第十三節 色のない世界と

「できません」

 イザベルの言葉に対して、アーベルの返答は、その簡潔な一言だけだった。

 彼女の周りには教会所属の聖騎士達が立ち、身を挺して守りを固めている。

 その場にいるのはそれだけではない。

 戦いに夢中で気が付かなかったが、イザベルを護るために、兵士達だけではなくこの街にいる、本来ならば逃げるべきエイスナハルの信徒達までもが集まりはじめていた。

「アーベル・ワーグナー。今ならまだ貴方を許せます。貴方は罪を重ねたかも知れませんが、それも全ては不幸が重なってのこと」

「……くどい」

 聖別騎士団。

 信仰を護る騎士達と外部には伝えられていたが、そんなものはその活動を手助けするために歪められて伝えられた言葉に過ぎない。

 本来の役割は、教会に仇なす者達の討伐。

 そこに正当性や正義などはない。教会と、それに繋がる貴族達の利権を脅かす者達を一方的に断罪し消し去るためだけの暗部組織。

 それ故に、その実態を知る者達からは狂信者と呼ばれ続けていた。もっとも、法王の言葉を真に受ける者達にとってはそれすらも深い信仰心のために身を汚す聖者と呼ばれていたが。

 アーベル・ワーグナーにとってはそれでよかった。

 理由はどうあれ、最も教会の利権を脅かしかねないエトランゼを数多く殺せるこの組織にいることが、心地よかった。

 だからこそ、ヘルフリートに正義がないと判っていながら彼の味方として戦場に赴いたこともある。

 だが、目の前の女は違った。

 急逝した前法王に変わり、新たに法王の座に付いたイザベルは武力ではなく言葉と誠意で人々の心に神を宿らせようとした。

 この世界の住民も、エトランゼも関係なく。

 その教えを、幸福のための手段であると言葉にした。

 それはアーベルには認められないことだ。

 信仰で自らの憎悪を覆い、復讐の炎を正当化するための言葉として生き続けてきたアーベルには、そんな世界を生きられるわけがない。

 許されていいはずがない。

 罪もない者達を何人も手に掛けた。

 己の意にそぐわなければ、一度は息子として引き取ったアストリットすらも殺そうとしたのだ。

「私の心は既に神に、その使者である御使いに捧げられたものなのです。例えそれが誤っていようが私にはどうでもいい」

 もう、道は踏み外した。

 アストリットが寸でのところで立ち止まったその場所を、とっくにアーベルは踏み越えていた。

 その違いが何であったのかは、判らない。若さか、それとも純粋さか。

 苦しかった。目を閉じれば今でも死した妻と娘の悲鳴が聞こえてくる。そこから生まれる怨嗟の炎に幾度となく心を焼かれ続けてきた。

 そしてそれを消すための聖別騎士団。

 そのための殺戮。

 事実、このイシュトナルを攻撃したときは胸がすく思いだった。

 エトランゼであろうがなかろうが関係なく、街を焼け出され、理不尽に全てを奪われる者達を見て、ほんの少しでも心地よさを覚えてしまっていたのだ。

 ――そんな男が、許されていいわけがない。

 この身は既に復讐の劫火に焼かれ尽くし、人間としての部分など一片たりとも残されてはいない。

 ならばせめて、悪鬼として、神の威光すらも届かぬ地獄の悪魔として燃え尽きるまでその罪を重ね続けよう。

 その上で訪れる究極の裁きこそが、最後まで怒りを捨てられなかった自分に対する最大の誉れなのだ。

 アストリットの身体を突き飛ばして、地面を蹴る。

 イザベルの前に立ちはだかる聖騎士達を、剣の一振りで次々と薙ぎ払う。

 アーベル・ワーグナーは教会で最強の騎士。それが汚れ仕事を請け負う聖別騎士団だったとしても、彼を止められる者などはいない。

 凄まじい勢いで、アーベルはイザベルに迫る。

 その刃は止まらない。

 殺戮の剣は、法王を殺すと言う最大の罪を犯すべく前へと進み続けた。

 最後の聖騎士が倒れる。

 もう、彼女を護る者はいない。

「イザベル様、お覚悟を」

 この身は黒き炎だ。

 思えば、元より神など信じてはいなかったのかも知れない。

 力なき自分を救わなかった。その家族への慈悲を与えてくれなかった神を必死で正当化しようとしても、本心から信じ切ることはただの一度もなかった。

 イザベルはアーベルを睨んだまま動かない。

 或いは動けないのかも知れない。

 彼女の首の位置に合わせて、剣が風を切る。

 振り抜けば全てが終わる。

 だと言うのに、その一撃は空中で制止していた。

 どうしてその刃を止めたのか、自分でも判らない。

 同じような者達を、幾人も斬り伏せてきたというのに。

 相手が武器を持っているかどうかなど差したる問題ではなかったはずなのに。

 何故か、今目の前に立つ、エイスナハルのシンボルを掲げる信者達を斬って捨てることが、アーベルにはできなかった。

「貴方達……!」

「イザベル様! 下がってください!」

 ――どうしてだろうか。

 何故、アーベルを救わなかったこの世界は、こうなのだろう。

 どうしてあの時、救いの手を差し伸べなかった神は、こんな世界を創ってしまったのだろうか。

 その理不尽に怒り、涙する。

 自分には与えられなかったことを恨むわけではない。復讐に墜ちた男には与えられず当然のことだと、理解はしているつもりだった。

 それでも、こうしてその姿を目の前にすると、心が揺らぐ。

 彼等は装備も何もしていない、見るからにひ弱そうな男と女の二人組だった。

 ぼろぼろの法衣を身に纏い、神への祈りを捧げながら必死に逃げてきたのだろう。

 身体を震わせて、恐怖の余り目に涙を溜めて、どうしてその上でイザベルを護るために命を賭けることができるのだろうか。

 アーベルを最後まで救いたいと願うイザベルも、自ら世界の色を取り戻したアストリットも、そして今こうして無力であることを知りながらも立ち塞がる信者達も。

 何故、こうなのだ。

 何故、それができてしまうのだ。

 何故、そんな者達が生きるこの世界を美しいと思ってしまったのだ。

「うおおおおおおおおああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 その叫びが最後の通告だった。

 もし、退かなければ彼等ごとイザベルを斬る。

 結果、彼等はそこから一歩も動かなかった。

 だからと言って、彼等やイザベルが倒れたわけではない。

 背中に衝撃があった。

 そして、身体を貫く焼けるような痛みも。

「……アストリット……!」

「アーベル、様……!」

 その声は泣いていた。

「……覚えているか? お前を拾った時、背中におぶってやったことがある」

「……いいえ、覚えていません」

「だろうな」

 苦笑する口の端から、血が流れる。

 その時のアストリットは家族を殺された直後で、感情の殆どが死んでいたころの話だ。覚えていないのも無理はない。

 だが、因果なものだ。

 その時に彼を背負った時に感じた温もりが、家族の温かさをアーベルに思い出させたことがあった。

 今は鎧越しでその熱を感じることはないが、代わりに、泣いている。

 紛れもなくアーベルに対して感情を発露させているアストリットのことを、今この時に愛おしく思ってしまうとは。

「……アーベル・ワーグナー……」

 視界に端に、エトランゼの男が映り込む。

「ヨハンと言ったな、エトランゼ。一つ聞かせろ。これより未来に時が進み、貴様やイザベル様の望む世界が来たとしよう。その場所では、私やアストリットのような者は生まれないと保証ができるのか?」

「……確約はできない。だが、なくしていく。人間は、そんな悲劇を望むようにはできていないと、俺は信じている」

「……なんとも頼りない答えだ」

 気休めを言われるよりは、余程マシだが。

 彼は人の可能性を信じている。

 この世界に生きる者達が創っていく未来がより良きものになることを心の底から願っていた。

「……足掻いてみろ、エトランゼ」

 身体が揺れる。

 背中から剣が抜かれ、アストリットの身体が離れて行く。

 ゆっくりと、アーベルの身体は仰向けに地面に倒れた。

 竜が墜ちた空には蒼穹と、白い雲が見える。

 そこに神の姿は何処にもない。

 手を伸ばしても神には触れられないが、代わりに温かい何かがそれを握ってくれた。

 既に閉ざされた視界では、誰のものかは判らないが、それは久しく感じることができなかった家族の温もりによく似ていた。

 それを感じながら、アーベルは目を閉じる。

 復讐の炎に焼かれながら剣を振り続けた男の最期は、神の存在を否定しながらも、安らかな顔で眠りについていた。

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