第十二節 時の彼方に忘れ去られたボク

 身体が重い。

 全身が水の中にいる。

 暗い暗い闇の中だ。どれだけ目を凝らしても、光一つ見えはしない。

 このまま沈んでいくのかと思い、急に恐ろしくなる。

 必死で何かを掴もうと手を伸ばすと、水が跳ねる音がして肘から先が水面へと飛び出した。

 どうやら、それほど深い場所にいるわけではないようだった。

 もう片方の手を底に付いて、上半身を起こす。

 水音がして、身体が水面から浮かび上がって行く。

 全身が濡れているはずだが、不思議なほどに不快感はない。

 きっと、ここはそう言う場所なのだと、心がすぐに理解した。

 辺りを見渡しても闇。

 今まであった戦いが嘘のような静寂に満ちている。

 地面にはずっと水が続いているのか、立ち上がって前に進んでも、持ちあがった足が再び水中に沈むだけで、前進している気配は全くない。

 声を出しても、反響すらしない。自分の耳に届く前に掻き消えているようだった。

 寒くも熱くもない、闇の中。

 まるで全身の感覚を奪われているような、そんな錯覚すらも覚える。

 そして、そんな場所に来てどれだけの時間が経っただろうか。

 動いても意味はない。声を出しても自分にすらも届かない。

 きっとまだ数分しか経っていないにも関わらず、カナタの中ではもう数日が経過しているような気分だった。

 もし、このままずっとここにいたとしたら、自分の心はどれぐらいの間持つのだろうか。

 瞬く間に発狂して、もう戻れなくなってしまうのかも知れない。

 それが怖くて、また手足を動かしてみる。

 それでも何も起こらなくて、激しく水面を叩いた後に訪れる静寂がまた何よりも恐ろしい。

 だからと言ってずっと動き続けることなどできはしない。こんな場所でも、身体は疲れを訴えてくる。

 もうどうしようもない。

 いっそ、水の中に再び沈んでしまおうか。

 そんなことを思った直後のことだった。

 水面に光が映る。

 急激に目を焼くそれが眩しくて、反射的に目を逸らしてしまったが、闇以外の何かが見えたことで、必死になってそれを見つめる。

 そこに映っているのは映像だった。

 揺らめく水面に、まるでテレビの画面のように何かが映っている。

 最初は揺らぎによって判別できなかったが、次第に収まってくるとそれが何かを理解する。

 そして、カナタは息を呑んだ。

 そこにいるのは自分だった。

 記憶にない、いつかの自分が水の中の映像になっている。

 驚きはそれだけではない。

 頭の中に声がする。

 心の中に何かが割り込んでくる。

 きっとそれは、あの時の自分の気持ちだ。

 カナタが忘れてしまった、アルスノヴァが必死で救おうとした少女の心の叫びが、カナタの心の奥底から響いてくる。

 まず、最初にあったのは恐怖。

 虚界が迫りくる。

 無数の怪物が、大地を砕き、あらゆるものを引き裂きながらカナタを殺そうと襲い掛かってくる。

 恐れながら、剣を振るった。

 極光の剣を必死で振り回して、不格好な勝利を重ねてきた。

 全身を血で染めて、心を擦り減らしながら戦い続けた。

 自分に言い聞かせる。

 強い力を貰ったから、戦わなければならない。

 力のない人たちの代わりに、人々を護らないといけないと。

 次の感情は、喜びと怒り。

 少女の戦いに、命を救われたことに感謝する人々が現れた。

 自分がしたことが一つの結果に繋がるのは嬉しかった。命を救われた家族の姿を見るのは心が痛かったが、それ以上の喜びがそこにはあった。

 そして、それらはまた奪われる。

 虚界の侵攻は収まることを知らない。

 この大地がある限り、その全てを喰らい尽くす勢いで浸蝕を続けていた。

 どれだけ強い力を持っていても、伸ばした手は余りにも小さい。

 カナタが救える数には限りがあった。

 助けたはずの人々が、また違う場所で殺されることもあった。

 そしてその度に、心ない罵倒が増えていく。

 家族を殺された男が、カナタへと怒りの声を浴びせた。

 二つの選択肢で選ばれなかった家族の生き残りが、カナタに石を投げつけた。

 力があるのに救えなかった役立たず。

 自分にその力があれば、もっと多くの人を助けている。

 疲れている暇なんていない。身体を休めている時間があるのならば、もっと多くの人を救え。

 多くの人を助けて、戦って、奴等を殺してくれ。

 家族を殺した虚界を、この世界から駆逐しろ。

 戦えば戦うほど、称賛の声が増える。

 英雄と讃える言葉に持ち上げられる一方で、そこから誰かを救えなかった怒りや悲しみをぶつけられていく。

 カナタとて、それに心を痛めているというのに。

 でも、そんなことを口に出すことはできない。彼等は目の前で家族を失っているのだ。他人のカナタが悲しみに共感したところで、その痛みを大きくするだけのことだ。

 だから、無言でその場を去ることが多くなった。

 そうして、自覚する。

 自分は弱いのだと。

 もっと強くならなければならないのだと。

 だから、強くなるまで彼等と言葉を交わすことは許されない。感謝されるような資格は、まだ自分にはないのだと。

 そう言って、人々から距離を置いた。

 たった一人で過ごす時間が増えていった。

 戦う時間だけは増えていき、いつしか誰かと言葉を交わす方法すらも忘れていた。

 最後の感情は、安らぎ。

 偶然護った一本の木。

 今はまだ若木だが、森の中心に生き残ったそれが、カナタに声を掛けてくれたような気がした。

 果たしてそれが、孤独から生み出された幻だったのかは、もう判りはしない。

 そんなことはどうでもよかった。

 触れても壊れない、寄りかかっても倒れないその温もりが何よりも恋しかった。

 暇があれば、そこに寄りかかって眠っていた。そこにいれば誰からも何も言われることなく、身体を休めることができる。

 人を護りたい。

 力を貰ったのだから、護らなければならない。

 そのために邪魔なものがある。何かがある度に苦しみ、悲しんでいては護るものも護れはしない。

 だから、感情を捨てた。

 安らぐのは、その木の傍だけでいい。

 後の時間は全て戦い続けよう。

 この世界を護るために。多くの人がそう期待してくれているのだから。それに応えなくてはならない。

 ――それが間違いであったかどうかは、もう誰にも判りはしない。

 そして、戦いが終わった。

 平和な日々がやってきた。虚界は、この世界から全て消え去った。

 誰かがカナタの手を握って涙を流している。

 知らない誰かが、カナタを褒めてくれている。

 そんなことはどうでもよかった。

 ただ、眠りたい。

 あの木の傍で、もう目覚めなくてもいいからゆっくりと休みたい。

 それだけが、心の中に残っていた。

 ――身体が痛い。

 焼けているように、内側が痛い。

 いや、違う。

 燃えているのではない。

 何かが、そこに突き立っている。

 腹に、心臓に、手に足に。

 鋭い刃が、御使いの持つ天の光が、カナタの全身を串刺しにしていた。

 この世界に住む人、その中に生き延びた権力者。

 昇華され、世界の管理者となりうる御使い。

 その両者の利害が一致した結果だった。

 力を持ったエトランゼは恐ろしい。だから、その全てを歴史の影に葬り去ってしまおう。

 当然、その矛先はカナタにも向いていた。

 恐怖と歓喜に引き攣った声で、誰かが言った。

「これで世界は我等のものだ、化け物め!」

 口元から血が零れる。

 目から涙が零れる。

 最後に、自分は何と言ったのだろうか。

「……ごめんなさい」

 その言葉に驚いたのは、カナタを取り囲む人間と御使いだ。

 どうして、そんな一言が出るのだろうか。

 裏切ったのは自分達だと言うのに。

 より強い恐怖を覚えた。溢れ出そうな罪悪感を抑えるのに必死になって、何本も何本も刃を突き立てた。

 やがてその身体が直視するのも耐えられないほどに崩れてから、刃が身体から抜けていく。

 もう立つこともできない、幼げな少女の身体は原型を失って、地面に落ちて崩れていった。

 それを見下ろす彼等の目は、どんなものだったか。

 もう、それを確かめることもできはしない。


 ▽


「それを見ていた人がいた。人と御使いの横暴に、怒りの声を上げた人がいた」

 吐き気が凄い。

 身体の中に一気に異物を流し込まれたような不快感だった。

 それをどうにか口から出してしまおうと吐瀉いても、当たり前だが胃の中には何もない。涎が数的、水の中に落ちただけだ。

 両手を水の中に付いて、身体を屈める。

 全身を震わせて、顔を水に付けてはあげるを繰り返した。

 そうやって、全身を掻き毟りたくなるような不快感をどうにか抑え込んで、ようやく聞こえてきた声に気が付くことができた。

 顔を上げて、その方向を見る。

 同じように、膝から下を水に付けて立つ姿があった。闇の中でも、妙にくっきりとそれはよく見える。

 肩まで伸びた黒髪の少女。

 その陰には見覚えがある。見間違えるはずもない。

 鏡を見ればそこにある、自分の姿だった。

「……君は……」

「黎明のリーヴラは、そんな君の姿に心を痛めた。同じく人を救おうとして、最終的にアルスノヴァに裏切られたエイスにも」

「エイスって、ヨハンさんのこと?」

 その声は自分のものだが、何処か違う。

 頭の中に反響するような奇妙な音の所為で、聞いているだけで胸の中がざわついてくる。

「それから御使いの中でも争いがあった。彼等は自分達を喰いあって、その多くが消滅し、生き残った者もまた、封印されることになった。おかしな話だよね。結局、虚界が消えても争いがなくなることはなかったのだから」

 彼女は更に付け加える。

「勿論、人も同じだよ。ようやく平和を取り戻し、文明を築いた人々は余りにも愚かだったの。力を持てば戦いたくなるのかな? ボクには理解できないけど、何度も何度も戦争を繰り返して、そうするうちに大陸は今の形になった」

 嘲笑するように、目の前の少女は語る。

「判る? ボクがやってきたことの結果が、こうなんだよ?」

 水面に、また映像が見える。

 虚界が消えた世界。しかし、そこに平和はない。

 自らの在り方に疑問を持った御使いは互いに殺しあい、それを見ていた人間達もまた、子が親を真似るように争いを続けていく。

 そうして、今がある。

 血塗られた大地の上に、誰もが立っている。

「馬鹿馬鹿しいよね。ボクがやってきたこと、全部無駄だった。心を殺して、誰かのためにって歩み続けてきたその果てが、これなんだもの」

 荒野の果てで、誰かが嘆いている。

 白い髪、白い法衣、閉じられた目。

 それは、黎明のリーヴラだ。

 彼は泣いていた。

 誰にも知られず作った、カナタとエイスの墓標の前で。

 どうしてこうなってしまったのかと、嘆きの声を上げ続ける。

 もし、自分がもっと強ければ、違う未来もあったものかと夢想する。

 そうして嘆き続け、悩み続けた彼は一つの結論に至る。

 最初から、全ては間違っていたのだと。

 この世界の在り方そのものが誤っていた。神が定めた摂理こそが、苦しみを生み出す土壌になっていたのだと。

 だから、決意した。

 もう二度と間違わない世界を創ると。

 奇しくも、友人を救うために千年の旅路を歩み続けたエトランゼの少女と同じように。

「人間は馬鹿だよ、御使いだってろくなものじゃない。必死にやった結果がこれだもの。ねぇ、君はボクなんだから判るよね?」

 手が伸びる。

 カナタの手が、カナタの手を掴む。

「君のやっていることも一緒だよ。いずれは風化して、誰の目にも止まらない、思い出にすらならないよ。だからさ、リーヴラに従った方がいい。その方が、苦しまなくてすむ。ボクみたいになりたくないでしょ?」

 先程の光景が、頭の中でフラッシュバックする。

 串刺しにされて倒れる少女。

 人を救うために歩み続けた彼女に与えられた最期は、まるで咎人への裁きだった。

 そうはなりたくない。

 歩み進んだ道の果てがあんな結末なんて、絶対に嫌だ。

 強く、手が握られる。

 自分の方に引こうと、向こうのカナタが力を込めた。

「嫌でしょ?」

「……嫌、だけど」

「なら、もういいじゃん。君は必死に頑張ったし、誰も君を責めはしないよ」

 彼女の言葉はある意味では正しいのかも知れない。

 もう、ここまで充分過ぎるほど苦しんできた。

 リーヴラに従った方が楽になると言うのなら、それを選んだカナタを責められる人なんて、いるのだろうか。

「それは、そうだけど」

「じゃあ、ボクと行こう」

 英雄だった少女が、手を引く。

 英雄にならなかった少女は、そこから動かない。

 彼女は世界を救えた。

 ボクは世界を救えなかった。

 その違いは多分、この一言にある。

「ボクは、そっちの方が、嫌だ」

 二人の手が離れた。

 ぱしゃりと、小さな水音が闇の中に木霊する。

「なんで……? どうして!」

 再度、手が伸びる。

 今度はカナタの服の胸の辺りを目がけて、それを掴んで自分のところに引き寄せた。

「いっぱい、苦しかったんだよ! 誰にも言葉を聞いてもらえなくて、それでも誰かのためになるのならって、必死で頑張った! 沢山の人を救いたくて、それでも救えなくて、邪魔だから自分の心も捨てて!」

 額と額がぶつかり合う。

 間近に見る自分の顔は、怒りに歪んでいた。それこそ、カナタ自身のものとは思えないほどに。

「その結果がこれだよ! 何もかも意味がなかった、全部無駄だった! ボクは何のために苦しんだの!? 護れなかった人に浴びせられた罵声はなに? だって、最期は全部無駄になったのに……!」

 多くの人を救ったのだろう。

 大勢のエトランゼの道標になってきたのだろう。

 そんな彼女に与えられた結末は余りにも残酷で、それでも誰かを恨む言葉なんて持っていなくて。

 蟠ったその怒りは、今この場所で爆発した。

「無駄じゃない!」

 カナタは叫び返す。

 はっとして、一瞬だけその力が緩んだ。

 彼女にどんな言葉を掛けていいかなんて、カナタには判らない。

 そんな経験はカナタの記憶にはないのだから。

 でも、何も言わないのもまた間違っている。

 多くのものを背負ってきた自分自身を見捨てることはできない。

「ありがとう。君が護った世界で、ボク達は生きてる。色々な出会いを経験できたのは、君がいてくれたからだよ。自分に言うのは変だけどね」

 思わず苦笑してしまう。

「……そんなの!」

 もう一人のカナタが手を離して、距離を取る。

 その目には涙が浮かび、ぼろぼろと頬を伝って足元の水へと落ちていく。

 両手を握り、光の剣を生み出す。

 剣と言うには頼りない、短剣程度の大きさの刃。

 それを握って、カナタへと先端を向けた。

「まだ苦しみたいなんて、ボクは許さない!」

 突き出された手は、その胸先で止まった。

 それから先へは決して進むことはない。

 その手頸を、カナタの胸元から伸びた蔓のようなものが緩やかに縛るように受け止めている。

「えっ……?」

「イア!」

 ずっと閉まっておいた、小瓶入れたままのイアの苗木。

 それが蔓を伸ばし、もう一人のカナタの手を受け止めていた。

 そして、頭の中に声がする。

 今は懐かしい、決して忘れることのない頭の中に響く彼女の声。

「イア。頑張ったねって……」

 極光の剣が水に落ちて消えていく。

 同時に、目の前の少女の姿もまた、光に包まれていた。

「君……!」

「ありがとうとか、頑張ったね、とか。手に触れてもらったり、抱きしめてもらったり。ボクがして欲しいこと、それでよかったのに」

「……っ!」

 感情が伝わってくる。

 氷のように固まって積み重なった想いが溶け指して、洪水のようにカナタの心にまで流れ込んできた。

「ボクでよければ。……自分同士だけど」

「……うん、我慢する」

 我ながら失礼な奴だと、心の中で苦笑する。

 そうして両手を広げて、自分自身で抱き合った。

 耳元で、自分の声がする。

「これからのこと、君に託していいかな?」

「託されたよ。君みたいにはできないと思うけど」

「いいよ。もう、英雄はこりごり。自分なりに、ね?」

「判った。なら、任せて」

「ありがとう」

 それが最期の言葉だった。

 触れていた熱が消える。

 光は失われ、再びカナタは闇の中に一人っきりになっていた。

 でも、もう恐怖はない。

 その時が来たことは判っていた。

 意識が浮上する。外側から聞こえる声を頼りに、身体が勝手に浮かび上がって行く。

 いつの間にか目の前には、オーゼムの空が広がっていた。

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