第九節 悲哀の声
地響きを上げて、虚界の樹が脈動する。
落ちていくカナタとアルスノヴァに手を差し伸べる余裕もなく、ヨハンとアーデルハイトは二人で災厄の巨人と対峙しなければならないという最悪の状況に立たされていた。
「カナタの方は?」
「アルスノヴァが一緒なら何とかするだろう。例えギフトが使えなくても奴は一流の魔導師だ」
「……それもそうね」
アーデルハイトが、改めて魔導書に手を翳すと、そこから溢れ出た魔力光が辺りを照らす。
思った通り、封じられたのは純魔力であるギフトだけで、魔法は同じように使用できる。それはつまり、ヨハンとアーデルハイトに限って言えば、戦う手段に一切の不足はないということだった。
勿論、たった二人だけで最上級のギフトをぶつけられてもものともしないあの怪物をどうにかできるかと言う問題はあるのだが。
『無駄だと言っているのが判らないのでしょうか? 私は既に、この世界の理を超えた力を得ているのです』
閉じていたリーヴラの目が開かれる。
赤き石の力を受けて輝く赤き瞳は、既に御使いのものではない。
まるで人の形を取った虚界そのものの、不気味な輝きを放ってヨハン達を睨みつけていた。
『私は絶望したのです。人間に、そして御使いに。神の知恵を得て昇華したその先にあるのがこのような結末ならば、御使いなど全て滅んでもいいとすら思えるほどに』
「その御使いである貴方が言えること?」
『この崇高な使命の果てに滅ぶのならば、それも問題はありません。ですが、この世界の行く末を管理する者が必要でしょう?』
「管理、などと言う言葉を使う時点でお前は何も理解していない。知ったことではないが、過去のエイスとやらもそんなことは微塵も考えていなかっただろうな」
かつての自分が何を思っていたのかなど、ヨハンには判らない。理解したくもないことだが、それだけは確実に言えることだった。
『かも知れません。ですから私はそれを変える必要があるのです。そのためのこの力なのですから!』
大地が激しく振動する。
その揺れと共に、大地に埋もれていた虚界の樹の根のような足が蠢いて、次々と地中から姿を現した。
幾つもの建物が、まるで積木を崩したかのように倒壊し、一瞬にしてオーゼムの街が廃墟へと変貌していく。
「格好良く啖呵を切ったのはいいけど、どうやってあれを止めるの?」
「まずはエリクシルを奴の手から離れさせるのが先決だ。火力を集中して、虚界の動きを止めるぞ」
「口で言うのは簡単だけどね。アルスノヴァの一撃でも破れないのを見てなかった?」
「無茶をしてもらうことになるな。嫌なら他の方法を考えるが」
「……いいえ。むしろ頼ってもらえて嬉しい。ここまで連れて来てもらったんだもの、全力で貴方に尽くす」
箒を取り出し、そこに飛び乗る。
ふわりと浮遊して、一瞬だけヨハンのすぐ傍にやってくると、アーデルハイトはその頬に口づけをして、すぐに上空へと舞い上がる。
迫りくる触手の群れをその速度で振り切りながら、背後に幾つもの雷光を飛ばしてそれを焼き払う。
「まったく。ああいうのは何処で覚えてくるんだか」
ローブを探り、ありったけの武器を取り出していく。
エレクトラムを大量に混ぜ込んだ、自動追尾式のダガーが、多方向から虚界の樹に迫り、そのセレスティアルを食い破るべく浸蝕していく。
それと同時に爆薬を幾つも投擲し、迎撃するリーヴラの目を晦ませる。
「最後の一本だ。借りるぞ、イブキ」
小瓶に入った赤い液体を一気に飲み干す。
竜の血により身体能力を強化されたヨハンは、倒壊しかけている建物を幾つも乗り越えて、リーヴラへと距離を詰めていく。
途中で迫りくる触手は全て拳銃と自動迎撃する魔法水晶で撃墜、遂には虚界の樹の中心部、リーヴラが浮かぶ場所へと辿り付いた。
「リーヴラ!」
『私には判らない。何故、エイス様が私を否定するのでしょう? 貴方もまた神の力を得たエトランゼとして、人々の平和を願って戦い続けたというのに』
「何度も言わせるな。そいつが何を考えて行動していたかなんぞは知らん。だが、こんな結末を望んでいたとは到底思えん!」
その胸に拳銃を突き付ける。
エリクシルを片手に乗せたままのリーヴラは、それを見ても微動だにすることはなく、ただ赤い瞳をこちらに向けていた。
『例え望んでいなかったのとしても、それが絶対唯一の正解なのです! 現に人は貴方を裏切った! エトランゼの力を恐れ、弾圧し、その全てを殺し尽くした。アルスノヴァがいなければ、貴方達は悪魔と存在をすり替えられ、我々御使いによって討伐されたことになっていたのですよ』
「その行為に関しては肯定できんが、それも人間だろう。力を持つ者に対して恐怖し、それが敵対心へと変わるのは当然のことだ」
それは、今の時代だって何も変わりはしない。
確かにリーヴラの言葉通り、アルスノヴァの妄念がなければエトランゼは悪魔として歴史の闇に葬られていたのだろう。
しかし、結果としてエトランゼ達はこの世界に舞い戻った。
最初こそ、力を持つ者を恐れる心による弾圧があったが、それも変わり始めている。
他ならない、この世界に住む者達の努力によって。
「世界は今、変わり始めている。虚界の侵略により荒んだ人の心ではない。この大地に生きている者達を信じれば、異なる結末だってあるかも知れないだろう」
『果たしてそれはそうでしょうか? 人間は愚かで醜い生き物です。力に対する羨望や嫉妬を隠しきることはできません。そう、この世界は誤った道を進んでいるのです!』
「誤った道だと?」
『神が見捨てたこの世界は最早制御が効かない。彼の者が残した残響であるエトランゼや御使い達、そしてその影響を受けた人々はやがて暴走し、世界そのものを飲み込んでいくでしょう。そうなる前に、絶対なる者の導きが必要なのです!』
「その神とやらがこの世界を見捨てたとして、もう充分だと判断したとは考えないのか? もう、自分が手を貸す必要はないからここを去ったのだとは思わないのか?」
『そんなはずがない!』
激しい声と共に、リーヴラから大量のセレスティアルが放たれる。
弾丸のように迫りくるそれを、ヨハンは周囲の触手を足蹴にして空中を移動することによって回避してく。
『ならば何故、命が失われたのです! 虚界に立ち向かうにはあの方の力が必要不可欠だった! そのために無為に命が失われ、彼女は心を捨てて戦わなければならなかった!』
「……だから、つまりはそう言うことだろう!」
光の剣が、リーヴラのセレスティアルを斬り裂く。
純魔力に近い領域まで研ぎ澄ませた疑似セレスティアルの刃は、一振りだけならば本物を超えることに成功していた。
「神は俺達の母親じゃない。全部を見守ることをする必要なんてなかった。何故なら、俺達とは別の存在なんだからな!」
その力を得たからなのかも知れないが、ヨハンには理解出来てしまうことがある。
結局のところ、神にとっての人間など『その程度』のものなのだろう。
仮にもし神と虚界が同じだけの力を持ち、正面対決をして敗れてしまう危険性があった場合、神が果たしてそれをする理由があるかどうか。
この地上に無数にいる、神の被造物である人間を護るために、唯一である自らの命を賭けなければならない理由があるだろうか。
「そう言うものなんだ、神は! 奴は俺達を創って、呼び出して、気紛れに力を与えたがそれだけだ。最後の最後まで面倒を見て、ましてや誰しもを幸福に導いてやる義理なんてない」
『そんなことが……!』
「神は何もしてはくれない。例えどれだけの絶望があったとしても、それを受け入れて進んで行くしかない。それがこの大地に生きる者達のやるべきことだ!」
『ならば貴方は許せるというのですか! 神がたった一言、たった一手を差し伸べれば回避できたあの結末を! 同じ人間に、護ってやった人々と御使いの共謀により無残に殺された、あの聖者の少女の結末を!』
その叫びには、確かな悲哀があった。
彼はそれを間近で見てきたのだろう。救おうとして、救うことができなかったのだろう。
そこにどういった理由があったかまでは、ヨハンには理解出来はしないが。
黎明のリーヴラもまた、魔人アルスノヴァと同じようにカナタを奪われたことで心を壊してしまった者の一人だった。
だが、友人としてカナタを救いたかったアルスノヴァとは違う。
リーヴラはカナタを通して、聖者を見ている。彼女がそうであるかどうかに関わらず、自らの理想としての聖人を見ようとしていた。
「無責任なようで悪いけど、それに対する結論は一つよ」
天から雷が降り注ぎ、虚界の樹へと絡み付いてその肉体を焼き焦がしていく。
上を見れば、上空で魔導書を広げ、その掌をリーヴラに向けるアーデルハイトがいた。
「わたしもその場にいればどうなったかは判らない。貴方やあの拗らせ女のようになっていたかも知れないわ。でもね、わたし達はもう千年後の人間なのよ。千年前の事に怒りを覚えろと言う方が理不尽だと思わない?」
『造られし者、貴方はそうかも知れません。ですが、彼は違います。エイス様は、私と共に神話を戦い抜いた者、ならば私の言葉に耳を傾けることも……!』
「それこそ勘違いよ。この人はヨハン。わたしのおじいちゃんの名前を継いだ、記憶喪失のエトランゼ。千年の前のことで、わたしの旦那を縛らないで」
同時に、眩い光が上空で爆ぜる。
アーデルハイトの放ったディヴァイン・パージの輝きが、虚界の樹ごとリーヴラの身体を聖なる炎で焼き焦がしていく。
「今なら!」
ヨハンとアーデルハイトは同時に前に出る。
虚界の動きは確かに鈍くなっている。セレスティアルも打ち破った今ならば、エリクシルに手が届くかも知れない。
『黙りなさい』
静かな、しかしそこに確かな怒りを滲ませた声がした。
光の中から聞こえてきたそれに、ヨハンは瞬時に反応してアーデルハイトの身体を引き寄せる。
箒から無理矢理離して自分のところに抱きかかえるようにして、手近な建物に飛び移った。
爆発的に伸びた触手が、先程まで彼女がいた場所を圧潰するように埋め尽くしていく。
ディヴァイン・パージの輝きを受けた虚界の樹は、驚くべきことにリーヴラの手に持つエリクシルからの光を受けて、瞬く間に再生を始めていた。
その中心に立つリーヴラが、二人を睨む。
そこには先程までの僅かばかりの感傷は一切ない。邪魔者を踏み潰すだけの、機械的な表情を、赤い瞳に宿らせている。
『理解しました、エイス様。貴方はそんな愚か者達に絆されて、既に人を統べる者としての在り方を失ってしまっていたのですね。私の言葉で本来の御心を取り戻していただけると思っていたのでしたが、それも間違いでした』
虚界の樹が動く。
ヨハンとアーデルハイトを押し潰すべく、その巨体で全方位を囲むように伸ばしていく。
膨大な質量の肉の壁で二人を包囲しながら、リーヴラもまたその中に入って更なる言葉を投げかける。
『貴方には死んでいただきます。そしてその後の世は私とカナタ様によって導いていくことにしましょう』
「あれだけ言っていたのに、随分な掌の返しようだな。結局、お前は自分の言いなりを求めていただけだろう。自ら人を統治し、導く度胸もない男が」
『それを成すのは御使いではないと、それだけの話です』
「だからってそれをカナタに託すのもね。貴方、何も知らないみたいだけどあの子は相当なぽんこつよ。そんなことをも理解してないなんて、遠くから見て判ったような振りをしているだけじゃない。その粘着質な気持ち悪い考えを知ったら、きっと否定されるわよ。エトランゼの言葉で、キモいってね」
それが図星だったのかは判らないが、リーヴラは何も答えない。
ただ無言で、ヨハン達を包囲する虚界の樹の包囲を狭めていくだけだった。
憎まれ口を叩いてみたのはいいものの、それは最早悔し紛れに過ぎない。既に万策尽きたヨハン達に、虚界の樹を止める術はない。
『それでは、終わりです。神への祈りを口にする必要もありません。後悔して、死になさい』
リーヴラが、エリクシルを通じて虚界の樹に指示を下す。
肉塊が閉じようとするその瞬間、その動きが停止する。
そして何故か、何かに苦しむように蠢きだし、リーヴラの制御を全く効かずに暴れ出した。
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