第二節 終末来訪

 空に大量の怪物が出現し、このイシュトナルを攻撃し始めた時、誰かがそう言った。

 だが、実際のところはそれは間違いだった。

 エレオノーラ自信もそう感じていたのだが、それを今改めて理解してしまう。

 イシュトナル要塞の屋上、そこから見える光景がまさにそれだ。

 遥か遠く、アルゴータ渓谷に見える異形の群れ。

 そしてそれらを統率しながら、ゆっくりとこちらに向かい進軍してくる巨大な肉の柱のような異形。

 その進行方向にあるもの全てを蹂躙し、踏み潰しながらそれらは真っ直ぐにこちらへと近付いてくる。

 地獄の底から這い出たような爛れた肉を持つ人型が、虫が、魚のような何かが、或いは決まった形を持たぬ不定形生物が。

 人間達を踏み潰しながら進撃してくるのだ。

「世界の終わり」

 今目の前に広がる光景こそが、まさにそれだった。

 彼等に遠慮はない、決して怯むことはない。

 ただ真っ直ぐに、オルタリアを目指している。このイシュトナルも只の通過点として、一息に消し潰してしまうほどの勢いで。

「……エレオノーラ様!」

 傍に控えていた若い貴族、クルト・バーナーが慌てた様子でその名を呼んだ。

 そう、ゲオルク達が前線に出ている今、この砦の最高指揮権はエレオノーラに与えられている。彼女がどの選択肢を取るかによって、ここにいる者達の命運は変わってしまう。

 もっとも、エレオノーラ自信も彼等も、その心配はしていなかったのかも知れない。

 長い黒髪を靡かせて、ドレスのような装飾が施された鎧の裾を揺らしながら、告げる。

「ここで防衛戦を行う! 兄上達が戻るまで、このイシュトナルを決して抜かせるな!」

 そのゲオルク達も、生きているかどうかすらも判らない。

 果たして時間を稼いで何になると言うのか? 下手をすれば、苦しむ時間が伸びる可能性だってありうる。

 だが、選択肢はそれしかない。

 あれだけの異形の群れ、世界の終焉とも呼べるその光景を目にして人が取れる行動は二つに一つ。

 ここで武器を取り、戦って無力に死ぬか、それとも逃げ回り僅かばかりの余生を経て惨めに死ぬかの二つだけだ。

「畏まりました!」

「妾は軍略の程は明るくはない。多くの兵達の命をそなた達に預けるが、問題ないな?」

「ここで首を横に振るようなら、最初からエレオノーラ様には付いて行っていません」

 イシュトナルで反乱軍を率いていたころか等の付き合いになる青年貴族は、そう軽口をたたいて見せる。

「よく言う。期待しているぞ、クルト・バーナー」

 彼はもう、エレオノーラに下がれとは言わない、勝機があるのかとも問わなかった。

 最早やるべきことは決まっている。共にある一人の貴族から言葉を貰った仲なのだから。

 天を仰ぎ、エレオノーラは祈る。

 神ではなく、そこにいる友人に。

「ディッカー。……妾をもう少し見守っていてくれ」

 そして、何よりも信じる一人の男性に。

「ヨハン殿……」


 ▽


 イグナシオとウァラゼルが去った、バルハレイアの首都オーゼム。

 リーヴラとの戦いで建物は倒壊し、廃墟と化したその地で、ヨハンとカナタを初めとする決戦に赴いた者達は、すぐさま次の行動へと移ろうとしていた。

「まずはあの虚界の樹を止める。アルスノヴァ、行けるか?」

 エリクシルの力を使い、魔力を取り戻したヨハンがそう尋ねると、金色の髪をした妙齢の美女はそれに対して異を唱えた。

「無駄よ。私と貴方が言っても、あの虚界の樹は倒せない。いいえ、厳密には倒せるかも知れないけれど、その後のイグナシオとの戦いが絶望的なものになるわ。少なくとも、今貴方の力を使わせるわけには行かない」

「理屈は判るが、だったらどうする? 大勢の人があれに殺されるのを、黙って見ていろと言うのか?」

 そう返されて、アルスノヴァは黙ってしまう。

 彼女とて万能ではく、現状を解決出来る方法など持ってはいない。アルスノヴァなりに、今後のことを考えた意見をしただけに過ぎない。

 それを責めてしまったことを恥じながらも、ヨハンは自分の中の焦りが大きくなっていくのを感じていた。

「……問題のイグナシオが何処かに消えてしまったんだ。まずは目前のあれを何とかするのが先決だろう」

 そう提案するも、アルスノヴァは首を縦には振らなかった。

 カナタもアーデルハイトも、そこに意見を挟むことはできない。幾ら激戦を潜り抜けてきたとは言っても、彼女等に大勢の命を左右する言葉を言わせることもまたできなかった。

 唯一その場で何かが言えそうなベルセルラーデは、沈黙を守っている。彼も数少ない、あの異形の樹に対抗できるだけの力の持ち主だが、それでも魔人には及ばない以上迂闊な発言を控えていた。

 ヨハンが痺れを切らしてまた何かを言おうとした時、辺りが激しく揺れる。

 崩れかけた建物がそれで更に倒壊し、砂埃が一気に空へと舞い上がる。

 立っていられないほどの揺れに、カナタとアーデルハイトはヨハンの服を咄嗟に掴んで、転ばないようにその場に身体を固定した。

 一分ほどの時間が経ち、揺れが収まるが、異変はそれだけではなかった。

「……なんだ、あれは?」

 それは一瞬のことだった。

 空が歪み、一部が切り取られて硝子が割れるように砕けて虚空へと吸い込まれていく。

 かと思えばすぐに元に戻り、また何もなかったかのような青空がそこには広がっていた。

「今の、何?」

 カナタが不安げにそう口にする。

 彼女でなくとも、その光景は胸騒ぎを覚えるのに充分だった。まるで世界が歪み、砕けて消えてしまいそうにも見えた。

「……世界の境界が砕けかけているのです」

 苦しげな、呻きにも似た声が聞こえてくる。

 その方向に視線をやれば、心臓から血を流したままのリーヴラが、仰向けに倒れながらそう口にしていた。

 ヨハンは彼の下に駆け寄り、その身体を助け起こす。

 果たして彼の命を救っていいものかと躊躇ったが、その怪我を心配そうに覗き込むカナタの顔を見て、それが余計なことだったと理解する。

 癒しの魔法を使うために手を翳すと、リーヴラはそれを掴んで制止した。

「私は、もう助かりません。既にこの身は、天に還ろうとしています。それを救うために力を使えば、エイス……ヨハン様も消耗してしまいます」

「……リーヴラ……」

「いいのです。これは報いなのでしょう。それに、私はもう充分に苦しみ、その上で本当に欲しかったものを手に入れました」

 薄く開いた目は、虚界の赤色ではない。

 恐らく彼本来のものであろう、薄い青色の瞳になっていた。

「まさかとは思っていましたが……。イグナシオ、彼女の目的はどうやら本当にこの世界の破滅のようです」

「世界の境界を砕くとはどういうことだ?」

「言葉通りの意味です。例えば、この世界とエトランゼの世界を隔てる壁、または虚界がやってくる無と有を分ける境目。彼女は手に入れた力を使いそれを破壊するつもりなのでしょう」

「……それが成功するとどうなる?」

「他の世界に影響が出ることはありません。貴方達がいた世界にも同じように境界があり、それは無事ですから。ですが、確実に言えることが一つ。……境界を超えて染みだす虚界は、間違いなく壁のなくなったこの世界を食い破りに戻ってくるでしょう。私達は千年前、この世界に来た彼等を殲滅こそすれ、その全てを殺し尽くしたわけではありません」

「この世界の外には、まだ虚界がいると言うことか?」

「恐らくは。どちらにせよ、境界が破壊された世界が無事でいられる保証ないのです。それは城壁も濠も、兵士すらもいない城と同じなのですから」

 それを聞いて、ヨハンは一瞬言葉を失った。

 リーヴラの言葉が正しければ、それは間違いなく世界の破滅を意味する。

「奴は何処でそれを?」

「……神の座。かつて貴方の姿を借りた、この世界の創造主が眠る世界の中心地」

「それは何処だ?」

 リーヴラが腕を伸ばし、力なくその方向を指さす。

 それは今しがた、ウァラゼルが向かって行った方角だった。

「オルタリア。……天空に住まう神が最初に降り立ち、人々に救いを与えた地。だからこそ彼等は神の祝福により託されたその土地に、国を築きました」

 リーヴラは更に言葉を続ける。

「私がヘルフリートの部下としてあの地にいた時に、既に入口への調査を終えています」

 それを聞いて、以前にルー・シンから聞いたことを思い出す。

 オルタリアの地下にある、ダンジョンのような空洞。それは恐らく、リーヴラが調査させた神の座へと続く道なのだろう。

「ならイグナシオはそこに向かったということか?」

「……はい。彼女は神の座でその力を使い、境界を破壊し世界を破滅させるつもりなのでしょう」

「……解せぬ」

 黙って言葉を聞いていたベルセルラーデが、そう口を挟んだ。

「何故、あのイグナシオと言う御使いは世界の破滅を望むのだ? 支配でも救済でもなく、何故滅ぼそうとする?」

「……それは、私には判りかねます。彼女はウァラゼルの姉として、狂った妹の責をずっと負い続けていました。或いは、それこそが彼女を絶望させ破滅へと導いたのかも知れません。事実、千年前の彼女は私達と同じく積極的に虚界と戦い、人を護る御使いだったのですから」

「そうね」

 リーヴラの言葉に、アルスノヴァが同意する。

「魂魄のイグナシオ、彼女は確かに人を護って虚界と戦い続けた。正直なところ、今の時代であいつが貴方達を襲って力を奪ったと知った時は、私も驚いたもの」

 幾ら考えても、その答えが出ることはない。真実は彼女の中にしかないのだから。

「ヨハン様、オルタリアへ向かってください。今ならまだ、彼女を止めることができるかも知れない」

「……判った。少人数なら転移魔法で移動することができる。戦える人員を集めて」

 リーヴラが首を横に振る。

「神の座へ至るのは、選ばれし者のみ。イグナシオは力尽くでそれを突破したのでしょう。恐らくは、先程の地震と空間の破砕がその影響かと思われます。神に招待を受けずにそこに立ち入れるのはこの場には二人だけ」

 リーヴラの視線がヨハンを見てから、次の人物へと向けられる。

「一人は神の祝福を受けた肉体と魂を持つヨハン様、そしてもう一人は、神が操る唯一の天の光を持つ、カナタ様です」

 その場の全員の視線が、カナタへと注がれる。

 最初は緊張した面持ちで黙っていたカナダが、やがて意を決したかのように強く頷いた。

「これで決まりか。俺とカナタがオルタリアに行き、神の座へと向かう。アルスノヴァ、こっちを頼んでいいか?」

「アリス、ボクからもお願い」

「……貴方達にそう言われたら、断れないわ。でも、恐らく私達にできるのは時間稼ぎだけ。貴方達がイグナシオを倒さなければ、全てが無駄になるわ」

「ああ、判ってる。こっちのことは任せた」

 ヨハンの両手が、青白い光を纏う。

 そこから発した光が足元に落ちて、ヨハンともう一人分の文様が刻まれた円を描いていった。

「……転移魔法」

 高度なその魔法に、感心したような声を上げてから、アーデルハイトはすぐに何かを思い出したかのように、来ていたローブを脱いでカナタへと投げ渡す。

「アーデルハイト、これ……」

「イグナシオと戦うのなら、着て行った方がいいわ。そこにある道具も、そのローブ自体も貴方の助けになる」

「ありがとう。百人力だよ」

「貸すだけよ。ちゃんと返しに来てね。それから、その人をよろしく」

「うん! 絶対に帰ってくるから!」

 ヨハンとカナタの二人をその中心に置いて、魔方陣の外側に薄い光の壁のようなものが出来上がっていく。

 それは少しずつ狭まって行き、やがては二人の身体に触れる寸前まで小さくなっていった。

「ヨハン様」

 消える瞬間、ヨハンにリーヴラが声を掛ける。

「どうか、貴方が愛したこの世界で生きてください」

 それが彼の最期の言葉だった。

 先程までしっかりと喋っていたとは思えないほどにあっさりと、リーヴラの身体から力が抜けて地面へと落ちていく。

 それを見届けながら、ヨハンとカナタの姿がその場から消えていく。

 門が閉じるように狭まり、魔方陣が二人ごと消えた後には、まるでそれが幻であったかのようになにも残ってはいなかった。

「して、魔人よ。余達はどうする?」

「貴方には沢山働いてもらうわ。まずはあの鋼の兵士をありったけ、この場に作って」

「不遜なことだ。余が疲労しているとは思わぬのか?」

「できないの?」

「余を侮るな、魔人。このバルハレイアは金属の算出によって栄える土地でもある。即ち、余の兵士の材料は何処にでも転がっているということだ!」

 そう言ってベルセルラーデが鋼の杖で地面を突くと、倒壊した建物や倒れた兵の武器や鎧、挙句は地下に眠っていた鉱物までが地上へと現れて、人間と同じ大きさの鋼の兵士へと変わって行く。

 その数はざっと百体。これら全てがベルせらーでの指示のままに動く至上の兵達だった。

「……この光景、シルヴィアには見せない方がよさそうね。あの子がまた暴走して変なゴーレムを造りかねないわ」

 アーデルハイトが、そんな呟きを零す。

「まずは生き残った兵や将との合流よ。これらを使って、戦える者達を一ヵ所に集めなさい」

「ふんっ、よかろう」

 ベルセルラーデが指示を出し、鋼の兵達があちこちに散っていく。

 それらを見届けてから、アーデルハイトは魔法によって収納していた箒を取り出してそこに座ろうとした。

 それを、横からアルスノヴァが手を伸ばして奪い取る。

「……何よ?」

 ジト目で睨みつけるアーデルハイトだが、アルスノヴァは全く怯んだ様子もない。

「逃げるとは思っていないけど、何処へ行くつもり?」

「どうしてそれを貴方に……。いいえ、この問答は時間の無駄ね。試したい魔法があるから、儀式ができるだけの規模の施設があるところに。できるだけ急ぎたいの」

「貴方のことだからカナタのためになることだろうけど、今は少し我慢して。手伝ってもらうことがあるの」

「よく判ったわね?」

 感心するアーデルハイトに、アルスノヴァは自慢げな表情を向けた。

「判るわよ。一応は、娘のような貴方のことだもの」

「……最悪に不本意ね」

 苦い顔をするアーデルハイトの背中を軽く叩きながら、次の行動に映るために一行はその場を後にする。

 去り際に、アルスノヴァは一度だけリーヴラを振り返った。

 自分と同じ妄執を持ち千年を生きた者の、異なる最期。

 彼は決して許される存在ではない。しかし、ここで一人墓標もなく倒れるその姿を見て、多少の同情心がアルスノヴァの心には芽生えていた。

 何処かで道を間違えば、自分がそうなっていたかも知れない。今に至ってなお、アルスノヴァは自らが正道を進んでいるとは思っていない。

 だから、彼のことは自業自得と思いつつもそこに多少の憐れみを感じてしまう。

「お疲れさま。後は私が背負うから、貴方はもう眠りなさい」

 その言葉が聞こえたわけではないだろうが、リーヴラの身体が金色の光の粒子になって空へと溶けて行く。

 アルスノヴァは少しの間、それを見送っていた。

 多くのエトランゼに対してそうしたように、そしてこれからも大勢の命に対してそうあるように。

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