第七節 白き祈り

 遥か遠い記憶の彼方にて、一度だけあの方と話をしたことがある。

 そこは白い世界だった。

 辺りを見渡せば、常に曇ることのない青色の空が広がり、その中心と呼ぶべき場所に、純白の石による床が作られている。

 人一人が生活する程度の空間。この世界を創造した者が暮らすには、些か小さすぎるその場所で、人の姿を借りた神は黙って話を聞いていた。

「……何故、救わないのですか?」

 御使い、黎明のリーヴラの問いかけはその一言に集約する。

 世界に染みだした虚界。

 この大地を喰らい、人の命を犯す者。

 それらに対して、今この世界にいる者達の力は余りにも小さい。

 で、あれば。

 この世界の創造主たる神ならば、彼の者達を倒すこととて不可能ではないはずだった。

 神が戦いの指揮を執り、それに御使いが追従してこそ奴等を退け、この世界に平和を訪れさせることができる。

 黎明のリーヴラはそう考えていた。だからこそ、誰しもが尊敬と共に畏れて止まない神に対して、こうして直談判を試みた。

 そして、人間の青年の姿を借りた神はたった一言、答える。

「救わないさ。私は君達を創造したが、その行く末を全てを決めるわけではない」

「ですが、今は紛れもなく危機でしょう。貴方が生み出した人が、御使いが滅びることが喜ばしいことであるはずがありません」

 胸に手を当てて、必死でそう訴える。

 白い世界に立つ神は、それを聞いてなお表情を崩すことはない。

 ただ穏やかな顔つきのまま、リーヴラではなく地上を見下ろすだけ。これまでも、ずっとそうして来たように。

「しかし、これは君達が招いた結果だよ。その先にある結論もまた、自分達で進んだ先だと思わないかい?」

「……それは……!」

 ある時、神の言葉を聞く者が現れた。

 彼等はそれに従い、自らに修行を課す。長い精神と肉体の修練に耐えた者は、神の力の一部を受け取った。

 それが御使い。人の身体を捨てて、天の光と呼ばれる純魔力を宿した、神の代行者。

 だが、現実は違った。

 彼等は何処までも人だった。

 力と永き命を得た者達が到達したのは、理想郷を生み出すための弛まぬ努力でも、人々を救い導く善行でもない。

 怠惰。

 己が感情の赴くままに、神の名を借りて人を玩ぶだけの者達の姿がそこにあった。

 中には人を導こうとした者もいた。しかし、そんな彼等がとった方法もまた、正解とは言い難かった。

 人の世界を閉ざす。己が管理できる範囲内に閉じ込め、そこでの幸福を享受させる。

 そんな世界が辿り付いた結論が、虚界の侵略だった。彼等はこの世界にいる魔物達を呼び水にして、異なる世界より現れる。

 本来ならば、人の生活圏が増大するにつれて駆逐され、姿を消していく魔物達を放置した結果が今だった。

 それが御使いが招いた一つの答えだとするのならば、目の前に立つ神の言葉にも一理あるのだろう。

 それでもリーヴラは諦めるわけには行かなかった。

 このまま戦いの日々が続けば、人はやがて生きる希望を失って死に絶えてしまう。

 そんな死の世界を彼は望まない。そうなる前に、虚界をこの世界から追い出す必要があった。

 そして今、御使いを束ねてそれができるのは神だけだった。

「それにね。君達は勘違いをしている」

「……何を……?」

「私は、神なんだよ? この世界を創造し、生命を生み出した。しかし、私はこの世界に唯一の存在。人間でも、それが昇華した御使いでもない。その意味が判るかい?」

 穏やかな口調、優しげな声。

 しかし、そこに含まれた言葉の意味は、余りにも冷たい。

 まるで突き放すような響きで、リーヴラの耳に届いた。

「気紛れに人を救うこともあるだろう。裁きを与えることもね。でも、それだけだ。本来ならば君達を生み出した時点で私の役割は終わっているんだ。この身体を借りているのは人を救うためじゃない。この世界の行く末を見届けるために、よく見える目が欲しかっただけのこと」

 リーヴラは聡明だった。

 だからこそ、全てを理解してしまう。

 自分達が神に抱いていた感情が全て、間違っていたことに。

 彼は慈愛を持ってこの世界を導くような者ではなかった。

 生み出し、与えるが、そこまでだ。

 そこから先は、この世界に住む者達に任せると、そう告げている。

 それが判ってしまったから、リーヴラはその場から黙って踵を返した。

 その動きに反応するように、石でできた小さな島の隅に、地上へと降りていく階段が形成されていく。

「君が人を想う気持ちは立派だよ。それを忘れないで欲しい」

 もう、それには答えない。

 リーヴラが最初の一歩を踏み出すと同時に、神は更に続ける。

「安心してほしい。私が直接手を下すことはないが、この世界を救うための奇跡を幾つか用意するつもりだ。それがどのような結論に至るのかは、私自身にも判っていないが」

 階段に足を掛ける。

 遠くなる声は、まだ喋り続けている。

「彼等と協力して、この世界をよりよく導いてほしい。君達御使いは、本来そのために昇華されたのだからね」

 結論を言えば、それは奇跡などではなかった。

 恐らく神は判っていたのだろう。ただ起きる奇跡に価値なんてないと。

 それでも確かに、この世界に来た『彼等』は奇跡を呼び起こすための欠片ではあった。

 幾つかのそれが重なった結果、虚界は倒されて世界は救われる。

 ――だが、その果てに至ったものは余りにも――。


 ▽


 黎明のリーヴラが放ったその言葉に、ヨハンは暫くの間まともに反応することができなかった。

 そうしている間にも、目の前で白き御使いは傅き、ヨハンの次の言葉を待っているように見える。

 視線を横に向ければ、アーデルハイトが不安そうな顔でこちらを見上げている。それも無理はなく、今の状況を思えば如何に彼女と言えど簡単に憎まれ口を叩くこともできないだろう。

 黎明のリーヴラの言葉が罠でもなく、真実なのだとしたら、それだけヨハンが次に起こす行動には深い意味がある。

「黎明のリーヴラ、お前は」

「……私はずっと、この時のために暗躍し続けました。アルスノヴァが赤い月を生み出し、エトランゼ達を現世に転生させると決めたその時より」

「……いつから、お前は暗躍していた?」

「この計画自体は決して深いものではありません。アルスノヴァに力を奪われ、貴方が消失したその先を辿ることもできなかったのですから。ですが、私はいつか貴方がこの世界に再誕する時を待って、自らを神器の中に封印したのです」

 傅いていたリーヴラは立ち上がり、窓の方へと歩いていく。

 壊れかけた城から覗くその眼下では、城下町に入り込んで怪物達と死闘を繰り広げる者達の姿があった。

「私が救うべきは二つ。神の力を受け継いだ貴方と、聖者の如き歩みをする彼女。そのお二人をこの世界の象徴とすることで、彼方の大地は完成するのです」

「……カナタのことか?」

「ええ。彼女もまた人のために尽くし、不幸にもその命を落とした聖者。で、あれば一番に救われるべきでしょう」

「何故、こんな回りくどい真似をした? 俺達を捕まえたかったのなら、幾らでも方法があったはずだ」

 仮に、ヨハンとカナタが出会ったばかりの頃にリーヴラが現れていれば、抵抗することもできなかっただろう。

「理由は二つあります。私もまた、探し物をしていたからです」

 そう言って、謁見の間の床を貫くように聳える虚界を見やる。

 その視線の動きから、ヨハンにも彼が求めていたものがなんであるかはすぐに理解できた。

「この虚界か? やはり、オルタリアでヘルフリートを騙して虚界を目覚めさせたのもお前だったのか?」

「はい。私にはその力が必要でした。世界を隔離し、その管理を永遠の物とするためには虚界の力が必要不可欠なのです」

 確かに、その虚界自体が異なる世界から現れたものであるように、どういった不測の事態が起こるかは全く判らない。

 この世界の中ですらも、御使いが想像もできないようなことも数多くあるのだろう。アルスノヴァを初めとする魔人とてその一つだ。

 だからこそ、虚界の力が必要だった。かつて世界を滅ぼしかけたその力を手中にできれば、これ以上にない力になる。

「そして何よりも貴方達には自分の力でこの領域に至ってもらう必要があった。数多くの戦いを経験し、人と御使いの愚かさを知った貴方達だからこそ、私の作る理想郷の主として相応しい」

 つまりは、記憶を失って力だけを持った無気力な神の成り損ないではなく。

 またこの世界に来たばかりでろくな事情も理解していない無垢な少女でもなく。

 今、こうして戦いを潜り抜けたヨハン達が必要だったということだ。そうして初めて、黎明のリーヴラが言っていることが理解できるであろうと。

 アーデルハイトの小さな手が、ローブの袖を握る。

 不安そうなその仕草に、一瞬だけ顔を向けて頷き返す。

 今の言葉を聞いて、もう既にヨハンの心は決まっていた。いや、最初からその目的のためだけにここにやって来ていたのだ。

 改めて、銃口をリーヴラに向ける。

 彼は特に驚いた様子もなく、閉じられたままの目でヨハンの顔を見返す。

「要は千年前と似たような俺達を作り上げて、その上で無理矢理に王座に座らせようということか? タネが割れれば馬鹿馬鹿しい。そんなことに付き合っていられるか」

「ええ、きっと貴方ならばそう言っていただけると思っていました。だからこそ、その価値がある。愚かなる人々を導くためには、その高潔な心が必要になるのです」

「無駄に買い被るな。俺もカナタもただの人間だ。お前の理想になるつもりはない!」

「貴方、言っていることが滅茶苦茶よ。そんなくだらない戯言に、私の大切な人達を巻き込まないで」

 言いながら、アーデルハイトもまた魔導書に手を掛ける。

「何もかもが順風に進んでいるとは言えません。事実悪性のウァラゼルや魂魄のイグナシオを処分するのに時間が掛かってしまい、結果として計画に大きな乱れが出てしまったのもまた事実ですから。ですが、全てはここに収束したのです。私の邪魔をする御使いも、魔人の思惑も遥かに超えて」

「俺達がここでお前を止めれば、その茶番もお終いだ」

「かつては強大な力を持っていた貴方も今は人の身。限界がありましょう」

「……やってみるか?」

 ヨハンは容赦なく引き金を引く。

 発射音と共に放たれたのは、セレスティアルを引き裂くエレクトラム製の弾丸だったが、それはリーヴラに届く前に伸びてきた肉の触手に阻まれて、固い音を立てて床の上に落ちた。

「一つ、聞き忘れたことがあったのではないでしょうか? 私がどうしてこんな回りくどいことをしてまで、オルタリアで内乱を引き起こしたのか? 何故、オルタリアとバルハレイアの戦争を煽ったのか」

「……なんだと?」

 肉の柱とでも呼ぶべき虚界が蠢く。

 それらはリーヴラの周囲を渦を巻くように動き始めた。

「虚界の力を手に入れる。口にしてしまえば簡単ですが、彼等は神に等しき力を持つ者。御使い一人では手に余る。だからこそ、必要なものがあったのです」

 何かが、リーヴラの手の中で輝いた。

 透き通るような蒼色の輝きを放つ、透明な石。

 ヨハンはそれに見覚えがある。

 それがどれだけ恐ろしい代物かをよく知っていた。

「……それはまさか!」

「第五元素、不死の霊薬。様々な呼び名があるでしょう。数多の魔導師達が研究し、決してそこには至ることのできなかった人の知による到達点。彼の魔人ですらもその可能性に気付けなかったこの物質に目を付けた貴方の慧眼は、流石としか言いようがありません」

「……エリクシル?」

 アーデルハイトがその名を口にする。

 だが、その物質の生成方法は彼女の持つ魔導書にも記されてはいない。

 唯一、それを知る者は世界に只一人。

 おぼろげに神の力と記憶を引き継いだヨハンだけだった。

 以前、一度だけそれを作って使ったことがある。

 悪性のウァラゼルと戦う際に、ヨハンはそれを使って短時間ではあるが自らのギフトを再び再現した。

 だが、それをするだけでも数年の歳月が必要だったし、何よりも完成に必要なあるものを理解して、研究を取りやめていた。

「そのために戦争を起こし、多くの人を殺したというのか!」

 ヨハンが激昂する。

 エリクシルを完成させるのに必要だった最後の一欠片。それは皮肉にもウァラゼルとの戦いで理解してしまった。

 人の命。いや、人の死そのもの。

 生命がこの大地を離れる際に上げる苦悶の悲哀の声こそが、エリクシルの完成には必要不可欠だった。

 だからこそ、ヨハンはもうその物質に頼ることはないと思った。

 しかし、目の前の男はその逆だった。

 人の死を集め、それを力として虚界を操ろうと言うのだ。

「奇妙なタイミングで事を起こしたのもそれが理由か」

 戦略的な話をするならば、オルタリアとバルハレイアがお互いに疲弊しきるまで戦わせてから、事を起こせばいい。そうすれば少なくとも今のような事態にはなっていない。

「力が揃えばバルハレイアなどは最早不要ですので。エリクシルがもたらす虚界の力。全てはそれだけで事足りる」

 表立って事を起こせば予想外の抵抗にあう可能性もある。だからこそリーヴラは常に影に潜み、人の操り事を成したのだろう。

 王の野心や、弟の劣等感。そしてその弟を王にしたいという母の想いを利用して。

 それらは決して許されることではないが、それを煽ったリーヴラこそが絶対的な悪であることは間違いない。

「とてつもない外道ね」

 アーデルハイトも同じように怒りの感情を抱いているのだろう。既に彼女が手を翳す魔導書からは、音と立てて雷が漏れだしてきている。

「やはり、言葉では理解していただけませんか? 全てはこの世界をよりよく導くためなのですが」

「何処がよりよく、だ? お前の理想を他人に押し付けるな」

「これは摂理なのです、エイス様。人はかつて犯した罪を償わなければならない。そしてその上でまた、私達が彼等を導く。そこに何の間違いもありはしません。ですが……」

 リーヴラの手の中で、石の色が変化する。

 透き通る輝きを放つ蒼色から、まるで血のような赤へと。

 それに呼応するように、床を突き破って生えている虚界が醜く蠢いた。

「どうしても私を否定すると言うのならば、まずはその力を持って理解していただくしかなさそうです」

 閃光が弾ける。

 その瞬間、赤い肉の塊がヨハン達の視界を埋め尽くすように広がって行った。

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