第十節 人間の矜持

 最初は、その違和感に何が起こったのか全く理解できなかった。

 エリクシルの力により、リーヴラと虚界の樹の感覚は繋がっているが、元より虚界に痛みを感じることなど滅多にない。

 特に外側からの傷で彼等が苦しむことなど、何度も戦ってきて一度も見たことがなかった。

 虚界はただ、侵略し滅ぼすだけ。痛みを感じる感覚などありはしないと、そう思いこんでいた。

 だが、実際は違った。実に鈍いが、痛覚はある。と言っても無限に再生を繰り返す外側は殆ど痛みを感じることはなく、あるとすれば内側からのもののみ。

 然るに。

 今リーヴラの体内に走った猛烈な痛みは、この虚界の内側から発せられているものだった。

『な、にが……!』

 包囲が溶ける。

 その痛みに、虚界の樹がリーヴラの制御を離れて滅茶苦茶に暴れはじめた。

 その巨体をうねらせて必死で苦痛を堪えている。

 滅多に痛みを感じず、少しの傷ならばすぐに再生してしまう虚界だからこそ、それに対する反応は強烈なものだった。

『いったい、何があったというのです!』

 リーヴラは思わず叫ぶ。

 こんなことはありえないはずだった。

 仮に虚界が内側からの痛みに弱かったとしても、それを与えられるものがいるはずがない。

 誰も、こんな怪物の体内に潜り込もうなどとは考えないし、食われたとしたら間違いなく対象は死亡しているのだから。

 疑問にはすぐに答えが出た。

原因が姿を現す。

 聳え立つ虚界の樹の中腹ごろから、その幹を立ち割るようにしてその男は突然現れた。

 年老いた身体に、白髪と白鬚。

 しかし、その上でまだ野心を滾らせた鋭い瞳は、半死半生のその姿となっても変わることはない。

 手に強く握った砕けた剣で、自らの指から血を流しながら、その男はリーヴラに向けて挑発的な笑みを向けて見せた。

「カカカカカカッ!」

 そうして、高らかに笑う。

 そんなことはありえないはずだった。

 何故、彼がここにいるのか。その身体はこの虚界が目覚めると同時に、深い奈落の底へと落ちていったはずなのに。

「わしを利用し、全てを手に入れたつもりだったのだろうが、とんだ計算違いだったな、御使いよ!」

『ベリオルカフ……!』

 バルハレイアの王、ベリオルカフ。

 リーヴラに利用されるだけだった、大きすぎる野心を持った愚かな王。

「利用していたのはお互い様だろう、御使い? なればこそ、わしが有事の際に何の対策も立ててないと思っていたのか! 貴様が裏切るとすれば、間違いなくこの虚界を手に入れた時だろうと思ってな、細工を重ねておったのだよ!」

『そんな、馬鹿な……!』

 思えば、ベリオルカフは軍事の全てを家臣やリーヴラに任せて自分は早々に自室へと退散していくことが多かった。

 それらは全て、力を手に入れたことで勝利を確信してた愚かな王だからと思っていたのだが、真実は違った。

「わしはな、どちらでもよかったのよ! もし貴様がわしに最後まで従い、幼き頃に抱いた野心を果たして死ねるのならばそれが最上! よしんばその後に裏切られたとて、この大陸をその手に収めて逝けるのならばそれも一興とな! だが、一つだけ我慢できぬことがある!」

 そう言って、ベリオルカフは見せつけるように剣を振るう。

 言葉こそ気丈だが、既に虚界の体内で長き時間を過ごした影響か、その毒素により身体は蝕まれ、半死人であることは見ただけで理解できる。

 それでもすぐに動くことができなかったのは、余りの事態にリーヴラの頭が凍り付いていたからだろう。

「それは貴様等御使いにコケにされることだ! 人間を愚かであると決めつけ、利用すべき者としてしか見ない貴様等にな! わしはそのような結末は絶対に望まぬ、だからよ!」

『たかが人間の王が……! 奪い取ったその地位を繋いできただけの末裔が!』

「カカッ! ならば貴様にできるか? 千年間、王族としての誇りを持ち、その全てを子々孫々に伝え、未来を築いていくことが! できぬであろう! だから貴様等は壊すことしかできぬのだ! 奪うことを考える分、まだわしの野心の方が上等と言うものよ!」

 荒野の王ベリオルカフは何処までも人間だった。

 他者から奪い、必要とあれば御使いの力ですらも利用する。

 そんな醜さを持った人間の一つの頂点、王であった。

 最初からそれはリーヴラの思想とは相容れぬもの。リーヴラがこれから創る世界に於いて、最初に排除しなければならないものだった。

 そしてだからこそ、リーヴラはベリオルカフを見なかった。

 いずれは消し去る者として、そこにある身にあわぬ野心の強大さや、それを持つ者の思考を全く理解しようとは思っていなかった。

「例えわしが滅びようと、この大地を人でなき貴様に渡すものか! この国は、バルハレイアはわしの血を継ぐ者が受け継ぎ、繁栄するのだ! それを貴様達御使いの好きになどさせるものか!」

 それは人としての矜持だった。

 彼は自らが天を掴めないかも知れないことを知っていた。その可能性を確かに認めていた。

 そもそも、本来ベリオルカフは静かにその生を終えるつもりだったのだ。その後のことをベルセルラーデに託して。

 それが余計な野心に火をつけたのは、他ならない御使いである黎明のリーヴラだ。

 例え自分が望むすべてを手に入れられなくても、残さなければならないものがある。

 人として、人間が生きる国をその血を継ぐ者のために護り続ける。それこそがベリオルカフの王としての、人とのしての最後の矜持。

「人間を侮るな、御使い! 貴様の千年間と、わしら人間が築いてきた千年の血の鎖、そのどちらにも優劣はあるまいて!」

 そう言って、ベリオルカフは再び体内へと潜り込む。

 その身体は既に限界で、もう虚界の毒素に抗うだけの力は残っていないだろう。

 だが、その一撃は確かに成し遂げた。

 虚界が一瞬暴れた衝撃で、リーヴラの掌に乗せられていた赤い石が、雫のように転がり落ちていく。

 それはすぐに縦横無尽に伸ばされる肉の触手の中に埋もれて、誰の目にも見えない場所へと消えてしまった。

 そしてリーヴラの制御を離れた虚界の樹は、これ以上の苦痛を受けるのものかと、異物を排除するためにその身体を蠢かせて暴れ出す。

 そのために伸びた数千をも越える触手が、リーヴラも、ベリオルカフも、ヨハンとアーデルハイトをも無視してありとあらゆる場所を攻撃し、破壊しつくしていく。


 ▽


 一時的な暴走状態に陥った虚界の樹は、オーゼムを巻き込んで大破壊をもたらした。

 瓦礫が空から降り注ぎ、噴煙が舞い上がるその空間で、落下の衝撃で気絶していたカナタは目を覚ました。

「気が付いたか、カナタ!」

 顔を上げれば、すぐ真上で大声が聞こえてくる。

 鋼の杖を持ったベルセルラーデと、両手を掲げて降り注ぐ建物の瓦礫から二人を護っているアルスノヴァがそこにはいた。

「二人とも……!」

「見よ、カナタ。我が父が成し遂げた。御使いの思惑を超え、奴の隙を作ることに成功したのだ!」

「お父さん……? この国の王様が?」

「そうだとも! あの愚かな父め……。やはりそんなことではないかと思っていたが、まさかこんな事態になるまで本心を隠しているとは! 我が父ながら食えぬ男だ!」

 そこに込められた感情は、複雑なものがあった。

 その行いに対しての感謝や喜びもあっただろうし、それよりも一言の相談もなく命を賭けた父への怒りや悲しみもあっただろう。

 だが、ベルセルラーデはこれで名実ともにバルハレイアの王となった。王となった以上は、これより私情を挟むことは許されない。

「立てるな、カナタよ」

「それは大丈夫だけど……」

 上空では、今も虚界の樹が暴れ狂っている。無数の触手を振り乱し、既に姿なき敵を攻撃しようと必死になっていた。

 その陰に隠れてヨハン達も、リーヴラの姿も見えない。巨大な肉の壁が聳えているようなもので、その姿はカナタの心に大きな不安を与える。

 そして、遂に虚界の樹が自らの傍に蠢く小さな影を捉える。

 カナタ達に向けて触手の先端を伸ばすと、そこから自らの身体の一部を弾丸のように斬り話して発射してきた。

「危ない!」

 着弾する前に、それはアルスノヴァの魔法とベルセルラーデの持つ鋼の杖によって打ち払われる。例えギフトが使えなくても、この二人が今日まで培ってきた力は本物だった。

「……こいつは今暴走状態にある。けれど、それはチャンスよ」

 炎を放ち、迫りくる肉塊を焼き払いながら、アルスノヴァがそう言った。

「リーヴラにも制御ができない今なら、こいつを仕留めることができるかも知れない」

「仕留めるって……どうやって?」

「さあ。それを考えるのは私ではないもの」

 何処か悔しそうに、投げやりにも聞こえる風にアルスノヴァは口にする。

 反論をしようとしたカナタに対して、ある一点に向けて指を指し示して見せた。

「あの辺りで、きっとまだ戦っているはずでしょう?」

 肉の壁に阻まれて視界さえ塞がれたその先。音すらも聞こえないその場所に、誰かがいるとアルスノヴァは語る。

「カナタ、行きなさい。今日まで一緒に歩んできた彼のことを信じられるなら」

「業腹だが、やはりそなたは奴の隣にいるのがよく似合っている。余の国、そしてこの大陸の未来をそなたに託す。行け、だが間違えるな。そなたは決して一人ではないぞ」

 二人のその言葉と視線が、カナタに向けられて、交差する。

 それに対する返事は一つしかなかった。

 決して請われたからではない。自分を押し殺して首を縦に振るわけではない。

 この世界にやって来て、今日まで歩んできた日々。そしてその間に積み重ねてきたものを否定させないために、決して壊させないために。

 カナタは強く頷いて、全身に力を込める。

「行ってくる」

 一言、それだけを告げた。

 地面を強く蹴り、セレスティアルの翼を広げる。

 一気にその身体が飛翔し、カナタの小さな身体が、それを待ち受けるように広がる肉の壁へと飛び込んでいく。

 もう後ろを振り返る必要はない。

 ただ、前へ。

 肉の壁に無数の目が出現し、迎撃するためにその身体が粟立つように盛り上がり、触手の群れがカナタへと迫りくる。

 それらを光の剣で打ち払いながら、カナタは醜い肉の壁を突破すべく、全力でその身体を叩きつけた。

 一枚の壁を貫き、カナタの身体がオーゼムの上空に躍り出る。

 しかし、虚界の暴走はそれだけで止まることはなかった。彼等にとっての最大の敵である神により直接賜った天の光。それを殲滅するために、理性を失った虚界の樹はその攻撃を全てカナタへと集中させる。

「そんな……!」

 虫のような小さな塊が飛来する。

 それらを斬り払えば、今度は触手がカナタを撃ち落とそうと鞭のように撓って襲い掛かる。

 別方向からはその肉体を巨大な槌のように変化させて、自分の身体ごとカナタを叩き落とそうと振り下ろした。

 その猛攻を必死で避けながら、壊れかけの建物の屋上に足を突いては、また空へと舞い上がる。

 カナタのセレスティアルに飛行能力はない。あくまでも僅かな浮力を得て、跳躍力を増大させているだけだ。

 だからこそ、着地して飛び上がる瞬間に僅かな隙ができる。

 その身体が建物の屋上を離れたその時に、横合いから殴りつけるような槌の一撃を受けた。

「うわっ……!」

 例え極光の壁に護られていようと、虚界の樹の一撃はそれすらも容易く貫通する。

 空中で全身に衝撃を受けたカナタの身体は風に吹かれた木の葉のように吹き飛んで、制御を失って落ちていく。

 そこに更に、容赦のない追撃が浴びせられようとしていた。

 まだ意識はある。だが、身体が動かない。強い衝撃を受けたことで、全身が麻痺しているようだった。

 そのカナタに、まるで喰らいつくように口を開けた肉の柱が迫る。

 そのまま全方位から圧縮して潰してしまうつもりなのだろうか。それとも本当に口の中に入れて、自らの栄養とするのか。

 そのどちらにしても、助からないことに変わりはない。迫りくる死に、血の気が引いていく。

 しかし、その瞬間カナタは見つけた。

 その口の中、最も危険なその場所にある赤い輝きを。

 リーヴラの手から離れたエリクシルの欠片が、今は虚界の樹のその口の中に無造作に突き刺さっていた。

「カナタ!」

 後ろの方から声がする。

 それがアーデルハイトのものであると、顔を向けなくても判った。彼女が無事だったことで、まずは安堵する。

 魔法による迎撃を行う前に、それを制止する声がする。低い男性のそれは、ヨハンの物だ。

 そして続いて、何かを言い争うような声がしたが、すぐに結論が出たらしい。

 多分、その結論はカナタと一緒だった。

 そう判っていたから、信じていたから取る方法は一つだけ。

「……まだ、力があるなら!」

 セレスティアルの全力で展開。

 足元に力場を生み出して、無理矢理空中で姿勢を制御する。

 そして、正面から迫りくるその大口に向き合って、カナタは手を伸ばした。

 ズンと、重い衝撃があった。

 目の前が真っ暗に染まる。

 恐らくは、その迫りくる口に中に一気に放り込まれたのだろう。嫌な匂いと、粘液の感触が全身に絡み付いてくる。

 その中でも、カナタは怯まない。

 その赤い石に手を伸ばし、必死で掴もうとする。

「……これがあれば……!」

 舌で舐められているのか、それとも咀嚼されているのか、痛みともつかない奇妙な感覚が全身を包んでいる。ひょっとしたら身体はもう、少しずつ消化されているのかも知れなかった。

 暗闇の中にいる。

 自分が何をされているのかも判らない。

 ひょっとしたら、気付かないうちに死んでしまっているのかも知れない。

 怖い。

 でも、大丈夫。

 カナタにはもう判っていた。

 その後ろにいてくれたのなら、彼がこんな事態を見逃すはずがない。

 いつだって彼はカナタのことを助けてくれたのだから。今回だって間違いない。

 その純粋な、盲目とも呼べる信頼に応えるかのように、外側から強い衝撃があった。

 カナタが捕まっていた真横の壁が突き破られ、人が飛び込んでくる。

 その人物はそのままカナタの腕を掴んで自分の下に手繰り寄せると、逆側の壁をぶち破って外側へと飛び出していく。

 ごうと、強い風が全身を打った。

 今二人がいるのはオーゼムの上空。城の三階と凡そ同じだけの高さ。

 そこに、奪われた獲物を取り戻すかのように伸ばされた幾つもの口が、再びカナタを喰らおうと迫りくる。

「無茶をする」

 それだけの脅威に囲まれても、飛べない状態で空中に放り出されても、カナタの心からはもう、恐怖と言う感情は消え去っていた。

 全身が抱きしめられている。温かな感触が、カナタの奥底にずっとあり続ける恐怖心を取り除いてくれている。

 カナタの手にはもうそれが握られている。

 そっとその赤い石を手渡す。

「……ヨハンさん、これ」

「まったく、お前は」

 呆れたような、優しい声色。

 空中ですぐに二人は姿勢を整えて、直立の形を取る。

 カナタを片腕に抱きしめたまま、ヨハンはその手の上に赤い石を乗せていた。

 第五元素、エリクシル。

 それによって呼び覚まされる、イグナシオによって封じられた神の力のその一片。

 それは例えその欠片であっても、御使いにも虚界にも劣ることはない。

 腕の一振りで放たれた劫火が、一瞬にして虚界の触手を焼き払う。

 上空で花火の如く舞った深紅の炎が世界を照らし、それは反撃のための狼煙となった。

 目の前に現れた脅威を包囲して粉砕しようとする虚界の樹に対して、ヨハンはその身を飛翔させながら応戦する。

 迫りくる触手を、虫の群れを、槌と化した肉の塊を、一瞬にして炎や雷が薙ぎ払っては炭へと化していく。

「凄い……!」

 感嘆の声が素直に零れた。

 彼の魔法の威力は、カナタがこれまで見てきたどの力よりも凄まじい。

 暴走状態にある虚界の樹が、目の前にいる人間を薙ぎ払おうと行う攻撃の全てが、ヨハンが一瞥するだけで発動する魔法の数々によって薙ぎ払われて地に落ちていく。

「暴走が収まる……」

 オーゼムの上空を覆うほどに広がった虚界の樹が、元の柱のような形へと収束していく。

 そしてその中心には、これまでと同じように浮かびながらこちらを睨みつけるリーヴラの姿があった。

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