第四節 小さな希望
戦いの開始から、何時間が経過しただろうか。
夜明けの光は完全に空に昇りきり、青い空が上空には広がっていた。
そしてそれは、暗闇の中に潜んでいた異形の怪物達をより鮮明に浮かび上がらせ、武器を取る者達により大きな絶望をもたらす。
アルゴータ渓谷で戦いを開始したアストリット達は既に幾度かの敗戦を繰り返し、いつの間にかイシュトナル要塞のすぐ傍まで撤退していた。
アストリットの雷のような剣閃が、纏めて数匹の異形を斬り飛ばす。
返り血を浴びることを厭わずに、その場から跳躍して、更に着地際に数匹の命を奪う。
だが、それだけのことをしても敵の数が減ることはない。
遠くに見える異形の群れはその数を一切減らすことなく、また仲間の死など全く恐れていないかのように次々と増援を繰り出してくる。
「世界が終わる……」
思わず、そう呟いてしまうほどの何かが聳えている。
虚界の樹とでも表現すべき、巨大な肉の柱は、足元に生える無数の触手を蠢かせて、ゆっくりとではあるが確実にこちらへと進撃し続けていた。
彼我の距離は相当に離れているはずだが、その気になれば柱の中腹辺りから二本生えている腕のような触手で、こちらを薙ぎ払うことも不可能ではないだろう。それでもそれをしないのは、慈悲か、それともただ遊んでいるだけなのか。
そんな考えても意味のないことに思考を取られたその隙に、敵の接近を許していた。
咄嗟に剣を構えるが、最早それを握る両手の感覚はない。
アストリットの二倍の身長を持つ、人型をした異形が、まるで蔦のように伸びる指の付いた手を広げて、真上から襲い掛かってくる。
「くっ……!」
一撃目が、アストリットの持つ剣を弾き飛ばす。
二撃目、横から振るわれたもう片方の腕を、身体を沈めることでどうにか回避する。
反撃のチャンスを得たが、肝心の武器がその手にはない。異形の胴体に蹴りを入れて距離を取ろうとしたところで、その伸びた指がアストリットの片足に絡み付いてその動きを捉える。
「そんな……!」
アストリットの身体が宙に浮かぶ。
片腕の力だけで小柄な体躯を持ちあげたその異形は、アストリットを地面に叩きつけるべく全力で腕を振り上げる。
視界が回転し、意識がそのまま何処かに持って行かれそうになる。
辛うじてそれに耐えても、ここから脱出する術はない。せめて痛みに耐えるために歯を食いしばったところで、アストリットの身体が空中で不自然に解放された。
空中に投げ出された身体が、咄嗟に受け身を取る。
そして上手く剣が落ちた場所に着地をすると、急いでそれを拾い上げた。
アストリットを再び捕らえようと襲いくる異形だが、その胴体に数本の矢が突き刺さり動きを鈍らせる。
殺すには至らない攻撃だが、それが稼いだ時間はアストリットにとっては充分だった。
その矢が飛来した場所に視線を向ける。
積み上げられた土嚢の山に隠れるようにして、弓を番えている老兵の姿があった。
心の中で彼に感謝を述べて、アストリットは下から上へと剣を斬りあげる。
異形が怯んだ隙に、今度は横一文字に剣を一閃。
目の前の立った異形は、十字の傷を身体の中心に刻まれてその場に崩れ落ちた。
荒い息を吐き、周囲を見渡す。
奮戦している兵達の姿はいつの間にかなく、大半がそこに倒れたか撤退を開始していた。
「これ以上下がれば要塞に敵を招くことになります……。ですが……」
他に方法はない。
このまま野戦で戦っていてもいずれは押し切られて貴重な戦力を失うことになる。
ならば、せめて要塞を利用して戦った方が時間を稼ぐこともできる。
迫る異形を斬り捨てて、その場から跳躍する。
土嚢に囲まれたその内側に飛び込んで、アストリットは先程助けてくれた弓兵に声を掛けた。
「ここはもう持ちません。一度要塞へと撤退しましょう」
「そりゃそうだろうな。だが、俺はいい」
「何を言っているのですか? 逃げるのならば……」
そこまで言って、アストリットは言葉を切った。
土嚢の中に持ち込んだ椅子に座り込んでいるように見えた白髪の弓兵は、実際のところはそうではない。
いや、実際には彼の身体は椅子の上に乗っていたのだが、肝心の両足が、膝までしかなかったのだ。
「貴方、足が……」
「ああ、バルハレイアとの戦いでな。だが、エトランゼの嬢ちゃんに無理矢理治療してもらって出てきた。弓を射るだけなら足がなくてもできるってな」
「……そんな……!」
「仕方ないだろう。戦力が足りてないんだ。俺より若い奴等が、怪我を押して武器を掴んで死にに行く。それを黙って見送れるか?」
その老兵の覚悟は、同時に現状が如何に絶望的であるかを現していた。
通常ならば絶対に戦場に出ることを許されない身体でありながら、彼を止めるだけの余裕も残されていないのだ。
「ほら、あれを見ろ。俺と同じ考えの奴等がいる」
彼が指さした方向を見ると、仲間を生かすために槍一本を手に敵陣に特攻する者達の姿があった。
彼等は大半が老兵で、そうでない者達は大きな怪我を負っている。
自分達が死ぬのなら、その前にせめて誰かを生かすための礎に。
そう考えての行動だった。
「お嬢ちゃんは逃げろ。お前にはまだ未来がある。俺達とは違うだろ?」
そう言っている間にも、異形の群れが特攻した兵達を蹴散らしてこちらに迫ってきている。
彼を担いで逃げては、とてもではないが逃げ切れるものではない。アストリットが今から全力で駆けて、どうにか振り切れるかと言うほどの距離にまで詰められていた。
「見てたが、お前は強い。だから生きなきゃならん。判るな?」
「……はい。アストリットはそれを理解しています。ですが」
アストリットは無言で、その老兵を担ぎ上げる。
「お前、何を!」
「暴れないでください。態勢が崩れれば、転んでしまいます」
今、自分がしていることは間違っている。
この老兵の言葉は正しい。戦局的に見ても、ここはアストリットが生き残ることに意味があるだろう。
「お前は……!」
「正しいことをするばかりが人間ではないと、アストリットは思いますので」
かつての自分ならば、この選択肢を取ることはなかっただろう。
戦場での死は名誉ある殉教。それに泥を塗ることなどあってはならないと、そう考えていた。
だが、今は違う。
彼女達と出会って、命を重みを知った。例え数千の死の中の、たった一しか救えないとしても。
その行いには意味がある。そうしようとした自分の心に従うことこそが大切なのだと、知っている。
「だが、追いつかれるぞ!」
「その時は、ごめんなさい。でも、アストリットはそうするともう決めましたので」
よろけるように、一歩一歩を踏みしめて逃げて行く。
その亀のような歩みを、人を喰らう悪鬼達が見逃すわけもなかった。
背後に影が複数迫り、獣の唸りのような声が木霊する。
背中から体当たりを受けた衝撃と共に、アストリットと老兵の身体が離れて、別々に地面に転がる。
咄嗟に剣を掴み、飛びかかってきた複眼四足の獣を斬り払う。
身体に纏わりつこうと地を這いずる百足の身体を両断し、倒れたままの老兵へと手を差し伸べる。
「無理だ! 一人で逃げろ!」
彼はそれを掴まなかった。
そこに、人型の異形が迫る。
その数は三体。そして更に背後からは、この世のものとは思えない怪物達が、立ち止まった餌を喰らおうと迫りつつあった。
人型の指が触手のように伸びて、アストリットの手首を掴んで地面に叩きつける。
いつもならば簡単に避けられたそれを回避できなかったのは、ここまでに蓄積した疲労の所為だろう。
立ち上がろうとするが、今度は足を取られて再び地面に転ばされる。
玩ぶようにその人型は、アストリットの身体を振り回し、何度も地面に叩きつけていた。
その拘束が、不意に解かれた。
地面を擦るように転がりながら、どうにか立ち上がって老兵の下に駆け寄る。
彼のその視線は、今しがたアストリットを解放した人物を驚愕の目で見ていた。
「お前は、バルハレイアの……!」
アストリットを拘束していた異形が、少し遅れて地面に崩れ落ちる。
その顔面に突き立てられた槍を引き抜いてから、そこに立った人物はアストリットに視線を合わせてからイシュトナル要塞を指さす。
「早くあちらへ。救護部隊が待機しています」
「……貴方は……」
禿頭に長身、均整の取れた逞しい身体。
女性でありながら一目見て強者と理解できる風格。彼女は引き抜いた槍を構え、眼前に迫る異形達を睨む。
「ここで敵を食い止めます。ご心配なく、すぐにそちらに合流しましょう」
「どうして、バルハレイアの将が俺達に味方する……?」
老兵がそう尋ねる。
つい数日前まで命をやり取りをしていた相手が協力することが、意外なのだろう。
それに対して女は、背中を向けたまま答えた。
「この状況でバルハレイアも何もないでしょうに。私は、私の王が目指す道を切り開く者。必要とあれば、誰とでも戦うまでです」
強く、片足が地面を踏みしめる。
理性のない異形達が、まるでそれに怯えるかのように一歩後退った。
「ですが貴方の言葉通り。バルハレイアの者達は未だにこの戦いに参戦するかを決めあぐねています。果たしてこれがオルタリアの脅威なのか、それともこの大地全ての脅威なのか、それを図ることができないのです」
ベルセルラーデの不在により、命令系統が混乱している今ではそれも無理もない話だった。ここには多数のバルハレイアの兵が残ってはいるが、彼等が戦力として稼働はしていない。
「私はバルハレイアの兵である前に、一人の戦士として、そちらの少女の優しさに報いたまでです」
「ありがとう、ございます……。ですが、一つ言わせてもらっていいですか?」
「なんでしょうか? 時間がないので、手短に」
「アストリットは男です」
「……ふむ。以後は、間違いないようにしましょう」
驚いた気配が、彼女の背中からも伝わってくる。
しかし、驚愕はその一度だけで、女戦士は槍を構え、異形へと立ち向かっていく。
その槍捌きは、アストリットすらも唸り、思わず見とれてしまうほどに見事だった。
まるで四肢が全て一体の武器となったかのように動き、槍だけでなく素手も交えては次々と異形達を倒していく。
荒々しくも、精錬された流麗な動き。あと何年修行すればそこに至れるのかすらも判らない神業が、次々と披露されていく。
もしここが戦場ではなく、演舞場だとすれば、歓声を上げていたかも知れないほどに見事なものだった。
「おい、お嬢ちゃん……。いや、坊主」
老兵に肩を叩かれ、慌ててアストリットは彼を背負ったままイシュトナル要塞へと向かって行く。
一刻も早く、彼を安全な場所に非難させて前線に戻る必要がある。
彼女がどれだけの手練れでも、無限に湧き出る怪物達を相手にできるわけがない。
僅かな希望が生まれようと、それよりも大いなる絶望が全てを塗りつぶし、闇の中へと葬り去る。
ここはそんな戦場だった。
何よりも、その奥、アルゴータ渓谷より迫る終末はすぐ傍まで近付いてきている。
小さな命がどれだけ足掻こうと、あれをどうにかする手段がない限りは勝利はない。最終的には死が待っているだけだ。
それでも足掻いてしまう当たり、アストリットはどうしようもなく人間なのだろう。
かつては御使いの現身とまで呼ばれた剣士は、今は単なる人の子、小さき者に過ぎない。
まるで我が儘を通そうとする子供のように足掻き、己の死を受け入れることができないでいる、哀れな人間の一人だ。
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