇らせ、心を鈍らせる。
大半がそれに屈して、何かをするまでもなく、諦めてしまう感情だ。
「家族のことか? それとも、愛する人のこと? ひょっとしたら、全てを捨ててしまう者もいるかも知れない」
震える手に、温かいものが触れる。
それがサアヤの手であると、見なくても判った。
柔らかく、彼女らしい優しさで握ってくれたそれを、恐る恐る握り返した。
「妾は、諦めたくない。情けない言葉だとは判っているが、どうしても明日を諦められないのだ。例えこの身が無力であろうとも、最後まで希望を捨てたくはない。例えその結果、泥の中で惨めに死ぬようなことになったとしても」
今日、朝日が昇った。
一睡もせずにエレオノーラはそれを見ていた。彼女だけではなく、多くの者達が今日と言う終末の日の朝焼けを目にしていただろう。
そう、朝日は昇るのだ。
例えどれだけ絶望的な状況であろうとも、もし明日には空しく砕けてしまう命を目の前にしていたとしても。
「妾は今、惨めで無様かも知れない。力などなく、ただこうして言葉を紡ぐことしかできない哀れな女なのかも知れない。だが、それでも……。諦めたくないのだ。妾達の生きるこの大地の明日を。変わらず太陽が昇り照らす、この彼方の大地を」
それは単なる言葉に過ぎない。
彼女が絞り出す、心からの言葉。
しかしそれは、何の力も持たず、剣の一振りで空しく掻き消えてしまう程度のものでしかない。
いつだって、それに力を与えてきたのは周囲の人達の協力だ。
そして今もなお、エレオノーラはそれに縋ることしかできない。自分では、そう思っていた。
「もし、立てるものがあれば立ち上がって欲しい。人の明日を、家族の未来を護りたいものがあれば力を貸してほしい。必要なのは武力だけではなく、誰かのために前に進もうとする、その心だ」
エレオノーラの言葉は、そう締めくくられた。
虚空に消えた声が、いったい誰の下に届いたのだろうか。
届いたところで、それがどれだけの影響を与えることができたのだろうか。
そんなことはもう、判りはしない。
ただ、やるだけのことは全てやった。
もうこれで悔いはないだろう。この先にあるのが絶望だけだとしても。
それを真っ直ぐに睨みつけて、最後まで足掻くことを決めた。
▽
――一つ、確かなことがある。
彼女の言葉は確かに、多くの人の心に届いた。
それがエレオノーラが持っていた、親をエトランゼに持つ者が稀に発言する希少なギフトの一つ。
自らの声を伝えるそのギフトは今、エレオノーラの偽りない真実の声を多くの人に届けることに成功した。
――一つ、不確かなことがある。
だからと言って、それを聞いて実際に立ち上がれる者がどれぐらいいるのだろうか。
例え誰かの誠意ある言葉があったとしても、それによって勇気を奮い立たせるのは並大抵のことではない。
大半の人が、自分には関係がないからと迫る恐怖から目を逸らし、その感情を押し込めてしまうだろう。
だから、それは不確かなことではある。
彼女の言葉がそうさせたのか、それとも偶然が重なっただけに過ぎないのか、判断するのは非常に難しい。
少なくとも、今戦場に立つ一人の青年はそう思って、その件についてはこれ以上考えることをやめていた。
「ちっ」
舌を打つ。
人間の身体に、狼の顔。
手には切れ味よりも破壊力を重視した、まるで鉈ような鈍い刃。
それを振り回して、迫る異形を次々と斬り伏せる。
その周囲で、炎や雷が爆ぜる。
魔法ではなく、それはエトランゼが持つギフトによるものだった。
「いいんですか、シュンさん? あのお姫様は……」
「別にあれに協力するわけじゃない。どっちにしても、あれが来たら世界の終わりだろうが」
「それは、そうですけど……。別にこんな世界……」
「諦めて、認めろよ」
そう、口にする。
以前の自分ならば絶対に言わなかったその言葉を。
ある意味ではそれは、敗北宣言でもあった。
だが、シュンと呼ばれた青年にとっては別にそれでいい。
実際に、完敗しているのだから。大切なのはその後に何を成すべきかだと、教えてもらってもいる。
「おれ達はもう、帰れない。ここは、おれ達が暮らしていかなきゃならない大地なんだ」
それ聞いて、隣に立つエトランゼの表情が曇る。
「仲良く、とは言えないかもな。だが、それは他の奴等にやらせればいい。おれ達は生きる。生きて、この世界に来て精一杯にやってきたエトランゼのことを、刻めばいい。それこそ、誰にも忘れられないように」
もう、彼等と同じように共存の道は歩めないかも知れない。
それでも、かつて憧れた誰かに引っ張られるのはやめにした。
彼のやろうとしたことは理解している。それがエトランゼのためであることも。
現実的に、それは不可能だと知った。
幾ら力を持っていても、できることには限りがある。
「おれは、あんたと同じ生き方はできなかったよ、ごめんな」
暁風と呼ばれた者達。
エトランゼの希望とまで言われた彼等の名は、歴史の影に消えていった。きっともう、その名を思い出す者は誰もいない。
だからせめて、自分だけがその名を記憶して生きていくことを決めた。
今はただ、この大地に生きる者として戦う。
彼女の言葉に耳を貸したからではない。自分で考えて、ここまで来た。その時に偶然、それが聞こえてきただけの話だ。
そう結論付けて、シュンは武器を握る。
目の前に迫る異形の軍勢へと、かつては暁風と呼ばれたエトランゼ達が立ち向かって行った。
▽
「バルハレイアの兵達が……!」
老兵を送り届けたアストリットは、再び前線に復帰していた。
先程助けてくれた女戦士は、変わらず鬼人の如き戦いぶりを以て、そこで敵の軍勢を押し留めている。
そこに、次々と援護に入る部隊があった。
彼等は傷つきながらも武器を取り、彼女を中心として陣形を組むようにして守りを固めていく。
「戦士トゥラベカ! 俺達も続きます!」
その姿を横目で見て、トゥラベカと呼ばれた女戦士が小さく笑う。
「それでこそ、バルハレイアの兵です」
「このままオルタリアの連中に借りを作ったままでは、バルハレイアの誇りに関わりますからな!」
大柄な男が、獲物の大剣を振り回しながらそう言った。
「ええ。それでいいのです。無様な生よりも誇りある死を! バルハレイアの勇士達よ、例え王の言葉なくとも、貴方達がやるべきことはもう、その血脈に刻まれているはずです!」
「応っ!」
複数の声が重なって、大音響となった。
怪我を治療を受けて、また散り散りになっていたバルハレイアの兵達は一斉に蜂起して、死を恐れずに敵に向けて吶喊していく。
彼等と、別方向から現れたエトランゼの一団に押されるように、オルタリアの兵達も勢いを取り戻しつつあった。
アストリットはその流れに乗ろうと、自らを奮起させて最前線を切り拓くべくそこから跳躍しようとする。
それを、何者かが背後から抑えつける。
抵抗する間もなくアストリットを抑えつけると、その人物は手早く鎧を脱がせて、傷口に何かを塗りつけてくる。
「……聖別騎士団……?」
彼の服装は、聖別騎士団に所属している僧侶のものだ。従軍の際に味方を治療するための薬を惜しげもなく、アストリットに使って行く。
そしてその横を、見覚えのある鎧を着た者達が駆けて行く。
神への祈りを口にして、死地へと身を躍らせる敬虔なる騎士団。
アーベルが倒れてから捕虜になっていた聖別騎士団が、何故かその手に武器を持って戦場へと現れていた。
「元々は、こういう奴等と戦うための聖別騎士団だったのだ」
地響きを立てて、白い巨大な鎧が通過していく。
聖別騎士達もまた、オルタリアの魔装兵に交じってその力を振るおうとしていた。
「これでいい。例え我等の行いが間違っていたとしても、神の言葉に間違いはない。隣人のために、他者のために尽くすべしとな」
その力は、本来民達を護り導くためにある。
神の教えとは、人々を幸福へと誘うためのもの。
そして、目の前に迫る異形達は地獄の悪魔達。
神の兵が戦うに、充分過ぎる理由がそこにはあった。
「アストリット。よく戦ってくれた。お前は誰よりも、神の教えを体現したまさに現身だ」
その言葉に、アストリットは首を横に振った。
「……いいえ。アストリットは、人間です。だから、戦えたのです」
「そうか。ならば、そうなのだろう」
彼は、アストリットの言葉を否定しなかった。
そこに浮かんでいた感情は、心なしか喜びを含んでいたようにすら思える。
すぐに治療は終わり、それを確かめるだけの時間はなかったが。
そう思うことにして、アストリットは地を蹴る。
いつもと同じように、真っ先に最前線へと。
今はただ、託されたものを護るために。
このちっぽけな奇跡を、決して無駄にしないために。
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