第四節 幽玄のイリス
「ぎ、あ、ああぁぁぁ……」
長い時間が過ぎたように感じる。
その腹にオブシディアンの杭を突き立てたまま、空中でその身体は不自然に制止していた。
彼女からの指示を失った所為か、デュナミスもまた同じように空から杖を向けたまま固まっている。
「あ、あ、あ、」
掠れるようなその声は、やがて変化する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
大絶叫。
全ての音を覆い尽くして掻き消すような声が、赤い髪の御使いから発せられた。
だが、それを聞いてもまだ誰一人として油断はしていない。
クラウディアは次弾を装填し、エーリヒとラウレンツもまた、油断なく武器を構えている。
そんな彼等に触発されるように、兵達もまた決して気を抜くことはない。むしろここからが本番であると、全身に緊張を走らせている。
その考えは正しかった。
ある一点に関しては、だが。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……! き、ひ、ひ、ひ、ひひひひひひひひひひっ!」
女の顔が変わる。
幽玄のイリスの絶叫が次第に変化する。
既に苦悶の声はない。
耳を裂くような不気味な、特徴的な笑い声が響いていた。
「きひひひひひひっ! あー! 楽しませてくれる! なんと愉快な抵抗をしてくれるのだ、お前達は! 虫けら以下だと侮っていたわしが愚かじゃった。虫に噛まれたところでこのような痛みはないだろうからな!」
誰よりも早く、甲板を蹴る。
上空に舞い上がったラニーニャは、容赦なくその手に握ったエレクトラムの剣を幽玄のイリスへと叩きつけた。
時間を掛けさせてはいけない。
今の攻撃に全くダメージがなかったということはないだろう。以前、魂魄のイグナシオにも同じような方法で傷を与えたことがある。
それが彼女の全力を引きだす結果に繋がったのだから、今回はもう油断をするつもりはなかった。
「急くな、人間! まだわしが喋っているところだろうに!」
揉み合うようにして、二人の身体が荒野に落ちる。
すぐさま立ち上がったラニーニャは、決して距離を取らせるような真似をするつもりはない。
「放て、デュナミス共!」
無数の光が背後で爆ぜる。
上空から伸びる白い輝きが、一斉に地に落ちた飛空艇に向けて発射された。
だが、そんなことでいちいち振り返るようなことはない。その程度の抵抗があることは既に理解している。だからこそ、対御使い用の装備を積んできたのだ。
「おー、おー、抵抗するなぁ! 足掻け足掻け!」
「後ろにばかり気をかまけている場合ですか?」
鋭い踏み込みから振るった剣が、彼女を護る極光の盾を斬り裂く。
「きひっ」
更にもう一歩。
心臓の辺りを狙って振り抜こうとしたその瞬間、ラニーニャの足が止まる。
切断された光が、まるで液体のように飛び散っている。
それはラニーニャの身体に振りかかり、その個所にまるで焼けるような痛みを与えた。
「おぬし、まさか」
距離が離れる。
赤い髪の女が、両手に何かを握っていた。
その身丈ほどの大きさもあるそれは、死神が持つような大鎌。そこから滴る輝きは、まるで水のように変化した彼女のセレスティアル。
「これは純魔力じゃぞ? これを加工して貴様等人間にも使えるようにしたのが魔力。どうしてその上に立つわしらが、それと同じように性質を変化させることができないと思った?」
ある者は、剣や盾などの物質へと変化させる。
またある者は、不定の形を持ってそれで薙ぎ払う。
ならば、それと同じように、液体のように変えることも不可能ではないということだった。
そしてそこに更に、毒のような作用を加えることも。
「わしのは強力じゃぞ。何せ、その気になれば虚界をも溶かし殺す神の毒じゃからな! 問題は奴等が痛がる素振を見せなかったことじゃ! それではつまらんから、わしは千年前は手出しをしなかった。しかし今なら!」
鎌を振るう。
滴る毒が触れた皮膚を溶かし、身体の中に侵入して自由を奪う。
「悲鳴も、喘ぎも、聞き放題じゃ。そして、貴様等はもう一つ勘違いをしておったようじゃな?」
「何を……!」
彼女はラニーニャへの攻撃を中断して、上空へと手を掲げる。
それに答えるように、デュナミス達は砲撃を停止した。
「墜ちよデュナミス。そして爆ぜて、奴等の身体を喰ろうてやれ!」
指令を受けたデュナミスの群れが、上空で姿を変化させる。
その身を半分液体のように変えて、重力に従うままに半壊した飛空艇目がけて落下していった。
当然、それを許すわけもなく下からは魔法による砲撃や射撃が放たれる。
それを見た幽玄のイリスは、心底醜悪な笑みを浮かべていた。
「おぬし、あれが何だと思う?」
イリスの声に、ラニーニャは答える余裕を持たない。どうにか自分のギフトで水を操り、焼けた場所から体内の毒素に混ぜ込んで薄めるので精一杯だった。
「何処からか連れてきた生物だとでも思ったか? それとも、リーヴラが操っているような虚界に自らの魔力を合わせたもの? 近いが、ちょっと違う。あれこそがわしのセレスティアルそのものじゃ」
「まさか……!」
嫌な予感が的中する。
迎撃されたデュナミス達は空中でその身体を溶かし、まるで雨のように眼下の人々へと降り注ぐ。
それは、ただの毒の雨と言う訳ではない。もし原型が残っていたのなら、勝手に動いて周囲の人間に襲い掛かり、そこから破裂するようにして更なる毒素を送り込む。
勇壮な戦いの声は、一瞬にして悲鳴へと変わっていった。
もがく仲間に手を差し伸べれば、鎧ごと溶かすその猛毒が自分にも襲い掛かる。
「きひひひっ! ほれほれ、デュナミスはまだいるぞ! 緒戦でこいつを出さなかったことで油断したようじゃな。わしの計画は大成功じゃ。おかげで、馬鹿共が悶える愉快な姿が、こんなに間近で見られるのだからのぅ!」
「う、ああああぁぁぁぁぁぁ!」
イリスの周囲の地面が爆ぜる。
地面から溢れだした水が、彼女を包囲した。
最早一刻の猶予もない。軽口を叩く暇もなく、ラニーニャは地面を蹴って周囲の水と同時に彼女を攻撃する。
「ほう! フェイズⅡのエトランゼか? いや、既にその力の一部は次の段階に進んでおるな。……いや、そう言えば貴様には見覚えがあるな。人間共のために必死で戦った、魔人とか言う奴じゃったか」
「知ったことじゃ、ありませんよ!」
先端を尖らせた水が、一斉に殺到する。
全方位から襲い掛かるそれは、御使いが得意とするセレスティアルの同時攻撃と何ら変わりはない。光の壁すらも貫通する威力を持って、彼女を貫こうとしていた。
「凄まじい! 凄まじいぞ人間! その力は見事なものじゃ。もしこの世界に生まれておれたならば、その魂を昇華して御使いへとなれていたかも知れんの!」
イリスが大鎌を振るう。
そこに纏ったセレスティアルの光が、飛び散るようにしてラニーニャの放った水に交じり、濁らせてその勢いを殺していく。
「……じゃが、足りないのぉ!」
イリスの方が早い。
ラニーニャの剣が触れるより早く、肩口に鎌が食い込む。
そこから流れ込む毒々しい光は、人を蝕む最大級の毒素だ。
身体の中が焼ける、爛れる、そして腐る。
痛みだけでなく全身が不調を訴え、視界が揺らいで前すらも見えなくなっていく。
朦朧とする意識の中で、ラニーニャはもう立っていられなくなっていく。
「一思いに首を刎ねてやろう。これはわしの慈悲じゃぞ。ありがたく受け入れろ」
大鎌を振りかぶる。
刃の狙いは、ラニーニャの細い首。
「モニ!」
彼女が大仰な仕草でそれをする直前に、遠方から飛来した何かがそれを押し留めた。
半透明の何かが、イリスの握る鎌の柄に絡み付いている。放り投げられた勢いのままに、それは伸びてその先端を地面へと貼り付ける。
破壊された飛空艇の上。
金髪の少女が放り投げた、アルケミック・スライム。
強力な粘着性で、それはイリスを、その腕ごと地面へと固定する。
「……なんじゃ?」
両手を離して自由にするよりも早く、彼女はその砲身をイリスへと向けていた。
その周囲には大量のデュナミスと、倒れた兵士達。
周囲に護られながら、その機会を待ちわびていたようだった。
「きひっ……!」
イリスの顔が、笑いと共に引き攣る。
彼女の持つリニアライフルがその機関部に電気を走らせ、引き金を引くと同時に凄まじい反動と共に電磁加速した弾丸が発射された。
エレクトラムを加工して作られた杭のような巨大な弾丸は、先程と同じようにイリスのセレスティアルを溶かし、弾くように掻き消した。
「おらあああぁぁぁぁぁぁ!」
それに続いて、漆黒の槍が投擲された。
全身を使って放り投げられたオブシディアンの黒槍は、一直線にイリスの身体へと吸い込まれていく。
ドッと、嫌な音が響いた。
イリスの肉が裂け、突き刺さった腹から血が流れる。
だが、浅い。
角度も、勢いも足りない。その腹に風穴を開けたとしても彼女を倒すには至っていない。
その証拠に、イリスはすぐさま槍の柄を持ち、それを抜き払って地面へと放り投げてしまった。
モニの拘束を引き千切り、その視線はクラウディアへと向ける。
「おぬし、焦ったなぁ?」
厭らしく裂けた口で笑う。
赤い髪が揺れて、イリスの身体がラニーニャの傍から消えていた。
「クラウディアさん! 逃げて!」
血と共に声を吐きだすが、もう遅い。
幽玄のイリスはすぐに壊れた飛空艇の甲板に向かい、光を纏ったその掌をクラウディアへと伸ばしていた。
「このっ……!」
リニアライフルを振り回して抵抗するが、それは余りにも無力だった。
すぐさまセレスティアルによって腐食させられ、砲身から真っ二つに裂けて崩れていく。
「きひひひひひっ! 馬鹿な女じゃ! 貴様、勝機を見誤った! あのまま隠れて、機会を伺えば或いはわしを殺せていたかも知れん! じゃが、あのエトランゼが傷つけられるのを見てはおれんかった! だから、先走って全てを無駄にした! 周りの有象無象がデュナミス共に溶かされながら作ろうとしたその一瞬を放り投げてな!」
クラウディアはなおも抵抗しようとする。
懐に忍ばせた、オブシディアンの短剣を握り、振り上げた。
しかしそれは、すぐに見つかって手首を掴まれて制止させられる。
「手癖の悪い小娘じゃ。……仕置きが必要じゃの」
甲高いクラウディアの悲鳴が響く。
そんな声は、今までラニーニャも聞いたことがない。
彼女がそんな声をあげるなど、知らなかった。どれほどの苦痛が与えられているのだろうか。
イリスに掴まれた細い手首の色が変色する。
血の通った肌色から青く、そして次は紫色に。
やがてそこは黒く炭のように変わり、枯れ木のように細くなって手首から先が果実のように地面に落ちた。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その悲鳴は、痛みからだけではないだろう。
自らの身体の一部が落ちる。その事実だけでも恐ろしい恐怖と苦痛が、身体と精神に圧し掛かっているはずだった。
そしてイリスの仕掛けた悪辣な行動は、それだけには終わらない。
「ほれほれ、早く誰かこやつの腕を斬り落としてやれ。そうでないと手首から腐り始め、やがては身体まで溶けて消えてしまうぞ?」
クラウディアの身体を無造作に放り投げ、息絶えそうな兵士の前へと転がした。
「きひひひっ! ほれ! どうした? さっさと楽にしてやれ! だがまぁ、確かに。余計な苦しみを与えるならばいっそ一思いに殺してやった方がいいかも知れんのう。いや待てよ……」
一瞬、イリスは何かを考え込む。
それからすぐに、何かいい考えに思い至ったかのように掌を拳で打った。
「そうじゃ。忘れておったがわしも神の使いの一人。慈悲をくれてやろうじゃないか。この娘の両手両足を斬り落とした者は、こやつと二人で生かしておいてやろう。うむうむ、罪の意識を乗り越えて人の救える勇者には相応しい慈悲ではないか?」
言いながら、きょろきょろと辺りを見渡す。
既にデュナミスによって散々に崩壊させられた飛空艇には、もう動ける兵士の方が少ない。
その中で倒れた一人の兵士の傍に近付いて、兜を無理矢理に脱がせてその首を爪先で持ち上げる。
「お前なんかどうじゃ? その剣で、スパッとやってやればいい。そうすればおぬしと奴は生き残れるぞ? 後は四肢を失ったあれを持ち帰って好きにすればいい」
兵士は答えない。
それに焦れたイリスは、その顎を蹴り上げて、すぐに興味を失って、周りへと視線を這わせた。
「……なんじゃ。わしは魅力的な提案をしているのじゃがな。人の命を救えるのじゃぞ? なんで躊躇う必要がある? まあいい、即断もできぬ愚か者には似合いの末路じゃ」
もう既に飽きたのか、再び倒れたクラウディアへと近付いていく。
「周りのぼんくら共に呪詛を吐け。四肢の端と、眼球と、死なぬ場所から腐らせ、その悲鳴を楽しむとしよう」
▽
仰向けに倒れた身体が熱い。
その熱は自然のものではなく、自らの身体を内部から焼け爛れさせる神の毒だった。
身体も、内部も既に溶かされている。やはり、人の身で神に近しい者に逆らうのは愚かなことだったのだろうか。
遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。その声は本当は近くだったのかも知れないが、それすらも判らないほどに傷ついていた。
鎧は砕け、武器は折れた。
見上げれば、完膚なきまでに破壊された飛空艇の回転翼が煙を吹いている。
エトランゼの知識を借りて作った英知の結晶も、御使いに掛かればこんなにも脆く壊されてしまうものなのか。
改めて、自分達がどれだけの無謀を行おうとしていたかを知ってしまった。
「う、うぅ」
傍で呻き声が聞こえてくる。
それが、自らに付き従ってくれた男のものであるとすぐに気付けた。
「無事か、ラウレンツ」
そう、声を掛ける。
「一応は……。エーリヒ様は?」
「見ての通りだ。もうろくに身体も動かん」
また悲鳴が木霊した。
あの御使いは、ユルゲンスの少女をいたぶって楽しんでいる。周りの兵士達の心を揺さぶり、自分が楽しむためだけにその全てを消費しようとしている。
正直なところ、もう起き上がりたくはない。
エーリヒ・ヴィルヘルム・ホーガンは所詮ただの人間だ。その肉体も、精神も、武門の要であるヴィルヘルムの血を引いていたとしても、人の域を脱却することはできなかった。
後悔ばかりしている。
何故、すぐにヘルフリートに意見を言うことができなかったのか。
どうして、友であるディッカーに託されたものを何一つ叶えることができなかったのか。
そして今もまた、同じだ。
後悔ばかりが胸を過ぎる。自分がやってきたことが全て無駄だったと、その真実を突き付けられているような気分だった。
「でもま、いつまでも女の悲鳴を聞いて平気でいられるほど外道でもないんですよね」
木の甲板に固い音が響く。
穂先をオブシディアンに改装した愛用の槍を杖にして、ラウレンツが立ち上がろうとしていた。
彼の身体が動くたび、血が流れる。焼け爛れた肉が削げて、甲板に落ちて粘着質な音を立てた。
「死ぬ気か?」
「さて、どうですかね。……我ながらここ一年ぐらい修羅場をくぐり過ぎてね。果たしてこれまで生きてこれたから、今回も大丈夫なのか。それとも今回こそ駄目なのか」
幽玄のイリスはこちらに気付いていない。
それでも、ラウレンツの身体はもう既にぼろぼろだった。これでは相手の後ろ側に回ったところで、一太刀も浴びせることはできないだろう。
「やってみましょうや。何の活躍もせず死んだら、女房と子供に悪い。せめて一矢報いて、格好いい父親でいたいもんですからね」
歩き出そうとしたラウレンツは、しかしすぐに足を縺れさせてうつ伏せに倒れてしまう。
「ああ、くそっ! ……動けよ、俺の身体!」
甲板を拳で叩き、手を伸ばして落としてしまった槍に手を伸ばす。
それより先に、エーリヒは立ち上がって代わりにそれを拾い上げていた。
「エーリヒ様……?」
「お前はそこにいろ、ラウレンツ」
「素直に休んでてくださいよ。そっちだって、俺以上にぼろぼろじゃないですか。若い奴等を咄嗟に庇った所為で……」
周囲に倒れている多くの兵達は、まだ息がある者が大半だった。もっともすぐに治療しなければ時間の問題だが、それらはエーリヒが庇ったことによるものだ。
それが正しかったかどうかは判らない。この場の戦況を見れば、戦力として大きなエーリヒが無事に動けた方がよかったのは間違いがない。
だが、そこには大勢の若者がいる。この国の未来を担う魔導師達もいる。
誤った道を進み、国を混乱に陥れた片棒を担いだエーリヒが、彼等を差し置いて助かることなどはできなかった。
そして今も。
「俺は奴とは違う」
「……は?」
「誰にも知られない英雄になんてならん。俺はヴィルヘルムだ。その名誉と誇りを、この国に刻む者だ」
手に取った槍が重い。
いつもの大槍に比べれば明らかに軽いそれを支えるだけの力も、ろくに残っていなかった。
だが、まだだ。
まだ全てがなくなってしまったわけじゃない。燃え尽きたわけではない。
「お前と、若い奴等で語り継げ。俺の戦いを、オルタリアに高らかに響く、ヴィルヘルムの名を」
「エーリヒ様……まさか!」
「ラウレンツ、息子を頼んだ。あれはまだ未熟だが、鍛えてやってくれ。俺とお前がそうだったように」
ラウレンツが何かを言っているが、それきり何も耳には入らない。
既に前すらも危ういその状況で、思い起こされるのは幾つかの記憶。
まだ若かったラウレンツに稽古を付けてやった日々があった。今度は、彼が同じ立場にあってくれることを望む。
――そして。
「そうだな、ディッカー」
まだ若輩だったころ。世の中の仕組みも理解できず、理想に燃えていた恥ずかしくもある幼き日々のことだ。
共に語りあった。この国をどうしていきたいか。そのために自分達ができることは何かと。
「俺達の理想は何一つ叶えられることはなかった」
権力闘争を知り、勇気や志だけでは何も解決できないことを知ってしまった。
そしてエトランゼが現れて、彼等に対する恐怖から目を背けた。本来ならば元の世界に還ることのできない放浪者たる彼等こそ、この国の民として包み込んでやらなければならなかったのに。
結果として生まれた歪みで、多くの人が死んで、不幸が生まれた。
無論、それはエーリヒだけの罪ではない。だが、本来ならば大勢に分け与えられるその罪を、少しでも軽くできると言うのなら。
死者が至るその地に、持って行ってやることができるのならば、それこそが最後の役割となるだろう。
「俺達はもう若くない。理想に燃えて、今からこの国を変えることなんてできはしない」
それをやるのは、別の者達だからだ。
若く、活力に溢れ、人を思いやれる誰かがやればいい。
だからこそ、ディッカーはあの時そう選択した。
自分ではなく、彼が信じた誰かにそれを託したのだ。
「ならば、せめて礎となろう」
足に力を込める。
身体の中で、毒素が渦を巻いた。体内の内臓を溶かして口から吐き出させるかのように、ぐるぐると流転する。
「う、おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
目から、鼻から、口から。
あらゆる場所から血が溢れだす。それはどす黒く濁り、最早エーリヒが助からないことを告げている。
だからこそ、駆ける。
もう後ろを振り返る必要はない。
友がそうであったように、やるべきことは全て終えた。
後は、今だけだ。
今この瞬間、その命を高らかに燃やし尽くそう。その篝火が、また新たなる道を切り拓く灯にならんことを祈りながら。
「……何をくだらんことをやっている、人間?」
光が舞う。
空間が歪み、目の前に現れたのは大きく手を広げるデュナミスだった。
一瞥もくれず、イリスはそれを召喚してエーリヒに止めを刺すつもりだった。
「わしは今、こっちの玩具で遊ぶのに忙しい。遊具にもならんゴミは、そこで死んでいろ」
デュナミスが貫手でその腹を貫く。
本来ならば、止めとなる一撃だった。
物理的な肉体の破壊。それに耐えられるほどの力は、もうエーリヒには残っていない。
誰もが、そう思っていた。
それを後ろで見ていたラウレンツも、デュナミスをけしかけたイリスも。
だが、一人だけが違う。
「邪魔をするな……! 俺はぁ!」
斬り払う。
弾けたデュナミスの毒が身体を焼いても、そんなことは最早気にもならない。
もう既にこの命は捨てている。今更四肢が欠けたところで、内臓が溶けたところで知ったことではない。
そしてイリスは、人を見下す御使いはもう既に彼を殺したと思っていた。
だから、気に入った玩具で更に遊ぼうと、既にエーリヒのことを意識の外側に置き去りにしていた。
だからこそ、半死人がそんな速度で近付いてこれるとは思ってもみなかったのだ。
首を巡らせたイリスの顔が、恐怖に引き攣る。
「きひっ」
それも一瞬のこと。
御使いは、人を超えたもの。
例え全ての命を燃やし尽くしたところで、ただの人間がそこに至ることなどありはしない。
だからこそ、神の使徒なのだ。
彼等が長年に渡って信仰してきたエイスナハルの御使いは、その程度では破れない。
鎌が、その肉を貫く。
そこから流し込まれた毒素が、全ての神経を破壊する。
「ぬおおおおおあああああぁぁぁぁぁぁ!」
止まらない。
エーリヒは両手で掴んだ槍を掲げ、それを真っ直ぐにイリスへと突き立てる。
無論、それは彼女の広げたセレスティアルの壁によって遮断されて、届くことはない。
「馬鹿な男じゃ。そのままにしていれば楽に死ねたものを。そうまでしてお前が生み出せた時間は、ほんの刹那。それに何の価値がある?」
イリスはそう言った。
エーリヒが命を賭けて生み出したのは、刹那に等しい時でしかないと。
永遠の命を持つ御使いには、その価値が判らなかった。
エーリヒがそうであるように、そのたった一瞬に、全てを燃やし尽くしても構わないと思う者達がいることを。
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