第六節 人々の繋がり

 エイスナハルの信徒が着るローブに身を包み、祈りを捧げるためのシンボルを持った彼等によって、ヨハン達はイシュトナルの西側、生き残った民が集められている区画まで案内されていた。

 ここまでの道中は抜け道を通ってきたため、聖別騎士団には見つかっていない。一騎士団程度の数では、このイシュトナル全域を見張るだけの人員は確保できていないようだった。

 到着した広場は怪我人や、今後のことを悲観する人々で溢れていて、とても活気があるとは言い難い。

 これがあれだけ多くの人が行き交っていたイシュトナルかと思うと、ヨハンはやりきれない気持ちになっていた。

「それでは、わたし達はこれで」

 信徒の片方がそう言って、去って行こうとする。

 どうしても気になることがあって、ヨハンは彼等を呼び止めた。

「……どうして、俺達を助けてくれた?」

 教会にやってきた彼等は敵ではなかった。むしろヨハン達の事を気遣い、こうしてこの場所までの案内を申し出てくれた。

 例えエイスナハルの信徒だったとしても、ヨハン達を助けたことが聖別騎士団に見つかれば彼等もただでは済まないだろう。

 それに加えて、聖別騎士団も同じようにエイスナハルの使徒で構成されている。中立でいるならともかく、この状況でヨハン達に味方をするというのは、かなり勇気のある行動だった。

 信徒の一人は一度だけ目を伏せて、それから語りはじめる。

「わたしはエイスナハルの信徒です。両親からずっと、神の教えを教わり生きてきました。ですが、何故神の教えがあるのか、その理由は自分で探す必要があるとも言われてきたのです」

「……神の教えがある理由?」

「人々が幸福に生きるため。隣人を愛し、他者を尊び、この大地と生きる。そのためにあるのがエイスナハルの教えだとわたしは考えています。……多くの信徒は、神の子でありながら同時にこの大地に生きる人間です。だからわたし達に幸福をくれた貴方達を信じて、力になりたかった」

 それを聞いて、ヨハンは理由を尋ねた自分を恥じた。

「貴方はこの地を拓いた。貴方とエレオノーラ王女が築いたここには、間違いなく幸福があったのです」

「……ありがとう」

 思わず、感謝の言葉が口を継いで出ていた。

 隣でアストリットも両手を組んで、神へと祈りを捧げる仕草をする。

 それを見て、今度こそ信徒達はその場を去って行った。

「やはりヨハン様は凄い人です」

「……何がだ?」

「神様は人を幸福にするための方法をくれました。でもそれは絶対ではありません。ヨハン様はエレオノーラ様と協力して、人を幸せにしたということではないでしょうか」

「そんな大層な話じゃない」

 アストリットの頭の上に手を乗せる。

 何処かくすぐったそうに、しかし嫌ではないのか、アストリットは目を細めてそれを受け入れた。

「俺に比べれば、今の人達の方が余程凄い」

「……なるほど」

 聞いているのかいないのか、取り敢えず合点がいったように、アストリットは深く頷いた。

「差し当たってこれからどうするか……。アストリット、お前にパンをくれた人はどのあたりにいた?」

「――ああ、それでしたら」

 アストリットが広場の中央で、何やら地面に布を広げて何かをしている男を指さす。

 細い眼が特徴的なその男は、戦いに巻き込まれたのかその風体はボロボロだったが、景気のいい声を張り上げて何やら人を集めようとしている。

 その周囲には疎らだが人が集まり、一言二言会話をしてから何かを交換しては去って行く。

「……ハーマン?」

 予期せぬ人物に、ヨハンは思わず声を上げていた。

 付き合いこそ長かったが、お互いに立場もあってかここのところは会うこともなかった商人の姿をこんなところで見ることになるとは思わなかった。

 ハーマンもヨハンに気付いたらしく、周りの客と思しき者達に何かを断って、ひょいと立ち上がって軽い仕草でこちらに歩いてくる。

「やー、やー、ヨハンさん、お久しぶりですねー。それからそっちのお嬢さんは、先程ぶりです」

 お嬢さんと呼ばれたことには特に頓着せず、アストリットがぺこりと頭を下げる。

「うん、礼儀正しいのはいいことですねー。わたくしのなけなしのパン、美味しかったですかー?」

「ああ、助かった。……それより、どうしてお前がここにいる?」

「いやー。どうしてと聞かれれば簡単してね。偶然ですよ、本当に偶然。こちらでやっていた商売の様子を見るついでにエレオノーラ様の演説でも聞こうかと来ていたのが運の尽き、とんでもないことに巻き込まれてしまいましたー」

 言いながらも、ハーマンの表情は薄い笑みを浮かべている。

 彼のギフトは《予感》と言って、漠然とではあるがこれから起こることが自分にとってどう転ぶかを察することができるというもの。

 ひょっとしたら未だに、彼にとって悪い目は出ていないのかも知れない。

「それは災難だったな」

「はいー。それにしてもヨハンさんー。酷いじゃないですかー。わたくしとはあんまり会ってくれなくなって、ユルゲンス家とばっかり仲良くしてー」

「物によってはそっちで用立てているだろうが。それに、お前のところとユルゲンスは一応は協力関係にあるんだろうに」

「それはそうですがー。やっぱり商売人として色々と思うところもありましてね」

「今はその話はいいだろう。それよりも、この辺りの状況を把握しているか?」

「ええ、それはもう。商人でなくとも、情報は生命線でしょう? 特に今は自分の命が掛かっていること、疎かにはできませんよねー」

「生き残った者達の様子はどうだ? 不要な虐待や殺しは?」

「今のところは例外を除いてそれはありません。聖別騎士団も数が足りていないのか、必要最低限のことしかしない様子ですし」

「例外とは?」

「それはまぁ、何処にでも外道ってのはいるようでして。昨日の夜からその男に何人か斬られていますねー。エトランゼであると言う理由だけで」

「……そうか」

 思っていたよりは被害が少ないと言えるだろう。

 だからと言って、その暴虐を聞いて何も思わないわけではないが、今のヨハンにそれを止める力はない。

「冒険者達は?」

「彼等も状況は理解しているようで、あちこちに散らばって身を潜めていますよ。そっちはそっちで連絡はとれているので、連携もしっかりと」

 取り敢えず、これで反撃の目が全くないわけではないことが判った。

 エトランゼの集まりである冒険者達が一斉に決起すれば、内部からイシュトナルの護りを崩せるかも知れない。

「ハーマン、一応聞いてみるんだが、武器の類は用意できるか?」

「こんなこともあろうかと、イシュトナルの地下にはいざという時の武器庫が――と、いって差し上げたいところですが、お生憎と。商品として武器自体は扱っていたのですが、保管してある倉庫は東町の方でして」

 この場所からは真逆の位置に当たる。虐殺が行われ、今も放置されている区画だ。

 そこに潜んでいるエトランゼならば上手く見つけ出すこともできるかも知れないが、どちらにせよ輸送は不可能だろう。

「まぁ、そう言う訳ですから今は身銭を切ったり食料を分け与えたりして、武器になりそうなものを集めているわけでして」

 ハーマンに言われて視線を向けると、彼が広げていた布の上には食料と金が置いてあり、それと引き換えに集めたであろう短剣や金属の棒などの武器になりそうなものが無造作に重なって放置されていた。

「……そんなことをしていてくれたのか」

「ええ、一応は商売の名目でね。もっとも大半の人が、判っていながら見てみぬ振りをしてくれているようですが」

「そっちで動かせる戦力は?」

「なくはない、と言ったところですねー。わたくしも色々なところから恨みを買っている身、有事の際には私設の傭兵団が駆けつけるようにはなっていますし、今もこちらに向かっているとは思うのですが」

 ハーマンの視線がイシュトナルの要塞の方を見る。

「質も量も、天下の聖別騎士団には比べ物にならないかと」

「いや、それで問題ない。ゲオルク陛下の軍が到着した際に、民の脱出さえ手引きしてくれればいい」

「……畏まりました。そのぐらいの仕事は、このハーマンが引き受けましょう」

「これはできるだけ聞かない方がいいのかも知れないが、お前の予感としてはどうだ?」

「ふーむ、答え辛いことを聞きますねー。今回の件から、これから先に起こること全部。わたくしの予感ではロクなことにならないから関わるなと出ています」

「なのに協力してくれるのか?」

「ええ。所詮、予感は予感ですから。金儲けは充分に致しましたし、ここでわたくしの財産の半分が消えたとしても、まだまだ充分にこの世界で面白おかしく生きていけます。儲けた分、これからの世界に還元するとしましょう」

 ハーマンがこの戦いについて、どれだけ知っているのかはヨハンは判らない。

 しかし、なんとなくではあるが彼は気付いているような気がした。

 この戦いの背後に御使いがいて、きっと全てが終わった時にこの世界も変わるかも知れない。

 ハーマンは賭けたのだろう。ヨハン達が勝利して、そこから切り拓かれる未来に。

「おっと。噂の人物が来ましたよ。ヨハンさん達はあちらに。……いいですか? 何があっても絶対に出てこないでくださいね。もし貴方に何かあれば、この街に残された人や今も潜んでいる冒険者達全員の努力が無駄になるのですから」

 そう言い含めて、ハーマンはヨハンとアストリットのことを路地裏へと押しやる。

 人気のない路地裏へと身を隠しながら、広場の様子を伺うと、そこに現れた人物を見てヨハンは驚愕する。

「……あの男、生きていたのか」

「ヨハン様、お知り合いですか?」

 アストリットの問いには答えない。

 ヨハンの目線は、その男を捉えて離すことができなかった。

 神経質そうな顔立ちに、小さな口髭。

 細身のその身体は左腕がなく、ぎょろぎょろと瞳が不気味に辺りを見渡している。

「……カーステン……」

 そうヨハンが呼んだ男は、かつてはエレオノーラの側近をしていたこともある。

 ヘルフリートが乱を起こした際にそちらに付き、カナタ達と戦って片腕を失った。

 その後はネフシルでの虐殺を指揮し、それからの消息は知れなかったが、何をどうしたのか聖別騎士団に所属していたらしい。

 元々はエイスナハルの敬虔な信徒として知られていたのだが、彼の場合はその思想が行き過ぎていて狂信と化し、それはエトランゼへの憎悪へと変化している。

 ある意味では、聖別騎士団の団長であるアーベル・ワーグナーと同じ思想の持ち主でもあった。

 カーステンの姿を見るや、人々は恐ろしい魔物でも見たかのようにその場から逃げていく。

 その姿を見てカーステンは眉を顰めたものの、エトランゼでない相手に対しては暴力を振るうつもりはないのか、何もすることはなかった。

 そしてその視線が、布の上に置かれた品物を片付けているハーマンへと向く。

「貴様」

「は、はいはい? わたくしめに何か御用でして?」

「なんだそれは?」

 その視線はハーマンの足元に転がった短剣を見ている。

 その他のものは適当なガラクタと誤魔化すこともできるが、刃物に対してはそう言った言い逃れもできはしない。

「いやー。わたくし見ての通り商人でして。こんなところで隔離されていたら気も滅入るでしょう? ですから、せめて商売でもしておこうかと思ったのですが」

「その短剣はなんだ?」

「こちらの品物ですか? 珍しいですよねー。ミスリル製の短剣なんて、近くにアルゴータ渓谷があるここイシュトナルでなければ滅多にお目に掛かることもできません。ついつい、大枚を叩いて……」

「貴様、エトランゼだな?」

「ええ、それはそうですが……」

「エトランゼが武器を持つことはそれ即ち反逆となる。よって反逆者はこの場で首を斬る!」

「いえいえいえいえ。お考え直しください騎士様。天下の聖別騎士団たるものが、たったそれだけの理由で剣を振るってはなりません。事の問題がこの短剣なら、格安でお譲り致しますからどうか」

「黙れ! そもそもにして、貴様等エトランゼは本来ならばこの世界の地を踏むことすら許されん虫けらなのだ! ならば今ここで死んで、本来あるべき場所に還るがよかろう!」

 カーステンにとっての原因は短剣などではない。

 歪んだ心を持つこの男は、理由などどうでもよかった。ただ目の前にいるエトランゼを殺すことだけがその目的だった。

 ヘルフリートの部下であった時の行いからしても、彼が聖別騎士団に所属でなければ、最早エトランゼかそうであるかも関係なくこの場で虐殺を働いているだろう。

 それぐらい、彼の心にはエレオノーラやそれに与する者達への憎しみが渦巻いている。

 ヨハンが拳銃を構えようとしたところで、カーステンの後方から声が飛んで、彼の行動を諫める。

 凛とした、しかし未だ幼さの残る高い声の主は、ヨハンも見知ったん人物だった。

「おやめくださいませ、カーステン卿!」

 そう言って駆け寄ってきたのは、捕虜となっているはずのリーゼロッテだった。

 美しい白金色の髪は所々が汚れ、結ばれていた髪も解けている。

「リーゼロッテ嬢、お祈りはおすみですかな?」

 リーゼロッテはカーステンとハーマンの間に壁を作るように立ちはだかる。

 その中では一番身長が低いため、カーステンがその気になればリーゼロッテを無視することも容易いのだが、そこまでの暴挙に出ることはなかった。

「ええ、わたくしの我が儘にお付き合いいただき、教会でのお祈りに付いて来ていただけたことは感謝いたしております。でも、ここで捕虜となっている人に危害を加えることは到底許されることではありません」

「どうでしょうかな? エトランゼはこの大地にあってはならない者。それらを斬ったところで、誰が悲しみましょう」

「……他ならぬ神は、共にこの大地に生きる生命が失われることに心を痛めることでしょう」

 その一言が、カーステンの逆鱗に触れた。

 風を斬る音がして、剣が振るわれる。

 白銀の刃はリーゼロッテの首元に触れ、後少しでその切っ先を深く食い込ませるところで停止する。

 皮が切れたのか、つぅっと赤い線が落ちて、リーゼロッテの鎖骨を伝って着ているドレスの一部に赤い染みを作る。

 それでも、幼げな少女はカーステンから視線を外すことも、悲鳴を上げることもなかった。

 気丈な瞳で睨みつけられて、カーステンは何も言わずに剣を鞘に納める。

「祈りが済んだのならば戻りましょう。同じエイスナハルの信徒であるからこそここに来ることを許されましたが、ご自分が虜囚であることはお忘れなく」

「……はい、理解しています」

 カーステンが先を行き、一度だけリーゼロッテはハーマンに会釈をしてからその後に続いて歩いていく。

「アストリット。二人の後を追うぞ」

「どうしてでしょうか? 今は動かない方が賢明なのでは?」

「民達の脱出はハーマンに任せればいい。いざという時に人質になるのは貴族達だ。今の内にその居場所を確かめておきたい」

「なるほど」


 ▽


 リーゼロッテ達が囚われている先は、イシュトナルに幾つかあるオルタリアから逃げだしてきた貴族達が住居として使っていた屋敷の一つだった。

 広い庭園を走り抜けて、人気がないことを確認してから屋敷の台所に横付けされて建てられている倉庫の鍵を抉じ開けて中に入り込む。

 薄暗い倉庫の中には未だ手付かずの食料が置いてあり、人が入った形跡はなかった。

 何もなかった景色が揺らぎ、そこにヨハンとアストリットの姿が突然現れる。

「この外套、凄いですね。本当に姿が消えていました」

「激しい動きをしたり、何処かに引っ掛けでもしたら見えてしまうがな」

 アストリットは透明になる外套を掴んで興味深そうに眺めていたが、やがて我に返ったかのように辺りの様子を伺い始める。

「随分と警備が薄いですね」

「聖別騎士団の数でこの街全体に防衛網を張るのは不可能だろうからな。少数精鋭が仇になったということだろう」

「では、どうしてわざわざ捕虜を取るようなことをしたのでしょうか?」

「……アーベル・ワーグナーならどう考える?」

「アーベル様は決して犠牲を望む方ではありません。本来ならば貴族も民も逃がしてしまいそうなものですが」

「なら、奴等の裏にいる者達とそう言った契約があると言うことだろうな。戦争に置いて捕虜は重要だ。敵を寝返らせる材料にも、金にも人質にもなる。だが……」

 一瞬、ヨハンは言い淀んだ。

 これ言っていいのかは躊躇ったが、今後のことを思えば余計な期待は断ち切っておいた方がいい。

「アーベル・ワーグナーが犠牲を望まないか……。既にこの街では多くの死者がいる。その高潔な考えを今も持っているとは思わないことだ」

「……判っています」

 抗議の意味か、それとも不安を紛らわすためか、半ば無意識にアストリットはヨハンのローブの裾を掴んでいた。

 二人はそのままできるだけ足音を立てないように進み、倉庫の出口で再び外套を被りなおす。

 鍵が掛かっていないことを確認してからゆっくりとノブを回し、外の様子を伺いながら扉を開けていった。

「……誰もいないな」

 ヘルフリートが倒された際に多くの貴族がオル・フェーズへと帰って行った。そのため、この屋敷は無人と化しており、売りに出されていたと聞く。

 残っていた食料も有事の際に食べられる保存食ばかりで、荷物になるからとそのまま置いていってしまったのだろう。

 給仕などがいないのはせめてもの救いだった。脱出させるならその人数は少ないに越したことはない。

「それで、リーゼロッテ様はどのお部屋にいるのでしょうか?」

 見えない状態のアストリットがこちらを見上げているのがなんとなく判った。

「さっき、一応追跡用の魔法道具を投げておいた。衣服や靴に付着して、一定の距離の間小さな粉をばら撒くよう仕掛けだ」

「……何も見えませんが?」

 透明な中、若干訝しげな表情に変わったような気がする。

「簡単に見えたら怪しいだろうが。このレンズ越しの光を当てれば」

 両手で摘まめるほどの大きさの、薄いレンズを床に向けると、不可視の光がその場所を照らしていく。

 台所を出て少し歩いた場所を照らしたところで、床にばら撒かれた粉が、青色に浮かび上がってきた。

「……驚きました」

「だろう?」

 その痕跡は二階へと続いていく。

 周囲を警戒しながら、二人は階段を上がり、その粉が続く先にある一つの部屋へと辿り付いた。

「できれば一人でいてくれるといいが」

「もし中に敵がいたら斬りましょう」

「……まぁ、そうするしかないのはそうなんだが」

 余りにも物騒過ぎる。最大の問題は、敵ではない他の誰かがいた時のことだが、そればっかりは考えても仕方がない。

 意を決して扉をノックすると、緊張したような返事と共に内側から扉が開かれる。

 顔を出したリーゼロッテは、その場に誰もいないことに首を傾げて、部屋の中に戻ろうとしたが、そこにできるだけ小さく声を掛ける。

「リーゼロッテ様。ヨハンです」

「ヨハン様? 魔導師殿の? 声はするのですが、姿が見えません。まさか、リーゼがおかしくなってしまったのではないでしょうか?」

「いいえ、大丈夫です。まずは一度扉を大きく開いてください」

 言われるままに、リーゼロッテは部屋の扉を解放する。

 まずアストリットが緩やかに彼女を押すように部屋の中に入って、その後にヨハンが続く。

 扉の外に見張りがやってきたとき用の仕掛けを施してから扉を閉じて、ようやく二人は外套を脱いだ。

「ヨハン様……。それから、貴方は……」

「こっちはアストリット。イザベル様の守護騎士です」

 紹介されて、アストリットが頭を下げた。

「そうですか。……エレオノーラ様とイザベル様はご無事でしょうか?」

「恐らくは無事に帰還できたと思われます。……先日は申し訳ございません。逸れてしまったところを探す余裕もなく、辛い思いをさせてしまいました」

「……いいえ。国のことを想えば当然のことでしょう。ヨハン様は、無事に役目を果たしました」

「そう言っていただければ幸いです」

「でも、どうしてここが?」

「それは……」

 理由を話そうとしたところで、廊下の外から足音が聞こえてきて三人は息を潜める。

 どうやら近くを通りかかっただけのようで、すぐに足音は遠ざかって行ったが、いずれは部屋を見回りに来る可能性は否定できない。

「いえ、今は時間がありません。リーゼロッテ様にお願いがあります」

「わたくしにできることでしたら」

「数日後、恐らくはイシュトナルを奪還するための攻勢が始まります。この街に聖別騎士団しかいないこのタイミングでしか、その機会はありません」

「……ですが、ドラゴンはどうするのでしょう? 例え大戦力を用意しても、あれを倒す方法がなければ……」

「方法自体がないわけではありません。リーゼロッテ嬢には、事が起きた時にこの屋敷に囚われている貴族達の脱出の先導をお願いしたい」

「……判りました。具体的にはどのようにすれば?」

 ヨハンは懐から地図を取り出して、それをテーブルの上に広げる。

 簡単に描かれたイシュトナル全体の見取り図のある一点を指で差してそこから一つのルートを辿る。

「この道を辿り、イシュトナルの外側まで逃げてください。こちらの方で軍には連絡をしておきますので、そこで合流できるかと」

 緊張した面持ちで、リーゼロッテが頷く。

 これでヨハンが内部でできることは大半が終わった。あの時、リーゼロッテがあの場所に現れてくれたのは運がよかった。

 実際のところ、それがなければ貴族達を助ける方法はほぼないに等しく、彼等を人質に取られれば軍の動きは大幅に制限されていたところだった。

「……他にわたくしができることはないのでしょうか? 例えば、ドラゴンに爆薬を仕掛けたり、聖別騎士団に毒を盛ったり」

「……物騒ですね」

 まさか貴族令嬢から出てくるとは思わない提案だった。

「そ、そうでしょうか?」

「お気持ちは嬉しいのですが、リーゼロッテ様が危険にあっては意味がありません。どうか、言われたことだけをお願いします」

「……はい、判りました。このリーゼ、全力で他の方々を先導して見せましょう」

 拳を握り、気合を入れるリーゼロッテ。

 先程のカーステンとのやり取りを見れば、戦いに怯えて萎縮してしまうこともないだろう。

「では、俺達はこれで。アストリット、遊んでいないで行くぞ」

「別に遊んではいません。ベッドの柔らかさを確かめていただけです」

 話に入れないアストリットは、リーゼロッテの部屋のベッドに手を乗せて何やら沈み込む感触を楽しんでいた。眠いのかも知れない。

「これで俺達がやることは最後だ。後は安全な場所を探して、休むだけだ」

 渋々と言った様子で、アストリットがベッドから離れる。

 再び外套を被り、二人は扉へと向かっていく。

「あの、ヨハン様」

「何か?」

「……ルー様は、ご無事なのでしょうか?」

 その問いに、ヨハンは一瞬答えに詰まる。

 リーゼロッテは思いの外鋭く、それである程度は察してしまったようだった。

 そうなっては隠していても意味がない。諦めて、ヨハンは自分が知っていることを話す。

「行方不明だそうです。今のところ、死体は確認されていません」

「……そうですか」

 顔を伏せて唇を噛み、彼女は泣くのを我慢していた。

 自分が慕っている人物が行方不明だと聞かされたら、彼女の年齢ならば取り乱しても無理はない。

 それが、こうまで自分を律することができるものだろうか。

「では、これで」

 静かに扉を閉じて、部屋を出ていく。

 その後ろから聞こえてくる嗚咽を聞こえない振りをしながら。

 廊下を通り、来た道をそのまま辿って屋敷の外に出る。

 素早く安全な路地裏にまで移動すると、ヨハンはローブの懐から取り出した紙に、今自分が持っている情報を全て書き記す。

「ヨハン様。日記はもっと安全な場所で書いた方がいいかと」

「日記なわけがあるか」

「……アストリットも日記を付けようとしているのですが、三日ぐらいですぐ書くことがなくなってしまうのです」

「……これでよし」

 何かを言っているアストリットのことは無視して、記すべき全てを書き終える。最初に会った時と印象が随分と違うが、ひょっとしたらこれは懐かれているのかも知れなかった。

 同じ文面をもう一枚の紙に書いて、それを空中に放り投げる。

 風に吹かれたその紙きれは丸まって、蝶のように形を変えるとひらひらと羽を動かしながらオル・フェーズがある方面へと向かって飛んでいった。

「おぉー……」

 アストリットが口を開けてそれを見送る。

「ヨハン様は不思議な道具を沢山持っていますね。他にはどんなものがあるのでしょうか?」

「……まぁ、色々だな。有事でなければ紹介してやりたいところだが」

「是非、お願いします。約束しましょう。……どうしました、妙な顔をして?」

「いや、魔法道具にこんなに興味を示してくれた奴は初めてだからな。軽く感動してるところだ」

「はぁ……。よく判りませんが、アストリットはもっと見たいと思いますよ」

 素直な反応をしてくれたアストリットの頭をぽんと軽く叩くように撫でて、二人は安全と思われる場所へと歩き出す。

 これでこの場所でやるべきことは全て終わった。

 後はゲオルクの動きと、ヨハン達がこのイシュトナルで築き上げてきた人々の繋がりがどれだけの力を生み出すか、それに掛かっている。

 もし、この背後にバルハレイアがいるとして、ゲオルクが戦うのことを選んだのならイシュトナルでの戦に敗北は許されない。

 逆を言えば、この場所を奪還し護りきれば、オルタリアが負けることはありえないだろう。

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