第五節 始まりの地は失われても

 オルタリア城、エレオノーラの私室。

 彼女のために設えた豪華な家具や白く汚れ一つない壁に囲まれた広い部屋の中で、エレオノーラはソファに座り、俯いて考えごとを続けていた。

 兄であるゲオルクに全てを報告し、彼女の役割は終わった。もうエレオノーラがこの戦いでできることはない。

 傍に控えているサアヤもまた、沈痛な面持ちで何かを考え込んでいる。

「……妾は、弱いな」

 自嘲染みた一言が口から零れた。

「燃えていくイシュトナルを見た。必死で手を差し伸べても何も意味はなかった。妾達が築き上げてきたものは、一瞬の内に崩れ去ってしまったのだ」

 巨大なドラゴンと、鎧を纏った聖別騎士団達に蹂躙される街。

 それを見て声を上げながらも、エレオノーラは何もすることができなかった。

 剣を持って戦う力のない己にできたことは、ただ逃げ伸びること。

 王女と言う立場を顧みて、捕まればオルタリア全体に被害が及ぶことから、戦って死ぬことすらも許されない。

 そしてここに戻って来てみれば、もうエレオノーラにできることは何も残されていなかった。

 兄であるゲオルクは戦うことを選択した。それはいい、エレオノーラとて突然の暴挙によって国が蹂躙され奪われるのを見過ごすことはできない。

「……エレオノーラ様は、充分に役割を果たしました」

「……いいや。何もできていない。サアヤと一緒に過ごしたあの街は、もう消えてしまったのだ」

「それはエレオノーラ様の所為じゃありません。例えそこにいたのが誰だったとしても……」

「妾でなければ、ヨハン殿は救えたかも知れんぞ」

 顔を上げて、そう言った。

 例えば、そこにいたのはカナタであったのなら、一緒に戦って逃げ出すことはできたのだろう。可能性は低いがドラゴンを押し留めて、多くの命を救えた可能性もある。

 エレオノーラだったから、それができなかった。

 何よりもその命を優先しなければならなかったから。

 その事実が何よりも辛い。

 そのことを責めてくれる人でもいれば、まだ多少は心の重みが軽くなったのかも知れない。

 サアヤにそれができないと判っていながら、そんなことを願って先の言葉を口にしてしまった。

 そんな自分の弱さがまた嫌になる。

 だが、彼女が取った行動はそんなエレオノーラの予想を遥かに超えていた。

「エレオノーラ様」

 肩に手が置かれる。

 顔を上げてすぐ傍に立っていたサアヤを見ると、彼女が手を大きく振り上げているのが目に入った。

 乾いた音が響く。

 遅れてじわりと滲む頬の痛みに、エレオノーラは自分が彼女にぶたれたことを悟る。

「何をうじうじと言っているんですか」

 そんな声が、すぐ傍から聞こえていた。

 叩かれて背けていた顔を向けると、サアヤは真っ直ぐに座ったままのエレオノーラの目を見ている。

 いつもの彼女らしくなく眉は釣り上がっているが、その目に宿る光は変わらず穏やかだった。

「それはわたしでも無理でした。むしろ混乱して足手まといになって、もっと酷いことになっていたかも知れません」

「……サアヤ?」

「自分が強かったらなんて考えても意味はないですよ。本当に、そのことで悩む大先輩のわたしが言うんだから間違いありません」

 サアヤのエトランゼとしての力は非常に優れている。

 事実彼女はそのギフトで大勢の命を救ってきた。

「カナタちゃんやラニーニャさん、イブキさんにアーデルハイトさん。彼女達みたいに一緒に戦うことなんでできないし、エレオノーラ様やクラウディアさんみたいに大勢の人を動かすこともできません」

「……だが、そなたのギフトは多くの人を救っただろう?」

「はい。それには感謝していますけど、それとこれとは別です。大勢の人を助けられたことはわたしの誇りですが、わたしは一度も、わたしの好きな人の力になれていないんです」

 あくまでもそれはサアヤの視点での話だ。

 彼女の存在に、彼は何度も救われていただろうが、今のエレオノーラがそうであるように、だからと言って納得できるものではない。

「イブキさんが亡くなった時、本当に悔やみました。恨みました。思ってはいけないことだって判っていても、わたしの力がもっと強くて、戦いに役立つものならとも」

 肩に置かれた手に力が籠る。

「ずっと思ってたんです。一緒に並び立ちたい、不謹慎ですけど、みんなが羨ましいとさえ思ったこともあります。……でも、考えても無駄だって気付いたからもうやめました」

 一緒だった。

 ないものを羨み、希う。

 でも、それは多分サアヤやエレオノーラに限った話ではない。

 死に逝く仲間を目の前にすれば、どんなに強いギフトを持ったエトランゼだってサアヤのギフトを願うだろう。

 個人で幾ら強い力を振るおうが世界を変える力がなければ、エレオノーラの王女と言う立場を望む者もあるだろう。

「イシュトナルはもう、なくなっちゃったのかも知れません。でも、あそこには最初から何もなかったんです。勿論、死んでしまった人のことを考えればそれはもう取り返しがつかないのかも知れませんけど、諦めるのはまだ早いって、わたしは思います」

「……まだ、早い?」

「取り戻しましょう。戦って、わたし達の街を」

 彼女の目には希望がある。

 例え戦う力がなくても、そう願うことは罪ではない。

 何故ならば、彼女は戦場に立てないのかも知れないが、その代わりに自分にできることならどんな無茶でもやってしまうだろう。

 そう言うことができる少女だ。だからこそ、エレオノーラもサアヤと言う人物を深く信頼している。

「だが、方法がない。妾が動かせる戦力には限りがあるし、それだって兄様達の監視を擦り抜けられるかどうか」

「戦える人なら宛てがあります。心苦しいですけど、わたし達が出会ってきた人達にはとびっきり強くて、自由に動ける人達がいるじゃないですか。……しかも、目的も一致しています」

 同時に同じ人達が頭に思い浮かんだ。

 彼女達に戦うことを望むのは間違っているのかも知れない。

 エレオノーラもサアヤも自分達が戦場に立てるわけではないのだから。

 痛い思いをするわけでもなく、それを人に押しつける。果たしてそれが許されることなのか。

「取り敢えず、お願いしてみましょう。駄目なら、また違う手段を考えましょう」

「……サアヤ」

「叩いたところ、痛かったですか?」

「違う……。違うのだ」

 いつの間にか、目には涙が浮かんでいた。

 彼女を心配させまいとそれを拭うが、次から次へと溢れてきて止まらない。

 零れていく涙を、サアヤが取り出した手巾で拭きとってくれる。

「泣くのは全部が終わってからです。自分達にやれることを見つけて、やるだけやって、その結果を見届けてからにしましょう」

「……そうだな」

「そうと決まれば早速行きましょう! まずは適当に見張りの肩を誤魔化して……」

 現状、エレオノーラが自由に外出することはできない。それが判っているからか、サアヤはもう脱走計画を企てているようだった。

「あ、置手紙は用意しておきましょうね。心配させないように」

「……そなたは、過激なのか穏健なのか判らぬな」

 苦笑しながらそう言う。

「どっちもです。女の子は奥ゆかしく、時に大胆に、ですから」

「……サアヤ」

 窓の外を見て見張りを確認し、入り口から廊下の様子を伺っているその後ろ姿に、半ば笑いながら声を掛ける。

 名前を呼ばれたサアヤは一度部屋の中に引っ込んで、エレオノーラへと顔を向けた。

「そなたに会えてよかった。失い難いものは幾らでもあるが、その中でも一番の妾にとっての至宝はそなたなのかも知れぬ」

「い、いきなりそんなこと言われても照れますよ! それよりほら、行きましょう!」

 手が差し伸べられる。戦士としての傷はないが、家事や水仕事の傷が残るサアヤの手。

 一度だけ自分の、傷一つない綺麗な手を見る。

 お互いの手だけでも、こうまで違う。そうして自分達にできなくて、相手にできることを羨み続けてきたのだろう。

 そんな二人に共通していることが一つ。

 例え戦う力がなくても、大切な者のために行動したいという意思は一緒だった。

 その手を取って、エレオノーラは顔を上げて椅子から立ち上がった。

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