第三節 戦いの合間に
要塞に戻ったトウヤ達は、短い間の休息を許されていた。
戦いが終わる頃には既に日は沈み、辺りは真っ赤な夕焼けが包み込んでいた。
イシュトナル要塞の屋上から見る景色は、今は昔とは大分違う。要塞を護るための堅牢な門は破壊され、どうにか補修された無様な壁が何とも頼りない。
屋上に備えられている防衛兵器はドラゴンの襲撃により大半が破壊され、殆どが使い物にならない状態だった。
もし、あの頼りない門を突破されれば、敵を追い返すことは難しい。あの場所が、事実上の最終防衛ラインとなっている。
そこに幾つもの死体が、片付けられないままに放置されている。それを見たトウヤは、顔を顰めて視線を逸らした。
「トウヤ君」
聞き覚えのあるその声に、トウヤは身を固くする。
まさか、この場所で聞こえるはずがないと思っていたその高い声は、彼の耳朶を優しく刺激した。
軽快な足音と共に、少女が近付いてくる。
「カナタ」
黒髪の小柄な少女は、その手にパンとスープを持って、トウヤに差し指していた。
「これ、ご飯。ちゃんと食べないと駄目だよ」
そう言う気分じゃないとはとても言えない状況だった。彼女を心配させたくなくて、黙ってそれを受け取る。
幸いにしてソーズウェルからの補給線は立たれていないので、物資不足に陥ることはない。今も丁度、ラウレンツ率いる別動隊が合流し、大量の補給物資が運び込まれたところだった。
これを使い、近々決戦を行うらしいとの噂が立っている。アルゴータ渓谷にいるベルセルラーデを倒して、バルハレイアの本国へと侵攻するようだった。
「……なんでこいつらは戦争を仕掛けてきたんだろう」
いつもと対して変わらないはずのパンの味が薄い。戦いが終わった高揚が、トウヤの中の日常的な感覚を薄れさせているようだった。
「……判んない。オルタリアが欲しかったからだって、みんなは言ってるけど」
「こいつらには帰る場所があって、家族もいる。……俺達とは違うのに、なんで」
そこまで言いかけて、トウヤは口を噤む。
これは単なる弱音だ。間違っても、トウヤがカナタの前で吐いていいことではない。
男である自分がしっかりしなくては、どうして彼女を護ることができると言うのだろうか。ヴェスターに散々言われた言葉が、今更ながら胸の中に蘇ってくる。
「そう言えば、そっちは大丈夫だったのか?」
愚問だと判っていながら、トウヤは尋ねる。
鋼の鳥が飛来して襲撃を受けた中にはヨハンも含まれていたと聞いたが、カナタを初めとする彼を護る戦力は、下手をすれば防衛戦を行う兵士達よりもよほど強い。
「うん。アリスもいたし、すぐに倒せたよ。ただ、ヨハンさんが鉄の鳥を見て、なんか難しい顔してたけど」
「あの向こうの王子のギフトだろ?」
「……多分。それで、明日から別行動をするんだって。アーデルハイトと二人で、魔法の絨毯で」
それは初耳だった。もっとも、トウヤの立場は所詮一兵卒なので、そもそも部署が違うヨハンの行動に付いての情報が入ってくるはずもないのだが。
とは言え、今この状況での別行動は気にかかる。彼のことだから、恐らくは戦いを早期終結させる何かに気が付いたのだろうが。
パンを握る手に勝手に力が籠る。
無意識に、ヨハンのことを信頼している自分がなんとなく悔しかった。
「カナタは一緒に行かないのか?」
「行きたかったけど、ちょっとね」
「ちょっと?」
「……こっちでまだできることがある気がして」
意味深に、カナタはトウヤと同じ空を見る。
まるで、その先にいる誰かにメッセージを伝え、また自分も何かを聞いているかのように。
「御使いと戦う、とか?」
「それもあるけど、アリスが張り切ってるから多分、そっちは任せることになると思う」
「そうか。……やばかったら呼べよ。飛んでいくから」
「あはは、ありがと。頼りにしてるよ」
表情を緩めて彼女が笑う。
それが小さな拒絶であると思ってしまったのは、トウヤの劣等感から来る勝手な思い込みではないだろう。
多分、彼女が危機に瀕してもトウヤの名前を呼ぶことはない。
「……強くなったよな、カナタは」
「トウヤ君もね」
出会ったばかりの頃から、随分と遠い場所にまで来たと思う。
お互いに歩んだ道は全く違ったが、共通していることの一つが、それだった。
強くなった、本当に。
トウヤの背に護られていたあの少女はもういない。自分の意思で立ち上がって前を向き、やるべきことを成そうとする一人の人間の姿がそこにはあった。
「頑張ったからね、お互いに」
「……カナタを護りたかったからな」
それは必死で勇気を振り絞った言葉であり、半分は自虐のようなものだ。
トウヤが必死に強くなったところで、彼女を護れる立場にはいない。幾ら頑張っても、その差は一向に埋まらなかった。
「駄目みたいだったけどな」
「そんなことないよ! トウヤ君が頑張ってくれてるから、ボクも頑張ってきた。トウヤ君達が暮らす場所を、護ってあげたいから」
その一言一言がトウヤを傷つけているかなど、カナタには自覚などないのだろう。それは別にいい、トウヤ自身の意思で、それを引きだしているようなものだから。
「それだけじゃないよな?」
それは、ちょっとした意地悪のようなもので、最後の確認でもある。
カナタが強くなってきた理由を、トウヤはよく知っている。
決して誰かを護りたかったからだけではない。それをしようとした他の『誰か』のために、彼女は必死になって前に進み続けたのだ。
「……ヨハンさんの隣に、早く並びたかったからね」
「できたのか、それは?」
「順調だよ。前だったら絶対に余計なことはするなって言われてたけど、今は好きにさせてくれてるし。それに、こっちでやることが終わったら追いついて来いって言ってもらっちゃった」
その表情はとても嬉しそうで、心が痛む。
彼女の心の中を占める大きな部分を、あの男は担っているのだろう。
「好きなのか、あいつのこと?」
「えっ? いや、え、多分……って何聞いてるの! 教えないよ!」
今更取り繕っても答えはもう言ってしまったようなものだろう。一瞬だけ見えたその表情にしっかりと心を抉られながら、トウヤはその場から走って逃げなかった自分を褒めたくなった。――もっとも、最初から聞かなければよかっただけの話ではあるが。
「あのさ、カナタ」
スープを空にして、パンを食べ終えて、それからトウヤは意を決してカナタに向かいあう。
夕焼けの空で赤く染まったその顔を見て、一瞬だけ言葉を失った。
「死ぬなよ。俺も死なないから」
それだけが、伝えたかった。
今は、他の感情はどうでもいい。生きてさえいれば、また会うことができればこれから先言いたいことも、聞きたい言葉も幾らでも出てくるだろう。
ただ、もう会えないのだけは嫌だった。それは絶対にあってはならないと、トウヤは強く願う。
「……死なないよ。全部終わって、戦いがない世界で、みんなで生きたいから」
その時が来て、お互いがどうなっているかなど判りはしない。
ひょっとしたらもう、再会することさえできないほどに遠い存在になっている可能性だって充分にありえる。
それでもトウヤにはその言葉だけで充分だった。
生きてさいればまた会えるかも知れない。もう世界も、時間も遠い彼方に置き去ってしまった家族や元の世界の友人達とは違う。
彼女は紛れもなく、この世界に、同じ大地に存在しているのだから。
▽
「身体の調子は大丈夫なのか?」
「何度聞くつもり? もう一ヶ月よ」
夜の闇の中、未だ片付けられないイシュトナルの街の残骸の上で、呆れたように言いながらアーデルハイトが絨毯を広げる。
以前は街頭で照らされていた街も、そこに勤める兵士や軍関係者の居住区のために小さな灯りが幾つかあるだけで、当時とは比べ物にならないほどに薄暗い。
アーデルハイトは魔法で手元を照らしながら、絨毯を見ては手を翳して何かを整えている。
「改めて凄いわね、これ。こういう事態を予想して、作っておいたの?」
「……そう言う訳ではないが。アルスノヴァ達が飛空艇を作っていると聞いてな、俺にもできないかと思って」
「悔しかったんだ?」
悪戯っぽい目でこちらを見ながら、そんなことを言う。
半分ぐらいはそんな感情もあったが、それを肯定するのが嫌で、視線を背けて誤魔化した。
「よし、と。すぐに出発できるけど……」
言いかけて、アーデルハイトの言葉が止まる。
ひょいと絨毯の上に飛び乗って座り、手にした魔導書から魔力を流し込む。
ヨハンがまだ地上にいるにも関わらず、絨毯は彼をおいて上昇していった。
「お客さんみたいね」
そう言って、文句を受け付ける前に飛び去って行く。
そんな勝手な行動に呆れながらも、最後にアーデルハイトが見ていた方向に目を向けると、すぐ傍に長い金髪の、小柄な少女の姿があった。
「どうした、クラウディア?」
「どうしたもこうしたもないじゃん。勝手に行っちゃうなんて水くさい!」
「危険な任務だからな。それに、そっちはそっちで忙しいだろう?」
戦場にこそ出ていないが、ユルゲンス家は商会全ての力を使って、この戦いに支援をしている。
もう一つの有力者であるハーマン達もまた、負けじと支援を行ってくれているため、前線の兵達の装備は常に万全と言っても過言ではなかった。
そのためには手が足りない。未だ勉強中の身ではあるが、クラウディアも父の手伝いとして責任者として駆り出されていた。
「そうそう! すっごく大変! ラニーニャは全然仕事覚えないし、すぐお酒飲むし! ……平和になったら生きていけるのかな?」
「てっきり死ぬまで養うものだと思っていたが?」
「え、よっちゃんはそのつもりだったの? 旦那様が言うならアタシは別にいいけど」
「……あのな、クラウディア」
胸の辺りに小さな衝撃がある。
ヨハンが言葉を発する前に、クラウディアが胸の辺りに顔を押し付けて、埋めていた。
「……判ってるよ、言いたいことは。それは、アタシ達が勝手に決めたことで、承諾してないってことでしょ?」
「……そうだな。加えて、俺も次の戦いは戻ってこれるかも判らん」
恐らくは、これが最後の戦いになる。
黎明のリーヴラを倒して、この世界から御使いの脅威を取り除く。それがヨハンに残された最後の義務だった。
誰に言われたからでもない、神の力を受け継いだからでもない。
今日まで出会ってきた人達の想いを受けとったヨハン自身が、そうしたいと強く願っているからだった。
「仕方ないじゃん」
「……何がだ?」
「好きになっちゃんだもん」
「……いつだ、と聞くのは野暮だな」
黙って、その頭の上に手を乗せる。
多分、今クラウディアは泣いている。その証拠に、身体は小さく震えていた。
落ち着かせるように頭をゆっくりと撫でていくと、せがむように更に強く身体を押し付けてきた。
「ドキドキすることが大好きだったんだ。よっちゃん、アタシのことを最高にドキドキさせてくれたんだもん」
最初の海戦の時では、何となく気に入った男程度のものだったのだろう。多分、父が言うから婚約者を了承していたが、気に入らなければいつでも逃げるつもりでいた。
決定的になったのは、初めて虚界と遭遇した時のことだ。
足手まといだったクラウディアを、ヨハンは命を賭けて助けた。そして、その時に一緒に死んでくれと言った。
その一言が、ずっと胸に刺さっている。何度抜こうとしても熱くて、触ることもできずにクラウディアの中で鼓動し続けていた。
「幸せ者だな、俺は」
「今更過ぎだよ。幸せ過ぎて死んだら絶対地獄に落ちるからね」
「何も悪いことをした覚えはないんだがな」
「ずっと誤魔化してたのが悪い。さっさと誰かとくっついちゃえばよかったのに」
「……手厳しいことを言うな」
そうなったらなったで、仮にクラウディアが選ばれなかったら荒れただろうに。
両手がヨハンの背中に回って、なおも強く身体を押し付けてくる。
その熱を、お互いに行き渡らせて絶対になくさないようにするかのように。
「地獄には落ちたくないがな」
「大丈夫。アタシも一緒に行ってあげるから」
「……頼りになる」
ヨハンの方からも、その背に手を回す。
二人は暫くの間、そうやって抱擁をし続けていた。
その間には、確かな絆があった。
クラウディアの恋心に相当するかは判らないが、ヨハンとて彼女のことを大切に想っている。
男女のそれであるかは自身にも理解できないことだが、クラウディアには生き延びて、幸福な日々を生きてほしい。そう願う心は、紛れもなく愛情と呼んでもいい感情だろう。
精一杯それを伝えあって、やがてどちらともなく身体が離れる。
胸の辺りに感じる彼女の残り香と、小さな熱が名残惜しい。
「へへっ、よし。満足。無事に帰って来たらちゅーしてあげるから。楽しみにしててね」
「……俺の言ったことは全く伝わってないのか?」
「アタシが勝手にするだけだもん。平和になったら色々考える時間もできるんでしょ? まだまだ婚約解消には早いからね」
「……まぁ、楽しみにしておく」
頬を赤く染めて、クラウディアがその場から離れて行く。
それから少したって、上空から一枚の絨毯が舞い降りてきた。
「…………」
同じ高さまで降りてきて、何か言いたげな目でアーデルハイトはヨハンを睨んでいた。
どんな言い訳をしても意味がないと判っているので、彼女の後ろに乗り込む。
絨毯が空まで浮かび上がって行く。
既に空は夜になり、大きな蒼い月が二人を見つめていた。
「……わたしは別に今でもいいわよ」
「何の話だ?」
「……ちゅー……あいたっ」
頭をぽこんと叩かれて、不機嫌そうな顔になりながら、彼女は絨毯をその魔力でしっかりと操作して、闇の中二人は空へと飛び去って行く。
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