第十一節 彼女等の出会い
それはまるで、世界が終わる前の静寂だと、そう思えた。
イシュトナル要塞の屋上から眺めるアルゴータ渓谷には戦いの跡が深く刻まれ、今もなお野晒しの死体が幾つも転がっている。
その景色を、エレオノーラは真っ直ぐに見つめていた。
地獄とも思えるその世界を心に刻んでいる。例え御使いから始まったこととは言え、それらを引き起こしてしまったのは間違いなく王族の至らなさだ。
前線の兵士達、虐げられる民達に比べて肉体の痛みはない。だからこそ、自分達ができなかったこと、それによって生まれた苦痛を少しでも受け取りたかった。
勿論、それすらも驕りであることは理解している。エレオノーラがどれだけ声を上げたところで、実際に踏み躙られた者達の痛みには決して届くことはないだろう。
眼下では、夜の闇の中に焚かれた篝火の傍を、多くの兵士達が行き交っている。
オルタリアの兵達は、明日にはこの地を立ち、ゲオルクに率いられた本隊が、王子であるベルセルラーデと共にオーゼムへと侵攻を開始する。
あの怪物達がいつまた襲い掛かってくるかも判らない。次に御使いが動く前に喉元を抑えるため、迅速に作戦を決行する必要があった。
エレオノーラの傍に付いているサアヤも、今夜ばかりはそこにはいない。彼女もまた、傷ついた兵達を癒すために疲れた身体に鞭を討って働き続けている。
こんな時に、エレオノーラは自分の無力さを痛感する。
カナタ達のように戦えなくてもいい。せめてサアヤのように人を癒すことでもできれば、こんな感情を抱くことなどないだろうに。
贅沢な悩みだと判っていても、なまじ傍で彼等の戦いを見続けていたばかりに、そう思わざるを得なかった。
「エレオノーラ様」
背後で聞きなれた声がする。
振り返れば、エレオノーラよりも幾分か小柄な体躯の少女が、星明りの下に立っていた。
上気した頬は恐らく階段を一気に上がってきたからだろう。とは言えその表情は決して焦っているわけではなさそうだった。
「カナタ、どうした?」
「サアヤさんから伝言で、そろそろ冷えるから中に入りましょうって」
「……そうか」
思わず苦笑してしまう。
今夜は寝ずの作業を強いられる彼女が、そうやって他人の心配ばかりをしてしまうことに。
「サアヤの様子はどうだった? 無茶をしてなければいいが」
「無理はしないでって言おうとしたら、それはこっちの台詞だって怒られちゃいました」
「それは確かにな。トゥラベカとの戦いは熾烈だったのだろう?」
カナタは小さく頷く。
話に聞けば、結果的に敗北したもののトゥラベカ相手に凄まじい立ち回りをして食い下がったのだそうな。
それだけの事をしてもなお、カナタに驕った様子はない。
「そなたはには無理をさせるな」
彼女も明日、この地を立つ。
オーゼムに行き、ヨハン達と合流して全てに決着と付けるつもりのようだった。
「多分、これが最後ですから」
そう言って、カナタはエレオノーラの隣に並んだ。
爪先立ちになって、頭一つ分低い身長を伸ばす。
そうしてようやく、エレオノーラと同じ視線でカナタはアルゴータ渓谷を眺めていた。
「ずっと背伸びしてきたのも、もう終わる。でもそれは、疲れて倒れちゃうんじゃ駄目なんです。ボクが自分の意志でやるだけやって、もう大丈夫ってところで終わりたいんです」
「……背伸び……か」
考えて見ればそれは当たり前のことだ。
何もカナタだけに限った話ではなく、この世界に来たエトランゼは誰もが変化を強要される。彼等が生きてきた穏やかな世界とは違う厳しさを身に付けなければ生きていくことはできない。
多くの人が変わっていく。それはこの世界で生きていく上では必要で、必ずしも悪いことではないのだろう。
きっと、彼女は変わらなかった。
人を殺めることをよしよせず、奪うことを否定して、世界が汚いもので満ちていることを理解しながらも、自分だけはただ前を向く。
必死で手を伸ばして、前にだけ歩み続けた結果が、今のカナタなのだろう。
その姿は高潔で眩く、しかし何処か脆くすぐに崩れそうな危うさを秘めている。
もし、聖者と言う者があるのならば、彼女のような人間なのではないだろうか。エレオノーラにはそうとすら思えた。
そして、その光を見て口にしようとしてしまった弱音を、咄嗟のところで抑え込む。
力がないことに対する嘆きは、散々に喚いた後だ。サアヤに平手打ちをされてなお、同じ過ちを繰り返すところだった。
その代わりに、カナタの肩に手を掛ける。
「そなたとしては複雑な気持ちになるのかも知れないが、言っておきたいことがある」
カナタが首を傾げる。
「この世界に来てくれてありがとう」
ひょっとしたらこの言葉は、カナタの気分を害することになるかも知れない。
こんな場所になんか来ずに、元の世界で生涯を過ごすことがカナタにとっての一番の幸せであることなど、考えるべくもないことだ。
それでも、エレオノーラは言ってしまった。
弱い王女に力を貸してくれて、いつでも希望を与えてくれた彼女に対して、感謝の言葉を述べたかった。
「――最初にこの世界に来た時に、泣いちゃったんです」
「……泣いた?」
「怖い思いもしたし、そこをヨハンさんに助けられて安心したのもあったし、色々な感情がごちゃ混ぜになって。でも」
カナタの顔が上を向く。
エレオノーラもそれに合わせて空を見ると、落ちてくるような星々の煌めきが、夜空に浮かんでいる。
「こうやって見上げた星空が、凄く綺麗だったから。泣きたくなるほどに綺麗な景色って、こういうのを言うんだって判って」
天から降り注ぐその光は、声を失うほどに荘厳だった。
音がなくとも圧倒されて声を失い、例え触れられなくても、手を伸ばせばその輝きが手の中で淡く光を放つ。
子供の頃から何度も当たり前のように見えてきたその空は、今日ばかりはまた新鮮な輝きを放っているように思えた。
「この世界は優しくなくて、辛いこととか、悲しくなることばっかりだったけど、エレオノーラ様と会って、そう言う人ばっかりじゃないって知ることができました。ボク達のことを考えてくれてる人がいるってだけで、安心できたんです」
エレオノーラがカナタに命を救われて、そこから希望へと繋がれたように、カナタもまたエレオノーラと出会ったことでこの世界で生きていく勇気を貰っていた。
「エレオノーラ様が変えてくれたこの世界で、ボク達は生きていきます。だから、ボクからもありがとうって、言いたい」
「……カナタ!」
感情が溢れる。
英雄と呼ばれる彼女の口から聞けたその言葉は、戦場に立てないことに負い目を感じるエレオノーラを救うには充分なほどだった。
衝動的に小さなその身体を抱きしめて、胸の中にしまい込む。
カナタは最初こそ驚いていたが、すぐに力を抜いてされるがままにしていた。
想像よりも遥かに小さな身体。
細い肩は、普段の溌剌さからは想像できないほどに儚く感じられる。
「全てを終えて、オルタリアに帰ってこい。妾は、そなた達と共に歩める国を創りたい。エトランゼの一人として、それを見届けてくれ」
「……頑張ります。ヨハンさんと一緒に」
夜が更け、次に太陽が昇ればこの場所からは大勢の人が旅立っていく。
それは神の使いへと牙を剥く、生きて帰れるかも判らない死地への旅。
エレオノーラにできることは数少ない。ならばせめて、祈りを捧げて声を届けよう。
もし全てが終わって、道に迷った彼等が無事にこの地へと還り付くように。
▽
大勢の足音が響き渡り、あちこちから怒声にも似た大声が聞こえてくる。
石造りの建物の中、小さなランプに照らされたベッドが並ぶその部屋は一つの戦場と呼んでも過言ではなかった。
「重傷者はこっちにお願いします! それから、あっちには包帯と消毒薬を!」
指示を飛ばしながら、自らの手はすぐ傍にある簡素な造りのベッドに横たわった怪我人の患部へと翳されている。
そこから放たれる新緑色の光が、今も血が流れる場所を包みこみ、再生させていく。
痛みに苦しんでいたその男の表情から苦悶が消えて、穏やかなものへと変わっていく。
「痛みが消えた……?」
「もう立ち上がれるはずですけど、無理はしないように。あっちで休んでいてください」
指を刺された場所に、その男は起き上がって歩いていく。
部屋を出る前に、彼は振り返ってサアヤの顔を見た。
「助かったよ。あの怪物にやられて、死んだと思ったから。……これで家族の下に帰れる」
にこやかな笑顔だけを見せて、その姿を見送る。
限界を超えた身体にどっと浮かんできた汗を、傍に置いてある水に浸した布で乱暴に拭う。万が一にでも、汗が患部に入ったら大変なことになることを考慮していた。
「次の人をお願いします!」
首と腹に重傷を負った兵士が運ばれていくる。
内臓が一部見えているほどの怪我にサアヤは一瞬顔を背けそうになるが、自分の役割を果たすために心の中で喝を入れて、シーツを取り換えたベッドに横たわらせる。
医療の知識を持った衛星兵達とは別に、ギフトや魔法による治療ができる者達もまた総動員されて、各所に散って怪我人へと処置を行っている。
そのどちらも寝ずの作業になっており、特に明日以降はイシュトナルに残ることが確定しているサアヤは、疲れた身体に鞭を打ってほぼ一日中休まずに働いていた。
「サアヤさん。そちらの患者が終わったら少し休んだ方が……」
「大丈夫です。それより貴方こそ、明日のことを考えて早めに休んでください」
サアヤの仕事は、今日までで終わる。明日以降も治療を続ける必要があるかも知れないが、今ほどの人数は必要なくなるだろう。何せ、今日ばかりは重傷者の処置に加えて、怪我人を治して戦線復帰させることも必要だからだ。
苦痛を受けた者を再び癒して戦場に送ると言う行為には多少の罪悪感を覚えるが、今はそんなことを言っていられる場合ではない。
軍属である衛生兵は、明日になればゲオルク率いるオーゼムの攻略軍に同行することになる。その際に体力が尽きてしまっていていはどうしようもないので、適度に休ませる必要もあった。
ギフトによって怪我を治療すると、青くなっていた顔に血色が戻り、痛みから失神しそうなその兵士の意識もはっきりしてきたようだった。
「おれは、明日も戦えるのか? ゲオルク様達のお役に立てるのか?」
「それは無理です。貴方が今やるべきことは、身体を休めて自分の命を大切にすることですから」
「……そうか。くそっ!」
動くようになった腕で、男がベッドを叩くと、即座にサアヤはそれを抑えつけた。
「暴れちゃ駄目です! まだ完全に傷も塞がっていませんから!」
事実、男の身体には全く力が入っておらず、サアヤの細腕でも片手で抑えきれるぐらいだった。
片方の手でそうしながら、小さな傷を治療していく。
そのギフトを受ける際の光の温かさに触れたからなのか、男は仰向けになったまま涙を流して声を上げた。
「仲間が死んだんだ。あの怪物に殺された。ずっと付き合いのある、いい奴だったのに!」
サアヤは何も答えない。多分、これは気休めの言葉を期待しているわけではないのだろう。
この男は死ぬつもりだったのだ。そうなってしまうのだと、薄れゆく意識の中で覚悟していたはずだった。
しかし、今助かってしまった。だからこそ、仲間を見捨てたような罪悪感に一時的に囚われているだけだ。
「……すまない。あんたに言うことじゃなかったな」
「大丈夫です。……嘘に聞こえるかも知れないけど、気持ちは判りますから」
これだけ便利な力を持っていても、助けられなかった命は幾つもある。
そこに優劣を付けるつもりはないが、一番心に残っているのはやはり、英雄と呼ばれたエトランゼの彼女のことだった。
残された者の悲しみを味わいたくない、誰にも味わってほしくはない。
サアヤ一人でそれをすべて取り除くことはできないと判っているからこそ、今は無理をする。自分の全霊を賭して、できることをやってやろう。
そう決意した。今もなお、そしてこれから戦って血を流す多くの人に報いるためのサアヤの方法がそれだった。
「さ、治療は終わりました。しばらくは安静にしていてください」
「判った。あんたに救われた命、大事にするよ」
若干足取りは怪しいながらも、男は自分の足だけで歩いて部屋から出ていく。先程まで死にかけていたとは思えないほどに、彼の身体は回復していた。
「次の人を……!」
言いながら、シーツを取り換えるために立ち上がろうとすると、その身体がふらつく。
水の入った桶をひっくり返しながら傍のベッドに手を突いて身体を支えると、丁度部屋に入ってきた一人の少年と目が合う。
「トウヤ君?」
「……やっぱり、俺は後でいいよ」
そう言って、トウヤが部屋から出て行こうとする。
「駄目です! そこに座って!」
それを大声で一喝し、引き留めた。
トウヤもそれを無視することはできなかったのか、サアヤが指定した椅子に座って患部を曝け出す。
腕と足に怪我。命に関わるほどではないが、放っていては大事に触る危険性がある。
「俺は別に、対して痛みもないし、普通の治療でよかったんだけど」
言い訳がましくそんなことを言った。
「他の隊の奴等がちゃんと治してもらえって。……ラウレンツのオッサンにも言われたから、無視もできなくてさ。俺が子供だからって……」
「それは違うよ」
安心させるように、柔らかな声で返答する。
サアヤの手に宿った光は、トウヤの傷を瞬く間に治していっていた。
「トウヤ君に期待してるからだよ。明日はオーゼムに行くんでしょ?」
「それはそうだけど……。サアヤさんだって大変なのに、何も俺だけ」
「わたしも、トウヤ君には頑張ってほしい。戦場に行く人にこんなことを言うのは無責任かも知れないけど」
「でも、サアヤさんだって無理してるのに!」
「今無理をしないで、いつ無理をするの? これから先世界がどうなるか判らないけど、みんなで今を乗り越えて前に進んで行きたい。だから、わたしはわたしができることを精一杯やるって、そう決めたの」
有無を言わせず、椅子に座ったトウヤの患部に癒しの光を当てていく。
ギフトによって体力が消耗され、座ったままでも意識が朦朧としてくる。
それでもどうにか目を開いて意識を強く保ちながら、その傷が完治するまでの間力を使い続けた。
「わたし達はこの世界に来て、色々なものを見て、知って、変わった。もうあの日の自分とは違って、家族や友達の知らないところで成長していった」
まるで譫言のような言葉は、トウヤに向けたものではなかったのかも知れない。
どうにか自分を保つために、自分に言い聞かせるための言葉だ。
それでも少年は、静かにそれを聞きながら頷いてくれていた。
「自分がやるべきことを見つけて、その足で前に進んで、その先にある何かを護る力はわたしにはないから」
救うことができても、護れはしない。
ないものねだりだと判っていながら、その気持ちが止まることはない。それはサアヤの中で向上心や、より多くの人を想う心に繋がるものだから。
そしてだからこそ、エレオノーラの気持ちもよく判った。護れないことが悔しくて涙したことは一度や二度ではない。
「トウヤ君にはそれがある。わたしも君も、この世界に来たばっかりの、弱くて周りを憎んでただけの自分じゃない」
この世界の来たばかりの頃は、悲劇しかなかった。少なくとも誰の目にもそう見えていただろう。
明日なんて見えなかった。その日を生きるのに精一杯で、一年後は愚か一か月後の自分が何をしているかなんて想像もできない日々。
でも、今は違う。
辛い日々は終わった。勿論、今でも悲劇は幾らでもあるし、それに対して心を痛めることだってあるが。
それでも、世の中が変わって、何よりもそれに合わせた自分が変化した。
そうして見えた未来の一片を、サアヤは失いたくはない。
「みんなの未来を護ってあげて」
それは余りにも身勝手な願いだった。
力なきものが力を持つ者に託す、いつの時代にでも行われてきたありがちな祈り。
それを背負った者は大抵、その言葉のために自分を殺して最後には破滅してしまう。
でも、今ばかりはそれを言葉にしたかった。
サアヤの願いを持って行ってくれる人が欲しかったから。
「……俺は弱くて、それはできないかも知れない」
「これは一人で背負うものじゃないよ。同じように、わたしだけの気持ちでもない。大勢の人の願いを、できればみんなで分け合って、叶えてほしい。戦えないわたしの一方的な言葉だけど」
「……いや、うん。判った」
頷いて、トウヤは立ち上がる。
サアヤもそれに合わせて椅子から腰を上げて、彼の背に掌を優しく触れた。
「あいつにも伝えとく」
「お願いね」
その一言だけで全ては伝わった。
サアヤの掌に優しく押し出されるように、トウヤは部屋の外へと出ていった。
彼等が戦いの望むのは、他ならぬ本人達の意思だ。サアヤの言葉でそれを止めることはできない。
ならばそんな人達の背中に想いを託すのは、無力な者の我が儘なのだろうか。
その答えはサアヤには判らない。ただ、多くの人々と同じように、自分の心に従っただけのことだ。
身体が揺れる。
もう視界も定まらず、傍にある椅子に手を触れて、そのままサアヤは意識を失って崩れ落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます