第五節 人の極

 その雄叫びが、話したこともない男の最後の咆哮が、折れかけていた心を再び揺り動かし、無理矢理に叩き起こす。

 一瞬、つまらないことを考えてしまっていた。

 クラウディアの片手が消えた時、あの時のことが思い出させられたからだろう。

 だから、今回も都合よく力に目覚めろと。その魔人とやらになれるのならばなりたいものだと、願ってしまった。

 そんなことに意味なんてない。都合のいい奇跡が起こるのなら、今ではなくもっと違うタイミングでいい。

 今は、自分達で何とかしよう。

 そうでなくては格好がつかない。目の前にいるくそ野郎の心臓を抉るのは、自分でなければ絶対に嫌だ。

 気が付けば立ち上がっていた。

 クラウディアが投げたオブシディアンの槍を持って、地面を蹴って跳躍する。

「ラニーニャ!」

 それに気付いたクラウディアが声をあげる。

「ちっ、もう起きたか! 離れろ人間!」

 エーリヒはまだ動く。

 とっくに死に体であるはずなのに。

 懸命に、子供がそうするように槍を振るい、イリスの注意を引きつけている。

 そして、痛みに顔を顰めながら、クラウディアはいとも簡単に言ってのけた。

「ここ、いらない!」

 それで言いたいことは全て伝わる。

 水の刃を鞭のようにして一閃。

 腐りかけているクラウディアの肘から先を、容赦なく斬り落とした。

 その痛みに悲鳴を上げる間もなく、彼女も同じように立ち上がる。

 切り口から流れる血も厭わず、最早彼女の目にはイリスしか入っていない。

「貴様等ぁ!」

 イリスが焦ったような、悲鳴にも似た声をあげる。

 エーリヒの身体を無理矢理にセレスティアルで薙ぎ倒し、ラニーニャに向かう。

「死にぞこない如きが!」

「……黙れ!」

 セレスティアルと、ラニーニャが操る水が克ち合う。

 それによって飛び散った毒が全身に降りかかっても、もうその力の発露は止まらない。

 ラニーニャが操る力はその怒りに呼応するようにより強力になり、四方から刃と化してイリスへと襲い掛かって行った。

「わたしの親友を傷つけて、楽に死ねると思うな!」

「死なぬよ、わしは! 死ぬのは貴様等じゃ!」

 下から上に、水が突き上げる。

 重力に逆らう滝のような勢いに押されて、イリスは僅かに態勢を崩した。

 そこに、ラニーニャが斬り込む。

 エレクトラムの剣が、そのセレスティアルを切断し、もう片方の手に握ったオブシディアンの槍を突き入れる。

「ハッ! 馬鹿の一つ覚えが!」

 それは容易く弾かれる。

 しかし、それで充分だった。

 御使いはオブシディアンを恐れる。受け流せも、避けもせず、その脅威を遠ざけるために一番大きな行動で、それを遠ざけようとしてしまった。

 ラニーニャはそんなものに頼る必要はない。

 その手には肥大化した、水の塊。いつもの大きさではなく、まさに大剣と言った形をしていた。

 この一撃でいい。このたった一発をぶつければ、全てが終わる。

「き、ひっ……!」

 引き攣った笑い。

 大鎌を出現させる暇などなく、それが叩きつけられる。

 だが、イリスとて全く無抵抗と言う訳ではない。

 ラニーニャを止めようと伸ばした、そこに毒素を大量に含んだ掌が、ラニーニャの顔の右半分を焼き尽くす。

 皮膚が爛れ、眼球が腐って落ちる。

 どうせ殆ど見えていない目だ。別段、惜しくもない。顔に傷がついたとて、今更そんなことを気にするような性格でもない。

 悲鳴の一つもあげない。

 それどころではかなったから。

 剣が、巨大な水の塊が叩きつけられる。

 切断する力と、圧縮された圧力を持って、イリスを叩き潰すために。

「わしを舐めるな! 人間如きが!」

 巨大なセレスティアルと盾がそれを防いだ。

 互いの力は拮抗し、それを貫いた衝撃が彼女の身体を傷つけたが、それは致命傷ではない。

 その判断力に負けた。

 避けるのではなく、即座にイリスが反撃に出たことで、その痛みを完全に無視することができなかったラニーニャは、攻撃の威力を僅かに落としてしまっていた。

 イリスが勝ちを確信する。

 もう、一番の脅威は倒したと。後は、生き残ったクラウディアを殺せばいいだけだと。

 それこそが、『二人』の狙いであることにも気付かずに。

「おらぁ!」

 鉄砲水が襲い掛かる。

 まるで一点だけを狙った水の塊を受けても、当然イリスは揺らがない。

 だが、次の瞬間に起こった異変は別だった。

 そこに流されるようにして飛び乗ってきたクラウディアが、身体ごとイリスに体当たりを仕掛ける。

 その水の勢いを利用した激突は、イリスの身体を地面に転がさせる。

 無様に地面に倒れた彼女の上に、馬乗りになる隻腕となった少女。

 イリスの整った顔に、血が飛び散る。

 目の前の人間の、イリスの髪の色と同じ真っ赤な血が。

「人間を舐めんなよ、御使い!」

「きぃ、さ、まぁ!」

 ドン、ドン、ドンと。

 発射音が響いた。

 利き腕を失った彼女が握るのは、一丁の拳銃。

 本来ならば真っ先に使うべきその武器を、今の今まで彼女は温存していた。来たるべき一瞬に全てを賭けるために。

 当然、そこに込められた弾丸は神殺しの黒い金属。

 ぴったりと突き付けた銃口から、加速された弾丸がその心臓を目がけて何度も何度も発射される。

「うぐ! ぉお! ぁがぁ!」

 一発毎に悲鳴が絞り出されたが、それも最初の三発目までのこと。

 四発、五発、六発、七発。

 身体が上下に跳ねるが、もうそこに生気はない。

 八発、そして弾切れを示すカチリと言う気の抜けた音。

 銃口を突き付けたまま、クラウディアは睨みつける。

 同じく自分の顔を見たまま、口から涎と血を流してもう動かなくなった敵の姿を。

 その心臓は最早原型を留めず、潰れた肉の塊がそこにあった。

 クラウディアが首を巡らせる。

 ラニーニャと目が合って、それからぐらりとその身体が揺れる。

 そのまま気を失い。イリスに折り重なるように倒れた。

 幽玄のイリスがその下で、光の塵になって消えていく。

 その姿を一瞥だけしてから、ラニーニャはもう一人の英雄の姿を見る。

 いつの間にか倒れていたエーリヒの表情は、この位置からでは判らない。

 ただ、彼がいなければこの勝利はなかった。その雄叫びと、見せてくれた人の強さがラニーニャとクラウディアを奮い立たせてくれたのは間違いない。

 エトランゼであるラニーニャに、彼が背負っていたものは判らないが。

 それでも、その死を悼むだけの価値はある。そう思って、静かに目を閉じた。


 ▽


 ――自分が生まれた世界が嫌いだった。

 あの場所にはしがらみが多すぎる。

 国から打ち捨てられたスラムで生まれて育ったクソガキには、平和な日常なんてものはなかった。

 身体を売って金を稼ぐ母。

 弱い妹。

 そして、父親はクスリをやって刑務所入り。

 父と最後に遊んでもらった記憶は、出所した彼が路地裏で這いつくばってクスリを買う金をくれとせがんできたことだった。頭を蹴飛ばしてやり、以降の生死は知らない。

 屑から生まれたなりに頑張って生きようとしていた。だが、学もないガキが幾らイキったところでできることは暴力どまり。自分に正義があったとしても、それをやれば途端に世の中の敵だ。

 それしかない少年にとっては生きにくい世の中だった。

 ある時警官に補導されて問われたことがある。

「どうして暴力でしか何かを訴えることができないのか?」と。

「そうするしかないからだ」と吐き捨てた。まともな家があって、温かい食事がある奴には言っても理解できないから。

 屑は屑なりに家族を護ろうとした。自分を生んだ母親には少なからず感謝していたし、頭は悪いが喧嘩の強い兄を慕う妹はそれなりに可愛らしくもあった。

 そうして、暴れ続けた。暴力を振るい、敵を倒し、それを続ければいつか上に上がれると信じて。

 ゴミ溜めのようなスラムでも、その頂点から見た景色はまた格別なものなのだろう。

まだ見ぬ山の頂を夢想しながら突き進んだ。

 勿論、そうなる前に山から蹴落とされたのは言うまでもない。

 銃にすら怯まない少年を待っていたのは、組織の力だった。

 集団が動けるのは一ヵ所だけではない。匠に身体の一部分だけを伸ばして、その手が届かなかいところを攻撃する。

 まずは、妹がやられた。

 次に、母親。

 家族のためを思ってやっていたことは、全て彼女達を傷つけ、その顰蹙を買うことになった。

 手に入るだけの大金を渡して、その後の家族のことは判っていない。

 母親は多分、病気でもう長くなかっただろう。風の噂で妹が結婚したとの話を聞いたが、相手を確かめる気にもなれなかった。

 何よりもショックだったことがある。

 家族が傷つけられた少年自身が、最初に思ってしまったことだ。

 心配するよりも、悲しむよりも先に、面倒だと、そう感じてしまった。

 結局のところ、それは必要なかったものだ。知らない誰かの言葉に惑わされて、最低限人間らしさを得るために家族と言う言葉遊びにしがみ付いていただけのこと。

 ――本当に、しがらみが多すぎる。


 ▽


 視界に青空が見える。

 気絶していたのは一秒か二秒か、まだ命があるところを見ればその程度の時間だろう。

 地面に手を突いて立ち上がろうとすれば、心臓の辺りが嫌に痛む。顔を降ろせば、そこに開いた穴から赤黒い血が今も流れ続けていた。

 どうして心臓を貫かれて生きているのか、そんな単純な疑問はどうでもよかった。そう言う世界なのだろうと、元々不思議の方が多い場所だ。

 戦いの余波ですっかり削れて、抉れた大地に立つ。

 背中を向けていたルフニルが振り返った。

 その目は驚愕に見開かれている。どうやら、ヴェスターと言う男は、御使いの想像すらも超越できたらしい。

「何故、立てる?」

「さあな。知らねえし興味もねえ」

 この状態で長く戦えるとは思っていない。

 後一瞬でいい。勝機があるわけでもないが。

 ほんの一撃を叩き込めれば何かが変わる。そんな確信がある。

 無意識の内に漏れ出した力が、ヴェスターの周囲を黒く変貌させている。

「虚界だ」

「……あん?」

「強力な虚界は、死に際に零れたその力ですらも世界を黒く染め、浸蝕させる。そうして生まれた金属が、神殺しの黒き鋼、オブシディアン。そうなっている貴様はもう、虚界に近い何かなのだろう」

「ああ、そうかよ」

 驚きはない。

 この身に宿した呪いとやらが、いずれそうなるのであろうと言う予感がなかったわけではない。

「そんなことは別にどうでもいいんだよ。今はそれより重要なことがあるだろ?」

「…………」

 雷霆のルフニルは答えない。

 だが、お互いの心は伝わっていた。

「俺がお前に与える慈悲はない。あるとすればそれは安らかな死だが、貴様は満足しないだろうな」

「……そうだな。死にたくねえなんて言うつもりもねぇが、死んでやる理由もねぇ。てめぇをぶっ殺すまではな」

「粗暴だが、そこにあるのは怒りではない。一つだけ教えてくれ、ヴェスター。何がお前を戦いに駆り立てる? たった一人で御使いに挑むと言う無謀を果たさせたその原動力はなんだ?」

「――はっ」

 嘲笑する。

 そんな簡単な答えが判らないのかと。

 だが、それも無理もないのだろうか。

 ヴェスターもこの世界に来て、それに出会うまで知らなかったことなのだから。

「そこに強い奴がいるからだよ。戦うのが楽しいんだ、別に勝ち負けなんざどうでもいい。死力を尽くして暴れて、お互いに満足のいく最後に辿り付きゃそれでな」

「……なんだと?」

 この世界にやってきた。

 適応は他の誰よりも上手くいっていたと思う。気の向くままに殺した、請われるままに殺した、そうやって生きていける世界は居心地がよかった。

 ある時、一人の魔導師と戦った。

 今でこそ力を失った最強のエトランゼ。彼に挑み、完膚なきまでの敗北を喫した。

 不思議と絶望はしなかった。怒りすらも抱かなかった。

 むしろ、心が躍る。

 この世界にはそれだけの何かがある。一生を掛けても味わいつくせないだけの美味が、世界中に転がっている。

 そう。

 結局のところ、ヴェスターと言う男の原動力は一つ。

 誰にも理解されないそれは、戦うこと。

 強者との戦いを誰よりも望む。御使いの野望を阻止しようとしていたのも、その過程で彼等と死闘を繰り広げるためだ。

 だが、組織のしがらみはやはり邪魔過ぎた。誰かを護りながら戦えるほど御使いは甘い相手ではない。

 今は最高だ。

 自分の力で、自分の意志だけで戦うことができる。

 全力で剣を振るい、自らの命を燃やし尽くし、最強の敵に挑める。

 それ以上の喜びがあるだろうか。

「……成程。やはり、お前は怪物だ」

「はっ、褒めてくれてありがとよ」

 目の前の御使いもまた、何かを決意する。

「生半可な攻撃ではお前を仕留めることはできない。それどころか、更なる進化を促す危険性すらありうる」

 セレスティアルの光が、掲げた掌に集まって行く。

 そこに握られていたのは、輝く刀身を持った一振りの剣だった。

 両手で縦に構えたその剣からは、一本の光が柱のように空へと立ち上っている。

 そこに込められたエネルギーはどれだけのものになるだろうか。

 たった一撃、それを振り下ろすだけで大地を裂く烈光の刃。

 その熱量に肌が焼ける。圧力がヴェスターの身体を無意識に震わせていた。

「……ハハッ」

 だが、ヴェスターは笑う。

 心の中に僅かに芽生えた恐怖心など、一瞬にして揉み潰すようにして。

 相手が人の理を超えた存在なればこそ、より滾る。

 強い奴と戦うことだけが望みだった。

 そこに信念などない。これから来る世界に望むことなどもありはしない。

 ただ、一つだけ。

 今、自分の命が失われるかも知れないこの時に頭の中を過ぎる者がある。

 ヴェスターを圧倒した力を持った最強のエトランゼ。彼は力を持っていた時は無気力で、自分のやるべきことなど何も持っていなかった。ある意味では、その生き方はヴェスターに似ている。

 だが、不思議なことに力を失ってから変わった。その脆弱な身で、誰かのために生きることを決めた。

 その心は全く理解できないが、ほんの少しだけ、僅か数ミリ程度尊敬している。

 だから。

 今この時に立ちはだかる敵が御使いでよかった。

 人生の中でのほんの僅かな時間。仲間達と過ごした時。

 それはヴェスターをそこに留めるまでには至らなかったが、だからと言って全くの無価値と言う訳ではない。

 そこには確かに、価値を見出していた。こいつを倒して道を切り拓いてやろうと思う程度には。

「この戦い、俺達が勝ったらこの世界はどうなると思う?」

 そんなことを尋ねていた。

 恐らく、目の前の御使いは嘘を吐かない。自分の心にあるがままの答えを語ってくれるはずだ。

 その質問に意外そうな顔をしてから、雷霆のルフニルは目を閉じて答える。

「よき世になるだろう。いや、なればいいと願っている。……お前が俺を超えることができればの話だが」

「……それが聞けりゃ充分だ」

 どちらにせよ、それはヴェスターにとってはつまらない世界だ。

 享受するのはまた違う誰かなのだろう。

 別段、その為にと言う訳ではない。

 ただ、目の前の強敵を倒すため。

 魔剣を振るう虚界の獣は、大地を蹴った。

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