第六節 光の剣と、誇りの槍
バルハレイアとの戦いが始まったと聞いた時、この日が来るのだと小さな予感があった。
カナタにとってそれは嫌な予感であり、また僅かな高揚をもたらすものでもあった。
カナタは戦いを好まない。
ヴェスターほど極端ではないにせよ、ラニーニャやクラウディア、アーデルハイトですらも、技術の進歩を初めとした戦いがもたらすものに対して全く好意を抱いていないと言えば、それは嘘になる。
カナタの感じているそれは、間違いなくそれよりも小さい。自分が強くなったことに喜びを感じたとしても、それはより多くの人を護れるようになったからであって、その技術自体を誇ることなどはなかった。
最初から、戦いと言うものがなければ必要なかったものだ。もし、この世界に恒久の平和が来たとすれば、カナタはセレスティアルすらも喜んで棄てるだろう。
勿論、それは絶対にありえない。人間が人間である限り、争い事とは切って離すことはできないのだから。
とにかく、そんなカナタですらも唯一の例外がある。
戦いの熱気が渦を巻き、兵士達が地面を踏み鳴らす衝撃が小石や砂を大地の上で踊らせる。
上空では飛空艇とデュナミスが決死の攻防を繰り広げ、遠くを見ればカナタの親友である魔人と御使いが次元の違う戦いを繰り広げている。
それだけのことが行われている混沌とした戦場で、一ヵ所だけまるで雰囲気が違う場所があった。
それがここ。カナタが立っている、戦場の外れ。
アルゴータ渓谷の峡谷部分に差し掛かった一点だけは、静寂が辺りを包んでいる。
周辺まで進軍してきたオルタリアの兵士達は皆その槍によって打ち倒され、彼女が連れているバルハレイアの兵士達もまた、そのただならぬ雰囲気に圧倒されている。
女は笑っていた。
狂気でも狂乱でもない、戦場の空気からは全く想像もできないような穏やかな顔で。
それはまるで、母親が我が子の成長を喜ぶような笑み。
真横に伸ばした腕に握られた槍で、兵達の動きを制しながら、その視線は真っ直ぐにカナタに向けられている。
「一つだけ、私には罪があります」
褐色の肌に禿頭。鎧を身に纏い、手には槍。
バルハレイアの王子であるベルセルラーデの近衛にして、彼の国の最強の戦士の一人であるトゥラベカはそう口にする。
「この戦いは御使いに操られた、忌むべき決戦。ベル様は友人であるゲオルク様との戦いに心を痛め、それに臨んでいる」
後ろの兵士が何かを言おうと口を開く。
トゥラベカはそれに先んじて、更に言葉を続けた。
「確かに、バルハレイアの祖先はオルタリアを求めた。その緑の大地を望み、戦争を仕掛けたこともあった。ですが、それが何の義となるでしょう? はっきりと宣言して、そんなものは単なる妄執。切って捨てる程度の言葉に過ぎません」
それは、本来ならばありえないことだ。
国のために尽くすべき王族の忠臣たる彼女が、そんなことを口にしてしまうなど。
その証拠に、背後にいる兵達には動揺が走っている。
中にはトゥラベカの言葉を咎めようとする声もあったが、彼女はそのどれも意に介していない。
「ですが、私は喜びを覚えてしまった。もし、オルタリアとの戦いになれば、巡り合えるのではないかと。心を震わせ、この血を滾らせるほどの強敵に!」
「……トゥラベカさん……」
「そして最初に私の前に立つのは貴方ですか、カナタ。心の何処かでそんな予感がしていましたが」
「ボクは、トゥラベカさんと戦いに来たよ。ひょっとしたら、がっかりしたかも知れないけど」
「いいえ。全くの不足はない。私が軽く基礎を教えた貴方は確かに弱かった。ですが、護るもののために命を削り、そうして幾つもの強敵を打ち倒してきた貴方は強い。今、自らの心に従って私の前に立つ意志を持っているのですから!」
不謹慎かも知れないが、それを聞いたカナタの中に生まれた感情は喜びだった。
自分助けて、成長させてくれた人が認めてくれている。
その事実が嬉しくて、また同時にそんな彼女と戦わなければならないことに心が痛む。
しかし、カナタとてもう何も知らないわけではない。
今この世界に起こっていること、そしてその中で自分がやるべきこと。
何よりも誰もが自分の意思を持って戦っていることを知っている。
彼女は戦士だ。戦士、トゥラベカだ。
今更やめてと泣き叫んで止まってくれるわけがない。カナタとは全く違う世界を生きてきた女傑なのだから。
それはよく判っている。カナタの中にいるもう一人の尊敬すべき女性、今は亡き大海賊がそうであったように。
「貴方達は前線に。彼女は私が相手をします」
「ト、トゥラベカ様! 今はバルハレイアの一大事! 矜持を護っている余裕など……!」
「違います。彼女の相手に貴方達では足手まといだから下がれと言っているのです」
その一喝は、兵士達を問答無用で黙らせる。
彼女のの物言いには遠慮がない。簡潔に、事実だけを述べる。
それが許されるのは、そこに強さがあるから。
心も、技も、肉体も限界を極めた強さを持つ彼女だからこそ、誰もそこに異論を挟むことができない。
兵士達はそれ以上は何も言えずに下がって行く。
戦場の外れで、奇妙な空間が生まれた。
たった二人が向かいあっているだけなのに、そこにある熱量はその他の全ての戦いに匹敵するほどに大きい。
「始まりの合図は必要ですか?」
首を横に振る。
セレスティアルの剣を構え、カナタはトゥラベカを正眼に見ている。
「そうですか。……ですが」
目の前から、それが消えた。
身体を動かすほどの時間はない。視線だけで彼女を追うが、それを捕まえるよりも次に声が聞こえてくる方が早い。
「右に避けなさい」
反射的にセレスティアルの障壁を展開。
愚かにも言われるままに、カナタ自身は右に向かって飛んでいた。
風を切る音が聞こえる。
硝子が砕けるのを鈍くしたような音が響き、カナタが展開したセレスティアルの壁に穴が開いて、そこに突き込まれた槍の先端部分だけが辛うじて見えた。
その位置は、カナタの頭があった場所。
言葉通りに右に飛ばなければ、今の一撃で頭蓋を破壊されていたことだろう。
随分と時間が遅く流れているような気がして、ようやくカナタの身体が肩から地面に転がる。
そのまま勢いを付けて立ち上がり、先程まで自分が立っていた場所を見る。
槍を突き刺した姿勢のままそこに、トゥラベカがいた。
「寝惚けているようですね。朝が弱いのは相変わらずのようですか」
軽く、そう言ってみせる。
それを聞いて、いや。
その強さを身体に感じて、カナタはようやく理解した。
今の一撃で彼女は確実にカナタを殺せたが、それをしなかった。
別にそれはトゥラベカの優しさと言う訳ではない。油断している相手を殺すことが、彼女の戦士としての矜持に反しただけのこと。
冷や汗が垂れる。
カナタとて余所見をしていたつもりなどはない。トゥラベカを見据えて、彼女の一挙一動に注目していたはずだった。
集中しろ、どころの話ではない。
生き延びたければ、彼女に勝ちたければ常に未来を読むほどに思考を続けなければならない。
その中で最善だけを掴み続け、ようやく打ち合える相手だ。
無数の奇跡がなければ決して勝ち得ない相手。
改めて、目の前に立ちはだかる壁の強大さに震えがくる。
だが、退くわけには行かない。
これもカナタ自身が決めたことだ。
アリスと戦った時のように、自分の力で、成長した自分自身をトゥラベカに見せつけて、そして勝利する。
そうでなければ、きっと後悔する。
懐の内で、イアが熱を持つ。
カナタは安心させるように、そこに軽く手を触れる。
まだ、負けていない。
心も折れていない。
トゥラベカの姿が歪む。
また、一瞬でその場から消えた。
右か、左か、それを判断するだけの材料は余りにも少ない。
セレスティアルを壁のように広げて、彼女の攻撃に備える。
「その程度の障壁を貫けないとでも」
先程と同じだ。
トゥラベカの槍は、強固な光の壁すらも容易く打ち貫く。
それでも、そこに一瞬の時間があった。
セレスティアルの壁を槍の穂先が貫く瞬間。時間にして一秒にも満たない間。
素通しよりは遥かにマシ程度のその時間で、カナタは槍が飛んでくる方向を見定めてそれとは逆の方向に全身を捻る。
両手を下段に構える。
空を切る槍。
手の中に広げるのは光の剣。
下から上へと斬り上げる前に、カナタの肩に衝撃が走る。
懐に飛び込まれたトゥラベカは、槍を戻す前に下半身だけを動かして、カナタを迎撃するために蹴りを放った。
それを受けて、カナタの身体が高く打ち上げられる。
石の地面に叩きつけられて、全身を擦るように転がってようやくその身体が止まった。
痛みにもがいている時間もない。
目の前に鈍色の刃が輝いている。
突き出された一撃を顔を振って避けて、全身のバネを使って起き上がる。
彼女が槍を戻す前に剣で斬りかかるが、それは槍の穂先に弾かれてしまう。
直撃の瞬間に極光の剣を解いて、衝撃を受け流す。
自分の体制だけを整えて、再び剣を生み出すが、カナタが踏み込む前にまるで棘の壁でも目の前にあるかのような槍衾が、カナタに襲い掛かる。
力を込めた一撃ではなく、手数による攻撃。
そのため一発で武器が弾かれるようなことはないが、槍の長さを生かしたその壁は、カナタが自分の間合いに入ることができない。
「すぐに盾に逃げなかった判断は見事です」
そんなことをすれば、またあの一撃で今度こそやられている。
彼女から学んだことの一つに、セレスティアルを無駄に多用しないことがあった。
避けられる攻撃は避けて、受けられる攻撃は剣で弾く。
そうでなければ無駄な動作は隙を生み、幾ら強固な防壁を持っていようと相手に付け入られる。
並の相手ならばそれでも問題はないが、同じセレスティアルを操る御使いや、彼女のようにその障壁を撃ち抜ける相手には致命的となる。
だから、足を使って避ける。
腕を使って受け流す。
幸いに、カナタがトゥラベカに勝っていることが一つだけ。
武器の強度や性能ならば、極光によって変幻自在に生み出されるカナタの方が彼女の持つ槍よりも遥かに上だ。
撓る槍の一撃が迫る。
目が慣れてきたとでも言えばいいのだろうか、最初は全く見えなかったその攻撃も、どうにか反応できる程度にはなっていた。
それを、剣で真横に弾く。
そこでできる時間は、きっとカナタがこれまで生きていた中で最も短いチャンスだ。
「加速……!」
セレスティアルの翼では空を飛ぶことはできないが、背後に力を噴出することで一瞬だけ高く飛び上がることができる。
その要領で、その運動エネルギーを前進に使う。
加速したカナタの身体は、トゥラベカが槍を引くよりも早い速度でその目の前に迫った。
「ほう」
突き出された槍がくるりと回転する。
「いっ……!」
頭上から降りてくる柄の部分が、カナタの肩に当たって鈍い音を立てた。
前進の勢いは完全に殺され、無防備な身体を至近距離で晒す。
防御に回っても間に合わない。避けても避けきれるものじゃない。
カナタが選んだのは、痛みを封じ込めて無理矢理に前に進むことだった。
左手に極光の剣を生み出す。
それは、普段使っているものよりも遥かに小さい、短剣と呼んでも差し支えない程度の大きさのものだ。
それを、下から上に放るように、トゥラベカに向けて投擲した。
無暗に力を使わないが、それとはまた別に教えられたこともなる。
セレスティアルはカナタにとって唯一無二の武器。使うならば、決して惜しんではならない。
ラニーニャも同じように水を武器化して投擲することがあった。彼女は自身で生み出せないとはいえ、二人のギフトは同じような挙動をする。
彼女ほどに芸達者な使い方はできないが、カナタにもこのぐらいはできると言うことだ。
横薙ぎに、槍がそれを払う。
すぐ傍でカナタとトゥラベカはお互いの顔を睨みあった。
「近づけただけで勝ったつもりでしょうか?」
「……ううん、全然!」
アルスノヴァと戦った時とは違う。
彼女は接近戦は苦手だったが、トゥラベカはそうではない。その鍛え上げられた肉体は、全身が武器と言っても過言ではない。
振り上げられた脚を、セレスティアルの盾が受け止める。
この間合で彼女の攻撃を避けることはできない。可能な限り防ぎ、全力を叩き込むだけ。
引き戻された槍の穂先がカナタに向けられるよりも早く、極光の剣が閃いた。
身体の中心を狙った一太刀を、トゥラベカは身を逸らして避ける。
確かに、彼女は回避行動に出た。
そのまま反撃には移れず、主導権はカナタに移ったまま。
だが、当たらない。
どれだけ剣を振るっても、紙一重で避け続けるトゥラベカの身体を捉えることができない。
そして、カナタは彼女ほどの達人ではない。そうやって剣を振るえば、やがて隙ができる。
それを見逃してくれるほど、甘い相手でもなかった。
斜め上から叩きつけられる槍が、カナタの身体を掠める。
赤い血が舞って、痛みに顔を顰めた。
緩んだ攻撃の合間を縫って、トゥラベカは反撃に出る。
身体の半身を下げたまま、片手に握った槍で次々と放たれる突き。
下半身を狙ったそれを逆に踏みつけるように、カナタは空へと舞い上がる。
「これで……!」
「まだまだ!」
上空から躍りかかるカナタと、それを迎え撃つトゥラベカ。
極光の剣は彼女の身体には届かない。その手に持つ槍に防がれて、押し返されるようにカナタごと吹き飛ばされた。
辛うじて着地して、カナタとトゥラベカは互いに見合う。
「お見事。貴方は私の予想よりも遥かに強くなりました」
「……ありがと」
「浮かない顔ですね。強さを褒められるのは嬉しくありませんか?」
「そんなことないよ。でも、できれば違う時がよかったなって」
それを聞いて、トゥラベカの表情が緩む。
その目はまるで、遠い日に置いてきた何かを見つめているように優しげな視線だった。
カナタはそれを何処かで見たことがある。
ずっと昔、この世界に来る前に。
「トゥラベカさん……?」
「私としたことが、つまらない感傷でこの戦いを台無しにするところでした。そんな気持ちを抱いてしまうほどに貴方は強くて、輝かしい」
彼女の言葉の意味は判らないし、今はきっとそれを尋ねる時ではない。
でも、不思議とその感情を向けられたことがカナタには嬉しかった。
その強さを持つ女性に、認められたような気がして。
まるで母親に褒められたような、そんな気分だった。
「さあ、来なさい! バルハレイアの王子ベルセルラーデ様の近衛にして、ラス・アルアの樹海に我等ありと呼ばれたバルサ族第一の戦士であったこのトゥラベカに、その力を、私を超えていく強さを示せ!」
突き出される槍と、セレスティアルがぶつかり合う。
その一撃はありえないほどに重く、身体の中心から砕かれるほどの威力だったが、先程に比べてそれがよく見える。
戦いの中で、カナタは確実に成長していた。この世界に来て一年、強くなりたいと願ったあの日から鍛錬を続けてきたその成果が、トゥラベカと言う最大の強敵を目の前にして開花しようとしている。
「はああぁぁぁぁぁ!」
「いい気合です!」
ギィン、と。
甲高い音がする。
槍の穂先が空中に跳ね上がり、その下をカナタの身体が潜る。
しかし、トゥラベカも簡単には懐に入れてはくれない。すぐさま一歩下がると、片手に持ち変えた槍を次々と突き込み、カナタの前進を阻む。
それを受け流すのとて容易なことではない。セレスティアルの剣で弾いても、そこに込められた重さは腕に伝わり、まるで鈍器のようにカナタの身体に痛みを蓄積させていく。
だが、それでも剣は手放さない。
ここで背を向けるわけには行かない。
この予感は、彼女と戦う日が来ると思って決めた覚悟は並大抵のものではない。
彼女がそうだったように、カナタにも同じ想いがある。
ずっと護るために戦ってきた。巻き込まれ続け、時には自分の意思で立ち向かったこともあるが、カナタが望んだ戦場などは一つもない。
当たり前のことだ。戦いなんてないに越したことはない。どうして争うのか、その理由ですらもカナタはまだはっきりと理解していない。
今日だけは違う。
本当ならばヨハンとアーデルハイトに付いて行った方が正解だっただろう。
でも、カナタは我が儘を言った。
それは全て彼女に会うため。こうしてここで戦うために。
これだけは、カナタ自身が望んだ戦い。彼女を超えたいと願った、たった二人だけの戦場だった。
既に何度目かも数えられない槍の突きがカナタの体力を削る。
もう既に、光の剣を握る手に感覚がない。戦いの高揚で誤魔化しているだけで、きっともうしばらくは物を掴むこともできないのではないだろうか。
何度も打たれ転がされ、なんとか命だけは護り通して全身が血だらけで立っている。
「やっぱり、強い」
判ってはいたことだ。
カナタとトゥラベカの実力の差がどれぐらい大きなものであるかなど。
彼女の戦士として生きてきた時間に比べれば、カナタが必死になって戦ってきたこの約一年など一瞬の出来事に過ぎないのだろう。
「……本当に、貴方と戦えてよかった。バルサはこれまでの歴史の中で数多くの戦士を輩出しましたが、戦士として、私よりも幸運な者はいないでしょう」
上段に槍を構える。
防御を捨てたようなその態勢が、彼女が次に放つであろう一撃の威力を物語っていた。
防御など無意味。今のカナタが広げる極光の盾など容易く貫き、その身体ごと串刺しにしてしまうほどの威力があるのだと、本能が告げている。
「強く、気高く、美しい。それだけの相手に巡り合えたのですから!」
「ボクもトゥラベカさんに会えてよかった。教えてもらったことは沢山あって、おかげで色々な人を助けることができた。でも」
正眼に剣を構える。
次の一撃で全てを終えると、お互いに理解していた。
「ボクが勝つ」
光がカナタの全身から噴出する。
輝きの色は、透き通る青碧へと。
爆発的に広がった輝きはやがて落ち着いて行き、カナタの剣と、その背に広がる一対の翼へと形を変える。
一歩、踏み込む。
大地を蹴って飛び上がる。
光の翼は飛ぶためのものではない。あくまでも、前進するための推力を生み出すだけのものだ。
それによって発生した爆発的な加速で、カナタは一瞬でトゥラベカの目の前に到達する。
「私に勝つ、ですか。虚勢ではなく、驕りでもない。彼我の力の差を理解したうえで、奇跡を起こそうと足掻くその姿、実に見事。ですが!」
閃光が走る。
その一閃はまるで、光の速さだ。
カナタが剣を振り下ろすよりも早く、目の前に槍の穂先が迫る。
「止ま、れえええぇぇぇぇ!」
後ろから前へ、翼が霧散する勢いではためいた。
光の粒子となって消えた光の羽は、その刹那に前方への強力なエネルギーを発生させる。
それがブレーキのような役割を果たし、カナタの動きを咄嗟のところで押し留めた。
同時に、まるで暴風のようなその勢いを受けて、トゥラベカの態勢が僅かに崩れる。
地面に足を付けたカナタは、息を吐く間もないほどの勢いで、前へと向かう。
「実に、良い時間でした」
奇跡は起きたのかも知れない。
カナタは全力以上の力を出して、目の前に立ちはだかる強大な壁に立ち向かった。
それでも、その力の差は余りにも大きい。
どれだけ意志の強さを見せても、相手も同じだけの心がある。
折り重なる偶然を幾つ味方に付けたとしても、相手にはそれを覆すだけの経験と鍛錬があった。
上から下に、振り下ろされる槍の穂先。
カナタの持つ極光の剣を叩いて、地面に落ちた硝子細工のようにそれが粉々に砕け散る。
カナタの目で捉えられたのは、その動きまでだった。
負けたのだ、そう思った。
次の瞬間、身体の中心に突き込まれた衝撃が、カナタの身体を吹き飛ばす。
石の大地に無防備に背中から激突し、自分の力で止まることもできずにごろごろと転がって行く。
戦いながら大分移動していたのか、渓谷の崖になっている部分に落ちる寸前で、ようやくそれが止まった。
俯せて倒れたまま立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。
途中で力尽きて、カナタはトゥラベカに視線を合わせたままその場に座り込んだ。
背後には崖が広がっており、アルゴータ渓谷の深い谷底が、地獄の穴のように口を開けている。
後ろに逃げることもできない絶望的な状況で、ある違和感がカナタの中に生まれた。
「……なんで、生きてる?」
腹を見れば、抉れるような痛みと出血こそあるものの、想像していたよりも傷は浅いように思えた。
今の勢いで直撃を受けたのだから、死んいててもおかしくはないと言うのに。
目線がトゥラベカの持つ槍へと動く。
その穂先には何も付いておらず、彼女の足元に白銀の輝きを放つ欠片が散らばっていた。
「バルサに伝わる、一の戦士が受け継ぐこの槍が砕かれるとは」
感心したように、トゥラベカがそう言った。
そして、ただの棒となったそれを手放して、カナタに歩み寄る。
「私達の戦いの神は、貴方の命を奪うことを良しとしなかったようです」
「……どういうこと?」
「動ける相手を殺したのならば、それは誇りある戦いによる死。先程の一撃はそれを狙って放ったもの。ですが、貴方の極光を破壊した衝撃で私の槍も砕け、貴方は生き延びた。もう戦える力が残っていない以上、それを殺せば単なる虐殺。それは戦士の誇りに反する行いです」
手を差し出して、無理矢理にカナタの腕を掴む。
それをそのまま肩で担ぐようにして、トゥラベカは持ち上げた。
「無論、私と貴方は敵同士。貴方の身柄はバルハレイアの捕虜となりますが、私と対等に戦った戦士に相応しい扱いをすることを約束しましょう。ちょうどベル様も貴方を気に入っていたようですし」
「愛人はやだ」
「捕虜にそれを決める権利はありません」
そう言って、トゥラベカは一先ず自分の陣地に立ち去ろうとする。
どうにか抵抗しようともがくが、全ての力を使い果たしたカナタが幾ら暴れようとしたところで、手足をばたばたと動かすのが関の山だった。
一歩踏み出したトゥラベカが、突然そこで歩みを止めた。
嫌な予感が、カナタの中でも膨れ上がる。
長年の勘からトゥラベカの方がそれを察知するのが早かったのか、彼女はその瞬間には既に行動を開始していた。
「カナタ!」
身体が空中に放り投げられる。
受け身を取ることもできずに、地面にぶつかった痛みは相当なものだが、今はそんなことを気にしていられる状況ではなかった。
急いで顔を上げて、状況を確認する。
カナタの目の前を、不可視の力が通過していく。
それは何故かカナタを庇ったトゥラベカに直撃し、彼女の身体を折り曲げて、抵抗も許さず崖へと吹き飛ばしていった。
「トゥラベカさん!」
「来てはいけません! カナタ、逃げなさい!」
「でも!」
もう一撃、衝撃が通過する。
辛うじて地上に留まっていたトゥラベカはそれを受けて、身体を崖へと躍らせる。
咄嗟に、カナタは走り出していた。
落ちそうになるトゥラベカの腕を掴み、もう片方の手に生み出したセレスティアルを、灰色の地面に突き刺す。
崖の底に落ちていくトゥラベカの体重が全身に掛かり、身体が引き裂かれるような痛みと、関節から嫌な音が響く。
持ち上げることはできないまでも、どうにか崖際で彼女を支えながら、その場に留まることには成功した。
だが、事態はそれで解決したわけではない。
自然とそうなることなどありはしない。トゥラベカを助けることに夢中で傷ついた身体が動いたまではよかったが、状況を確認するような余裕はなかった。
そこ直後に聞こえてきた声で、今がどれだけ絶望的な状況であるかを知ることになる。
「いやぁ、泣かせるねぇ。さっきまで戦ってた敵を庇ってやるとは、お優しいことで」
その声だけで何者かが判る。
人を挑発するような喋り方をするその男を、カナタは忘れない。
オールバックにした金髪に、軽薄そうな顔つきの長身の男。
ラニーニャやアーデルハイトを傷つけ、アストリットの両親を殺し、そこに何の罪の意識も抱かない外道。
「テオフィル!」
「よぉ! 久しぶりだな、お嬢ちゃん! 名前を覚えてくれたみたいで嬉しいぜ」
「……彼は、確か御使いの……?」
トゥラベカがどうにか上がろうともがきながら、喉の奥から声を絞り出す。
「ああ、その通り。適当に暴れてようとも思ったんだけどよ、それじゃつまんねえだろ? ただ単に戦場で敵を斬る、そんだけのことに命を賭けるなんて俺はごめんなんだ。残念ながら、お前等みたいな戦闘狂じゃないからよ」
鞘から、白く輝く剣を抜く。
太陽の光を反射するそれを眺めながら、テオフィルは恍惚とした表情で言葉を続けた。
「最高に愉しい瞬間に、全部をぶっ壊せるのを狙ってたんだ。一番狙いやすくて面白い獲物がお前さんだったってことだ」
手の中で、不可視の力が渦を巻く。
「カナタ! 逃げなさい!」
「泣かせるねぇ! だけどな、それができない! そう言う奴だって知ってるから俺は今出てきたんだよ! 俺が他人の家族を殺したことでキレるようなお人好しだからなぁ!」
「くっ……!」
疲労困憊のカナタでは、落ちていくトゥラベカの身体を支えるので精一杯だった。
下を見れば、彼女の身体からは激しく血が流れ、渓谷の下へと落ちていっている。テオフィルの一撃は、それほどまでの致命傷を与えていた。
「反吐が出る。こんなくそみたいな世界に、てめぇみたいな聖人ぶった偽善者が生きてること自体がな。だが、それも終わりだ。誰も見捨てられない馬鹿に相応しい最後だろうよ」
一歩一歩、恐怖を与えるようにテオフィルが近付いてくる。
もし、カナタがトゥラベカの手を離しても、彼にとっては問題はないのだろう。
きっと、それが見たいのだ。そうやって他人の心を踏み躙ることを何よりの喜びとしている。
だからせめてもの抵抗に、カナタはテオフィルを睨みつける。
無論、それは何の意味もなさない。
影ができて、目の前にテオフィルが立つ。
怖気が走るほどに、不自然な美しさを持つ聖別武器の光が、カナタの頭を叩き割ろうと振り下ろされた。
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