第三節 捨てられた祈り、拾われた願い

 いつの間にか夜が過ぎて、朝焼けがすぐそこまで近付いていた。

 淡い日の光に照らされながら、そんな美しい光景に視線を向けるだけの一瞬の時間すらも与えてもらえない。

 息を呑み、アストリットはアルゴータ渓谷の地平線を睨む。

 蠢く山のように不気味な脈動を繰り返し長迫る、異形の軍勢達。

 アストリットの両翼には同じように大勢の兵士達が武器を構えて立っているが、彼等の表情は皆一様に暗い。

 そこに勇ましさはない。あるのは、自分の命をここで捨てると言う覚悟と、半ば自暴自棄になった感情だけ。

 夕日が落ちるころに戦いが始まり、そして夜を超えようとしている。

 足元に転がる死体の数は、敵味方合わせて数千を超えただろうか。

 アストリットは数を数えるのが得意ではない。そう言う問題でもないが、とにかくできるだけそれを見ることは避けていた。

 死を見つめれば、自分もそこに引きずり込まれてしまう。

 カナタに貰った命を、そんなことで失うわけには行かない。

 しかし、だからと言って背は向けない。

「カナタやヨハン様が護りたいものを、アストリットも護ります」

 神への祈りは口にしない。

 代わりに、友への誓いを。

「お嬢ちゃん、彼等の知り合いかい?」

 隣に立つ兵士が、兜の下でくぐもった声をアストリットに向けた。

 黙って白い髪を揺らし、頷く。

「そうか。エトランゼかい?」

「違います。アストリットは、ギフトを持っていません」

「そうかい、俺もだ」

 そう言って、男は兜の下で笑った気がした。

「怖いよな。何の力も持たない一兵卒の身で、こんな死地に送られちまってよ。俺は田舎で一生警備だけやって、家族を食わせられればそれでよかったんだぜ? それがよ、うちの大将がお姫様に協力なんてするから」

 愚痴るような言葉だが、その口調は不思議と柔らかいものだった。だから、アストリットも無駄話でありながらそれを聞き入れる。

 或いは、アストリットとこの兵士が、生涯最期に交わす会話になるかも知れないからでもあるかも知れない。

「しかも大将は道半ばで死んじまった。無茶ばっかりさせられたせいでな」

 その人物をアストリットは知らない。

 継承戦争のことは、対して興味がなかった。一度参加させられたこともあったが、あの頃は周囲に気を配る余裕もなかった。

「挙句にこの地獄だ」

「……ですが、それは」

「だが、仕方ねえよな。奴さん達は俺達に多くのものをくれたんだからよ」

 言いかけたアストリットの言葉を遮って、男がそう言った。

 驚いて彼を見上げるアストリットに笑いかけてから、更に続ける。

「俺達はエトランゼって友を得た。それは、お姫様と彼等がいなけりゃ成し遂げられなかったことだろう?」

「……それは、そうかも知れません」

「そして、今ここででっかい役目が回ってきてる。俺達兵士はなんでこんな戦いが起こって、勝利の果てに何があるかなんて判りゃしない。だが、こいつらは放っては置けないものだってのはよく判るさ」

 地響きが迫る。

 既に蠢く山々の脈動は、すぐ傍まで迫って来ていた。

 その後ろ、彼等を生み出し、統率するように迫る巨大な影を見て、アストリットは背筋に冷や汗が落ちた。

「ガキの頃に聞いた英雄譚だ。子供騙しのお伽噺だが、俺達は確かにそれに憧れた。そして今、そうなる機会が訪れてる。例え歴史に名前の残らない、誰にも知られない英雄譚だろうとな」

 それは奇しくも、かつて彼が仕えた貴族が言った言葉によく似ていた。

 それに呼応するように、隣で声が上がる。

 誰しもが、それを求めていた。

 或いは、それは恐怖に負けそうな自分を誤魔化すための言葉だったのかも知れない。

 とにかく、声を張り上げて雄叫びを上げた。

 その声に呼応するように、また叫び声が木霊する。

 次々と、味方側の軍から鬨の声が上がり、そして彼等はそこに竦んでいた足を、ようやく前へと進めることができた。

 一歩、大勢の足音が一斉に前進し、敵にも負けない地響きが鳴った。

「……誰も知られない、英雄譚」

 その言葉はアストリットの心に強く残る。

 彼等の大半は死ぬだろう。

 ひょっとしたらその全てが命を失い、奴等に喰われて消えてしまうのかも知れない。

 それでも、その足は止まらない。

 目の前に異形達が迫る。

 醜い、腐肉を繋ぎ合わせて作られたような人型に、目玉が無数に付いた百足。地面を水のように泳ぐ複数の口を持つ魚。

 醜悪な魔物ですらも目を背けてしまうように、この世のものとは思えない異形の大軍がそこに迫っていた。

 いや、彼等は実際に、この世界のものではない。

 異界よりの侵略者。目的も変わらず、ただ喰らうことだけを続ける悪魔達。

 エイスナハルの聖典に現れる悪鬼。そして、神と御使いによって裁かれてこの地上より消し去られた者達。

 その事実は違う。全ては間違っていた。

 彼等をこの世界から追い払った動力源となったのは、他ならぬエトランゼだ。この大地に現れ、忌み嫌われた彼等が、この大地を護ってくれていたのだった。

 剣を握る手に力が籠る。

 もう、神の加護はそこにはない。いや、最初からそんなものはなかったのかも知れない。

 エトランゼも、この世界にいる者達も関係ない。

 今から始まるのは、人間の戦いだ。

 故郷である大地、そしてこれから暮らしていくこの地を護るために、剣を取り死地を駆ける。

 地を蹴り、声を上げる。

 白い小さな影が、人間達の一段の先頭を走る。

 稲妻のような速度で、両手に握った剣を叩きつけて、そのまま怪物達の奥へと一気に食い込んでいく。

 それが、攻撃の起点となった。

 アストリットの一撃はその後ろを走る人々に確かな勇気を与えた。

 更に、雄叫びと共に人間と異形が入り混じる。

 ぶつかり合って数秒もしないうちに周囲には血飛沫が舞い、力なく幾つもの身体が倒れては地面に落ちていく。

「アストリットは、もう願いません。祈りません」

 呟きながら敵を屠る。

 瞬く間にその数は十を超えた。それでも、全く景色が晴れる気配はない。一体を倒せば、その穴を埋めるために十体がやってくるような有り様だ。

 全身は異形の血に塗れ、様々な色が混じりあって不気味に染まっている。

 それでも構わずに、アストリットは剣を振るい続けた。

 そうすれば、それだけ人の命が救われる。

「こうして護り、救います」

 自分にはそれしかできないと、少年は自嘲する。

 だが、今はそれでよかった。彼のその戦いぶりは多くの味方に勇気を与え、奮戦させる。

 例えそれが一瞬のこと、いずれは飲み込まれる小さな事象に過ぎないとしても、関係ない。

 一匹でも多く敵を斬り、一人でも多く人を救う。

 神は人を救わないのならば、アストリットは自分のやり方で救ってみせよう。

 その誓いを果たすために、少年はただ剣を振り続けた。


 ▽


 ヨハン達が転移した先は、オルタリアの城の中、かつてヘルフリートと対峙した謁見の間だった。

 広大な、幾つもの柱が並ぶ広間に見慣れないものを見つけて、カナタがそれを指さす。

「ヨハンさん、あれ!」

 それを聞いて、ヨハンが頷き返す。

 王座の丁度目の前、城の中心地とでも言うべきその場所に、白い光の柱が伸びている。

 それは、そこから発生しているというよりも、どうやらもっと下の階から床を突き抜けるようにして天へと伸びているようだった。

 かと思い床の部分を見て見れば、その上に敷かれた赤い絨毯には傷一つ付いていない。

 間違いなく、それは魔法かそれに準じた力によるものだった。そしてその光景は、リーヴラの言っていたことに信憑性を持たせる。

 近付いてそれに触れて見ても、硬質な感触が返ってくるだけで、内部に入れる気配もない。

「根元を見てみる必要があるか。……確か、ここの地下だったはず」

 以前に、ルー・シンからその話を聞いたことがある。

 城の地下にダンジョンのようなものが発見され、それは既にリーヴラ達によって探索された後だったと。

 思い当たる場所を察して、ヨハンが先頭になって謁見の間を後にしようとする。

 出入り口になっている両開きの大きな扉の前に立ったところで、二人はほぼ同時に奇妙な違和感に気が付いた。

 それは非常に簡単なもので、むしろ何故もっと早く気付けなかったのかと笑ってしまうようなことだった。

「誰もいないね」

 城の中には人の気配がない。

 幾ら虚界の樹が迫る有事だからと言って、誰も彼もが仕事を放棄して逃げるとは考えにくかった。街で避難活動に当たっている者もいるのかも知れないが、それにしてもまだ城でやるべきことは残っているはず。

 その答えは、扉を開くとすぐに出た。

 血塗れの兵士や、豪華な貴族服を着た男が倒れている。その数は決して多くはないが、身体を切り裂かれ、一目で死んでいると判る様相だった。

「イグナシオか……」

 恐らくはヨハン達と同じようにこの辺りに転移したイグナシオが、戯れ程度に傷つけたのだろう。その際に城が一時混乱状態になって、大半は逃げだしてしまったと考えるのが自然だろうか。

 イグナシオの性格から考えて、逃げる者を無理に追って殺害したとは考えにくい。何よりも、彼女にも今は目的がある。

「行くぞ」

 口には出さないが、いちいち事情を説明せずに済むのはある意味では好都合だった。いつ何が起こるかも判らない現状では、一分一秒が惜しい。

 階段を降りて、一階の広間へと辿り付く。

 以前カナタとマクシーネが戦ったその場所は、床の一ヵ所の色が不自然に違う。

「ここ、ボク達が壊した場所だ」

「そうだな。そして恐らく、この下がその空洞のはずだ」

 少し魔力を流すだけで、その床は再度崩れ落ちた。回り道する時間も惜しいので、ゲオルクには申し訳ないが近道をさせてもらうことにする。

 瓦礫が下に落ちる音と共に、ヨハンはカナタの手を引いてそこから飛び降りる。身体に羽が生えたように二人の身体は緩やかに、地下へと降りて行った。

「ここでマクシーネと決着を?」

「……うん。必死だったから全然覚えてないけど、こんなに広い場所だったんだ」

 掌に魔法で灯りを燈す。

 それだけでなく、四方に壁にぶつかるまで直進する魔法の光弾を放って確かめると、確かにその空間は不自然なまでの広さがあった。

「……最初に神が降り立った地か」

「それって多分、ヨハンさんのことなんだよね?」

「多分な。自覚はないが」

 この場所に、全く懐かしさを覚えることもない。

 きっとアルスノヴァに魔力と共に奪われた記憶は、もう戻ることはないのだろう。

 だが、別にそれで問題はない。そのエイスとか言う神の力を受け継いだエトランゼは、もう死んだのだ。

 今ここにいるのは偉大なる大魔導師の名を受け就いだヨハン。人間として、できることをやれればそれでいい。

「奥だな」

 少し進むと、階段がある。

 落ちないようにと足元を照らしながら、二人は慎重にそこを下って行く。

 かつん、と硬質な二人分の足音が広い空間に反響し、まるで数人で歩いているような錯覚すら覚えてくる。

 その階段は、決して長くはなかったはずなのに、まるで数時間は降りたような気分だった。何らかの仕掛けでそうなっていた可能性も否定はできない。

「……わ」

 その先にあったのは、光だった。

 先程謁見の前で地下から伸びていた白い光の柱、その大本がそこにあった。

 そしてその光の前には、巨大な一つの石碑が聳えている。

「……なにこれ、お墓?」

 カナタはそれを墓石か何かだと思ったのだろうか、そんなことを口にした。

「いや、文字が刻まれているだけだな。……書いてあることはよく判らんが」

 現代のオルタリアの言葉ではない、恐らくは千年前の文字で書かれているその内容を全て理解することはできなかったが。

「神の降臨に対する祝福、そして悪魔を打ち払ったその栄光を讃えるようなことが書いてあるな。神とそれに仕える御使い、そして……」

 無理矢理に削り取られ、消されたそこに書かれていたであろう言葉は読めなくとも予想は付く。

「異世界からの来訪者、エトランゼ」

 だから、ヨハンは敢えてそれを口にした。

 このメッセージが例え今後誰にも触れられないとしても、カナタにはそれを知っておいて欲しかったから。

 自分達のしたことは決して無駄ではない。その戦いの記憶は、こうして当時の人々の中に確かに刻まれていたと。

 例え権力者のエゴで歴史の影に消えてしまったものであっても、そこに全くの意味がなかったとは、思いたくない。

 石碑の裏側に回ると、その光の柱が目の前にあった。

 上で見た時には中には何もないように見えたが、こうして下から見れば、光の柱の中には階段が螺旋状になって上へと伸びている。

「また階段……」

 うんざりしたようにカナタがそう呟いた。

 それに苦笑しながら光の柱に触れると、まるで水面が波紋を残すように揺らめいて、ヨハンの手が中へと入り込んでいく。

 そのまま中に一歩踏み出そうとして、恐る恐る様子を伺っているカナタを振り返る。

「これはあくまでも可能性の話だ。だから、あいつらには言わなかったことがある」

「どうしたの?」

「ここから先は神の座。恐らくは、俺達が今いる大地とは異なる領域になるだろう」

 それを聞いて、カナタは改めて緊張したお面持ちで頷く。

「この道が本当に俺達が戻って来るまで開いているか、その保証はない。イグナシオに勝つ負けるの話ではなく、戻ってこれなくなる可能性もある」

 人と神の領域が、そう簡単に行き来できるとは思えない。

 もしイグナシオを倒せたとしても、ヨハン達がこちらに戻ってくれる保証は何処にもなかった。

 前人未到の領域に達するとはそう言うことだ。それだけ、先に伝えておく必要があった。

「……ここまで連れて来ておいてなんだが、もし引き返すなら」

 言葉の代わりに、カナタは一歩ヨハンに近付いた。

 そして今だ光の外側にある方の手を強く握る。

 決して離さないように、二人が逸れないように。

「ここまで来たんだもん。一緒だよ」

 そう言って、いつもの能天気な笑顔を見せてくれた。

 本当にこちらが言っていることを理解しているのかと、そんな疑問を口にしたくなったが、やめた。

 それは無駄なことだ。彼女にとっては、重要ではない。

「……そうだな」

 その手を握り返す。

 それから彼女の手を引くようにして、二人は光の柱の中へと入り込んだ。

 階段に足を掛ける。

 石のような材質のそれは、足元に固い感触を返してきた。

 そこを、二人で進んで行く。

 やがて城の高さを超えて、いつの間にか空中に。

 迫る夜明けの中に、その身体は吸い込まれていった。

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