終章
終章 第一節 狂気の器
千年以上前に、一人の少女が生まれた。
その両親は神の教えを人々に伝え、よりよい生き方を語ることを生業としていた。
彼等は様々な知識を持ち、それを用いて小さな村に平穏をもたらし、村の中心と言っても過言ではないほどに人々から慕われていた。
だからこそ、彼等の子共達の誕生にも村中の者達が贈り物を持ってくるほどに祝福された。
その第一子、イグナシオは幼いながらも両親の言葉をよく聞き、他者のための奉仕を喜び、自らを犠牲にすることも厭わないほどによくできた子だった。
そして第二子、ウァラゼル。
母親、姉と同じ銀色の髪を持つその少女は大勢の祝福を受けて産まれた。
父は後を継がせる男の子が欲しかったとも言っていたが、実際に生まれて見ればウァラゼルが可愛くて仕方がないようで、愛情を注がれて育っていく。
両親は、姉にも言い聞かせた。
「貴方はお姉さんだから、妹を護ってあげてね」と。
イグナシオはその言葉を決して違えず、村人達の相談や問題の解決で忙しい両親に代わってウァラゼルの面倒を見続けた。
決して暮らしは楽ではなかったが、そこには確かな愛情があった。
聡明な姉、愛嬌のある妹。
誰もが羨むような、慎ましくも幸福に溢れた家庭がそこにはあった。
それに綻びが生まれたのは、ウァラゼルがまだ七歳だったころのことだ。
ある一人の旅人が村に流れ着いた。
息も絶え絶えで、足元はおぼつかない。顔や体には無数の赤い斑点が出ていて、時折咳き込むと口や鼻から血が零れ出る。
見るからに尋常ではない様子のその旅人に、村長はすぐに空き家を貸すように指示をした。簡単な寝具だけを置いてある家は、旅をする者達にいつでも貸し出せるようにしてあるもので、運がよく誰も止まっていない状態だった。
旅人をそこに寝かせて、医学の心得のある父がその症状を見ると、恐ろしいことが判ってしまう。
遠く離れた森にある毒によって引き起こされる病で、知識がないものならば呪いと判断してしまうような悪質なものだった。
現状ではそれを助ける手段はなく、更には人への感染すらありうる。
すぐに村から出て言ってもらわなければならないが、彼はここに来た時点で体力の全てを使い果たしており、全身が激痛に苛まれて動けそうにもない。
誰かが無理矢理連れ出て、村の外に放り捨てるしかない。村長は苦々しい顔でそう判断する。
問題は、それを誰が実行するかだった。
誰もそんな罪を背負いたくはない。しかし、村に病が流行ればそれだけで大勢の人が死に、村自体が壊滅しかねない危険性を孕んでいる。
話し合いは一晩中行われた。誰かにそれが感染することを考えると、今日の朝までには結論を出す必要がある。
間違っても、それを子供達に見られてはならない。
長い沈黙の末に、自ら手を挙げたのはウァラゼルの父だった。
村のために罪を背負うと、彼はそう決めた。
村人達は安堵し、また彼のことをやはり村に必要な人物だと再確認する。
「これは罪ではない」、「誰かがやらなければならない」と、自分が手を挙げたわけでもないのにそんな言葉を掛ける。
或いはそれは、その父親に対する罪の軽減ではなく、自分に対する言い訳のようにも聞こえていた。
とにかく、これで全ては収まる、誰もがそう思った矢先の出来事だった。
ウァラゼルが姿を消したと、イグナシオが慌てた様子で駆け込んでくる。
大勢から愛されていたウァラゼルのこと、村人達は大慌てでその家族たちに連絡し、村中を探し回る。
付近の森にまで捜索の手が及び、いよいよ調べてない場所はその旅人が泊まっている空き家だけとなった時、ウァラゼルはそこに姿を現した。
厳密には、彼女が現れるより前にその居場所はすぐに判明した。
真っ赤な炎が天を焦がす。
それを見た村人達は、炎の出どころ、村人が泊まっていた空き家へと集まった。
そこに、ウァラゼルは立っていた。
その小さな手に握られた枝打ち用の鉈が、嫌に大きく感じられる。
そこにはべっとりと、赤い血が付いていた。それは同じように、ウァラゼルの顔から上半身に掛けても大量に降りかかっている。
いつもと変わらず、紫色の宝石のような瞳を持つ目を細めて、にっこりと愛らしく笑う。
「あのね」
小鳥が囀るような声は、まるで別物のように聞こえていた。
背後では今も燃え盛る一件の家。
風に漂い、肉の焼ける嫌な匂いが流れてくる。
それに耐えられない女達は、口元を抑えてその場から逃げるように去って行く。
男達もその場から動けず、ただ一人前に歩み出せたのは、彼女の姉であり同じく銀の髪に紫色の瞳を持つ、イグナシオだけだった。
「これは貴方がやったの、ウァラゼル?」
「ええ、そうよ。ウァラゼルね、お姉様みたいになりたかったの! お姉様は親切で、色々な人に褒められるでしょう? だからウァラゼルも褒められたかったの。でもね、ウァラゼルが何かしようとすると、みんなまだ子供だからいいんだよって、何もさせてくれないから……」
瞳が動く。
背後の、燃え続ける家へ。正確には、その奥で息絶えている旅人を見ていたのだろう。
「外から来た人なら大丈夫かなって、聞いてみたの。何か困っていることはありませんかって? そしたらね、苦しい苦しい、楽にしてくれって。でもね、最初はどうすればいいのか判らなくて、とっても困ったのよ。だってお薬もないし、お母様がしてくれるみたいに痛いところを撫でても、全然効果がないみたいだもの。でもね、そのうちに言ってくれたの。辛くて、苦しい、殺してくれって。ウァラゼル、よく判らなかったけど、猟師さんが動物にしてるみたいにすればいいのかなって、ちょっと道具をお借りしたわ」
手に鉈を持ち、それを本来の持ち主である漁師の男に返そうとする。
ウァラゼルが手を伸ばすと、その男は目の前に立っているのが幼い少女であるにも関わらず、何かに怯えるように後退ってしまう。
ウァラゼルが渡そうと思って手を離した鉈が、重苦しい音を立てて土の地面に落ちた。
それを見てウァラゼルはまた笑って、それを持ち上げる。
「いらないの? なら、これはウァラゼルが貰ってもいい? これがあれば、沢山『親切』ができそうだもの」
「……どうして、家に火を?」
絞り出すように、イグナシオがそう尋ねる。
ウァラゼルはきょとんとしてから、満面の笑みで答えた。
「だって、死んでしまった人は燃やさないと。神様の下に送ってあげないと」
その言葉は純粋無垢で、自らの行いに何の疑問も抱いていない。
それを聞いた彼等の父は眩暈を覚え、その妻は倒れてしまった。
大人達が混乱する中、イグナシオはウァラゼルに両腕を伸ばして抱きしめる。
「……お姉様?」
その胸の中でウァラゼルは不思議そうにしているが、イグナシオはただ黙って妹の身体を包み続けていた。
その日以降、ウァラゼルは村の中で腫れ物のような扱いを受け続けた。
人々を導いていた彼女の両親もまた、その罪悪感から滅多に家からも出ずに、静かな暮らしをしはじめる。
その中で、ウァラゼルは今までと同じように、いや今まで以上に誰かを『救う』ために行動し続けた。
彼女の話し相手は姉であるイグナシオだけとなり、誰もがその存在を疎むようになった。
だと言うのにウァラゼルは、自らの行いを悔やむことは全くない。むしろ他者の視線や意見などないものであるかのように、死にかけている動物や枯れそうな植物など、彼女の目線で見た『可哀想』なものを殺害し続けた。
――それから数年後。
悪魔の仔とまで呼ばれるようになったウァラゼルに、転機が訪れる。もっともそれは、決して幸福に繋がるような話ではなかったのだかが。
虚界、そう呼ばれる者達の侵略が始まった。
突然染みだしたその悪魔達に、人々は成す術なく住処を追いやられ、大勢が死んでいく。
その影響は、やがて辺境の小さな村にまで及んできた。
流れ着いてくる、もう助からない難民。
食糧問題により、間引かなければならない者達。
平和な日常を謳歌してきた者達ならば誰もが目を背けたくなるようなその惨状に立ち向かうには、彼女の壊れた心が必要だった。
請われるままに殺した。
助からない若者の首を斬った。
足が悪く逃げられない老人を捨てるように殺した。
不本意に生まれてしまった子供を、潰して捨てに行った。
彼女の行いは、間接的に多くの人を救ったと言える。
それでも、それに感謝をする人は誰もいない。
今まで以上に不気味なものを見る目で、ウァラゼルを見るだけ。
その傍にいるイグナシオは何も語らない。
誰から何を言われようが、ただ両親の言いつけを護るようにウァラゼルを護り続けていた。
彼女自身も美しく、そして誰もが尊敬するような聖者として成長していたため、大っぴらにウァラゼルを害することが誰もできなくなっていた。
そしてある日、二人はある者達に声を掛けられる。
それは神の使い。昇華と言う儀式の果てに、御使いへと変われる機会が与えられた。
聖者としての歩みを始めていたイグナシオはともかくとして、どうしてウァラゼルがそれに選ばれたのかは判らない。
血筋か、それともイグナシオがそれを望んだからから、或いはその無垢な心は御使いに通ずるものと判断された可能性もありうる。
とにかく、彼女等は選ばれた。
村人達は救い主の誕生と、厄介者を追い払えるという二つの意味でそれを大いに祝福し送り出した。
斯くして、昇華は成った。
彼女等は力を手に入れた。永遠に近い寿命を持ち、人を遥かに凌駕する力を持った御使いへと変貌する。
誰もが、それは救済の始まりだと確信した。
村人達は、ウァラゼルと言う多大な負債を今日まで育ててきた苦労が報われたのだと歓喜する。
だが、最後に彼等が見た光景は想像とは異なっている。
「貴方達はとっても弱いのね」
そう言った彼女の声色も、喋り方も、七歳の時と変わりがないように思える。
正確には、誰もがそこから目を背けていたから気付かなかっただけだ。
ウァラゼルが何を考えて、どういうことをしていたかを詳しく知る者は、姉であるイグナシオ以外にはもういなかった。
その両親でさえも、もう彼女から目を背けて数年になる。
「ウァラゼル、見ていたの。ウァラゼルのことをずっと怖がっていたのでしょう? 別に怒ってはいないわ。でも、ウァラゼルはこうして御使いとして生き続けるのだから、それを怖がり続けるのってとっても辛いと思うの。ねえ、そう思わない? お父様、お母様?」
その質問の意図が誰にも判らない。
彼女の両親は助けを求めるような視線をイグナシオに向けるが、何の反応が返って来ることもない。
「弱い心。とっても辛そう。だからね、ウァラゼルが楽にしてあげる。あの旅人さんにしたみたいに、もう苦しまなくてもいいようにしてあげるね」
途端、光が弾けた。
彼女から立ち上った紫色の柱が、全てを押し潰すように降り注ぐ。
逃げる間も、悲鳴を上げる余裕すらもない。
その光は二度、人々を照らした。
上から潰し、横に薙ぎ払う。
たったそれだけで、その場にもう生きている人はいない。
「これでよし、と」
ウァラゼルの視線が遠くを見る。
そこからは、多くの異形の軍勢が迫っていた。
「虚界に食べられるのはとっても辛いわ。弱いお父様達では耐えられないと思う。楽になれてよかったわね」
そう言って、隣に立つ姉を見上げる。
新たな御使い、魂魄のイグナシオはその様子をただ、冷たい眼で見続けていた。
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