第十一節 最強のエトランゼ
強い風が身体を打つ。
内側から発せられる熱が、今にも外へと溢れだしてしまいそうだ。
まるでそれは、燻っていた火種に油が注がれて、一気に炎へと燃え上がったような奇妙な高揚感だった。
最強のエトランゼ、神の真似事をした名無しの男。
そして、かつて世界を救った者。
その力が今、ここに再現されようとしている。
「エリクシルを失ってもまだ、虚界のコントロールできるのか」
「……ヨハンさん」
不安そうに見上げるカナタに、できるだけ安心させるようにそう語り掛ける。
「判ってる。あいつを倒すぞ」
『本来ならばこの世界を統べるべき貴方達が……。人に裏切られ、惨めな最期を遂げた聖者が、あくまでも私に楯突くと言うのですか!』
「その言葉がお前の傲慢を現しているな、黎明のリーヴラ。そんな奴に従ってやる理由はない」
『……神の力を受け継ぎながら、貴方は何処までも愚かな……!』
「何処までも人だと言ってもらいたい。俺は、どんな力を持っていたとしても、人間をやめたつもりは微塵もない。お前達御使いとは違う」
「ヨハンさん、あれ!」
リーヴラを中心として広がるのは、これまで彼が操っていたセレスティアルではなかった。
あの時、以前戦ったエレオノーラの身体を操った虚界の王が使う赤い光。真紅のセレスティアルとでもいうべき輝きを纏い、肉の樹は再び脈動する。
「まずは露払いを! カナタ、飛び込めるか?」
「うん!」
ヨハンはカナタから手を離す。
両手を掲げてそこから魔力の波を放ち、迫りくる虚界の樹の身体を一気に吹き飛ばす。
「わたしも手伝う……!」
「アーデルハイト、頼んだ!」
ヨハンは後方にいたアーデルハイトを自分の方へと引き寄せて、二人は同時に魔力を放出する。
彼女の放つディヴァイン・パージを何倍にも強めたような光の波が絶えず放たれて、瞬く間に虚界の樹の身体がボロボロになっていく。
しかし、それでも巨大なそれは動きを止めることはない。
赤き光が纏わりつき、壊れた個所から即座に修復を始めていく。
『無駄だと言うことが、まだ理解できませんか!』
世界が振動し、まるでそれを引き裂くように何かが染みだしてくる。
それは、虚界の尖兵。背に翼を持ち、黒い鎧の下に紫色の不気味な肉体を持った、世界を喰らう化身達だ。
その数が一目で千体以上。まるで空を埋め尽くすような勢いで、ヨハン達に向かって一斉に突撃してくる。
忌まわしい羽音に眉を顰めながら、ヨハンは腰の辺りにしがみ付いているアーデルハイトを片腕でしっかりと抑え込む。
「力は足りているが手が足りない。魔力をそちらに伝導させられるな?」
「やってみる!」
「一部の制御をそっちに渡す。魔力切れの心配はないはずだ。こっちから引っ張って、好きなだけやってくれ」
「ええ。それはまた、楽しいパーティができそうね」
目を閉じて、アーデルハイトが意識を集中。
その一瞬で、ヨハンの中の魔力が大量に彼女の中へと流れ込むように伝わって行くのが判った。
常人ならばそのまま命すらも吸い取られてしまうような容赦のない搾取だったが、無限に等しい力を持つ今のヨハンは意識が揺らぐことすらない。
「敵の数は……。千、二千、まだ増えるか……。一度に狙いを付けられる数は!」
片腕を振るう。
そこに発生した魔方陣の数、大凡数百。
その中心から拡散するように放たれた光線が、一気にその大半を貫いて地上へと落としていく。
「撃ち漏らしを頼む!」
「ええ!」
アーデルハイトも同じように、魔法を発動させる。
ヨハンの物よりも数こそ少ないものの、大半が消滅した虚界を消し去るには充分だった。
遠目には空全てが輝いているような光に包まれて、虚界達が消滅している。
圧倒的なまでの輝きの中を切り裂くように、巨大な触手が上下からヨハンに迫った。
「アデル、下を頼んだ!」
見えざる腕に受け止められるように、上下から迫った触手が動きを止める。
その間でお互いに上と下にそれぞれ腕を向けるヨハンとアーデルハイトは、目の前に聳える虚界の樹と、その中心に立つ男を睨みつけた。
「黎明のリーヴラ!」
赤い光が空に満ちる。
一斉に放たれたそれを、ヨハンの生み出した魔法障壁が一つ残らず受け止めて、本人達だけでなく地上への被害も全て食い止めていく。
その力は以前より強く、今は彼は最強のエトランゼなどではない。
かつて世界を救おうとした、神の半神。
人のために地上に降り立ち、人を救うために虚界と戦い、そしてその果てにたった一人の少女を救おうとする魔人によって全てを奪われた存在。
神の現身たるその力に近しいものを発揮し始めていた。
『何故抗うのです! 貴方の選んだ先にあるものが、破滅かも知れないというのに!』
「さてな。生憎と、この力を使ってお前を排除した先にあるものなど、想像もつかないし興味もないからな」
『ならば何故、尚更それをしようと言うのですか! この戦いの先にあるのはかつてと同じ、貴方達への排斥でしょうに!』
「だとしてもだ!」
赤い光を退け、再び無数に出現した虚界達を、アーデルハイトの雷が焼き払う。
片腕を掲げたヨハンは、そこに魔力を集中させて、炎を放つ。
それは赤い光の障壁を貫いて、リーヴラの持つ虚界の樹を瞬く間に延焼させていく。
「人間はそれほど愚かではない。例え俺の力が必要なくなろうと、今度こそ共に生きてくれるだろう。同じこの大地の生命として」
『そんな保証が何処にあると言うのです? 一度は貴方達エトランゼを裏切った人間が……! 彼等は等しく愚かで、私達に導かれなければならないものなのです!』
「本当にそう思うか、リーヴラ!」
邪魔者を焼き払ったヨハンとアーデルハイトが、リーヴラのすぐ上空に迫る。
虚界の樹がそれを拒絶するために張った赤い輝きを、今のヨハンは容易く打ち破ってその白い影を見下ろしていた。
「本当に人間が愚かなら、俺達はここに辿り付くことはできなかっただろう。お前の勝利で全ては決まっていただろう。だが、現実を見ろ。御使いは敗れ、俺達はここにいる」
『……貴方が力を貸し、カナタ様がいたからでしょうに!』
「違う! 彼等がいたから、俺もカナタもここにいる。お前の思惑を遥かに越えてな」
『そんなことが……!』
一斉に放たれる紅蓮の砲火を、上空を駆けることで回避する。
そうしている間にもアーデルハイトと協力してこちらも無数の光線を生み出して、それらを相殺し、虚界の樹へと傷を付けていく。
「黎明のリーヴラ、現実を見て、受け入れろ! この世界は、ここに暮らす人々はお前が目を背けた時よりも歩みを進め、前へと進んでいる! だから、今ここにあり、そしてこれから未来へと歩む者達を信じてやれ! それが、お前達御使いの役目だろう!」
『そんなはずはない……。そんな現実が、一度は裏切った人間が許されていいはずがないのです! だから、私は戦うと決めた。例え最後は裁かれてこの魂が消滅しても構わないと、そう誓ったのです!』
それは、何処かで誰かが胸に抱いた誓いと同じものだったのかも知れない。
自らの強い意志を持って、他の全てを敵に回してでも叶えたい願い。
他者を想う、救いの心。
だが、リーヴラの抱くそれは決して思ってはならないことなのだろう。
彼の与えるそれは、救いなどではない。他者を踏み躙り、その上で自らのエゴを叶えようとするだけの行為なのだから。
その考えは、他者を想う気持ちで表面を塗られただけの単なる自己満足に過ぎない。黎明のリーヴラが勝手に思う理想世界に、ヨハンやカナタを巻き込もうとしているだけだ。
「意味がないわ、そんな一方的な誓いなんて」
それまで黙っていたアーデルハイトが口を開く。
その美しい翠色の目で、悍ましい赤い輝きを放つ御使いから決して目を放さずに、彼女は言葉を続けていく。
「勝手に誓うことに意味なんてない。人と人との関係は、言葉を交わして、共に歩んで、触れあって、そうやって出来上がるものなの。貴方の勝手な理想に巻き込んだところで、そんな歪なものが上手くいくわけないでしょう」
『ならば、貴方の創造主はどうなるのです? 魔人アルスノヴァがやろうとしたこともまた、私と一緒ではないですか!』
「だから、私は彼女も否定しているわ。勿論、感謝もしているけどね。そして、貴方と彼女に違う点が一つ。あの女はそこにいたカナタを愛して、救おうと足掻いた。でも貴方は違うでしょう? 自らの理想を押し付けて、その通りにならないからと八つ当たりをしているだけ」
『神の祝福を受けぬ人形如きが!』
「そんなものはいらないわよ。わたしにとってのそれに値する者は、もう傍に居てくれるのだから、貴方と違ってね」
リーヴラの苛立ちに呼応するように、虚界の樹が鳴動する。
呻き声とも怒りの叫びとも判らない醜い音と共に、半壊しかけた肉片が再生して巨大な腕や触手を生やして、アーデルハイトへと伸びてくる。
ヨハンは彼女の身体をこれまでよりも強く抱き寄せて、魔力を収束させる。同時に、アーデルハイトもヨハンの魔力を使って辺りに魔法陣を形成していった。
「あまり挑発するな。危険だぞ」
「なら護って。しっかりとね」
「言われなくてもそのつもりだ」
その言葉に機嫌をよくしたのか、引っ張られる魔力の量が少し上がった。
アーデルハイトはヨハンから取り出した魔力を自らの力を同調させて、その上でより強力な形にして具現化している。威力こそヨハンの方が上だが、エネルギーの利用効率や一発一発に込められた、虚界の性質を読み取りそれらを焼き払うために組み上げられた魔力の精緻さは彼女の方が勝っていた。
一気に二人から力が放射される。
眩い光が天上を照らし、それだけで辺りに立ち込めていた虚界達は、その全てが焼け焦げたようにぼろぼろと黒い塊になって地上へと崩れ落ちていく。
今、リーヴラを護るものは何もない。
虚界達は消え、本体である樹もまたその大半が焼き尽くされてその力の大半を再生へと向けてしまっている。
ヨハン達が次の一手を打とうとしたその瞬間、それよりも下方から飛び上がる、一条の輝きがあった。
▽
「今なら……!」
足元にヨハンが発生させた力場を蹴って、カナタは一気に空へと舞い上がる。
目指すはリーヴラが浮かぶ樹の中心部へと。
薄い蒼碧色に変化したセレスティアルが、幾重にも張り巡らされた赤き光を纏めて突き破る。
「届いた……!」
そしてカナタの身体は、黎明のリーヴラの目の前へと躍り出ていた。
『ようやく』
「……何?」
『ようやく、貴方と会うことができましたね』
リーヴラの赤い瞳がカナタを見る。
「カナタ、罠だ! そいつから離れろ!」
ヨハンがそう叫んで魔法を放つが、急激に勢いを増した赤い光がそれらを全て防ぎきり、彼に対して反撃の手を伸ばす。
どうにかそれを避けてい間に、カナタの身体もまた、斬り裂けないほどに強固に折り重ねられた赤い極光によって、空中で拘束されていた。
「このっ……!」
その拘束は余りにも強固で、必死でもがいても全く解ける気配もない。
手足の自由を奪われて空中で動きを止めたカナタに、リーヴラがゆっくりと近付いていく。
『私は貴方に見せなければならない。人も御使いも、この世界に生きる者達がどれほど醜く浅ましいか。そして、貴方がどれだけ苦難の道を歩んできたのかを。他ならぬ貴方自身の言葉によって!』
リーヴラの両手が、カナタの頭に伸ばされる。
こめかみの辺りを抑えつけられるようにして、赤い瞳がカナタの顔を覗き見た。
遠くでヨハンとアーデルハイトが呼ぶ声がするが、それはもうカナタには聞こえない。
その意識は、深い闇の底。リーヴラの心の中、そしてこの世界の淵に渦巻く黒い泥の中へと、成す術なく飲み込まれていった。
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