第二節 放たれた猛火

「随分と集まってんなぁ」

 イシュトナル要塞の屋上に、そんな声が響く。

 そこに立つエトランゼの青年は双眼鏡を片手にイシュトナルの街並みを見下ろしながら、怪しい動きをする者がいないかを探っていた。

 エレオノーラとリーゼロッテが壇上に立って言葉を発し、今は丁度それが一段落したところだ。

 何を言っていたのかを聞き取ることはできないが、その広場に詰めかけた人々の動きから、その内容が感動に値することだったのだけは判った。

 もっともこの青年にとってはそれはあまり重要なことではない。兵士として仕事を貰ってそれに従事する、それができるようになっただけでも彼女には充分に感謝していた。

「いいのかい、ナーグさん。王女様のお姿を見ないで」

「別にいいさ」

「いい目の保養になるんだがね」

 隣に立つナーグと言う男はこの世界の住人で、青年よりも前から兵士だった。先の戦いで戦死したディッカー・ヘンラインに仕えていたこともある。

 彼は今、新たに要塞の屋上に取りつけられた防衛兵器の点検をしていた。

「王女様のお話しは終わりか……。次は婆さんか」

 残念そうに双眼鏡を降ろすと、青年よりも幾らか背の高いナーグが横からそれを掴んで取り上げる。

「イザベル様か。一目見ておきたい」

「婆さんが好みなのか?」

「そう言う冗談は好かん」

「そりゃ悪い」

 別段気にした様子もなく、ナーグは双眼鏡を覗く。

 その隣で目を凝らしてみるが、道具がなくてはろくに見ることもできない。遠くに小さく見える壇上で人の入れ替えがあったのは確認できた。

「新たにエイスナハルを背負って立つ法王様だ。一度はその姿を見ておきたいと思っていた」

「……エイスナハルね」

 青年は何となしにその名前を口にする。

「エトランゼにとっては嫌な名前かも知れんがな」

「そんなことはないさ。差別とかする奴ってのは大抵が一部の馬鹿野郎だ。全員が全員ってわけじゃない。それに、別にエイスナハルはエトランゼを差別しろって教えてるわけじゃないしな」

「そう言ってもらえると助かる。一部の過激な者達が教典を拡大解釈し、お前達への差別を正当化しようとしたことは、間違いない事実だが、俺達とてその教えなしでは生きることは難しいのだ」

「そんなに大事か、宗教って?」

「神の教えは、人を幸福に導く。そのお言葉に従い我々は隣人を愛し、人の意思を尊び、迷い人に手を差し伸べることができる」

「道徳ってことか?」

「そうだな。だが、道徳を人に説くのに説得力を持たせるのは存外、難しい」

 物を盗む、暴力を働く、他人を貶める。

 悪徳と呼ばれる行為を完全に理屈で否定することはできない。その立場になればそれが一番効率的な方法になってしまうこともありえるのだ。

 そんな時に効果的なのは、神の教えだと説くことだ。

 神がそう言っているからそうする。天地を司り人の運命を定めると言われている神の威光を借りる言葉は、思いの外説得力を持つ。

「お前達の世界では、多くの子供達がちゃんとした教育を受けられるのだろう?」

「ああ、全員じゃないがな」

「この世界ではまだそうはいかん。俺のように辺境の村に生まれれば、学校すらない。そんな時に生き方を教えてくれるのが父や母、隣人、そして神の教えなんだ」

 どう生きればいいか、人は如何にして幸福を手に入れるのか。

 その答えは全てエイスナハルの教典に書いてある。

 それは決して難しいことではなく、隣人を愛し愛されること。

 その教えを大地に広め、今度はエトランゼ達にも幸福を与えることこそが新たに法王となった彼女の役割なのだろう。

「今度、その教典とやらを俺も読んでみるかな」

「それがいい。俺達がお前達の文化を知り、お前達は俺達の教えを知る。それは大事なことだ」

 ナーグはそう言って、双眼鏡を渡してきた。

 そのまま彼は再び防衛兵器の点検へと移っていく。

 青年は彼とは別方向、砦の南側で何となしに双眼鏡を覗く。

「何だありゃ?」

 空の青と雲の間に、黒い点が幾つか見える。

 最初は鳥かとも思ったが、それにしては動きがおかしい。真っ直ぐ、一直線にこちらへと向かって来ているのだ。

 その速度は普通ではなく、僅かな間に点が大きくなっていく。

「おい、ありゃあ」

 ナーグに呼びかけると、彼も南側にやってくる。

 そうしている間にも点は少しずつ大きくなっていく。

 遥か遠くから風を斬る音と、風圧が浴びせられ、ようやくその正体が双眼鏡越しに判明する。

 遠くからでも見る巨大な影。

 一対の翼をはためかせて真っ直ぐに要塞に迫るそれを、現実に目にすることがあるとは思わなかった。

 信じられない。

 この世界に来て、魔物の存在を知ってもそれはまだ見たことがない。この世界では伝説と語られる生き物。

 その力を持ったエトランゼは、最強と呼ばれていた。

「ド、ドラゴンだ! 真っ直ぐこっちに来てる!」

 幻想の王とも呼ばれるその魔物の名を口にした時はもう遅い。

 ドラゴンはその足に掴んでいた何かを地面に投げ落とし、そのまま勢いを殺すことなくイシュトナルへと飛来した。


 ▽


 炎が奔り、世界が真紅に染まる。

 それまでの平和だった時間は一瞬にして破壊され、記念すべき式典は人々の心に長く影を落とす悲劇へと変わっていく。

 イシュトナル要塞の城壁がドラゴンの吐いた炎によって焼かれるのを見て、ヨハンは直ちに声を張り上げた。

「王女とイザベル様、リーゼロッテ様を安全なところへ! 民衆は街の北部に非難させろ!」

 ヨハンの命令に、部下達がすぐに動く。

 戸惑い、恐怖に逃げ惑う民衆達に指示を下し、言われた通りに街の北部へと誘導していった。

「ヨハン殿、これは……!」

 エレオノーラの質問に答えるよりも先に、伝令の声がそこに割り込んだ。

「報告です! ドラゴンが落とした箱型の物体から、聖別騎士団が現れました! それだけでなく、彼等はやはり街の中にも何人か潜ませていたらしく……!」

 伝令の声が途絶える。

 その背中から貫通するように、白い刃が突き抜けていた。

 全身を覆う外套を取り払って現れたのは、武装した見知らぬ兵士達だった。

「聖別騎士団……!」

 ローブの懐から拳銃を取り出す。

 鋭い斬撃を銃身で弾き、押し返したところに弾丸を撃ち込んで無力化する。

「下がるぞ、エレオノーラ!」

 イシュトナルの中央にある広場は、今や混沌の坩堝となっている。

 逃げる人々は兵士達によって誘導されているものの、数百人を超える数を一度に動かせるわけもなく、広場の出口で押しあって人の流れを鈍らせていた。

「ルー・シン!」

「あのドラゴンはどうする? 要塞に装備されている武器ではワイバーンならともかく、あの化け物を落とすことはできそうにないが」

「逃げる間の時間稼ぎをしてもらう」

「……承知した」

 ルー・シンはヨハンとは別方向に駆け出す。

 避難民達の間を縫うように、イザベルの命を狙って現れる聖別騎士達を拳銃で追い払いながら後退していると、不意に目の前が薄暗くなった。

 優に二階建ての建物を超えるほどの巨大な体躯。

 一対の翼は広げるだけで魔力を伴った風圧で、辺りの建築物や人々を容赦なく吹き飛ばす。

 長く伸びた首の先に付いた硬い鱗に護られた鋭い瞳と、裂けたような口が、ヨハン達に向けて開かれていた。

 深紅の鱗を持つ竜は、人々で溢れる広間に容赦なく着陸する。

 その足が、胴体が、伸びた尻尾が無慈悲に逃げる民衆も兵達も関係なく巻き込み、押し潰す。

 悲鳴と、神への祈りが木霊する地獄のような広場に君臨する暴君が、口を開いて咆哮をあげようとする。

「……まずい!」

 手に持った水晶を地面に叩きつけて破壊する。

 そこから漏れだした光が障壁のように形を変えて、ヨハンとエレオノーラ、それからイザベルを守護するように囲った。

 直後に放たれた咆哮。

 その音量もさることながら、恐ろしいのはそこに込められた畏怖の魔力。

 生まれついての人より上位種。人間を狩る者であり他の魔物とは一線を画する竜の声は、それだけで人の精神を蝕み、肉体までも破壊しかねないほどの威力を持つ。

 ヨハン達を護る障壁に罅が入り、硝子のように砕け散ったのは、ドラゴンが咆哮をやめるのとほぼ同時だった。

 咆哮の直撃を避けた兵達が矢や投げ槍、銃を持ってドラゴンを狙うが、その固い鱗を貫くことはできない。

 要塞の屋上に設置されていたバリスタから放たれた金属の鏃は、鱗へと突き刺さったものの、さしたる苦痛を与えたような様子もなかった。

 ドラゴンが翼を広げて空へと飛翔する。

 再度地上へと首を向けて、急降下。

 それを見た瞬間、ヨハンはなりふり構わずエレオノーラとイザベルの手を掴んでその場から走りだしていた。

 紅い光が奔る。

 その口から放たれた紅蓮の炎が、地面に直撃してそこから広場全体へと広がっていく。

 肉が焼ける嫌な匂いがして、人々の悲鳴が合唱となって響き渡る。

 自身も肌を焦がすような熱を浴びながら、どうにか広場の区画から脱出することができた。

 建物の影に身を潜め、辺りの様子を伺う。

 ドラゴンも聖別騎士団もルー・シンが率いる部隊が到着して抑えていらしく、すぐにこちらに襲い掛かってくるような気配はない。

 しかし、声が上がり地響きがする度に建物は倒壊し、多くの苦悶の声が上がっていることから、決して善戦しているとは言い難い。

「何故、聖別騎士団があんなものを……。イザベル様、何か心当たりは?」

「いいえ、判らないわ。ドラゴンは伝説に謳われる生き物とは言え魔物。エイスナハルの信徒である彼等と関わりがあるとは思えない」

 白髪の女性は、息を切らせながら首を横に振る。

 それから、何かに気が付いたかのように声を震わせた。

「……まさか、バルハレイア」

「バルハレイアが、何故?」

 エレオノーラが驚きの声をあげる。

「噂の一つよ。私も可能性は低いと思っていた。バルハレイアの現王であるベリオルカフが、失われた竜を蘇らせる方法を手に入たという報告があったことがあるの。でもそれは前法王の時のことだし、それ以降はまともな情報も入ってこなかったから……」

「……その可能性は充分にある」

 拳銃を構えて、路地の先に発砲する。

 外套を纏ってこちらを伺っていた人物は自分が狙われるとは思っていなかったのか、ヨハンの放った銃弾に胸を貫かれて絶命し、倒れる。

 横たわった彼の身体から外套が剥がれ、褐色の肌と、その手に持った武器が露わになった。

「先程から聖別騎士団に交じってこちらを攻撃している連中に、褐色の肌をした者達が多い。これは日差しが強いバルハレイアの民に多く見られる特徴だ。勿論、全員がその限りではないが」

「だが、バルハレイアにはベル兄様がいる! 何故、ベル兄様がこの国を攻撃するのだ?」

「あの男は王を名乗ってはいたが、王位継承権を持っているだけで、今はまだ別の人物がバルハレイアの治めているのだろう?」

「……ええ。ベリオルカフ・ザルモアル・バルハレイア。現バルハレイアの国王よ」

 イザベルがそう答える。

「だが、どちらにしても考察をしている時間はない。今は」

 大きな音を立てて、簡素な造りの荷馬車がヨハン達の前に飛び込んでくる。

 その荷台から白髪の人物が飛び降りて、ヨハン達の前に立った。

「イザベル様、こちらへ」

「アストリット!」

 小柄な体躯に鎧を纏ったアストリットは、イザベルの身体を引っ張るようにして馬車の荷台に乗せていく。

「エレオノーラも続いてくれ」

「わ、判った」

 ヨハンに言われるままにエレオノーラも荷台に乗り込む。

「アストリット。馬車を呼んできてくれたのね」

「はい。人混みを突破して行くなら、小柄なアストリットが一番適していると思いましたので。それに、イザベル様の護りはヨハン様がいれば充分かと」

 アストリットが話している途中に、馬車は土煙を上げてすぐさまその場から走り始める。

 既に街のあちこちから火の手が上がっており、まるで炎の中を走り抜けるような状態だった。

「このまま街を抜けろ! ソーズウェル方面に!」

 御者席の男が勢いよく返事をする。

 二頭の馬が大地を強く蹴り、馬車が激しく揺れながら人気のない道を爆走しだした。

 必死で荷台にしがみ付きながら視線を向けると、背後でまた爆炎が上がる。

 竜の吐き出した炎か、それとも聖別騎士団が何か破壊工作を仕掛けたのか。

 多くの人が行き交っていたイシュトナルは最早見る影もないほどに破壊され、今や赤い炎の檻の中に閉ざされている。

「……イシュトナルが……燃える……!」

 エレオノーラの震える声がする。

 無理もない。

 彼女が流れ着き、多くの同志達の力を借りてゼロから作り上げた都市。

 オルタリアでも有数の、エトランゼの文化が根付く彼女とにとっての全ての始まりでもあるその街が、燃えている。

 一切の情けはなく、ただ無慈悲に、紅蓮の劫火はそこにある人々の命も、生きていた痕跡さえも飲み込んで溶かし尽くしていた。

「……ヨハン殿……!」

 ローブをエレオノーラの手が掴む。

 掛ける言葉も見つからず、ただその手を上から握ってやることしかできない。

「イザベル様、下がって!」

 アストリットがそう叫んで、剣を一閃する。

 両断された一本の矢が地面に落ちて、前に進んで行く馬車から遠ざかって行った。

 顔を上げれば、馬に跨った兵達が数人、馬上でこちらに狙いを定めながら追いかけてきている。

「このままでは追いつかれるか……!」

 もうすぐ街を抜ける。

 背後から迫る連中の他に追撃は見当たらない。恐らく街を出てそのまま走り続ければ、危険なくソーズウェルへと辿り付くことができるだろう。

 だとすれば、ヨハンが取るべき行動は一つ。

「エレオノーラ」

 掴んだ手を強く握って、彼女の顔を正面から見る。

 青ざめた顔に、虚ろな瞳。

 自分が一から育てた街が戦火に焼かれるというのは、相当なショックだったのだろう。ヨハンだって、そこに何も感じていないわけではない。

 だが、だからこそ今は彼女に託すべきことがある。

「ソーズウェルへ辿り付け。敵は恐らくバルハレイアと聖別騎士団。ゲオルク様に事を相談し、これからの方針を決めろ」

「……ヨハン殿?」

「条件次第では降伏も視野に入れろ。だが、もし戦うのなら覚悟をするべきだ。……これは、人と御使いとの戦争だ」

 イザベルが隣で静かに目を伏せる。

 聖別騎士団の背後に御使いがいると言うのなら、間違いなくそうなるだろう。

 考えたくないことだが、御使いは既にバルハレイアを掌握していると思っても間違いではない。

「行け!」

 そう言って、馬車から飛び降りる。

 砂埃を上げながら地面に着地して、そのまま拳銃を正面に向けて放った。

 弾丸が着弾したところから爆炎が上がり、追跡者達の馬が怯え、そこで立ち止まる。

 まずは目の前に立ち塞がったヨハンを排除しようと、馬上で剣を振り上げる追跡者。

 その一つに、ヨハンから少し遅れて馬車から飛び降りた白い雷が躍りかかった。

 飛びかかるように鋭い刃を一閃し、鎧の上から一人を両断する。

「アストリット!」

「イザベル様からのご命令です。ヨハン様を死なせるなと」

 次々と馬に乗った追跡者達がヨハン達の下へと集まってくる。

 彼等はもうエレオノーラ達への追跡は諦めたのか、それともここでヨハン達を殺せればそれで充分と考えたのか。

「貧乏籤を引かせたな」

「いいえ。ヨハン様のお役に立てるのならば、アストリットはとても嬉しいです」

 抑揚のない声でそう言って、アストリットは剣を構える。

 ヨハンもまた銃を構え、追跡者達を迎え撃つ。

 また振動が響き、遠くで黒煙が上がる。

 燃え盛るイシュトナルの街で、ヨハン達の長い戦いが始まった。

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